⑶見えない敵意
微睡む意識の底で、誰かの声が重なっては遠去かる。航は水面を揺蕩うように身を任せ、耳を澄ませた。
ーー業績不振や孤立無援の状況を悲観して、衝動的に自殺を図ったという警察の判断は納得出来る。部屋は密室で、物理的にも時間的にも、第三者の立ち入りは不可能だった。
ーーもしも犯人がいるのなら、これは不可能犯罪だ。
ーー睡眠薬で奥さんを亡くした旦那さんに、同じ薬を処方するかな?
ーー娘を溺愛してた。殺されたなら兎も角、自殺なんて絶対にしない。
ーー良心の呵責というものを生まれ付き持たない人間もいますが、道徳心や倫理観は生育環境に基づくものです。
ーー気を付けろよ、航。全ての真実が目に見える訳じゃねぇ。本当に怖いのは、悪意の無い殺意なんだ。
ーー脳に限らず、人体機能は遺伝する。体格や肌の色、病や身体能力。つまり、超能力は遺伝するんだ。
ーーあの子は危うい。俺達の常識が通じない相手だ。
ーー俺達の信じる常識って何なんだろうな。
「航」
途端、意識が浮上する。航はゆるゆると顔を向けた。兄が凪いだ顔で此方を見ている。
ルーカス氏の屋敷を出てから、航はバイクに乗って湊の大学へ向かった。調べたいことがある、と例によって結論を隠した兄の言葉の為だった。
研究室に兄が閉篭もり、それから二時間程の時間が経っていた。一回り大きなサイズの白衣を纏った兄はA4のコピー用紙の束を抱えていた。
まるで飯事だな、と笑いながら、何か話したげな兄に先を促した。湊は勿体振るみたいに咳払いをしてから、口を開いた。
「ルーカス氏の屋敷で出された紅茶の成分を解析したんだ」
そういえば、湊は出された紅茶に手を付けず、ハンカチを浸していた。あの時は何をしているのかと呆れたけれど、今となっては笑うことも出来ない。
「紅茶の成分であるカフェイン、タンニン、ラッカーゼ……。それから、三酸化二砒素」
「……砒素?」
「うん。化学式はAs2O3、無味無臭の毒だよ」
毒?
航は息を飲んだ。まさか、来客の為に用意された紅茶に、毒物が混入されていたのか?
「これは常温だと粉末状の白色固体だけど、水溶性が高くて、鼠や害虫駆除に使われていたくらい毒性が強いんだ。十六世紀のヨーロッパではワインに混ぜて毒殺に使われることが多くて、検出が非常に困難だった」
湊の腕の中にある書類の束には、夥しい量の数字データが刻まれている。ドイツ語らしく、航には全てを読み解くことは出来なかった。
「砒素中毒って聞いたことあるだろ? ナポレオンやジョージ三世が亡くなった理由も砒素中毒と言われてる」
「……」
「症状としては、嘔吐、下痢、血圧低下、頭痛なんかが現れる。重篤な場合は代謝酵素が阻害されて多臓器不全で死に至る。致死量は0.2g、紅茶に浸したハンカチから検出された液体の濃度はそれを超えていた」
湊がつらつらと語るので他人事のように感じられるが、それは自分の命に迫っていた脅威だったのだ。
書類から顔を上げた湊が、凪いだような無表情で言った。
「これを殺意と呼ばずに何と呼ぶ?」
その声が頭の中で反響した。
腹の底が冷えて、足元がぐらつく。
エマは紅茶を飲まなかったことを責めた。其処に毒が入っていたことも知っていた筈だ。
何故だ。何故、エマはそんなことを?
湊が静かに言った。
「三酸化二砒素は白血病の治療に使われることもあったから、毒にも薬にもなる物質だ。でも、簡単に手に入る代物じゃないし、エマなら睡眠薬を使っただろう。……誰かが裏で手を引いてる」
「誰が?」
「解らない」
湊は目を眇め、戯けるようにして首を竦めた。
「不思議だねえ。真実に近付く程に、真相から遠去かる」
湊は微かに笑っていた。
面白いのだろうか。痩せ我慢か。毒殺されかけた手前、何故、そんなに冷静でいられるのだろうか。
「兎に角、これで悪意の無い殺意は立証出来た。後は葵君の仕事だ」
「……エマはどうなる」
「情状酌量の余地があるし、罪には問われないだろうね。司法はスキャンダルを避けるものだし、真実は秘匿される可能性が高い」
でもね。
湊が言った。
「人の口に戸は立てられない。エマは静かに社会的に抹殺されるだろう。……悲しいけど、俺達が身を守る為にはそうするしかないんだ」
航には、それを否定するだけの根拠が無かった。
エマの為人を知らないし、その背景も想像でしか無い。湊は彼女がサイコパスだと断定し、最悪の事態を想定して最善を尽くそうとしている。
だが、この後味の悪さは何なのだろう。裁くべき諸悪の根源はルーカス氏であり、エマは被害者だ。だけど、死者を裁く法は無いのだ。
この事件が社会的に注目されれば、いずれはアメリアのことも明るみに出るだろう。そうして同情と義憤の下で死者の尊厳は守られるのか。
何もかもを救える訳じゃない。
自分が再三言って来たことだ。
「俺は大学の寮に戻って、事件の収束を祈るよ」
あっさりと湊が言う。
こんなところで諦めるような男じゃない。真実に手が掛かっているのに、やけに物分かりが良いじゃないか。
つい、航は問い掛けていた。
「それ、本心か?」
「本心っていうか、今の俺に打てる手はもう無いんだよ。後は葵君と、あの執事さん次第さ」
「……?」
どういう意味だろう。
くるりと踵を返した湊に、追求の言葉は掛けられなかった。初夏の風が頬を撫でる。航は黙ってその背中を見ていた。
13.延長戦
⑶見えない敵意
招かれた研究室はブラインドカーテンが下されていた。
綺麗好きな人間がいるらしいので清潔には保たれているが、白い蛍光灯に照らされる彼等は不健康の代名詞みたいな顔色に見えた。
後ろ手に扉を閉めた航は、兄の背中を眺めていた。
湊は抱えていた書類を机に置く。雑多な小物は一切無かった。恐らく、データは全てパソコンの中に収まっているのだろう。
無機質な机の上には、写真立てが一つだけ飾られていた。去年の春、大学の入学式で撮った家族の肖像だった。兄が血の通った人間であることが再認識出来る。
窓辺の席に腰掛けていたライリーが、じっと此方を伺っていた。磨き込まれた眼鏡の奥には何かを伺うような、推し量るような不穏な光がある。
「全部話せよ」
咎めるようにライリーが言った。
何のことだろう。まだ何か隠し事があるのだろうか。
書類を置いた湊が、暫し目を閉じる。まるで何か覚悟を決めようとしているかのような顔付きだった。目を開けた湊は少しだけ肩を落としていた。
「……ずっと疑問に思っていたことがあって」
そう言って、湊は話を切り出した。
「前に、ビスクドールに襲われたことがあっただろ?」
航は密かに拳を握った。
あの日は確か、雨が降っていた。ゴミ捨て場の一角にビスクドールが置かれていた。妙に庇護欲を駆られながらも、そのままにした。ところが、そのビスクドールは航の帰り道を先回りして、自宅まで付いて来たのだ。
その後の記憶は正直曖昧だ。どうやら、自分は人形の中にいた霊に憑依されていたらしく、意識の無いまま、兄の首を絞めたそうだ。
苦い思いが込み上げて視線を逸らすと、無数の視線にはっとした。ライリーが、リュウが、ゾーイが、ホセが此方をじっとりと見詰めている。
「どうして、あの人形は航の前に現れたんだろう?」
湊の声には一切の熱が無かった。
原稿を読み上げるナレーターのようだ。
「保管されていただろう地下室は、二十五年の間、誰も立ち入っていない筈だった。それなら、あの人形は何処からどうやって来たんだ?」
手品じゃあるまいし、物体は壁を擦り抜けない。
超常現象を肯定しているのに、奇妙な物言いだ。
「人形が独りでに現れたとは思わない。霊魂を否定しているんじゃない。物理的な問題だ。地下室には鍵が掛かっていたのだ。実体を持った何者かが侵入し、人形を運び出したとしか考えられない」
そういえば、葵君も言っていた。
オカルトと呼ばれる超常現象を目の当たりにした今となっては、瑣末な問題だった。独りでに歩く人形が空間を移動したとしても、驚くべきこととは思えなかった。
だが、兄にとっては違うらしい。
湊は机に寄り掛かかると、静かに言った。
「俺はあの地下室に入ったんだ。すごく臭かったのを覚えてる。コンクリートで固められた密室であったことを鑑みても、二十五年の月日が経過しているとは思えない腐臭の濃度だった」
リュウの眉間に皺が寄る。彼は湊と葵君と共に地下室に入ったのだ。腐臭を思い出したのだろう。熟、損な役回りだ。
「一般的に腐臭とはバクテリアの働きによるもので、有機物を分解した時の排出物が原因なんだ。二十五年の月日で肉体は白骨化していた筈なのに、バクテリアは何を分解したのかな」
湊達が突入した当時、腐臭を発するような有機物は存在しない筈だった。
「それからね、地下室に蛆虫が落ちていたんだよ。親指くらいの太った奴が」
「……」
「何処から現れたと思う? 人体は白骨化しているのに」
余り想像したくない光景だ。
付いて行かなくて本当に良かった。
腐臭と蛆虫。この二つの謎が何を示すのだろうか。
航には大した問題とは思えなかった。心霊現象という非科学的な現象の前に、科学が何を証明出来るのだろう。
湊は人差し指を立て、声を潜めた。
「一つ、仮説を立てた」
空気が冷えたような気がした。
未知のものを研究するにあたり、仮説を立てる。いつかリュウから聞いた湊の常套手段。
「心霊現象の前触れとして、室内の気温は低下する。これは電子機器の異常に並ぶ事実だ。その現象が大きい程、気温は下がる。つまり、二十五年の間、彼処は冷凍庫並みの室温で密閉されていた可能性がある」
「……お前等が入ったことで気温が上昇して、死体が再び腐敗し始めた?」
湊は首を振った。
「蠅の卵は大体一日もあれば孵る。成虫になるまで一週間から二週間。でも、餌の無い密室で繁殖活動は不可能だ」
「……」
「つまりさ、俺達の前に誰かがあの地下室に入ったんだよ。その時に密室は破られ、死体は腐敗を始め、侵入した蝿が卵を産んだ」
余りにも悍ましい仮説に鳥肌が立った。
心霊現象によって氷点下に保たれた地下室へ何者かが侵入した。その時に密室は破られ、室温は上昇し、凍っていた死体が腐敗し、蝿が卵を産み付け、蛆虫が発生した……。
「腐敗や蠅の発生状態から考えると、何者かが侵入したのは俺達が入るより二週間くらい前だろうね」
侵入した何者かは連続殺人鬼の記念品であるビスクドールを持ち出し、自分の帰宅経路へ置いた。それがよく解らない。
「時系列を整理すると、奇妙な繋がりが見えて来る。人形が持ち出されたのは、丁度、ルーカス氏の自殺が世間を騒がせていた頃なんだ」
確かに、奇妙なタイミングである。しかし、不自然とも思えない。第一、その頃は湊も大学の寮にいて、FBIは捜査を始めておらず、ソフィアとも面識が無かった。そんな自分達との接点なんてものはこじ付けに過ぎない。
「狙われたのは誰だと思う?」
「……お前だって言いたいのか?」
「何で。動機が無いだろ。勿論、お前もね」
じゃあ、誰が。
湊でも自分でもない。他に登場人物がいないじゃないか。
葵君か? それとも、親父か?
否、動機が無い。ルーカス氏の自殺に関わる人間。
ーールーカス氏は殺されたのよ!
航ははっとした。
初春に聞いた少女の声が蘇る。
まさか、狙われたのは。
「ソフィアだ」
何故。
追求の声は出なかった。湊ばかりが滔々と語り続ける。
「ルーカス氏の自殺を疑っていたのは、ソフィアだけなんだ。犯人という表現が正しいのか解らないけど、その何者かにとって邪魔だったんだ」
「じゃあ、何で俺のところに!」
「俺達の方が緊急性が高かったんだろう。ソフィアが一人で騒いだところでFBIは結論を覆さなかったから」
そうだ。ソフィアに会った湊が言ったのだ。
君は嘘を吐いていない、と。
葵君はそれを信じ、捜査が始まった。
それにしても、回りくどいだろう。始末したいなら、もっと簡単な方法は幾らでもありそうだ。
いや、違う。ソフィアだったから、この方法を選んだのだ。証拠が残らないし、疑われない。心霊現象を解明しようとする奇特な人間はいなかった。ーーただ一人を除いて。
「湊ではなく、航を狙った。その理由も、解りますね?」
リュウは真顔だった。
航は顔を歪めた。そんなこと、言われなくても解ってる。
湊ならば狙われなかったのだ。
霊の存在を知覚出来ないし、他者の意識が介入する余地も無い程に理性的な人間なのだ。アンカー理論は証明されていない。だから、何者かは狙い易い自分へ照準を定め、ーー湊を狙った。
「その何者かはルーカス氏の死を解明されたくなかったんだ」
演繹法により選択肢が狭められる。
これは不完全な推論なのだろうか。航には解らなかった。
「最初に言った通り、これは全部仮説だ。今の俺に出来るのは可能性を考えるだけ。FBIの捜査が進まない限り、これ以上は無意味だ」
湊は笑った。その目が毛程も笑っていないので、場を明るくする為の意図的な笑みだと解る。
航は奥歯を噛み締めた。確証の無いことは口にしないと度々言って来た湊が敢えて答えた理由。
きっと、湊には何かの答えがある。
「お前は、誰だと考えているんだ?」
湊は顎に指を添え、俯いた。
「解らない。でも、一つだけ思うのは……エマに毒を渡した人とその何者かは、同一人物なんじゃないかな」
反論は何一つ浮かばなかった。
見えない何者かが此方を見ている。そんな悪寒に苛まれながら、航はただエマの笑顔を思い出していた。




