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⑵悪意なき殺意

 何かに追い立てられるような早足で、湊が先陣を切って歩き出す。航もソフィアも置いて行かれないようにするのがやっとだった。

 建物内部の構造を把握しているのか、前回の記憶を辿っているのか、湊は迷いもせず、立ち止まりもせずに進んで行く。来客の突然の帰宅を察知した使用人達が慌てたように追い縋る。

 玄関ホールに続く廊下の角を曲がったところで、湊は足を止めた。漸く追い付いた航は、立ち止まった湊の肩を掴んだ。




「何なんだよ、さっきから!」




 言動は支離滅裂で一貫性が無いし、何の説明もしないので身勝手極まりない。航の怒鳴り声は凪いだ水面に浮かぶ波紋のように静かに虚しく広がった。


 湊が振り返りもしないので苛付いて、航はその肩を揺さぶろうとした。だが、湊の目は玄関ホールに釘付けとなっていた。


 飴色の大きな両開き扉は、固く閉ざされている。豪奢なシャンデリアの下で、制服をきっちりと着込んだ使用人達が右往左往していた。その人数に俄かに驚く。床に敷かれた絨毯が見えない程だった。


 ……何だ?


 航は違和感を覚えた。

 彼等はどうして此処に集まっているんだろう。まるで、何かを待ち構えているみたいに……。




「早く此処から出よう」




 早口に湊が言った。

 航も頷いた。何が起きているのかは解らないけれど、安楽に構えていられないことは解る。

 ソフィアばかりが口を尖らせて、不満げに追求した。




「何なの、さっきから。貴方はエマと何を話していたの」

「此処じゃ何も話せない。兎に角、此処を出ないと」




 湊の頬が強張るのが見えた。

 奥歯を噛み締めたのかも知れない。まるで、覚悟を決めるみたいに。


 そして、意を決した湊は、玄関に続く螺旋階段をゆっくりと降り始めた。ホールに屯っていた使用人達の視線が一斉に此方を向き、居心地の悪さに息が詰まる。

 先頭を歩く湊が最後の一段を降りた瞬間、執事らしき初老の紳士が恭しく首を垂れた。




「もうお帰りですか。お嬢様は、まだ貴方とお話をしたいと申しておりましたが……」

「なあ」




 執事の言葉を遮って、湊が硬い声を出した。




「貴方は、何処まで知ってたんだ?」

「何のことでしょう?」

「惚けるなら、それでいい」




 けれど、湊には他人の嘘が解るのだ。

 執事を押し退けた湊が玄関扉へ向かうと、屈強な使用人の男が道を阻んだ。筋肉を搭載した二の腕が獲物を捕らえる寸前、航がその手首を掴む。


 体格は立派だが、それだけだ。

 格闘技でもやっていそうなリュウとは鍛え方が違う。足払いを掛けて関節を押さえれば、制圧は容易い。


 緊張感が肌の表面を静電気のように刺激する。

 航は大柄な男と対峙した。その間に湊は人垣を擦り抜けて、扉に手を掛けた。




「開けてくれ」




 航は舌を打った。

 湊を押し退ける。扉は押しても引いてもびくともしなかった。またお得意の閉じ込めだろうか。

 使用人達は何も言わなかった。それどころか、此方の行動全てをただ眺めているかのような無表情である。人口密度が高いのに、空気ばかりが奇妙に冷たい。




「退いてろ」




 湊にだけ聞こえるような小声で囁いて、航は扉から距離を取った。執事が何かを言う前に右足を振り上げ、扉の取っ手部分を蹴り飛ばした。

 流石に一撃では壊せない。航が再び扉から距離を取ると、あの大男が湊へ手を伸ばした。




「航、退いて!」




 男の腕を掴んだ湊は、遠心力を存分に利用してその巨体を風車のように投げ飛ばした。傍目にも、それは偶発的な動作ではなく、訓練された技だと解る。肋骨に罅が入っているとは思えない。


 投げ飛ばされた男が衝突し、扉がひしゃげて取っ手がひん曲がる。航が駄目押しのつもりで蹴り飛ばすと、今度はいとも簡単に開いた。

 外気が室内に吹き込み、茹だる頭が冷静になる。隙間を擦り抜けるようにして、湊がソフィアの手を引いて飛び出した。


 建物から脱出したことで、何故なのか酷く安堵した。不思議だった。自分達が何かをされた訳でもないのに。


 振り返ると、使用人達がホールに整列していた。客人の帰宅を見送るように。それが既に異様な光景だった。




「……執事さん」




 屋敷から距離を取り、湊が呼び掛ける。

 使用人の群れの中央には、あの執事が立っていた。




「貴方はずっと嘘を吐いてる」

「何のことでしょうか」

「俺には他人の嘘が解るんだよ」




 執事は能面のような無表情で、立ち尽くしていた。それはまるで、秘匿し続けて来た真実を見抜かれた罪人のようだった。




「この屋敷の人は誰も嘘を吐いていない。エマも、使用人の人達も。だから、ずっと気味が悪かった。でも、貴方だけは違う」




 湊には百発百中の精度で他人の嘘が解る。だが、それは本人が自覚するものに限るのだ。

 以前、父が言っていた。狂っている人間は、狂っていると解らない。つまりそれは、この屋敷において、この執事だけが正気であるということではないか。




「どちらがより良い未来であるのか、貴方の良心に問うて答えを出してくれ。俺は俺の信念に従う。例えそれが、あの子の未来を閉ざすことになってたとしても」




 最大多数の最大幸福。

 湊はジンクスのように呟いて、踵を返した。

 航には、その意味が解る気がした。








 13.延長戦

 ⑵悪意なき殺意








「例えば」




 屋敷を出てから、唐突に湊が言った。

 普段と変わらない穏やかな口調で、何処か遠くをぼんやりと眺めている。


 航はポケットに入れていたバイクの鍵を弄びながら、蒼穹の下に佇むルーカス氏の屋敷を見上げた。他を圧倒する豪華な屋敷は、まるで監獄のような不気味な威圧感を放っている。




「ロボットが誤作動を起こして誰かを怪我させてしまった場合、責めるべき相手は誰なのかな。ジャングルの奥地の狩猟民族が人柱として誰かの臓物を引き摺り出したとして、それは誰が裁くのかな」




 無駄な前置きを切り捨てるつもりでいたら、ソフィアが素直に「どういうこと?」と尋ねた。湊は小さく頷いた。




「結論を話すとーー、ルーカス氏を死なせたのはエマだよ」




 何を言っているんだ。

 以前、この屋敷を訪れた時、湊はエマと話をしていた。そして、エマは嘘を吐いていないと言った。

 変わったのだろうか。否、湊は()()()()と言った。殺した、ではなく。




「あの子はサイコパスだ」




 サイコパスとは、良心の異常に欠如した精神病質である。精神科医をしている父からその話を聞いたことがある。彼等は常人に擬態する捕食者であり、異なる生物である。故に理解することは難しい、と。

 エマがそのサイコパスだと言うのか。酷い侮辱だ。




「あの子と俺達では、常識が違う」

「解らねぇ。エマには、実の父親を殺す動機が無いだろ」




 ルーカス氏はエマに過剰な愛情を注いでいた。それは世間では性的な虐待と呼ばれるものであるが、彼女はそれを愛情だと認識していたのだ。異常な親子関係であったが、それは殺害の動機にはならないだろう。


 湊は少し難しそうな顔をして、腕を組んだ。




「殺したんじゃない。死なせたんだ」

「どう違う」

「彼女にとって、それは善意なんだよ」




 善意で死なせた?

 益々解らない。




「俺達の常識で考えると、それは犯罪で、許されないことだ。でも、あの屋敷の中では、そうじゃなかった」

「解んねぇよ」

「だからさ」




 湊は苛立ったような棘のある口調で言った。

 I.Q格差なのか、湊とは時々話が噛み合わないのだ。




「アメリアさんは軟禁されて洗脳状態で、自殺させられた。エマはその状況を見ていたんだ。それで、死ぬことが救いだと学習した」




 航は脳が痺れるような鈍痛を覚えた。

 以前、屋敷を訪れた時、夢を見たのだ。洗脳状態にあったアメリアは、助けを求めて致死量の睡眠薬へ手を伸ばした。全てがルーカス氏の思惑通りだと知りながらも。


 エマはそれを見ていたのか?

 縋るように睡眠薬へ手を伸ばし、自殺させられた母を見て、それが救いだと認識した?




「当時、ルーカス氏は集団訴訟を起こされていた。控訴の準備があったとしても、自宅で疲れた姿くらい見せただろう。それを見たエマは、父を救う為に睡眠薬で死なせたんだ」

「待て。お前、前に同じようなことをエマに訊いていただろ。それで、嘘は吐いてないって」

「嘘は吐いていなかったよ。と言うか、あの子は嘘を吐いたこともないんじゃないかな。その必要が無かったから」




 あの屋敷の中が、エマの世界の全てだった。

 父親からの異常な愛情、救いを求めて死んだ母、逆らわない使用人。生まれた時からあの屋敷にいて、外界を知らない少女。




「ルーカス氏は自分で睡眠薬を飲み、自分で瓶を処分したんだ」

「じゃあ、自殺だろ。エマは関係無い」

「ルーカス氏だって自殺の動機が無いんだよ」




 そうだ、その通りだ。

 集団訴訟の真っ只中で、敗色濃厚とされていたが、それは競合相手の流したデマだったのだ。控訴の準備をしながら、自殺するとは考え難い。


 父も同じことを言っていた。

 溺愛する娘を残して、ルーカス氏は自殺なんてしないと。


 とは言え、個人の考えや突発的な行動まで予想することは出来ない。不意に敗退的な考えに支配されて自殺した可能性だって有り得ない訳じゃない。




「全部、憶測だろ。俺にしてみれば、お前の考えの方が理解出来ねぇ」

「ソフィアは?」



 話を振られたソフィアは、蒼い顔で俯いていた。今にも倒れそうな酷い顔色だ。




「……私は、ルーカス氏の霊と話したのよ。自殺したんじゃなくて、殺されたんだって」




 ソフィアの意見は変わらない。湊の憶測はソフィアの意見を支持しているにも関わらず、信じ難い悪夢を見ているようだった。




「ソフィアは嘘を吐いてない」




 湊が言った。

 航は否定の言葉を吐こうとして、そのどれもが希望的観測でしかないことに気付く。だって、まさか、あんな子供がーー。




「どうやって、ルーカス氏に自殺させたんだよ」




 喘ぐように問えば、湊は当然のように答えた。




「航も知ってるだろ。PSIで脳の防御機構を破壊することで、他人を自殺させることが出来る」




 湊の調査で、航は或る連続殺人鬼と対峙した。

 彼はゲイ専門のクラブを狩場にして、PSIによってターゲットを自殺させた。まさか、エマもそうだと言うのか。




「あの屋敷にいると、すごく気分が悪くて、すぐに出たくなるんだ。まるで、頭の中を攪拌されてるみたいだった」




 解る。航もそうだった。

 それが何故なのか解らなかったけれど、湊の言うようにPSIによるものならば納得出来る。あの連続殺人鬼に頭を触れられた時もそうだった。頭が割れそうに痛くてーー。


 両親を亡くした不憫な少女は、社会的な常識を理解しないサイコパスである。そして、他者を意のままに操る超能力を持っている。それが、湊の見解である。


 湊はソフィアに向き直り、急に真摯な声で語り始めた。




「これは俺の想像なんだけど、ソフィアの霊能力はサイコメトリーによる精神感応だと思うんだ。恐らく、ソフィアがルーカス氏の霊と対話した時、近くに睡眠薬の瓶が落ちていたんじゃないかな」




 普段ならば怒りそうなものだが、何かを考え込むように、ソフィアは黙り込んでいる。




「ルーカス氏は死ぬつもりは無かったんだ。でも、自殺させられた。だから、自分は殺されたという強烈な思念が残った。それをソフィアが知覚した」




 辻褄は合っている。

 湊の憶測を否定したいのに、それ以上の答えを導き出せない。それが歯痒く、航は食い下がった。




「お前の話は推測で、何の根拠も無いだろ。第一、証拠だって無い」

「そうだよ。これは完全犯罪だ。だからこそ、俺はこれを証明する。その為に、此処へ来たんだ」




 湊は屋敷を見上げた。

 その横顔は氷の刃のように冷たく研ぎ澄まされていた。




「悪意の無い殺意を俺は立証する」




 湊が言った。

 航はその言葉に既視感を覚えた。いつか葵君も言っていた。この世で一番恐ろしいのは、悪意の無い殺意だとーー。

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