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⑴鏡の向こう

 Abyssus abyssum invocat.

(地獄は地獄を呼ぶ)


 Henry Lee Lucas









 夏の気配を連れた日差しの下、航は兄の後頭部を眺めていた。伸ばしっぱなしの栗色の頭髪は所々跳ねていて、本当にただ切らずにいただけなのだと思い知る。


 フェイスタオルを広げ、兄の肩に掛ける。手には銀色の鋏、兄は振り返らない。

 霧吹きで軽く湿らせて、髪を梳かす。見た目通りの柔らかい猫っ毛だった。前髪に櫛を通し、持ち上げる。鋏を入れ、適当な長さで切り取った。

 湿って纏まった前髪がテラスの床に落ちる。航はそのまま次の毛先へ鋏を入れた。


 柔らかな湯気の立つ南瓜スープを啜りながら、湊が泣いていた。瞬きの度に透明な雫が弾き出され、頬には幾つもの筋が出来た。自分が泣いていることにすら気付いていないみたいだった。航は、兄の泣いている姿を正面から見るのは初めてだった。


 そんな兄が、いつもの調子で「頼みがある」と言った。日頃の行いのせいで信用は無かったけれど、聞いてみると大したことじゃなかった。


 髪を切って欲しい、と言った。

 泣き笑いみたいな中途半端な表情だった。


 髪を伸ばした理由を尋ねた時、湊は自分の顔を隠す為だと言った。容姿の為に事実が歪曲されるのなら、隠した方がマシだったのだろう。同時に、それが湊の唯一の逃避だったのだと思った。だって、容姿を隠したって何の解決にもならない。そんなこと解っていただろう。


 鏡を見た時、自分ではない他の誰かが映っている。そんなことに安心するような非生産的な逃避だった。航はそれを否定出来なかった。湊は言い訳をしないし、慰めも求めない。そして、今度は自分でそれを辞めると決めた。ならば、自分に言うべきことは何も無かった。




「終わったぞ」




 フェイスタオルを取り、細かい髪を払ってやる。長い睫毛を震わせて、湊が目を開けた。鏡を手渡すと、湊は興味深そうに目を眇めた。




「航は器用だねえ」




 鏡に映る兄の顔を見遣り、航は鼻で笑った。

 幼い頃から見て来た兄の顔だ。父の生き写しかと思う程に端正な顔立ちをしているけれど、その横顔は何処と無く母に似ていた。


 テラスを軽く片付けてから、二人でリビングへ戻った。寝込んでいた筈の母がソファに座っていて、眩しそうに目を細めた。


 キッチンに立っていた父が「似合ってるよ」と笑う。他愛の無い日常が戻って来た気がして、航は何となくむず痒かった。


 久々に一家四人でリビングに集まって、色々な話をした。父は紛争地の出来事を、母は井戸端会議で仕入れた噂を、湊は研究室の仲間の話を、航はバスケのことを話した。


 途中、湊と父が席を立ってハーブティーを淹れた。それからまた話し始めて、気付けば夜だった。夕食には航が煮込みハンバーグを作った。会話は途切れなかった。多弁ではないのに、話したいことが次々と浮かび上がって来て、止まらなかった。




「明日から寮に戻るよ」




 夕食後、湊が言った。曰く、春休みが終わるらしい。

 たった二週間だったのに、とても長く感じられる。名残惜しいような気もしたけれど、それを口に出せる程に素直では無かった。


 清々する、と笑えば、湊は肩を竦めた。

 父も再び紛争地に戻るらしい。湊の為に一時帰国したに過ぎないのだ。次はもっと長くいられるようにすると言っていた。




「送ってやるよ」




 航が言うと、湊は嬉しそうに笑った。

 そんな風に喜んでくれるなら、いつだって、何度だってバイクに乗せてやる。それで、必ず迎えに行く。航はそんなことを胸に誓った。


 午後九時、二人でそれぞれのベッドに向かった。

 湊は昼前に出るらしいので、バスケの練習は遅れて行くつもりだった。航が自分のベッドに潜り込むと、湊が下段から呼び掛けた。




「明日、寄って欲しいところがあるんだ」

「……何処?」

「ルーカス氏の屋敷」




 航は身を起こし、下段を覗いた。闇の中、湊の瞳は肉食獣のように爛々と輝いていた。




「ソフィアも呼ぶ」

「……それって」




 航は言葉を区切った。

 湊がルーカス氏の屋敷に行く理由なんて一つしかない。春休みの最初に葵君とソフィアがやって来た。それから超常現象に遭遇し、湊の論文に関わる事件が起きて……。




「幕を引くのは、俺の役目だ」




 湊が言った。

 それきり何も語らず、湊は眠ってしまったようだった。


 勝手な奴だ。

 だけど、微かな寝息を聞いていると睡魔に襲われて、航も眠ってしまっていた。







 13.延長戦

 ⑴鏡の向こう








 滑らかな曲線を描く。

 愛車であるアメリカンバイクは、車高は低いが重厚感があり、メタリックな赤が美しい。朝日を浴びるメタルボディを丁寧に乾拭きし、剥き出しのエンジンを眺めた。


 兄が寮に帰る日だった。

 大荷物を抱えてルーカス氏の屋敷に行くのは憚られたので、早朝に向かうことにした。昨日の断髪のせいか、湊は寝癖の無いしゃっきりとした顔付きで起きて来た。


 後部座席に湊を乗せ、ルーカス氏の屋敷へ向かった。

 マダム・マリーと出会った溝川を越え、通い慣れた街路を抜ける。空は澄み渡る程の快晴で、先日の豪雪が嘘のようだ。サイドミラーで後ろを確認する。湊は何かを思い詰めたような顔付きで、終始無言だった。


 屋敷の前にはソフィアがいた。

 バイクを屋敷の外に停め、厳しい顔付きをした守衛を見遣る。これから何が起こるか解らないが、もしも彼と戦わなければならなかった時、勝てるだろうか。

 そんなことを考えていると、湊が言った。




「自殺についての話をしたことがあるだろう」




 湊は何処を見ているか解らないような目で此方を向いていた。

 自殺についての話、と言われてもすぐに思い出すことが出来なかった。ルーカス氏のことか、アメリアのことか、それとも。




「自殺を奨励する気は無いけれど、否定するつもりも無いって」




 合点が行った。

 マダム・マリーの娘、フローラ。彼女はノアを身籠り、母と大喧嘩の末に家出して、最後はコロラドストリートビレッジから自殺した。





「でも、俺が間違ってた。本心ではどう思っていたとしても、言葉にするべきじゃなかった。自殺によって救われたなんて前例を残しちゃいけない」





 当たり前だ。だけど、あの時の言葉はきっと、湊なりの優しさだった。死んでまで責められるなんて可哀想だ。許してやってくれ。

 航は、それが間違っているとは思わない。何故なら、湊はそれを選ばないと解っているからだ。




「一人の死がどのくらいの人に影響を齎すのかを考えたら、俺はそれを許しちゃいけなかった」




 オリビアのことだろうか。

 航が追求する前に、ソフィアが問い掛けた。




「誰のことを言ってるの?」




 湊は濃褐色の瞳に透明な光を宿して、無味乾燥な声で言った。




「アメリアさんのことさ」




 湊は颯爽と歩き出し、門扉へ向かった。

 取り残されたまま、航はソフィアと目を合わせ、慌てて後を追った。


 屋敷の中は、相変わらず、この世の贅を尽くしたかのような豪勢な造りになっている。天井から降り注ぐシャンデリアの光は硝子片のように煌めき、出迎える使用人達は完璧な笑顔を浮かべていた。

 何処を見ても非の打ち所の無い上流階級の美しい邸宅である。使用人の動作一つも精錬され、航はまるで、ハリウッド映画のセットの中に迷い込んでしまったかのような心地になる。


 応接室の座り心地の良いソファへ腰掛け、居住まいを正す。壁に掛けられた絵画の価値は解らないが、恐らく目が回る程に高価なのだろう。

 使用人が紅茶と焼き菓子を運んで来たが、湊は手を付けなかった。ソフィアが手を伸ばすとやんわりと止めていたので、航は嫌な予感を覚えた。


 湊は紅茶の香りを嗅いでから、何故かハンカチの端を浸した。何をしているんだと咎めようとしたタイミングで両開きの白い扉が開いたので、航は背筋を伸ばした。一方で湊は焦る素振りも無くハンカチを丁寧にポケットへ入れた。


 扉を開け放った使用人の隣に、一人の少女が立っている。その華奢な少女を見た瞬間、航は猛烈な頭痛を感じた。脳味噌が攪拌されているみたいに視界が歪む。堪え切れずに呻くと、湊が手を握った。痛みはすっと引いて行った。


 何故なのだろう。

 少女ーーエマと対峙すると、その美しい容姿に見惚れるのに、頭が割れそうに痛い。そして、湊がいると痛みが引いて行くのだ。




「会いたかったよ」




 エマは対角線に位置するソファへ座った。無邪気に笑い、テーブルの上に置かれた紅茶が減っていないことに気付いたのか首を捻った。




「どうして飲まなかったの?」




 じくり、と顳顬の辺りが痛む。

 思考回路が真っ黒になって、激しく責められているような気分の悪さを味わった。こんなことなら、大人しく飲めば良かったとさえ思った。

 けれど、湊が握った手に力を込めて答えた。




「これは俺達には必要無いんだ」




 どういう意味だ。

 エマは不思議そうに頭を傾けると、ソファの上で両足を揺らした。




「どうして?」

「俺達は生きたいから」

「解らないわ」

「……そうだろうね」




 湊が目を伏せた。

 何だ。こいつ等は、何の話をしているんだ?




「今日は答え合わせをしに来たよ、エマ。ーー君はお父さんを、()()()ね?」




 何を言ってる。

 ふと視線を上げた時、ソフィアが硬直しているのが見えた。血の気の引いた顔は真っ青で、今にも倒れそうだった。


 エマは微笑んだ。




「ええ、そうよ」




 湊の掌に力が篭る。

 航は咄嗟に握り返した。湊は一つだけ息を吐き、硬い声で言った。




「それはいけないことなんだよ」

「何故?」

「それは君の持ち物ではないからだ」




 何のことかさっぱり解らないが、エマは少し考える素振りを見せて、「そう」とだけ言った。


 静電気のように緊張が肌を刺激する。

 湊はそれ以上は何も言わず、静かに席を立った。繋がれていた手が離れ、外気に触れてひやりとした。どちらの手が汗ばんでいたのかは解らない。




「もう帰るよ」

「もっとお話ししたいわ」

「もう話すことは無いんだ」




 突き放すように、湊が言った。エマは笑っている。

 そして、人形のような可憐な笑顔で、エマが言った。




「貴方も助けて欲しい?」




 その瞬間、恐怖が稲妻のように全身を走り抜けた。

 目の前にいる少女が、見たこともない化物のように見えたのだ。彼女の赤い瞳には底知れない闇がある。これ以上、覗いてはいけない。そう思うのに、エマは湊から目を逸らさない。


 湊は尖った声で答えた。




「結構だ」




 湊はもう、笑っていなかった。

 帰るぞ、と言って、強引に部屋を出ようとする。何が何だか全く解らないが、この場を離れたいのは航も同感だった。


 扉が閉まる寸前、エマが言った。




「またね」




 湊は答えなかった。

 振り返りもせずに歩いて行く湊は、まるで死地へと向かう兵士のような悲壮な覚悟を滲ませていた。

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