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⑵罪

 取調室という箱の中、その初老の紳士は刑の執行を待つ罪人のように俯いていた。静寂は凪いだ水面の如く広がり、息苦しい程の緊張感に包まれている。


 ルーカス氏の屋敷の使用人、デイビス・サイード。

 五十八歳、男性。出身はパレスチナで、経済的困難の為にアメリカへ移住し、職業を転々とした。ルーカス氏が資産を拡大し始めた三十年程前に雇われ、今に至る。


 ルーカス氏の身の回りの世話をすると共に、公私に渡って主人の補佐をして来た。彼はルーカス氏の栄枯盛衰を最も近くで見て来た証人である。

 犯罪歴は無く、その経歴に不審な点は無い。他の使用人からの信頼も厚く、主人の死後も忠義を尽くすように屋敷に仕えて来た。


 ルーカス氏の死後は真っ先に他殺の嫌疑を掛けられながら、自身で身の潔白を証明した。故に警察は彼を疑うことが難しかった。

 彼がこの場にいる理由は一つである。


 エマの無実を証明する。

 それがこのデイビス氏に課せられた最後の使命なのだ。


 取調室のマジックミラー越しに室内を観察し、航は腕を組んだ。

 デイビス氏に訊きたいことは一つである。エメラルドの瞳の男の詳細だ。エマが自供したことにより、彼の使命は既に終わっている。問題は彼がどの程度関与しており、何を知っているのか。


 隣に立つ黒薙さんは小難しい顔をしており、助言をしてくれるとは思えない。お前に何が出来るんだとでも言いたげな表情で、航は感情的に怒鳴り付けたくなる。




「……デイビス氏は、エマの自供をまだ知らない」




 黒薙さんが言った。

 エマの自供。それが此方の切り札であり、唯一の手札である。仕えるべき主人は亡く、果たすべき忠義は無い。それを知った時、彼がどのような答えを出すのか予想も付かない。




「アメリアの不貞が発覚した以上、隠し立てする義理も無いだろう」




 その通りだ。この人が仕えていたのはルーカス氏で、アメリアではない。だからこそアメリアを見殺しにした筈だ。エマがルーカス氏の実子ではないと解れば庇う理由も無い。


 そもそも、どうしてこの人は事情聴取に応じたんだ?

 ルーカス氏の名誉を守る為ならば、アメリアの自殺教唆が発覚する前に行動しただろう。今更、何を。




「この人は、何故、此処にいるんだ?」

「何故?」

「エマを庇いに来たようには見えないんだ。……まるで、何かを待っているみたいだ」




 何を?

 黒薙さんが目を細める。中々の眼光だ。航は唾を呑み込み、デイビス氏の顔を眺めた。


 最後に屋敷を訪れた時、湊が彼に言ったのだ。

 どちらがより良い未来であるのか、貴方の良心に問うて答えを出してくれ、と。例えそれが、エマの未来を閉ざすことになってたとしても。


 彼が待っているのは、湊だ。

 何故か。そんなの、罪の告白以外に無いだろう。つまり、彼は許されたいのだ。


 航は深呼吸をして、足を踏み出した。








 14.観測者

 ⑵罪







 扉へ手を掛ける。彼の待つ相手が湊ならば、自分に出来ることは無い。だが、もう少しで真実に手が届く。此処で足踏みしている理由は無い。


 扉を押し開けると、デイビス氏は僅かに顔を上げた。その灰色の瞳が航を認めると、強張りを解くように肩が落とされた。




「湊君が来ると思っていました」




 そうだろう。

 椅子を引き、正面に座る。

 腹芸は得意じゃないし、時間の無駄だ。




「湊の代わりに聞いてやるよ」




 デイビス氏は微笑んだ。歩き疲れた旅人が腰を下ろすみたいに、そっと息が溢れる。

 航は机の下で拳を握った。




「エマの父親に会ったぞ」




 灰色の目が見開かれ、驚愕の色が浮かぶ。

 大腿部の傷が疼くような気がして、航は眉を顰めた。




「ルーカス氏殺害の主犯はあいつだな? アンタは何処まで関与してる?」

「……彼は無事ですか?」




 何故、奴の安否を気に掛ける?

 航は質問には答えず、突き放すように言った。




「それを知りたいなら、アンタが先に答えろ」




 航は腹に力を込めた。




「エマは自供したぞ」




 此方の手札は一枚だ。切り札を温存して負けるなんて馬鹿な真似はしない。


 デイビス氏は苦く笑い、背凭れに体を預けた。

 魂まで抜けてしまいそうな深い溜息を吐き、彼は口を開いた。




「ルーカス氏を死なせたのは、()()です」




 何故、このタイミングで。

 背後で壁に凭れていた黒薙さんが身を起こす気配があった。




「彼が計画し、私が仲介し、エマが実行した」




 航の疑念を置いてけ堀に、デイビス氏が滔々と語り始める。それは、これまで秘匿されて来た事件の全貌であった。


 エメラルドの瞳の男ーーマーティンは、エマの実父である。勿論、それが偽名の可能性は高い。

 デイビス氏が初めて会ったのは十五年前。アメリアがまだ孤児院にいた頃だった。


 ルーカス氏が超能力の軍事的応用に強い関心を持っていたことを知っていたデイビス氏は、主人の夢を叶える為に各地から情報を集めた。その夥しい情報の中からアメリアを見出し、主人へ報告。ルーカス氏と共に孤児院を訪れた。




「孤児院の中庭で、二人は一緒に座って語り合っていました。自立した後のこと、将来の夢。彼等は希望に満ちていた」




 十三歳の彼等は、家族以上の絆を持っていたのかも知れない。少なくとも、デイビス氏にはそう見えた。ーーまるで、恋人同士のように。




「その時になって、私は過ちに気が付きました。彼女のことを報告するべきじゃなかった。……いや、彼女だけじゃない。私は……主人を止めるべきだった」




 超能力者とされた人々が、実験の為にどのような仕打ちを受け、殺されて来たのか、デイビス氏は知っていたのだ。

 ルーカス氏がアメリアを孤児院から買い取った時も、彼女がどんな末路を辿るのかも解っていた筈だ。


 アメリアの意思を無視して強引に婚姻が結ばれた時、マーティンは何を思っただろう。アメリアは、デイビス氏は、何を。




「ルーカス氏は彼女を母体に人体実験を行なったのです。超能力という実在するかも解らないものの為に、彼女はメスで体を開かれ、凌辱され、尊厳を踏み躙られた」




 余りの悍ましさに吐き気がした。

 最悪だ。そんなことが許される筈無い。ルーカス氏は他人の人生を狂わせ、尊厳を蹂躙しながら、法によって裁かれもせず、誰かに責められもせず、当たり前のように生命を搾取し続けた。


 彼は悪魔だ。


 その時のアメリアやマーティンの気持ちを思うとやり切れなくて、叫び出したくなる。怒りに両目が熱くなり、航は拳を握って必死に堪えていた。




「彼女が心を病んでしまった時、屋敷に一人の精神科医がやって来ました。……私は、それがあの時の青年だと一目で解りました」




 精神科医という役職が、果たして本当のものだったのかは解らない。だが、彼はアメリアの元に再び現れた。偶然なのか、何かの因果なのか、それはマーティンにしか解らない。




「彼がやって来てから、彼女は少しずつ元気を取り戻しました。彼女にとって、彼は希望だった。それから半年後、彼女は妊娠したのです」




 航は黙っていた。

 例えそれがどんなに希望に満ちた過去であったとしても、自分は結末を知っている。死者は生き返らず、過去は変えられない。




「主人はとても喜びました。実験の成果だと信じて疑わなかった。そして、精神科医の彼はお払い箱とばかりに屋敷を追い出された」

「……アンタ、知ってたんだろ……」




 堪らず、航は咎めてしまった。

 この人は全部知っていた筈なのに、解っていた筈なのに、何もしなかった。そのせいで、アメリアは。


 今更、こんなことを言っても意味は無い。

 死者は永遠に沈黙する。その時のアメリアの気持ちも、恨みも、憎しみも、誰にも解らない。だから、航は言わなければならなかった。




「アンタのせいでアメリアは死んだ。アンタのせいでマーティンは苦しみ、アンタのせいでエマは罪を犯したんだ」




 デイビス氏は俯いていた。

 灰色の目に涙の膜が張っている。けれど、彼の涙には何の価値も無いと思った。本当に泣きたかったのは、マーティンとアメリアなのだ。




「エマが産まれてから、彼女はまた塞ぎ込むようになりました。そして、エマが三歳の頃に精神は不安定になり、娘に煮え湯を浴びせたのです」

「……何故だ」




 黒薙さんが問い掛けた。

 アメリアにとってエマは、マーティンとの唯一の繋がりだった筈だ。それ程までに彼女の精神は追い詰められていたのだろうか。




「エマが三歳の頃から、ルーカス氏は超能力の実験を行うようになりました。その中で、エマは超能力の才能を見出された。……彼女は、娘を逃がしたかったのではないでしょうか」




 治療の為に病院へ搬送されたら、マーティンが助けに来てくれるかも知れない。屋敷に軟禁されている自分は無理でも、娘だけは。


 だが、ルーカス氏はエマを屋敷から出さなかった。代わりにアメリアは精神病棟へ送られ、ルーカス氏と担当医が共謀して自殺させた。


 ーーお母さんは私のことが嫌いだったのかな。

 エマが言っていた。航は、あの時に否定してやれなかった自分を恨んだ。

 嫌いじゃなかったよ。あれが、アメリアに許された最期の愛だったんだ。どうしてそれを、エマに伝えてやれなかったのか。




「彼女の自殺した三年前、彼から電話がありました。私は屋敷の外で彼と会い、この計画を立てました」

「……どうして、エマを巻き込んだんだ」




 復讐を肯定するつもりは無いが、理解は出来る。ただ一つ納得行かないのは、エマを実行犯にしたことだ。

 超能力に執着し、大勢の人を不幸にしたルーカス氏が超能力によって殺されるなんて皮肉な話だ。だけど、エマには何の関係も無いのだ。


 子供に親は選べない。

 マダム・マリーの亡き娘、フローラの言葉だ。

 彼女は息子の為に全てを投げ打ち、守ろうとした。


 父もそうだった。

 七年前、世界が核戦争の危機に晒されていた時。父は家族を守る為に凡ゆるコネクションを使いながら、中東の紛争地で医療援助を続け、命の価値を上げることで戦争を回避しようとした。

 結果、父のいた病院は政府軍に空爆され、左手首を失い、五年間消息不明になったのだ。


 親とは、そういうものだと思っていた。

 当たり前のようにその身を案じ、全てを投げ打ってでも守ろうとし、子供を守る為に躊躇無くその身を呈することが出来る。見返りを求めない両親の愛情を受けて、航は育った。だから、彼等の行動原理が理解出来ない。




「君にはあの子が何に見えますか?」




 デイビス氏の問いの意図が、航には解る。

 エマは普通じゃない。湊が言っていた。対峙した今なら、その言葉の意味が解る。

 あの子はサイコパスだ。良心の呵責は無く、倫理観は欠如し、共感能力も無い。巧みに嘘を吐き、他者を欺き、操る。


 だけど、一人の女の子だ。




「エマがどんな人間であっても、巻き込んで良い理由にはならねぇ」

「……ええ。その通りです」




 航は舌打ちをしたい心地だった。

 正論は大嫌いだった。終わったことを後から責められても、何の意味も無い。自分はその場にいなかった。それが全ての答えなのだ。




「彼が睡眠薬を用意し、私が受け取ってエマに渡しました。そしてエマがルーカス氏に睡眠薬を飲ませて死なせ、私は薬の瓶を処分しました」




 何故、瓶を処分する必要があったのか、

 ずっと疑問だった。だが、これで解った。ルーカス氏を死なせた睡眠薬はマーティンが用意したものである以上、出所を追えば彼が捜査線上に浮かび上がる。




「アンタが加担したのは、罪滅ぼしの為か?」




 問い掛けると、デイビス氏は静かに肯定した。

 デイビス氏がアメリアを見付けなければ、彼女はマーティンと幸せになったのかも知れない。少なくとも、彼女はそんな地獄の底で苦しむことは無かった。


 だから、マーティンの計画に加担した。罪を償う方法は無い。せめて、マーティンと同じ罪を背負おうと。


 その時、だんまりを決め込んでいた黒薙さんが言った。




「どうして今更、告発しようと思ったんだ」




 黒薙さんの声は低く落ち着いていた。

 糾弾の色は無く、率直な疑問を投げ掛けたようだった。




「アンタが話したことは、彼等への裏切りじゃないのか」




 デイビス氏は言葉を失ったかのように緘黙し、机の上で頭を抱えた。気道の潰れるような喘鳴が聞こえ、航は慌てて腰を浮かせた。




「許されたかったんです……!!」




 絞り出したような掠れ声で、命乞いをするような必死さで、デイビス氏が言った。

 勝手な男だ。マーティンにとっては、彼も復讐の対象だろう。ーーああ、だから、彼を巻き込んだのか。


 お前も罪を背負え、と。


 こんな時、いつも思う。

 皆が幸せになることは難しい。せめて、最小の不幸ですむ方法は無かったのだろうかと、やり切れなくなる。

 許せだなんて他人だから言える。彼等にとっては許し難い、この世でもっとも醜悪で、下劣な悪魔だったのだ。


 デイビス氏は一度鼻を啜って、顔を上げた。

 すみません、と掠れ声で謝罪した彼は、最初に会った時よりも随分と年老いて見えた。




「主人を死なせた後、非通知の電話がありました」




 腫れぼったい瞼を擦り、デイビス氏は言った。




「その電話が、私の希望だったのです」




 心身共に追い込まれたデイビス氏の希望とは?

 航は話の先を促した。




「いつか双子の天使が現れて、貴方の罪を糺すだろうと……。その時、貴方は初めて許される」




 双子の天使?

 そんなもの、聞いたことも無い。だけど、デイビス氏の指す双子の天使とはーー、自分達のことだったのだろう。


 黒薙さんが自分を呼んだ。

 航が振り向くと、黒薙さんは眉間に皺を寄せて言った。




「これ以上の情報は出て来ないだろう。……こいつは、マーティンの素性を知らない。実父というのも想像で、根拠が無い」




 DNA鑑定のことを言おうとしたが、航は黙った。それこそ、デイビス氏に伝える理由は無い。

 航は席を立った。机に突っ伏すデイビス氏を見遣り、虚しさに泣きたくなる。


 この人がアメリアを見付けなければ、ルーカス氏を止めていればーー。そんな不毛なことを考えては、苦しくなる。




「……湊が言ってたぜ。罪は人を許さないって」




 危険運転で一家四人を轢き殺し、反省の色も無く、罪から逃れようとした男達がいた。良心に訴え掛けても意味は無く、何も変えることが出来なかった。

 負け惜しみのように、呪いを掛けるように、湊が言ったのだ。


 どんなに悔い改めようとも、死者は蘇らず、罪人を許すことは無いのだと。結果、彼等は轢き殺した子供の霊によって殺されてしまった。




「俺もそう思う。罪は許されない。だから、背負い続けろ。楽になろうだなんて思うな。アメリアの苦しみを、アンタも死ぬまで味わえ」




 航は舌打ちを零し、扉へ向かった。背中に聞こえる慟哭が、楔のように胸に突き刺さった。

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