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⑺仮面劇

 取調室から出た時、息苦しい密室の中であるにも関わらず、春の風が吹き抜けるかのような爽快感に包まれた。それは自分が酸欠状態に陥っていたこととは関係が無いだろう。不思議と体が軽かった。


 気難しい顔で此方を見遣る刑事達を押し退けて、湊は走り出した。見えない糸で繋がれているみたいに、行き先に迷いは無かった。


 署員の行き交う廊下を駆け抜けて裏口へ向かう。

 扉を開けた時、救急車が一台停まっていることに気付いた。葵君が呆れたような顔付きで此方を見ると、顎をしゃくった。すると、救急車の影からひょっこりと弟が顔を覗かせた。




「ーー航!」




 辺り一帯の人が振り返る。自分はこんなに大きな声が出せたらしい。自分自身驚きつつ、湊は救急隊員を掻き分けて弟の元へ向かった。

 航は担架の上に座っていた。右の大腿部にはきつく包帯が巻かれ、血が滲んでいる。肩口は血を被ったように真っ赤で、失血の為か顔色が悪く、そのまま倒れてしまいそうだった。




「なんで、病院に行かなかったんだ!」

「うるせぇ」




 航の拳が湊の胸を叩いた。

 普段からは考えられないくらい弱々しい力だった。




「……どうせ、てめぇが腑抜けた面してんだろうと思ってよ」




 猫のような目を眇め、航は皮肉っぽく笑う。湊は呆然としながらも、釣られるようにして苦笑した。

 双子のシンパシーだろうか。この際、なんでも良い。航が自分の窮地を察して駆け付けてくれたのだ。今はそれだけで良い。


 湊は救急車の上に乗り上げて、航の患部を見遣った。

 応急処置は成されているが、顔色が良くない。痛み止めの投与がされているのかも知れない。銃弾は摘出されているのか。完治までどのくらい掛かるんだろう。バスケはまた出来るのか。


 そんなことを考えていたら、航に思い切りデコピンされた。




「俺のことは放っとけ。それより、今の状況を教えろ」




 湊は口元を締め、頷いた。




「エマと話したよ。……あの子はESPの能力者だ。相手の思考を読み、操る。そうやってルーカス氏を自殺させた」

「証拠は?」

「無い」

「じゃあ、自供させるしかねぇな……」




 航は唸りながら俯いた。らしくもなくぶつぶつと独り言を零しながら、ああでもないこうでもないと自問自答を繰り返している。


 その姿を見ていると、胸の内が奇妙に温かくなる。


 証拠も無いのにーー。

 航は、当たり前みたいに信じてくれる。


 湊は拳を握った。この信頼に応えたい。心からそう思った。考え込む航の肩を掴み、覗き込むようにしてその瞳をじっと見詰めた。




「自供させる為に、あの子の心を揺さぶるカードが欲しい」




 航は黙り込んでいた。このまま深い泥沼の中に沈み込んでしまいそうに見えて、湊は振り払うように尋ねた。




「そっちは、何があったの?」

「……ああ。アメリアの孤児院にいたスタッフが、精神病棟で働いてたって聞いて、会いに行った」




 孤児院?

 なんだその不気味な因果は。

 まるで、アメリアに付き従う影みたいな存在じゃないか。孤児院と精神病棟を繋ぐ重要人物を自分達が見落としていたのか?




「俺達が前に会った男だ。そいつが受付にいて……、ゾーイとホセがその場で撃たれた」




 脈絡の無い話だったが、湊は黙って耳を傾けた。

 航の眉間に皺が寄る。嫌なことを思い出させている。でも、これを聞かないと前に進めない。




「何で撃って来たんだ」

「知らねぇよ。今日は湊はいないのかって言って、いきなりゾーイとホセを撃って、……遊ぼうよって俺を追い掛けて来た」




 ホラーゲームみたいだ。湊は首を捻った。

 奴の狙いが見えないのだ。追い詰められた人間は何を仕出かすか解らないけれど、その言動から察するに、奴は焦っていない。何故か。航は動けなかったのだ。きっとそれは、遊びと称した悪意の無い殺意だったのだろう。




「孤児院の人は皆殺されていた。近隣の人も」

「口封じか、戯れか……。犯人はどうして逃げなかったんだろう」

「逃げる前に俺達が到着したのかもな」

「……逆かもよ」




 航が睨むように首を傾ける。相変わらず、目付きの悪い弟だ。




「待っていたんじゃないかな」

「誰を?」




 湊には答えられなかった。

 解らないのだ。情報が足りない。そして、足りないものは補うしかない。




「犯人のことで何か気付いたことは?」

「お前も一度会ってるだろ? あの緑色の目をした若い男だよ」




 頭の中に浮かび上がる。

 孤児院を初めて訪れた時に応対してくれた若い男のスタッフ。緑色の瞳が印象的だった。

 彼は嘘を吐いていなかった。ーーしかし、その時に此方からは偽る必要のある問いを投げ掛けていない。しかも、其処に悪意が無ければ気付けなかっただろう。




「痛みを知覚してないみたいだった」




 湊は眉を跳ねさせた。

 痛みを知覚しない。これまで何度も聞いて来た言葉だ。クラブの殺人鬼も、病院で銃撃戦になった医者もそうだった。

 極度の興奮状態では痛みを知覚出来なくなることがある。でも、ただの偶然にしては、狭域で頻発し過ぎている。




「薬物かな」




 湊が言うと、航が笑った。




「超能力って言われるよりは信じられるな」




 航の竦められた肩は真っ赤だった。

 そういえば、撃たれたのは右の大腿部である筈なのに、これは何だ?


 湊の視線に気付いたらしく、航が答えた。




「俺が殺されそうなところに葵君が駆け付けて、犯人を撃ったんだ。これは犯人の返り血」




 葵君、ヒーローみたいだったなあ。

 航が呑気に言う。湊はその肩を掴んだ。




「これは犯人の血なんだね?」

「ああ、そうだよ。撃たれたのに痛みを感じてないみたいだったから、止められなかったけどな」




 そんなことはどうでも良いのだ。

 湊は光明が差し込むのが解った。自然と口元に笑みが浮かぶ。病院へ搬送されずに真っ直ぐ此処へ来てくれて良かった。




「DNA鑑定に掛けよう」

「……! ああ!」

「俺には確信がある。でも、確証が無い。だからーー」




 湊の言葉を遮って、航が言った。




「てめぇの常套手段は解り切ってんだよ」




 言葉にしなくても伝わること。

 それがこんなにも心地良い。




「エマを待たせてる。戻らなきゃいけない」

「時間は無いぜ。黒幕に逃げられる」

「解ってる」

「後手に回るのは、もう沢山だ」




 その男こそが、全ての黒幕だ。

 エマを操ってルーカス氏を死なせ、自分達に毒を盛った。SLCを通して自分達を実験台にしようとして、ゾーイとホセを銃撃して重傷を負わせた。


 航は後ろを振り返った。

 葵君が苦々しい顔で立ち尽くしている。その胸倉に血塗れの上着を押し付けて言った。




「俺は答えを見届けなきゃならねぇ。だから、葵君、頼むよ」

「……俺を顎で使うつもりかよ」

「違ぇ。敵が何処にいて、誰に息が掛かっているのか解らねぇ。湊の大学の研究室で鑑定しても、それは公の証拠にはならねぇだろ」




 結果を出すにも肩書きや立場が必要だ。

 FBI捜査官で、ルーカス氏の事件に関わって来た葵君ならば信頼出来るし、公式な証拠として成立する。


 葵君は渋々と上着を受け取ると、丸めて脇に抱えた。

 周囲の警官に指示を出しながら、葵君がぽつりと言った。




「お前等って、何で双子だったんだろうな」




 兄弟でも、幼馴染でも、友達でもなく。

 遥か昔の記憶が揺さぶられ、湊は笑って答えた。




「二人なら最強だからだよ」




 航が呆れたように肩を落とすけれど、湊は腹の底から込み上げる可笑しさを堪え切れなかった。

 昔からお化けも幽霊も怖くなかった。それはさ、どんなに暗く冷たい道でも、航なら一緒に歩いてくれるって知っているからなんだ。


 航がいれば、俺は無敵なんだよ。









 13.延長戦

 ⑺仮面劇









 取調室に戻った時、エマはそれまでと寸分違わぬ姿勢を保っていた。シュレーディンガーの猫を彷彿とさせる。観測することで事象は変化する。


 紅い瞳の前に座る。エマが瞬きをすると、豊かな睫毛の触れ合う音が聞こえるようだった。


 遠くに響く耳鳴りが、まるで両親の母国で見た花火の轟きみたいだった。夜空に花咲いた金色の錦菊を今も鮮明に覚えている。




「さっきと違う顔をしてるね」




 エマが言った。

 そうだろう。湊は笑った。


 彼女は武装していて、周囲は地雷原だと思っていたのだ。だから、此方は隙を見せてはならないと思っていたし、負けてはいけないと思った。でも、違うのだ。彼女が幾ら恐ろしい能力を持っていても、関係が無かった。




「君は俺の敵じゃない」




 エマは虚を突かれたかのように目を丸めた。

 湊は椅子に凭れ掛かり、ゆっくりと呼吸した。




「……命の話をしてあげる」




 エマは不思議そうに首を傾げた。

 あどけない子供のように、無垢な赤子のように。


 この子はサイコパスだ。他者の感情を慮ったり、共感したりする能力が無い。けれど、それは生まれ育った環境に起因し、改善することが出来る。


 根拠のある理屈は無い。ただの希望的観測だ。この子を救うことは出来なくても、変えることは出来るかも知れない。最悪の結末を回避する方法があるかも知れない。それなら、俺は塵一つの後悔も残らないよう、自分に出来る最善を尽くす。


 エマは興が削がれたとばかりに身を引いた。




「命なら知ってるわ。心臓が動いていること、生命活動の源」




 うん。

 湊は頷いた。




「あとは?」




 エマは湊の言葉をなぞって問い返した。




「あと?」

「例えば、ご飯が美味しいこと。知識が増えること。誰かが大切だと思えること。全部、生きる力なんだよ」




 興味も無さそうに、エマは相槌を打った。


 解らないだろう。

 戦争を知らない自分達が本当の飢餓や貧困を理解出来ないように、檻の中で生かされて来た彼女には、生きるということが解らない。




「それって、死んだら出来ないの?」




 死後の世界の有無ではない。

 この子は死ぬということが解らないのだ。アメリアが亡くなったのは病院で、ルーカス氏も直接手を下した訳では無い。




「さあね。俺は死んだことがないから」




 エマが次に何を問うのか、手に取るように解る。彼女は予定調和のように尋ねた。




「どうして、人を殺してはいけないの?」




 湊はその答えを知っていた。

 父が失踪した時、オリビアが死んだ時、リリーが不治の病に侵されていた時。


 思考に靄が掛かっているように凡ゆることが受け入れられず、絶えず進む時に置いて行かれるように、足掻いても足掻いても這い上がれない泥沼の中にいるみたいに。


 何を食べても味がしなくて、寝ているのか起きているのかも解らなくて、誰に縋っても祈っても光が見えない。地中深くの窖に押し込まれて呼吸が消えて行くような遣る瀬無い絶望を、湊は知っている。




「失われた命は戻らないからさ。時間が後退しないようにね」

「ふうん」




 この子は自分達の常識の通じる相手じゃない。

 それでも、伝われば良い。勝つ為ではなく、戦いを避ける為に。




「……一年前、俺は大切な人を亡くした」




 この子に伝えるべきは何か。

 命の大切さ、倫理観、道徳。ーーそんなものは、糞食らえだ。航ならば出来たかも知れないけれど、自分は違う。


 湊は目を伏せた。

 視線、呼吸、睫毛の震えまで全てを支配し、空間を掌握する。




「死んでしまったら、その人が何を考え、何を願い、何を大切にして来たのか解らないんだ。想像は出来ても答え合わせは出来ない。もう二度と、永遠に」




 世界中の誰がどんなに頑張っても時は戻らないし、死者は生き返らない。失われた真実を手にすることも、笑顔を見ることも、声を聞くことも出来ない。やがて思い出は風化し、忘れて行く。


 それがどんなに遣る瀬無く、歯痒く、悲しいのか。

 この子に解るだろうか。


 助けを求める声は聞こえていたのに、伸ばされた手は掴んでいた筈なのに、指の隙間から砂が零れ落ちるようにして消えて行くあの虚しさが、ーーお前に解るか!




「俺はもう二度とこんな思いはしたくないし、誰にも味わわせたくない」




 湊は顔を上げた。




「俺は目の前で死にそうな人がいたら助けるし、殺されそうな人がいるなら守る。俺の行為に理由が必要なら、君が勝手に考えてくれ」




 自分に見えているものを他者と共有することが出来ないように、エマに伝えることは難しい。出来ないことをやろうとするよりも、出来ることを精一杯やる。




「君を操っている人がいる。その人は俺の大切な人を傷付けた。だから、捕まえたい」

「捕まえて、どうしたいの?」

「法の下で罰を受けて欲しい」

「湊は」




 エマは微笑んだ。それは湊が初めて見る彼女の嘘偽りの無い本当の笑みだった。

 胸が潰れるような儚く悲しい微笑みで、エマは静かに問い掛ける。




「湊は、法が平等だと思うの?」

「俺は法を絶対視していない。医者が風邪を引くように、法も過ちを犯すだろう。だけど、罪には罰が下ると信じてる」

「何故?」

「信じることに理由はいらないんだ」




 変なの。

 エマは声を立てて笑った。




「変じゃないよ。人は見たいように見て、信じたいように信じる。……君もそうだろう?」

「……?」




 さあ、決着を付けよう。

 湊は机の下でこぶしを握りながら、呼吸を落ち着けた。

 目を閉じる。頭の中で描くイメージは詳細に、現実のものと変わらないくらいリアルに。言葉にした時、それは実体を伴って出現する。




「ルーカス氏が亡くなる前、お客さんが来たね。……男の人だ。身長は航より少し高くて、痩せ型。笑った顔がアメリアさんに似ていた。そして」




 耳を澄ませる。

 取調室の扉の向こうから、微かに足音が聞こえる。片足を引き摺るようなそれは、弟の足音だ。


 エマに表情は無かった。

 幾重にも重ねられた笑顔の仮面が音を立てて崩れ落ちるのが見えるようだった。


 名探偵が犯人の名を告げるように、厳かに、堂々と、勿体振るように湊は言った。




「エメラルドの瞳」




 同時に、扉が開いた。

 希望の使者は、汗だく血塗れの薄汚い格好で、けれど、精悍に笑っていた。


 大腿部の包帯に血が滲んでいる。傷口が開いているんじゃないか。湊が腰を浮かせると、航が制した。




「エメラルドの瞳の男のDNAを鑑定したぞ。俺はあいつの返り血をたっぷり浴びてたからな」




 湊はエマを凝視した。表情の変化、息遣い、仕草の一つさえも見逃さない。()()が現れる時は一瞬だ。それを流せば機会は失われ、真実は永遠に秘匿される。


 航が言った。




「エメラルドの瞳の男は、お前の実父だった」




 それは死刑宣告のように重く静かに響いた。

 湊は拳を握った。畳み掛けるしかない。




「君に薬を渡したのは、お父さんだね?」




 否定を許さない強い口調で湊は問い質した。

 もう引き返せない。何故か。ーー(ブラフ)だからだ。


 DNA鑑定はこんな短時間で結果は出ない。親子関係を調査するにはエマのDNAが必要であるし、任意による事情聴取を受けているエマを勝手に検査したらそれは違法捜査だ。証拠にはならない。


 看破されても構わなかった。彼女の言い逃れを論破する準備も、偽の証拠を捏造する決意もある。あとは千尋の谷へ身を投げる覚悟を決めるだけだ。


 独りじゃないから大丈夫。


 航が検査結果を記した紙を眺めながら言った。




「エメラルドの瞳の男ーーマーティンは偽名だ。本名も年齢も国籍も解らない。解るのは、そいつがお前の父親で、俺や湊の仲間を撃ったってこと」

「毒物の入手には、あの執事さんが関与している」




 あの執事は重大な何かを知っている。

 断言出来るけれど、湊はまだ彼に会っていないのだ。だから、本当のことは解らない。こんな安っぽいハッタリは普段ならしない。でも、今なら有効だ。

 今のエマは外界からの情報を遮断されている。彼女を閉じ込め守る檻は壊されたのだ。

 与えられた情報の真偽を確かめるだけの知識を彼女は持っていない。


 この場でこの子が信じられる事実は、一つだけだ。




「俺には他人の嘘が解る」




 エマの顔から表情が抜け落ちる。彼女の仮面が剥がれ、全ての推理は証明される。


 自分には他人の嘘が解る。ーーけれど、自分が真実を話すとは限らない。其処がこの子の盲点だ。


 丁寧に種を蒔いて来たのだ。

 彼女への敵意、猜疑、誠実な態度。自分という虚構の人間を作り上げた。彼女のバイアスは自力では壊せない。




「……私の負けよ」




 エマが言った。その声は、聞いたことの無い筈のアメリアの声に聞こえた。


 航が表情を和らげそうになるのを机の下で小突き、湊はエマに向き直った。まだ終わりじゃない。




「君のお父さんの話を聞かせてくれ」

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