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⑸懇願

「木材の発酵による酸化現象かも知れない」




 丸焦げの部屋の中を観察して、湊は小難しい顔をしていた。航はシャーロック・ホームズのようにしゃがみ込む背中を眺めていた。残念ながら、ワトソンのように追求する体力は無かった。


 大量の有機物が発酵すると、内部の温度が上昇する。最終的には酸化反応が起こり、自然発火する。

 湊は目の前の子供部屋が焼けた原因に辻褄合わせのような理屈を付けた。


 到底納得出来る説明では無い。

 発火の原因が湊の言う通りだとしても、鎮火の理由が全く解らない。湊の撒いた炭酸水素ナトリウムの量では数学的な不都合が生じる。




「霊の仕業よ」




 ソフィアの主張は依然として変わりない。

 航としては、もうどちらでも良かった。兎に角、この屋敷から出たい。湊と合流出来た以上、この場所に留まる理由が一つも無かった。


 湊は首を捻った。




「確証が無いから断定は出来ない」

「つまり?」

「解らない」




 あっさりと湊が言った。

 ぐだぐだ言い訳をしないところは潔い。ソフィアも呆れたように溜息を吐いて、それ以上は何も言わなかった。


 おんぼろのインナーテラスで車座になる。湊は真ん中に地図を広げた。地下を流れる二つの水脈の合流地点がこの屋敷の真下にあることがどうにも引っ掛かるらしい。


 三人で情報を共有する。湊が消失してからの経緯は航が話した。余りにも現実感が無いので、自分が馬鹿になってしまったのではないかと思った。


 湊は所有者から聞いた情報を開示した。


 この屋敷の歴史は思うより浅く、建てられたのは十五年程前のことらしい。現在の所有者がオークションで土地を競り落として屋敷を建てたが、三年前に家族の疾病や転勤等の理由が重なって、今は空き家となっている。

 曰く付きの物件でも無い。本当にただの空き家なのだ。所有者の話では居住時に心霊現象に見舞われたことは一度も無く、近隣で幽霊屋敷と噂されていることに酷く憤慨していたくらいだった。


 航は、心霊現象には何らかの悲劇が付き物だと思っていた。それこそ、この場所で無念な最後を遂げた人間がいて、生者を恨んでいるのではないかとすら考えていた。しかし、これでは心霊的な解釈の余地は無い。


 ソフィアは顔色を変えない。




「霊の仕業よ。この屋敷を支配する女の霊が仲間を集めている」

「霊と交信したの?」

「いいえ。でも、この家は悍ましい女の悲鳴と子供の泣き声で溢れているわ。ーー航には解るでしょう?」




 航は唸った。

 正直言って、解らないのだ。科学では説明の付かない異常な現象が起きている。けれど、霊の仕業と判断するには情報が足りない。僅差だが、湊の辻褄合わせの屁理屈の方が真実味がある。




「何が起きてるのかは解らねぇ。でも、何か良くないことが起きてるのは解る。だから、一刻も早く此処から出よう」




 湊は頷いた。しかし、その視線は残された北側の部屋に向かっていた。此処まで来て何の成果も無く帰れない。

 だって、あと少しなのだ。数メートル進めば心霊現象なのか自然現象なのか判明するかも知れない。真理を追求することを生業とする科学者である湊がむざむざ引き下がる筈も無い。


 ソフィアが言った。




「霊を刺激するのは良くないわ。私達は準備が足りないまま此処まで来てしまった。これ以上は霊に対する侮辱よ。危険だわ」

「……でも」




 湊は食い下がる。




「真理を前に踵を返しては、科学者の名折れだ」




 航は苦い思いが込み上げるのを抑えられなかった。

 湊がそう言うことは解っていた。仕方が無い。搦め手で攻めるしかない。




「湊、これを見ろ」




 航はハンカチを巻いた自分の腕を見せた。大した傷ではないが、応急手当ての為に重傷に見える。

 ソフィアの足首には鬱血した小さな手形が残っている。所謂、霊障だ。湊の顳顬にも切傷がある。皆、何らかの被害を受けていた。




「科学者の探究心は俺も解るが、勇敢と無謀は違ぇ。諦めろって言ってんじゃねぇぞ」

「うん」

「俺達は準備が足りなかった。出直す必要がある。一度出るぞ。異論は認めねぇ」

「……解った」




 渋々と湊が答えた。

 航が立ち上がると、ソフィア、湊も続いた。三人で一列になって玄関を目指した。

 床の抜けた階段に辿り着く。先程のことを思い出すと、中々足を踏み出せなかった。またあの白い腕が伸びて来るような気がした。


 航が躊躇していると、湊が前へ進み出た。

 しゃがみ込んで床の抜けた穴をじっと見詰めているので、懐中電灯で照らしてやる。積もった埃が粉雪のように舞っている。

 耳が痛くなる程の沈黙が流れた。湊は目を閉じて、耳を欹てているようだった。航も真似をして耳を澄ました。


 ああああーー……。

 ああーー……。


 真っ黒な穴の底からあの赤子の泣き声が木霊した。

 ソフィアの短い悲鳴と共に、航は息を呑んだ。まるで、地獄の底から響いているようだった。

 湊は目を開けて、懐中電灯の光を細めた。


 闇の底に光が反射する。

 湊が言った。




「水が流れてる」




 隣に並んで目を凝らすと、確かに地下深くには水が流れているようだった。床を踏み外した時に転落しなくて良かった。もしもこの穴の中に落ちていたらと思うと背筋が凍る。

 湊は階段を観察し、怪訝そうに言った。




「腐食が激しい。危険だ」

「じゃあ、他にどうすんだ。窓から飛び降りるか?」




 幸い、此処は二階だ。上手くすれば無事に着地出来る。

 湊は掌を床に置いて、静かに言った。




「この家、最初より傾いてないか?」




 航も同じように掌を床に置いてみるが、解らない。平衡感覚も時間の経過も曖昧だった。その時になって自分が冷静でないことに思い至った。


 ああああーー……。

 ああーー……。


 糸が張り詰めるような緊張感が満ちて行く。生命の危機を報せる警鐘が鳴っている。

 駄目だ。此処は駄目だ。早く脱出しなければ。




「俺が安全なルートを取る。航、先頭を歩いて」

「ああ」




 航が頷いた瞬間だった。

 廊下の奥が独りでに軋む。まるで、誰かが歩いて来るみたいに。


 ぎし……、ぎしぎし。


 何かが近付いて来る。

 呼吸を失いそうな緊迫感が押し寄せて、航の思考は停止していた。廊下の奥は闇に染まり、何も見えない。

 だが、確実に何かが近付いている。




「来た……」




 絶望に染まった声で、ソフィアが呟いた。

 航は動転していた。逃げなければ。頭の中はそれだけだった。


 ぎしぎし……ぎしぎし……ぎし……。


 頭がどうにかなりそうだった。

 堪らず足を踏み出す。だが、湊が腕を取った。




「大丈夫」




 そう言って、湊は懐中電灯の光を廊下の奥へ向けた。

 白い光線が廊下を照らす。其処には褪せた漆喰の壁があるだけだ。


 ぎし……ぎしぎし……。


 それでも、確かに軋む音が聞こえる。

 湊は航とソフィアの手を繋ぎ、力強く言った。




「絶対に大丈夫だから。俺が必ず皆を外まで連れ出してみせる」

「湊……」

「この家は地下からの湿気で木材が腐食し、傾いてる。さっきから聞こえるのは風の音だ」




 怖がらないで。

 湊が蕩けるような微笑みを浮かべた。それを見ると胸の中にぽっと光が灯ったような心地になる。

 繋いだ掌は温かかった。其処から勇気が送られて来るようだ。航はこくりと頷いた。








 1.幽霊屋敷

 ⑸懇願







 階段を降りることは諦めて、建物の東側にあるテラスを目指した。外周を調べた時、近くに飛び移れそうな大きな木があったらしい。

 湊の言った通り、床は所々腐食が進んでいた。安易に進めば凄まじい地下水脈へ転落し、二度と戻っては来られないだろう。


 この辺りは冬の豪雪と雪解けのせいで地盤が緩んでいるらしい。湊が気にしている二つの地下水脈も原因の一つと思われる。


 航は一歩一歩を慎重に進めた。

 一点に体重を掛けず、身体中に神経を巡らせ、少しでも安全なルートを選ぶ。僅か数メートルを進むだけで酷い疲労を感じた。


 テラスへ行くには、あの北側の部屋を通らなければならない。航は息を殺した。目的のテラスは目と鼻の先だった。大きな窓は埃がこびり付き、桟は錆び付いている。地下からの湿気のせいだろう。


 ソフィアが自分の側まで到着したところで、航は窓枠に手を掛けた。両足に力を入れると床が抜けるかも知れない。


 割った方が早いか。

 修理代を請求されるかも知れないが、命に比べたら安いものだ。

 何か硬いものが欲しい。航はポケットの中からバイクの鍵を取り出して、窓硝子の中央に狙いを定めた。深呼吸し、大きく振り被る。


 尖った鍵が窓硝子に衝突し、亀裂が走る。

 もう一撃。航がその手を振り下ろした瞬間、扉を蹴破るような凄まじい音が鳴り響いた。

 ソフィアの悲鳴と割れた硝子が落下する音が重なって、何が起きたのか全く解らなかった。


 テラスから月明かりが差し込んでいる。

 薄闇の中、半開きの扉が虚しく軋んでいた。


 湊がいない。

 考えるより早く体が動いていた。安全なルートを確保する余裕すら無く、幾つか床を踏み抜いた。それでも、一刻も早く湊の元へ行かなければならないと理解していた。


 半開きの扉を押し開ける。そして、航は絶句した。


 懐中電灯が転がっている。雑貨の散乱する其処は寝室なのだろう。天蓋付きベッドが中央にあった。


 湊は扉の前で尻餅を着いていた。

 血相を変えて戻って来た航を見ると、照れ臭そうに笑った。




「ごめんごめん。何か解らないけど、急に引っ張られて……」




 湊の言葉は耳に入らなかった。

 懐中電灯の光も、天蓋付きベッドも、尻餅を着く湊も、何も目に入らない。


 航の目に映ったのは、至近距離で湊を見下ろす白い女だった。長い黒髪は垂直に流れ落ち、隙間から見える双眸は血走っている。青い唇は悔しげに結ばれ、その腹部からは真っ赤な血が花のように広がっている。


 女は湊を見ていた。湊だけを。




「湊!」




 航が叫ぶと、湊はへらりと笑った。




「大丈夫。何とも無いよ」




 何とも無い訳あるか!

 女は蛇蝎の如く湊を見下ろしている。この状況で笑っていられるとは、どういう精神構造をしているのだ!


 だが、其処で思い出す。

 湊は見えないし、聞こえないし、感じないのだ。例えば目の前で女の霊が鬼の形相で睨み下ろしていても、解らない。


 部屋の中は異様に冷たかった。まるで、冷蔵庫の中にいるみたいだ。


 湊はゆっくりと笑顔を消した。

 そして、淡白な声で問い掛けた。




「……何かいるの?」




 その瞬間、女が手を上げた。

 懐中電灯の光を浴びて、刃が浮かび上がる。それは錆び付いた鉈だった。

 航は手を伸ばした。湊には見えていない。避けようも無い。届け、届け、届けーー!




「やめなさい」




 冷たく澄んだ声がした。

 航の後ろにはソフィアがいた。灰色の瞳は鉈を振り上げる女を捉えて離さない。




「その人には何も聞こえないわ」




 ソフィアが言うと、女の腕は奇妙な形で停止していた。息の詰まりそうな沈黙の中で、ソフィアが部屋へ足を踏み入れる。


 女はソフィアを見ていた。

 血走った目の下には深い隈がある。頬は痩けて、手足は骨と皮だけみたいだ。ボロ布を継ぎ合わせたような白いワンピース、腹部の血痕が痛々しい。


 ソフィアは湊を背中に庇い、女と対峙する。




「私なら、貴方の声が聞こえるわ」




 ソフィアの口から、綿のような白い息が吐き出される。女は手にした鉈を落とした。其処で漸く、湊は何が起こっているのか察したようだった。


 女は首が折れそうな程に項垂れ、ぽつりと言った。

 消え入りそうな小さな声だった。


 見付けて……、私の……。


 それだけを残して、女は幻のように消えてしまった。

 何だったのかは、解らない。だが、確かに其処には何かがいたのだ。

 床に突き刺さった鉈を見詰め、航は言葉を失くしていた。

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