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⑷憶測の迷宮

 虫の羽搏きに似た微かな音が鳴り響く。湊はポケットから携帯電話を取り出し、ディスプレイを確認すると微笑んだ。


 葵君からの着信だった。

 それがこの長い悪夢を覚ます朝陽となることを祈りながら、航は通話の終了を待った。


 いつから、何処から、誰の掌で踊らされていたのだろうか。不信感が積乱雲のようにむくむくと膨らんで、何もかもが信じられなくなってしまう。

 神妙な顔付きで相槌を打つ湊を他所に、ライリーが真顔で言った。




「エマの背後にいるのは、アメリアの関係者だろうな。他に登場人物がいねぇ」




 航は頷いた。エマの世界はとても狭いのだ。異常な愛情を与える父親、煮え湯を浴びせた病んだ母親、ロボットのような使用人。閉じた世界の中で、誰が彼女に影響を与えたのだろうか。


 窓辺に寄り掛かっていたホセは、湊が机に投げ出した書類の束を手に取った。




「あからさま過ぎるね。まるで、エマを逮捕してくれと言わんばかりじゃないか」




 湊は、エマはサイコパスだと言った。

 先天的な反社会的人格障害。治療という言葉すら適切ではない。けれど、航は同情の念を禁じ得なかった。


 環境が彼女をそうさせた。元々賢い子供であったし、然るべき教育と治療を受けさせることで或る程度の社会的規則は理解出来るだろう。だから、あの屋敷から出さなければならない。


 あの子を殺人者に仕立て上げた何者かがいる。

 死者を裁く法は無いけれど、生きているものならば、裁ける。




「天涯孤独だったアメリアの関係者なんて、片手で足りる。彼女は育った施設から売られたんだろ? 誰が彼女の為に復讐しようとするんだ?」




 ライリーが首を捻る。

 その時、湊が口を挟んだ。




「復讐なのかな」




 室内の視線は湊へ集まった。

 通話は終わったらしかった。穴が開く程に見詰められながら、湊は携帯電話をポケットに押し込んだ。




「FBIがルーカス氏の屋敷を捜査することになったって。エマや執事さん達も任意で事情聴取するそうだよ」

「そうか……」

「うん。俺もこれから行って来る」

「……何故?」




 リュウが怪訝そうに言った。

 湊は軽薄に笑って答えた。




「エマが事情聴取の立会いに、俺を指名している」




 それこそ、何故、だ。

 エマと湊を繋ぐ線は無い。責任も、義理すらも無いのだ。




「エマが裁かれても、真実には届かない。俺が此処で立ち向かわなければ、真実は永遠に秘匿されるだろう」

「……リスクは?」




 苦い顔でリュウが問い掛ける。

 湊は肩を竦めた。




「リスクはあるよ。でも」




 濃褐色の瞳が、真っ直ぐに射抜く。航は目を見張った。兄の双眸が何かを強く訴え掛けている。




「でも、一人じゃない」




 だから、大丈夫。

 そんなことを言って、湊は笑った。







 13.延長戦

 ⑷憶測の迷宮







 何の根拠も無いのに、湊が笑っていると何故だか大丈夫だろうと思える。

 室内灯の煌々とした明かりに照らされながら、一同は返す言葉を持たなかった。


 暫しの生温い沈黙の後、湊は困ったような顔付きで俯いた。




「俺には復讐だと思えないんだ」

「じゃあ、何だって言うの?」




 ゾーイが鋭い口調で咎める。

 湊は小難しい顔をして腕を組んだ。説明の言葉を探しているらしい。口の達者な湊が言い淀むということは、それは根拠の無い感覚的なものなのだろう。航が促すと、湊は一度頷いて口を開いた。




「実験じゃないかな」

「実験?」

「うん」




 湊は肯定した。




「子供が蟻の巣穴に水を流し込むように、草木の新芽を摘むように、全部、好奇心によって行われている。……多分、あのクラブの殺人鬼も」




 正しく、悪意のない殺意だ。




「その好奇心は何に向かっていると考えているんですか? まさか、自分?」




 リュウが言う。その口調は揶揄するようでありながらも、眇められた目は欠片も笑っていなかった。




「ターゲットは誰だと? 貴方まで、アンカー理論に固執するのですか?」

「アンカー理論じゃない。俺は因果律を信じているだけだ。凡ゆる物事には原因が存在している」

「……何の因果ですか?」




 湊は答えなかった。

 痛い程の沈黙の中、航は湊の黙秘の意味を考えた。


 この事件は、エマというサイコパスの少女が引き起こした純粋な異常犯罪ではない。それを裏側から操る何者かがいる。


 葵君がソフィアを連れて来るまで、自分達は事件に何の因果も無かった筈だ。恐らく、自分達が巻き込まれた起点はオリビアへ向けた手紙だろう。其処で何者かに目を付けられたのだ。


 SLCとルーカス氏は人造的な超能力者に執心していた。其処にあの手紙が届き、彼等は自分に興味を持った。SLCは自分の過去を調べ、アーロン助教授とのディスカッションを知っていた。


 SLCなのか?

 でも、教主であるアンバーは逮捕されて、組織は解体に向かっている。何者かがエマを自分達へ嗾ける理由が無い……。


 暗い迷路の中を彷徨っている心地だった。新しい道を見付けたと思った時には袋小路で、引き返しても道は無い。手にした松明はやがて燃え尽き、辺りは完全なる闇に包まれる。


 航は両手で頬を張った。

 落ち着け。事態は後退している訳でも無ければ、悪化している訳でもない。間違いなく前進している筈だ。例え道を誤ったとしても、諦めない限り終わりじゃない。


 エマが産まれたのは九年前。それから三年後、軟禁されていたアメリアは精神を病んでエマに煮え湯を浴びせ、更に三年後、死んでいる。


 やはり、精神病棟の記録を調べるべきだ。他人の介入する余地はそれしかない。


 当時の自分を振り返ろうとして、それが酷く困難であることに気付く。思えば、父が失踪したのは七年前。その頃の自分達に余裕は無かった。


 何故だろう。嫌な感じがする。トラウマのせいだろうか。精神病棟……。




「超能力が身体機能である以上、遺伝する……。ならば……君の遺伝子にはどれ程の価値があるだろう……」




 俯いた湊が呟く。

 それはSLCの教主、アンバーの言葉だった。




「どんな時も諦めないヒーローの息子……その遺伝子を有効活用してみせる……」




 目の前でリュウが怪訝そうに見ている。

 湊ははっとしたように顔を上げた。その瞬間、航とばちりと視線が合った。互いに言葉も無く頷き合う。


 真っ暗だった世界に一筋の光が差し込んだかのようだった。見付からなかった迷路の出口が示されている。


 ゾーイは眉根を寄せた。




「何なの? 何が解ったの?」

「説明してやりてぇけど、確証が無ぇんだよ。だから、アメリアの入院していた精神病棟の記録が見たい。データがアナログなら直接向かう」

「それなら、俺が調べてやるよ」




 ライリーが軽快に言った。

 調べると言っても法的な許可を得ているのではない。犯罪行為の片棒を担がせることになる。

 航が顔を歪めると、湊が言った。




「頼む」




 ただそれだけの言葉で、ライリーが嬉しそうに笑う。唆されていると解っていても、彼は友達の為に喜んでその手を汚すのだろう。


 ライリーの椅子がくるりと回転し、机に向き直る。

 準備運動とばかりに両手の関節を鳴らし、ライリーは眼鏡を掛け直した。ディスプレイから発されるブルーライトが眼鏡に反射し、モヤシみたいな後ろ姿がやけに頼もしく見えた。


 幾多ものウインドウが表示され、ポップアップしては消えて行く。凄まじい情報量が津波の如く押し寄せる。ライリーの指先が高速でキーボードを叩き、大波を乗りこなすようにファイヤーウォールを破って行く。正に、圧巻である。航は勿論、湊にだって不可能な芸当だ。犯罪行為と解っていても、航は拍手を送りたい心地だった。




「出たぜ」




 エンターキーを叩いたライリーが、眼鏡のブリッジを押し上げる。航と湊は彼の肩から身を乗り出し、ディスプレイを覗いた。


 アメリアのカルテだった。入院前後の様子、投薬、病状が具に記されている。担当医の名前には覚えがある。先日、逮捕された医師だ。


 カルテには看護師だろう記録者である女性の名前が記されていた。丁寧な筆跡だ。記録に不審な点は無く、アメリアの入院直後、投薬と病状について記されている。


 記録を読み返していると、患者の病状が定期的に変化していることが解った。




「面会記録も出せる?」




 湊が問い掛けると、ライリーはキーボードを叩いた。

 面会記録の殆どはルーカス氏で、凡そ一ヶ月に一度面会に訪れている。だが、ルーカス氏の面会とアメリアの病状に因果関係は無い。


 では、アメリアの変化は何なのか。

 精神病には周期性があるものもあるが、何かが気に掛かる。




「記録に残らない誰かがいる」




 湊が断言した。




「当時の防犯カメラの映像は……流石に無いか」

「映像は無ぇけど、関係者に聞き込みすることは出来るかもな。此処はカルテを改竄してた病院だろ? 書面より直接会うべきかもな」




 ライリーが言った。




「担当者に当たってみるか」




 航は身を起こした。

 地味な作業は好きではないが、必要ならば仕方ない。




「俺が会って来る」




 湊は頷き、肯定した。指先が顎に触れている。考え事をする時の湊の癖だった。




「……アンバーが、俺のことをヒーローの息子って呼んだんだ」




 それがずっと気に掛かってる。

 そう言って、湊は黙った。


 だから、何だと言うのだろう。自分達の出生を調べたのなら、そのくらいのことは解るだろう。第一、あの論文で湊は自分の能力が遺伝であることを仄めかしていた。


 湊が何かを考えている。吸い込まれそうな集中力に緊張が走る。ぶつぶつと独り言を呟きながら、湊は顎に指を添え、部屋の中を歩き始めた。


 俺達が狙われた理由は何だ?

 エマを巻き込んだ意味は?

 目的は?

 どうしてこのタイミングで?


 湊は自問を只管繰り返す。その目には最早、室内の様子なんて見えていないようだった。




「ルーカス氏は超能力の軍事的応用を考えていた。量産が目的ならば、其処に自分の血筋は関係無い……」




 ふと足を止めた湊が、天井を見上げて言った。




「……エマは本当に、ルーカス氏の娘なのかな」




 は?

 湊の疑念に、航は間抜けな声を漏らした。それは一連の事件の根底を揺るがす疑問だった。

 我に帰った湊が、慌てて辺りを見回す。居心地の悪い沈黙をどのように感じたのか、戯けるように肩を竦めた。




「可能性の話さ」

「……仮に、エマがルーカス氏の娘じゃなかったとしたら、アメリアが煮え湯を浴びせた理由が無くなるだろ」

「うん。でもさ、アメリアさんがエマに煮え湯を浴びせた理由だって、俺達は解らないだろ。少なくとも、今の俺は先入観を持ってる。それも、ルーカス氏に対して飛び切りネガティブな先入観をね」




 誰も何も言わなかった。

 疑い始めるときりが無い。そうして作り上げた暫定的な仮定が、いつの間にか真実であるかのように思い込んでしまっている。


 例えば、湊の考えた超能力の遺伝だって科学的な根拠がある訳じゃない。この憶測で作り上げた迷宮を、心理学では確証バイアスと呼ぶ。




「事実確認の無い推論は道を誤ります。慎重に行きましょう」




 そう言ってリュウが纏めた。

 背中を焼くような焦燥に駆られ、航は踵を返した。不安だった。何が真実なのか解らない。研究室を出る寸前に振り返る。湊は再び顎に指を添え、何かを思案しているようだった。


 航が呼び掛けると、湊は顔を上げて笑った。




「モーションオフェンスだ。頼むぜ」




 そんなことを言って、湊が拳を向けて来る。安い気休めだ。空元気だ。そんなことは解っているのに、いつかの背番号四番が網膜に焼き付いていた。航は足音を立てて距離を詰め、拳を当てた。




「任せろ。司令塔はどっしり構えときな」




 互いに吐息を漏らすように笑った。

 今は答えを出すタイミングじゃない。事実確認が先だ。そう言い聞かせ、航は歩き出した。

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