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⑷陽炎

「……進展はありましたか?」




 ハンドルを握ったリュウが問い掛ける。

 湊は手元の携帯電話を眺め、静かに頷いた。


 デイビス氏の自供、マーティンの死。

 航が、父が、葵君が、黒薙さんが教えてくれた。導き出される結論がどんなに有り得なく信じ難いものであったとしても、真実は一つしかない。


 デイビス氏が語ったという、双子の天使。

 湊は無宗教なので、信仰そのものについては理解が深くなかった。けれど、その名を聞いた時、血の気が引いた。




「……去年の夏、人工知能を作っただろ」




 車が信号で止まる。

 リュウの切れ長な目が冷ややかに此方を見遣った。




「実装目前で凍結させたあれですか」

「うん」




 超能力の医学的応用が頓挫した頃、研究室の仲間と人工知能を作った。元々は機械工学を専門にしていた彼の研究だった。

 暇を持て余していた自分達は、人としての倫理を置き去りにして、好奇心を満たす為に色々な実験を行なった。

 感情を数値で制御して人格を構築したり、医療用の人工皮膚を持ち出して統計的に美しい顔を作り出したり、ーー統計データから乱数を生成して犯罪を予測する装置を組み込んだりした。


 自分達は何を作ろうとしていたのだろう。

 人だったのか、神だったのか。今では解らない。持て余したエネルギーの捌け口を求めて、熱に浮かされるみたいに夢中で取り組んだ。


 それはまるで天を突く山の頂に手を伸ばすような高揚感と、薄氷を裸足で歩くような緊張感と、不可能に挑戦するかのような全能感だった。ゾーイが止めていなければ、どうなってしまっていたのだろう。


 その時の自分達は、悪用された時のリスクを全く想定していなかったのだ。熱に浮かされるまま、ただの機械に神の名を付けた。




「名前を付けてた」

「そうでしたね」




 リュウが考えるような素振りをして、言った。




「確か、ーーサンダルフォン」




 それはユダヤ教の天使で、罪を犯した天使たちを永遠に閉じ込めておく幽閉所の支配者でもあるという。

 デイビス氏の言葉を聞いて、ぞっとした。どうしてその名前を此処で聞くのか。いつから、何処から、何故。


 あの装置は生きていたのか。




「今思えば、悪魔の発明でしたね。実装しなくて良かった」

「いや」




 湊は目を伏せた。




「もう遅かったのかも」




 リュウが眉を寄せる。

 信号が変わり、追求の言葉は途切れた。


 湊は祈るような気持ちで携帯電話を握っていた。








 14.観測者

 ⑷陽炎







 サンダルフォンの名が付く前、湊はそれをラプラスと呼んでいた。語源はラプラスの悪魔である。正確で最新の情報を入力し、膨大なデータから未来を推測する。まだ起きていない犯罪すらも防ぐことが出来ると思ったのだ。


 開発中の装置を、湊がラプラスと呼んだ時、彼が強く反発した。その時は特に何も感じなかった。研究者が開発中の装置に愛着を持つのは当たり前のことだった。


 そうしてサンダルフォンを開発する中で、自分達は冤罪という壁にぶつかった。


 予測出来たとしても、その犯罪はまだ起きていない。シュレーディンガーの猫のような推論をどのように立証して行くかが難しかった。


 司法を納得させるには数値が必要だ。其処で目を付けたのが、湊の持つ他人の嘘を見抜くという能力だった。


 湊の能力の精度が高い程、装置の精度は上がった。

 けれど、精査する為の事例が少なかった。


 偽証か、未必の故意か。

 悪意か、善意か。

 何を正義として何を悪と定義するのか。異なる神を持つ様々な人種の中で、絶対的な正義とは何なのか。


 嘘が解っても、真実が見抜ける訳ではない。

 全ての嘘が悪い訳じゃない。

 自分の言葉は、彼に届かなかったのだろう。


 車が大学の駐車場に滑り込んだ時、携帯電話が震えた。ディスプレイに浮かぶ弟の名に強張っていた心が解けるような気がした。


 電話には出なかった。電波を傍受される恐れがあった。機械について彼以上の知識も技術も湊は持ち合わせていない。


 春休み最終日の大学構内は閑散としていた。体育館から聞こえる微かな声援と講師の談笑が遠い世界に感じられる。

 仲間と一緒に歩いた廊下は色褪せて見え、一歩進む度に心の柔らかいところがナイフで抉られたように痛む。足元が揺れて視界が滲む。


 六人で肩を並べたあの日々はもう戻らない。

 頭では解っていたのに、心が付いて行かない。手を伸ばせば届くところにあるのに、まるで逃げ水のようだ。


 研究室の扉に手を掛け、深呼吸をした。

 大学構内の嗅ぎ慣れた匂いが鼻孔を通り抜け、胸が締め付けられるようだった。掌に伝わる金属の冷たさが逃避を許さない。湊は扉を押し開けた。


 彼は、いつもの場所にいた。

 パソコンと向き直って、現実世界に興味が無いみたいに目向きもしない。キーボードを打つ凄まじい音が蝉時雨のように降り注ぎ、秒針の音を塗り替えて行く。




「ライリー」




 湊が呼んだ時、ライリーは動きを止めた。

 キャスター付きの椅子がくるりと回転して、野暮ったい眼鏡が蛍光灯の光を反射する。口元には微かな笑みが浮かんでいた。まるで、自分達が訪れることを予期していたみたいだ。




「どうなった?」




 その問いの主語を尋ねるべきだったのかも知れない。けれど、湊には、出来なかった。目の前の仲間を包む真っ赤なハレーションが見えたのだ。




「……どうして、マーティンが孤児院にいることを知っていたの」




 問い掛けると、ライリーは何でも無いことみたいに「ああ」と相槌を打った。




「携帯電話の電波を傍受していたらさ、不審な記録を見付けて、調べてもらおうと思ったんだ」




 まさか、其処に奴がいるとは思わなかった。

 萎れた花みたいに項垂れるライリーを、普段ならば励ました。だけど、出来なかった。湊には、ライリーが嘘を吐いていることが解ったから。


 リュウが身を滑り込ませると、湊は後ろ手に扉を閉めた。部屋の中には湊とリュウ、ライリーの三人きりだった。




「どうして、俺に黙っていたんだ。どうして、航に」

「隠していたつもりは無かったよ。大体、お前は動けなかったし」

「それなら、初めから警察を呼べば良かった」

「警察は信用出来なかった。SLCの件もある。敵が何処に潜んでいたのか解らなかっただろ。俺だってまさか、相手が銃を持っているだなんて思いもしなかったよ」




 ライリーは肩を竦めて、溜息を漏らした。


 殺人鬼がいると解っている場所へ丸腰の人間を送り込んで、どうなるか考えなかったと?


 自分の知るライリーは、そんな浅慮な人間ではない。行動を起こす前には入念に下調べして、凡ゆる危険を想定する。そんな彼が自分に黙って航を危険な場所へ向かわせる筈が無い。


 ライリーの論理は破綻している。だが、湊にはそれを証明出来るだけの確証が無い。そして、既に確証が不要であるという事実だけが、其処にある。


 怒りは無かった。苛立ちも、憎しみも。

 ただ、理由が欲しかった。彼を許せるだけの動機が。それを見付けられない自分が不甲斐無く、悔しい。


 ライリーだけが、いつものように微笑んでいる。




「俺がお前を騙したって言うのか? お前には他人の嘘が解る筈だろ?」




 彼が口を開く度にライリーが遠去かるようだった。

 それはまるで、アスファルトに浮かぶ陽炎を見ているように。幾ら足掻いても無意味で、何回やっても実現不可能で、認めたくない事実だけが現実だった。


 目の前に断崖絶壁の境界線が見えて、自分の手も言葉もライリーには届かないのだと痛感させる。




「俺が騙していたとして、どうしてお前は見抜けなかったんだ?」




 おかしいじゃないか。

 ライリーが嘲笑う。


 違うと、湊は思った。

 彼は勘違いをしている。

 自分の能力の精度は百パーセントではない。家族の嘘も、悪意の無い殺意も、見抜けないのだ。それは何故か。


 自分の能力は歪で、不完全なのだ。

 嘘を見抜けても、真実が解る訳じゃない。立証は難しい。盲目の人間に空の青さを教えることが困難であるように、自分の感覚を他人に理解させることは出来ない。


 その時、高圧的な声でリュウが言った。




「何も不自然ではありませんよ」




 リュウは黒曜石のような瞳に嫌悪を滲ませていた。




「見抜けなかったのではなく、見抜かなかった。それは、貴方を信じたからです」




 リュウは壁に凭れ掛かると、威圧するように腕を組んだ。




「ずっとそうだったじゃないですか。湊は嘘だと解っていても、信じたいものを信じる」




 当たり前のように、リュウが言った。




「ルーカス氏の屋敷の執事は犯行を自供しましたよ。それから、犯行後、非通知の電話が掛かって来たことも証言しています」




 双子の天使、湊、SLC、ロイヤル・バンク。全てを結び付けるキーワードは一つしか無い。




「貴方が証拠を残すとは思いません。立証出来ない以上、司法は貴方を裁けないのでしょう。でも、貴方は知っている筈だ」




 リュウは、抑揚の無い声で言った。




「湊には他人の嘘が見抜ける」




 リュウが振り向いた。

 御膳立てしてあげましたよ、とでも言いたげに、黒い瞳が先を促す。湊は目を伏せた。


 真実が優しいとは限りませんよ。

 以前、リュウに言われたことだ。全くもって、その通りだった。そして、真実から目を逸らすことは出来ないのだ。


 深呼吸をする。

 声が震えないように、動揺が映らないように、腹に力を込めて拳を握る。


 湊は言った。




「お前は嘘を吐いている」




 全ては去年の夏だった。

 超能力の医学的応用。困難の中にいる人を救える一筋の希望になりたいと思った。


 航が何度も何度も、体当たりで教えてくれた。

 何でもかんでも救える訳じゃない。困難の中にいる人が必ずしも助けを求めているとは限らないということを。


 夢が頓挫した時、自分はきっと、平静の状態ではなかったのだろう。だから、サンダルフォンなんて馬鹿なものを作ろうとした。


 感情を数値で表して、司法を機械に依存する。

 統計データから人生を予測して、罪を見定める。そんな、人の尊厳を踏み躙るような冒涜的な開発を始めた。




「サンダルフォンは永遠に完成しない」

「……どうして、そう思う」




 忌々しげに顔を歪めたライリーが、問い掛ける。


 確信があった。どれだけデータを集めても、サンダルフォンの犯罪予測は百パーセントにはならない。それは何故か。




「あれは、機械なんだ」




 自分の能力の精度は、自分が誰より解っている。

 自分に見抜けない嘘があるように、サンダルフォンには解析出来ないデータがある。それはきっと人間性とか、感情とか呼ばれる曖昧なものなのだ。


 ライリーは納得したようではなかった。

 憮然と口を尖らせて、理解出来ないものを見るような目で此方を睨んでいる。彼は未だにあの夏に取り残されている。


 自分達は、目的を擦り合わせて来なかった。

 オリビアの時と同じだった。小さな擦れ違いが軋轢となり、決裂に至ることを想定出来なかった。




「サンダルフォンは何処ですか?」




 リュウが問い掛けても、ライリーは答えなかった。


 サンダルフォンは膨大なデータを必要とする。その精度を上げる為にはスーパーコンピュータくらいの大規模な装置とエネルギーが必要だ。とても大学の研究室に収まるとは思えない。




「お前達は解ってない」




 絞り出すような悲壮な声だった。

 俯いたライリーの拳が震えていた。室温がぐっと下がったようにすら感じられる。




「あれは多くの人を、世界を救う発明なんだ!」

「……オリビアも同じことを言っていましたよ」




 リュウが冷たく言い放つ。


 オリビアの提唱したアンカー理論は、彼女一人の心を救うのと引き換えに、多くの人にレッテルを貼るリスクの高い思想だった。


 ライリーが苛立ったように舌を打つ。

 鋭い視線が湊を射抜き、懇願するように彼は言った。




「湊には解るだろ?」

「……」

「サンダルフォンが完成したら、犯罪を未然に防ぐことが出来る。冤罪の可能性を限りなくゼロにする為には、元となるお前の能力の精度を上げなければならない」




 何も悪いことじゃないだろう?

 ライリーが言った。其処に嘘は無かった。彼は心の底からそれを信じている。悪意は微塵も無い。




「お前の能力が、多くの人を救うんだ」




 湊は言葉を探し、黙った。


 ライリーは自ら手を下した訳じゃない。導いただけだ。湊の能力の精度を上げる為に、様々な事件を手元に引き寄せた。


 だけど、それはつまり、起こり得る事件や犠牲者を看過したことと同義である。


 長期的に考えれば、サンダルフォンは僅かな犠牲で多くの人を救うのかも知れない。


 リリーとリーアムの両親の死亡事故が脳裏を過る。幽霊屋敷の亡霊も、悪意無き殺意によって命を落とした少女達も、アメリアやマーティンも救われたのかも知れない。

 サンダルフォンが完成したなら、凶悪犯罪を起こすと解っている者が野放しにされることは無いのだろう。それはとても魅力的に感じられた。


 でも、それは同時に更生の可能性を奪ってしまう。

 湊には、それが正しいことだとは思えなかった。


 リリーが言ったのだ。

 人の善性を信じると。




「良いか悪いかは、俺には解らない」




 ライリーが顔を上げる。

 湊は言った。




「でも、それは俺の目指したものじゃないんだ」




 ライリーの眉間に皺が寄る。

 感情が溢れ出すみたいに、言葉が勝手に口から出ていた。




「俺が救いたかったのは、目に見えない大勢の人じゃないんだ。俺が救いたかったのは、いつだって目の前にいる一人だった」




 遠い未来のことなんて解らない。いつだって目の前のことに手一杯だ。

 SLCの教主とライリーの思想は同じだ。彼等はそれが良いことだと信じ切っている。アンバーと話した時、湊は彼の論議を否定した。でも、今はそれが間違いだとは思えなかった。




「全ての人が幸せになれたら良いと思う。犯罪なんて無くなれば良い。だけど、その理想を実現する為に目の前の一人を取り零すなら、俺にとっては無意味なんだよ」




 一人でも多くの人を救おうとするライリーと、目の前の一人だけを救いたいと願う自分。どちらが正しくて間違っているのかなんて、きっと答えは無いのだろう。


 より良い世界を目指そうとするライリーの正義は尊いものだと思う。ただ、湊にとっての正義と、ライリーにとっての正義が異なり、相容れないだけのこと。




「機械が全てを支配するなら、人間なんていらなかった」




 彼等の理想とする社会では、人形しか生きられない。

 それは湊にとって無意味なのだ。戦争を無くす為に武器そのものを投げ出したとしても、次に起こるのは精神の支配だ。果たして其処に人の存在意義はあるのだろうか。




「……ハバナでお前の話を聞いた時」




 ぽつりと、ライリーが言った。




「お前は俺の理解者だと思った。でも、インターネットの演説を聞いてから……。いつかこんな日が来るんじゃないかと、思ってたよ」




 ライリーが疲れ果てた声で言った。


 自分達は何処で擦れ違ったのだろう。

 誰かを救いたい、助けたいという思いは同じ筈なのに、どうして理解し合えないのだろうか。

 きっと、どちらも平等に正しく、間違っているのだろう。




「お前にはお前の正義があるだろう。譲れないものも、信じているものも。……だけど、それは俺にもあるんだ」




 解っている。

 折り合いを付けることは難しい。




「俺には、お前が必要だ」

「理想を実現する為の道具としてだろ」




 湊は吐き捨てた。自分の祈りがライリーに届かなかったことはもう解った。


 ライリーは溜息を一つ吐いて、ポケットへ手を伸ばした。湊とリュウは脊髄反射のように足を踏み出していた。

 拳銃か、自爆装置か。計画が破綻した今、彼が暴挙に出ることは予想出来た。


 天井から、油蝉の鳴き声のような音が聞こえた。

 そして、次の瞬間、視界が真っ白に染まって筋肉が痛い程に硬直した。湊とリュウはその場に前のめりに倒れ込み、見下ろすライリーの冷たい眼差しを睨んだ。




「下らない感情のせいで、お前の能力は完全にならない。それなら、排除してしまえば良い」




 身体が痺れて、指一本動かなかった。

 肉の焦げるような嫌な臭いが漂う。部屋に何か細工がされていたのだろう。恐らく、スタンガンのような電流を流す装置だ。


 リュウから微かな呻き声が聞こえた。

 ライリーは真っ黒な手袋を嵌めると、湊の腕を肩に回して立ち上がった。




「お前は大切な仲間だったよ」




 朦朧とする意識の中で、湊は声を聞いた気がした。

 それはライリーでもなければ、リュウでもない。心地良く耳に慣れた弟の声だった。

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