⑴内通者
Most people are other people. Their thoughts are someone else’s opinions, their lives a mimicry, their passions a quotation.
(殆どの人々は他の人々である。彼等の思考は誰かの意見、彼等の人生は模倣、そして彼等の情熱は引用である)
Oscar Wilde
「私の負けよ」
その声は敗北宣言とは程遠く、まるで死刑宣告のような冷たさを秘めていた。
紅い瞳は血の色に濁り、微笑みは嘲笑へと変化する。その時になって初めて、航は自分が彼女の本質を見えていなかったのだと痛い程に思い知った。
エマは肩に掛かった髪を払うと、両肘を机に突いた。
真っ赤な瞳が挑発的な光を帯びて覗き込む。観念したとは思えなかった。だが、眼前で対峙する湊は眉一つ動かさなかった。
DNA鑑定の結果は、嘘だ。こんな短時間で結果は出ない。けれど、その嘘を真実に変える魔法の言葉がある。兄が度々起こす予定調和は、綿密に積み重ねた信頼に裏付けされていたのだ。
湊には他人の嘘が解る。
これまでの実績によって証明されたその能力の精度は、最早誰も疑うことが出来ない。湊が嘘だと言えば、例え真実でも嘘になる。
「何のお話をしましょうか」
エマは妙に艶のある仕草で問い掛けた。とても九歳の少女には見えなかった。
彼女には今、湊の魔法が掛かっている。自分の嘘は見抜かれる。故に、湊の言葉は真実である。そう信じているのだ。
しかし、リスクは高い。
同じ手は二度と通じないし、湊に対する社会的な信用は著しく低下するだろう。
此処でボロを出す訳にはいかない。
航は壁に凭れ掛かり、下手なことは口にするまいと黙った。
「ルーカス氏に薬を飲ませた時、何て言ったの?」
「そのままよ。これを飲んだら楽になれるって教えてあげたの」
やってあげましょうか?
エマは薄く笑った。鳥肌が立つ程、美しく、残酷な笑みだった。
室内は不気味に静かだった。記録係を買って出た黒薙さんも、何を考えているのかずっと黙りこくっている。湊は戯けるように肩を竦めた。
「それは俺には効かないよ」
「貴方に効かなくても、航は違うわ。其処の刑事さんもね」
「同じことさ。俺がいる限り、君に他人を操ることは出来ない」
この空間の支配者は湊だ。敗北を認めたエマより、湊の言葉の方が影響力が強い。しかし、このヒエラルキーの均衡は刹那的であり、些細なきっかけで引っ繰り返る可能性が高い。
互いの心臓にナイフを突き付け合うような嫌な緊張感の中、湊は穏やかに問い掛けた。
「君の本当のお父さんの名前は?」
「知らないわ。私が嘘を吐いているかどうかは解るでしょ?」
「連絡手段も無さそうだね」
「ええ。連絡する時はいつも向こうから」
二人の会話は核心を避けるように上滑りしていた。
エメラルドの瞳の男はエマの実父で、共謀して育ての親を殺したのだ。その手口が証明困難な超能力となれば、次に訊くべきは動機である。
だが、湊はそれを避けている。この子の価値観は自分達と違う。理由を聞いたとしても理解出来るとは思えない。
一瞬の沈黙の後、湊は席を立った。
エマは綺麗な眉を跳ねさせた。彼女は蛇に似ている。その姿が美しい程、毒性の強さを窺わせるのだ。
「もうお終い?」
「ああ」
湊は緩慢な動作でシャツの皺を伸ばした。
「君の殺意は証明された。訊きたいことはもう無い」
「それなら、私も訊いて良いかしら?」
「そんな義理は無いね」
顳顬の辺りが痛かった。この部屋にいると、脳を攪拌されているみたいに気分が悪い。
取り付く島も無く湊が扉へ向かって歩き出す。その背中に向けて、エマが言った。
「貴方の見抜かなかった嘘が、貴方を殺すわ」
ドアノブに触れた湊の指先が微かに震えた。
湊の動揺を察したかのようにエマが嬉々として笑う。
「真綿で首を締めるように、貴方の周囲は死に彩られるわ。初めは知り合い、そして、お友達。最後は家族」
石榴のような瞳が航を捉える。
どういう意味なのかは解らない。だが、その言葉を聞いていると金縛りに遭ったみたいに身体が動かなかった。
ヒエラルキーの逆転が起ころうとしている。
酷い耳鳴りに平衡感覚が狂って行く。
「貴方の心臓に届くのはいつかしら。その時、貴方はどんな顔をするの?」
呪いを掛けるみたいに、歌を口ずさむみたいにエマが言う。整った面が愉悦に歪むのは、何処か遠い世界のことのように感じられた。
「とどめを刺すのは、誰だと思う?」
自分は一体、今まで何を見ていたのだろう。
この子は普通じゃない。少女の背中を食い破って、不気味な女が羽化したのだろうか。それとも、張り巡らせた糸を伝って、女郎蜘蛛が姿を現したのか。
湊が振り返る。
何処かで鈴の音が鳴ったような気がした。
「コンティニューは、もうしない」
感情の機微すら消え失せた全くの無表情で、湊が言った。その瞬間、エマの張り巡らせた罠は刃で切り落とされるように消えて無くなってしまった。
開け放たれた扉から新鮮な空気が流れ込む。ぐいぐいと前進する湊に引っ張られるように、航はエマの視線から逃れた。
14.観測者
⑴内通者
取調室を出た時、刑事達が一斉に湊を見た。
それは賞賛ではなく恐怖に似ていた。互いの出方を伺うように視線を彷徨わせ、誰もが口を噤んだ。
彼等にとっては、エマも湊も常識の枠から出た異物なのだ。他人の嘘を見抜くという能力は特化された自己防衛だ。けれど、この僅かな時間の中で、湊はその能力の異なる側面を証明してしまった。
真実を嘘にする。それは一種のマインドコントロールである。百戦錬磨の刑事達を出し抜いたエマを上回る湊の能力には、どれだけの価値があり、リスクが付き纏うのか。
気まずい沈黙の中を湊が横切って行く。すれ違う刑事達の白い眼差しが胸に痛かった。
背後で扉の閉じる音がした。
黒薙さんだ。彼が部屋を出ると漸く時は動き出した。刑事達が白々しく行動を開始する中、湊は既にこの場を退出しようとしている。
「エメラルドの瞳の男の行方は?」
ぶっきら棒に黒薙さんが尋ねる。
声を掛けられた刑事が俯きながら依然として逃走中であることを答えた。黒薙さんは眉を寄せ、もう殆ど部屋を出ている湊に問い掛けた。
「心当たりはあるか?」
半身で振り返り、湊は退屈そうに言った。
「あの人は痛覚が麻痺している。死ぬか目的を達成するまで止まらない。次に向かうのは、病院だと思う」
「病院?」
「ゾーイとホセが運ばれてる。とどめを刺そうとするかも知れない」
なるほど、と黒薙さんが頷いた。
エメラルドの瞳の男にとって、航達が孤児院を訪れたのは偶然ではなく、計画の内だった。そして、その計画では、ゾーイもホセも、航も死ぬ筈だった。
でも、誰も死ななかった。これが犯人にとって不測の事態ならば、計画を強引に遂行しようとするかも知れない。
次の疑問は、犯人の目的である。
何故、自分達は命を狙われたのか。
答えを求めて見詰めるが、湊は黙っていた。
何を考えているのか解らない無表情で、黒薙さんが淡々と言った。
「捜査員を病院へ向かわせる。被害者の保護を最優先にしよう」
「……少数精鋭でお願い。相手が無抵抗に見えても、絶対に油断しないで」
おう、と黒薙さんが低く言った。
多分、湊は何かしらの答えを持っている。それはこの場で打ち明けられない程度の重大な、或いは荒唐無稽な話なのかも知れない。
湊に肩を借りながら航は警察署を出た。
並んでみると、その身長差が随分と開いていることに驚かされる。頭一つ分くらい違う。
短く切り揃えた髪の毛がエアコンの風に揺れ、見事な旋毛が見えた。
何処へ行くのかと思ったら、駐車場だった。停車中の救急車には目も遣らず、湊は一台の黒いボックスカーの元へ向かった。
開け放たれた運転席の窓から、リュウの不機嫌そうな顔が見える。どうやら湊は此処に来る時にも彼を足代わりにしたらしい。
此方に気付いたリュウが慌てて車を降りて駆けて来るのが見えた。
「どうなったんですか? 今の状況は? ゾーイとホセは無事なんですか?」
切羽詰まった声で質問責めにするが、湊は何も答えなかった。
その代わり、湊は一つだけ問い掛けた。
「お前は俺の敵か?」
どういう質問だ。追求しようにも、言葉が出て来ない。湊のその横顔は抜き身の刃のように研ぎ澄まされ、航でさえ声を掛けるのを躊躇う程だった。越えてはならない一線を越えてしまったかのように、兄の顔付きはそれまでのものとは掛け離れていた。
俺が間違った時は止めてくれ。
いつかの約束を思い出し、航は唾を飲み込んだ。
リュウは怪訝そうに顔を顰めたが、はっきりと答えた。
「敵ではありません。僕は貴方の味方です」
「打算は無いか?」
「一切ありませんよ。尤も、貴方の猪突猛進ぶりには一言物申したいとは思っていましたけどね」
不躾な質問に対して、リュウは堂々としていた。
湊は眩しいものを見たかのように目を細め、深く息を吐いた。風船から空気が抜けるようにそのまましゃがみ込んでしまったので、航は危うく転ぶところだった。
湊は蹲ったまま顔を上げ、泣きそうに言った。
「酷いことを言った。疑ってごめん」
「そんなことはどうでも良いことです。状況は?」
リュウの堂々とした物言いに苦く笑い、湊は立ち上がった。
彼等は本当に親しい友達なのだろう。相手の顔色を伺ったり、取り繕ったりしない。
「エマは自供した。航達はエメラルドの瞳の男に襲われて、ゾーイとホセが昏睡状態」
「犯人は」
「逃走中だってさ」
湊は答えながらポケットからリモコンみたいな小さな装置を取り出した。見覚えがある。車内の至る所へ装置を向け、盗聴器の類を探しているらしい。
検査を終えると納得したように息を吐き、運転席から後部座席の扉を開けた。何の説明も無いまま視線で促され、航は渋々と乗り込んだ。
ハイテク機器を詰め込んだスパイみたいな車だ。此処からミサイルが発射されても驚かないだろうと思った。
運転席にリュウ、助手席に湊が乗り込み、車内は密室になった。そのまま走り出しそうだったので、航は慌てて言った。
「何なんだよ。説明しろよ」
「ねえ、リュウ」
航の質問を遮って、湊が言った。
「航達が何処で襲撃されたか知ってるか」
「いいえ。場所までは」
きっぱりとリュウは答えた。
何か、嫌な予感がした。不穏な符号が手元に集まって来るのが解る。フロントミラー越しに湊と目が合った。
「どうして航は孤児院に行ったの?」
質問の意味を理解し兼ねて、航は茫然とした。
「そんなの、お前がーー」
「そいつが孤児院にいるなんて、俺は知らなかったよ」
知らなかった?
航は耳を疑った。そんな筈は無い。だって、自分達は直前まで同じ部屋の中で話し合い、行動を決めたのだ。
「関係者に会うことは知っていたよ。でもね、それが孤児院だなんて聞いた覚えも無い。精神病棟と孤児院の共通の関係者がいたなら真っ先に疑ったさ。どうして航は孤児院へ向かったの?」
手足から血の気が引いて行く。口の中がからからに乾いていた。二の句を継げなくなって、航はただ兄を見詰め返すことしか出来なかった。
「俺は指示していないし、リュウは嘘を吐いていない」
孤児院へ向かったのは、何故だ?
確かに情報はあったが、湊から直接聞いたのではなかった。
不穏な符号が手元に集まって来ている。数時間前の記憶が、ビデオの逆再生みたいに脳裏を過った。
エメラルドの瞳、銃撃、鮮血。
孤児院へ向かう車内の空気、そして、一本の電話。
「エマが言ってただろ。俺の見抜かなかった嘘が、とどめを刺すって。あれはね、告発だよ。ーー内通者がいる」
全身に稲妻のようなものが走った。
余りのショックに口も利けずにいると、リュウが車のエンジンを掛けた。
「何処へ向かいますか?」
「ゾーイとホセの搬送先へ。エメラルドの瞳の男は必ず現れる」
「……何故」
「航が此処に来たことは想定外だっただろうから」
何なんだ。
湊とリュウは、何の話をしているのだろうか。
それより、内通者って誰のことだ。ーーそんなの、一人しかいない。
貴方の見抜かなかった嘘が、貴方を殺す。
湊が見抜かなかった嘘。それは。
「俺にとって、研究室の仲間はとても大切な存在だよ。でも、他人なんだ。リュウが俺の方針を快く思っていなかったことも、ゾーイが俺の推理を疑っていたことも、ホセやライリーが何かを隠していたことも、解ってたんだ」
それでも、湊は指摘しなかった。それは何故か。
欺かれていると、不信感を持たれていると知りながら、湊は彼等を信じたのだ。それが間違っていただなんて思わないし、思いたくない。けれど、疑念の芽は瞬く間に成長し、不信感へと変貌する。
誰を、何を疑う?
航にはもう、解らなかった。
湊が言った。
「答え合わせをしようか、航」
湊は息を漏らすようにそっと笑った。
航にはそれが、泣いているように見えた。
「航達が研究室を出た時、孤児院の情報は無かった。航はどうして孤児院に行ったの?」
どうしてーー。
今度は、自分が告発する番が来たのだ。
誰かの首に縄を掛けるような酷い不快感だった。だが、此処で黙っても、嘘を吐いても、何の意味も無いのだ。
それは、電話だった。
研究室を出てからすぐに、孤児院へ向かうように指示された。航は当然、それが全員に共有されていると思っていた。
だって、嘘を吐く理由が無い。
ましてや、彼が裏切る意味も。
航は深呼吸を一つして、その名を告げた。
湊もリュウも驚かなかった。この答えを予期していたかのようにさえ見えた。
「やるべきことがある。エメラルドの瞳の男の居所を突き止めること、ルーカス氏の屋敷の執事さんに会うこと、あいつと話すこと」
「エメラルドの瞳の男は、FBIが追っています。僕等に出来ることはありません。エマが自供した以上、執事と会うのも後回しで良いでしょう」
「……あいつと話すなら直接が良い。大学に戻ろう」
淀みなく進む二人の会話を横に、航は愕然とした。彼等はどうしてこんなにも平然としていられるのだろう。
彼には何度も助けられた。信頼していた筈だ。ーーだって、仲間じゃないか!
「内通者が裏切り者とは限らないよ」
雲間から日差しが溢れるように、湊が笑った。
それはきっと希望的観測だった。湊の空元気を見透かすように、リュウが咎める。
「最悪の事態は想定していますか」
「してるよ」
「土壇場で情が湧くなんて止めて下さいね」
湊は薄く笑った。
裏切られる覚悟をしながら、仲間を信じていたのだろうか。そうだとしたら、湊らしかぬ非生産的な行為だ。
「航は警察署に残れ。黒薙さんに伝えておくから」
「命令すんじゃねぇ。こんなもん擦り傷だよ」
「逆の立場だったなら、お前も同じことを言った筈だ」
突き放すような口調だった。
振り向いた湊の眼差しは底の見えない湖のように透き通り、一切の情けも容赦も存在していない。
解っている。湊の言う通りだった。
航は拳を握った。
何か出来ることは無いのか。湊は肋骨に罅が入っていてもパフォーマンスを落とさなかった。自分はどうだ。何も出来ず、誰かに守ってもらうことしか出来ないのか。
その時、一つの考えが閃いた。
優先順位は低いが、そのままにしておけない一つの問題がある。自分にはそれが出来るんじゃないか。
「……解った。俺は警察署に残る」
「うん」
「警察署に残って、あの執事に会う」
湊とリュウが弾かれたように振り向く。
解っている。自分は湊とは違う。他人の嘘を見抜くことは出来ないし、相手に口を割らせる程の技術も無い。けれど、何もしないではいられない。それこそ、湊にだって解る筈だ。
湊は時刻を確認するように携帯電話を見遣り、頷いた。
「任せた」
きっと、言いたいことは沢山あった。だが、互いの立場を考えた時、出て来る言葉はそれしかなかった。
どちらとも無く腕を上げ、拳を当てる。最早言葉に意味は無い。航はドアを開け、アスファルトに足を下ろした。




