⑶舞台袖
双子の天使とは、ユダヤ教の大天使であるサンダルフォンとメタトロンを指すらしい。
パレスチナ出身のデイビス氏はユダヤ教徒だった。
サンダルフォンは預言者エリヤが生きながら昇天した天使である。天国の歌を司るのが職務とされ、ミカエルと共にサタンと戦う役割を持つとも言われている。
第五天マティを支配し、天に達する程の巨人だとされる。罪を犯した天使たちを永遠に閉じ込めておく幽閉所の支配者でもあるという。
一方、メタトロンについて歴史的な記述は少ない。
だが、その性格については様々な伝承があり、『契約の天使』『天の書記』『神の代理人』等の様々な異称を持ち、七十二の異名を持つともされる。
中世ユダヤ神秘主義者のなかには出エジプト記に現れる太陽よりも燦然と輝く顔を持つ天の御使いこそメタトロンであり、天の上から炎の柱を使って彼等を導いたと言う。
航は黒薙さんの話をぼんやりと聞きながら、湊ならまともな受け答えが出来たんだろうなと思った。宗教についての理解も興味も無かった。
デイビス氏にとって、自分はどちらだったのだろう。そして、湊は。栓も無いことを考えてはうんざりする。無知な自分が不甲斐無い。
取調室を出てから、黒薙さんは廊下の先で携帯電話を相手に話し続けている。航は時の流れに置いて行かれたかのような奇妙な感覚に包まれながら、ぼんやりとベンチに座っていた。
デイビス氏は、マーティンは、エマは、アメリアは、何処で何を間違えたのだろう。ルーカス氏という巨悪を相手に何が出来たのか。たった一人の悪魔の為に人生の歯車はいとも容易く狂わされ、幾ら足掻いても修復は出来なかった。
「……航」
黒薙さんは、いつの間にか通話を終えたらしい。相変わらずの鉄面皮で、抑揚の無い声で自分を呼ぶ。
「マーティンを確保したそうだ」
航は驚いた。喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか、自分の感情さえ解らなかった。
彼の逮捕を望んでいた筈なのに、逃げ延びて欲しいとさえ思っていた。アメリアの分まで生きて、その先に小さな希望の光を見付けて欲しいと。
けれど、黒薙さんは冷たく言った。
「捜査官が到着した時には、出欠多量で死んでいたそうだ」
絶望感に目の前が暗くなるようだった。
誰も救われない。誰も許されない。犯人を見付けていながら逮捕出来ず、法の下で裁くことも出来なかった。
マーティンという男が何を考え、何を思い、何の為に今日まで生きて来たのか、最早答え合わせは誰にも出来ない。
「第一発見者は、お前等の親父だよ」
「……親父?」
何故。
家にいる筈だ。ルーカス氏の事件とは無関係だった。湊が何かしたのだろうか。それにしたって、何故。
「場所はルーカス氏の墓で、アメリアの遺骨を抱えていたそうだ」
胸が詰まるようだった。
酸欠の時みたいに頭がくらくらして、思考が纏まらない。
「素手で墓を掘り起こしたようだな。両手の爪は剥がれて、地面には血の跡が幾つも走っていたそうだ」
その時の情景が、まるで自分がその場にいたみたいに脳裏に浮かび上がる。
最期の時、彼はアメリアの元へ向かったのだ。ルーカス氏から助け出す為に墓を暴き、遺骨を抱いてーー。
喉の奥から窮屈な音が漏れた。
航は頭を抱え、呼吸を落ち付けようと努めた。
「お前等の親父が到着した時にはまだ息があったらしい。遺骨を抱いたまま、手を伸ばして来たそうだ。殺そうとしたんだろうが、あいつには、そうは見えなかったって」
黒薙さんは躊躇うように目を伏せた。
彼が言い淀む気持ちが解る。警察官だ。憶測で語る訳にはいかない。だが、航は違う。その場にいただろう父の胸中を想像し、そっと言った。
「助けて欲しかったのかな」
黒薙さんは答えなかった。
答え合わせは出来ない。だから、少しでも救いのある方を願うしかない。朦朧とした意識の中で、最愛の人の骨を抱いて、伸ばした手の先に何か救いがあったのだと祈ることしか出来ない。
死者を裁く法は無い。
航は空を仰いだ。
白々しい蛍光灯の下、毒々しい模様の蛾が羽搏いていた。
14.観測者
⑶舞台袖
例えば暗闇に取り残された孤独の時、助けの望めない絶望の時。何処からともなく現れて、見事に事態を収拾し、誰一人として取り零すことも無く、誰一人として不幸にしない。
機械仕掛けの神のように、全てを予定調和的に解決へ導く。きっと人は彼をヒーローと呼ぶ。
ルーカス氏の墓前に立ち尽くすヒーローは、まるで一枚の宗教画の如く神々しく、吐き気がした。葵はその足元で伏臥する罪人を苦い思いで見詰めていた。
ヒーローの通報で駆け付けた警察官が、忙しなく動き出す。貼られる規制線、赤い回転灯、無線機の雑音が遠い昔に置いて来た過去を想起させ、葵は胸を抉られるような痛みに顔を歪めた。
葵は警察官の家系に生まれ、幼少期に両親は殉職した。唯一の肉身であった兄は、中学生の頃、葵のストーカーだった異常者に殺された。
自分はストーカーを殺害する計画を立てていた。それを兄に知られ、殴り合いの大喧嘩になった。翌日、兄は巡回経路を変え、ストーカーの元へ出向き、交戦。最後は首を切り落とされた。
ずっと、自戒の中で生きていた。
逃げるように渡米した先でヒーローに出会った。
何度突き放しても手を伸ばし、諦めること無く言葉を投げ掛け、葵の凍り付いた心は次第に溶けて行った。
何が正しかったと思う?
葵が問うと、ヒーローは何も正しくないだろうと言った。お前が後悔しているのなら、正しくない。彼の言葉はいつも常識とは異なる、葵一人を救う為の魂の叫びだった。
手を伸ばされたら拒めない。掴んだら離さない。
そんなヒーローにも救えないものがある。
ヒーローは足に根でも生えているみたいに動かなかった。見れば、マーティンの血塗れの手が縋るようにヒーローの足首を掴んでいた。
彼に救えないもの。それは。
「届いたね」
幼児の我儘を許容するように、ヒーローが慈悲深く言った。その視線は自身の足首を掴み事切れた殺人犯へ縫い付けられている。
ヒーローこと蜂谷和輝は、湊と航の実父である。同時に、葵にとっては恐らく人生最大の恩人だった。
家族を心の底から愛し、世界平和なんて大き過ぎる目標を素で掲げ、その為に人生を捧げてしまう程度には頭がおかしい男だ。そして、この男には他人の嘘が解る。
湊の嘘を見抜く精度に比べると、彼は違和感として知覚する程度らしいが、野生動物みたいに勘が鋭いので、それは最早他人の心を読むのと同義である。
そんな彼には、このマーティンという殺人犯がどのように見えるのだろう。
鑑識官がマーティンの指を引き剥がす。
その間も和輝は身動ぎ一つしなかった。
「どうして此処にいた?」
葵が問い掛けると、和輝はゆるゆると顔を上げ、困ったように微笑んだ。出会った頃の幼さを残した顔立ちが幻のように浮かび、葵は舌打ちした。
「……湊から、ルーカス氏の事件の相談をされて」
守秘義務という言葉が過ったが、湊は未成年の一般人だ。父親に相談をしたところで罪に問われることは無い。
「まずは、彼等の墓参りをするのが筋だと思った」
お前は一体どの立場から物を言っているのだ。
葵は吐き捨てようとして、止めた。彼が独自の価値観と思考回路に従って生きていることは知っているし、今更変えることは出来ない。
「この人が墓を掘り起こしていたから、声を掛けた」
ただ、それだけ。
突き放すように、ヒーローが言った。葵は運ばれて行くマーティンを眺め、咎めた。
「足首を掴まれていたのは?」
「なんでだろうね。俺が敵に見えて殺そうとしたのかも知れないし、神様だと思って手を伸ばしたのかも知れない」
「抵抗しなかったのか?」
「だって、酷い怪我だった」
付き合いは長いが、相変わらずよく解らない男である。
葵は溜息を吐いた。
「事件の経緯は聞いているか?」
「……自殺だと考えられていたルーカス氏は他殺で、犯人は超能力者で、湊と航が巻き込まれている」
大体合っているが、真顔で言うものだから呆れてしまう。そんな荒唐無稽な話を、息子から聞いたというだけで信じたのだろうか。
湊は家族の嘘が見抜けない。このヒーローはどうなのだろう。湊にとっては実母でも、ヒーローにとっては妻であり、他人だ。
そんなことを考えていると、和輝が言った。
「息子が助けを求めていた。応えない理由は無い」
嘘とか真実とか、関係無いのだ。
他人の嘘が解る癖に、無頓着なのだ。信じたいものを信じる。例え、騙されたとしても。
彼の中には明確な優先順位と境界線がある。伸ばされた手は離さないし、期待には応えようとする。ただ、彼は知っているのだ。
全てを救うことは出来ない。
ましてや、息子を殺そうとした相手に慈悲を掛ける程に御人好しではなく、時に寒気がする程の現実主義で他人を切り捨てる。
和輝は退屈そうに、荒れた足元を眺めた。
「あの人は自分の意思で罪を犯した。……でも、第三者の立場で事件を聞いていると、余りにも出来過ぎているように感じる」
掴まれていた足首を見遣り、和輝が屈伸をする。同じ姿勢でいたせいで筋肉が硬直したのだろう。和輝は続いて両腕の柔軟を始めた。
「アメリアさんとルーカス氏の事件を関連付けるには時が経ち過ぎている」
「それはそうだが……」
葵は唸った。
そんなことは解っている。けれど、事件が起こってしまった以上、それは些事に等しいのだ。
和輝は手首を回しながら言った。
「アメリアさんを死なせたのはルーカス氏で、ルーカス氏を死なせたのはマーティン。SLCが中途半端に関わっているせいでややこしく見えるけど、湊と航は無関係だ」
「……エマはそう思っていなかったみたいだけどな」
「あの子の世界は閉じている。外界と接する術が無い。だから、湊に固執する」
それこそ、希望的観測ではないか。
和輝は父親だから湊を庇う。全然第三者の立場にいない。
「どうして俺の息子が巻き込まれているか解るか、葵」
不意に名を呼ばれ、葵は驚いた。
歯ぁ食い縛れ。
独り言のような小さな声がして、次の瞬間、ヒーローの拳が振り抜かれていた。
視界がぐらりと揺れて、周囲に動揺が広がった。その時になって、葵は左頬を渾身の力で打ち付けられ、葵は受け身も取れず吹っ飛ばされたのだと気付いた。
歯を食い縛らなければ顎が外れていたかも知れない。
葵は尻餅を突きながら、和輝を見上げた。頬が鈍く痛む。太陽を背負うヒーローは全身から蒸気のように怒気を迸らせていた。
「順序が違うだろうが」
順序ーー。
そうだ。その通りだ。反論の余地も無い。
葵はひっそりと苦笑した。
自分はまず、このヒーローに相談するべきだったのだ。然るべき手順を踏まず、ヒーローを抜かしてソフィアに二人を紹介したことが、最大の失敗だった。
彼はヒーローである以前に、湊と航の父親だったのだ。そして、一人の人間でもあった。
MSFで活動を続けているのは、家族を守る為だ。彼が背負っているものは一般社会では考えられない程に重い。彼が命を懸けて守ろうとしている家族を巻き込んだのだ。殴られるくらい、安いものだ。
葵は口の端を拭った。血が滲んでいる。口の中も切れているらしい。その場に吐き出したかったが、現場保存を考え、苦渋の思いで呑み込んだ。
好奇の眼と喧騒の中、やがて人々は興味を失い、それぞれの目的を達成する為に活動を始める。自分達の周囲だけが切り取られたように静かだった。
頭痛を堪えるように和輝がしゃがみ込み、肩を寄せる。表情は怒っているが、その矛先が自分に向いていないことは解った。
いいか。
前置きして、和輝が声を潜める。
「この事件には仲介者がいる。全部、実験なんだ」
「実験?」
口の中に鉄錆の味が広がっていた。
舌が痺れて呂律が回らない。
葵がゆっくりと復唱すると、和輝が頷いた。
何かを警戒するように口に指を立てる。
「欲しいのはデータなんだよ。他人の嘘を見抜く能力の精度を確かめたいんだ」
つまり、自分達は利用されたのだ。
この数日の記憶が走馬灯のように浮かび、葵は額を押さえた。いつから、何処から、誰の掌の上だったのだろう。
「狙いは、湊か?」
「湊というよりも、血筋だろう。そいつは、湊の能力は俺から受け継がれたものだと信じている。何故だと思う」
葵の脳裏を過ったのは、湊の論文だった。
超能力は脳機能。
それが身体能力である以上、遺伝する。
人工的に超能力者を創り出そうという、あの荒唐無稽な研究を信じた馬鹿がいると言うのか?
「恐らく、単独犯。性格は慎重で几帳面。計画の周到さから考えて、一人暮らしの研究者。湊の書いた論文や、あいつ等がルーカス氏の事件を調べていることも知っていて、近くで観察出来る程度には親しい人間。……学生かもな」
ヒーローのプロファイルを聞きながら、葵は反論の証左を探した。彼の話を聞いているとまるで操られているかのようにそれ以外の答えを見失ってしまうのだ。
「お前は、湊の仲間を疑っているのか?」
「他の可能性があるなら、聞くよ」
残念ながら、葵には代替案が無かった。
不自然な程、湊の周囲で人が死んでいる。本人が好奇心旺盛なトラブルメーカーであることを別にしても、異常である。
何故だ。どうして、湊が。
遠い昔に聞いた彼等の産声が鼓膜の奥に焼き付いている。流血する程の派手な喧嘩も、警察沙汰になった家出も、バスケットボールに打ち込む背中も昨日のことのように鮮明に思い出せる。
すくすくと育っていた。
旺盛な好奇心に引き摺られて行動を起こし、感情は後からやって来る。けれど、根は素直で優しく、誠実だ。まだたった十七歳の少年が、どうして。
「湊の能力って、何なんだ」
他人の嘘を見抜く。
けれど、彼はそれを指摘しない。あるがままを受け入れる。良いものだとは思えないが、悪いものでも無い筈だ。
ヒーローは言った。
「人より勘が鋭いんだ」
勘?
その程度の認識なのだろうか。
これだけ多くの人を巻き込んで、事件を引き起こして、機械のような精密さで真実を見抜いて来た湊の能力を、ただの勘だと?
そんなもの、誰が納得する?
葵の追求を躱すように、和輝が言った。
「言い換えるなら、自衛の為の防御機構だな。能力そのものは大したことじゃない」
生来、それは誰もが持つ能力である。特に幼い子供は自衛の為に鋭敏であり、容赦無く保護者を選別する。
自分を守ってくれる相手か、敵か、味方か。誰もが産まれながらに持ち、生育の過程で失われて行く能力。
ヒーローはそんな風に言った。
「人間関係を築く上では厄介だけど、あいつは心得ている」
嘘が見抜けても、真実が解る訳じゃない。
全ての嘘が悪い訳じゃない。
ヒーローが息子に再三言って来たことだった。
「問題は使い方なのさ。嘘を見抜くというのは、汎用性が高くて、軍事や司法への適性のある能力なんだよ。悪用しようと思えば幾らでも出来る」
超能力の軍事的応用。
生前のルーカス氏が執着していたことだ。
超能力、信仰宗教、心霊現象。普通に生きていれば関わることも無いような事象が歯車のように噛み合って、有り得ない様相を呈している。その軸が何なのか、葵は確証を得られなかった。
和輝は立ち上がると、射抜くような目付きで言った。
「誰かが俺の息子で実験をしてる。時系列から考えると、去年の夏、犯人にとってターニングポイントがあったんだ」
「犯人の目星が付いているのか?」
「さあね。……だけど、俺の息子がもう王手を掛けるよ」
こいつには何が見えている?
葵はその瞳をじっと見据えた。透き通るような虹彩の色が、日差しを浴びて輝く。それはまるで透明度の高い湖のようで、磨き込まれた鏡のようでもあった。
「湊の所へ捜査官を送ってくれ。逃げられると厄介だからね」
「……解った」
正直、何が起こっているのかは解らない。けれど、彼がそう言うのなら間違いは無いのだろう。
葵は携帯電話を取り出し、チームに連絡を入れた。




