⑹勧酒
霧の中にいるような不明瞭な世界で、キーボードを叩く音が心地良く聞こえる。微睡んだ意識を引き上げると、見慣れた研究室が映った。
閉めっぱなしのブラインドと、積み上げられた専門書。机に向き合う女性の背中が見える。ブルネットの髪は滑らかに波を打ち、微かに覗く白い頸がぞっとする程に綺麗だった。
「オリビア?」
呼べば、彼女は振り向いた。
湊はキャスター付きの椅子を隣に並べ、彼女のパソコンを覗いた。
ドイツ語で書かれた論文は未完成だった。アンカー理論をついて、事例を挙げているらしい。その中に先日のポルターガイスト現象で自分が集中砲火を受けた話が出ていて、つい笑ってしまった。
オリビアは微笑んでいた。
何故なのか、彼女と一緒にいると時間がゆっくりと流れている気がする。楽しい時間はあっと言う間に過ぎるのに、不思議だった。
「笑っていると良いよ」
オリビアが言った。
父も同じことを言っていた。この世で一番強いのは、笑っている人だから。それなら、彼女がきっと一番強い。
「でもね、君を守れなかったよ……」
これが夢であることは、解っていた。
彼女は死んだ。死者の思考は停止している。こんな都合の良い妄想は自己満足だ。
なんて愚かで、浅はかで、無責任なんだろう。けれど、オリビアはいつものように笑うのだ。
「私は許すわ」
貴方の弱さも脆さも優しさも。
そんなことを言って、オリビアの温かい掌が自分の手を包んだ。
いつも冷たい手だった。冷え性だと笑っていた彼女の為に、あれこれと世話を焼いては、失敗した。でも、今の彼女の掌は温かい。どうしてだろう。
どうして、俺は君を救いたかったのかな。
きっと、答えなんて初めから解っていたのに、解らないふりをしたんだ。君の特別になるのが、誰かを特別に思うことが怖かったんだ。
「君が好きだったよ」
どうか笑ってくれと願いながら、湊はその手を握った。
「きっと、初恋だった」
オリビアは笑っていた。
ずっと此処にいても良いと思った。彼女と二人で、止まった時の中で、ずっと。
だけど、オリビアは手を離した。その細い指先は、閉じたブラインドを指している。
声が聞こえる。航が、父が、母が、リュウが、リリーが呼んでる。
「呼んでるよ」
「うん」
この優しい世界でずっと一緒にいたかったよ。
でも、駄目なんだ。俺は生きて行くんだ。彼女の願いを背負って、彼女の分まで生きたいから。
席を立つ。初夏の眩しい日差しが部屋の中を明るく照らす。もうすぐ夏が来る。彼女を失ったあの夏が。
笑ってお別れをしよう。
花に嵐の喩えもあるさ。
さよならだけが、人生だ。
12.テンペスト
⑹勧酒
目を開けた時、弟の顔が見えた。
今にも泣き出しそうなのに、怒っているみたいだった。
辺りがやけに騒がしい。見回そうにも身体が怠くて、動かせなかった。少し離れたところからリュウの声がした。
「呼吸が止まっていたんですよ」
その声は不機嫌そうだった。
最後の記憶を振り返る。爆破炎上する船の中、アンバーを死なせない為に駆け回った。どうやら、彼は無事保護されたらしい。
自分は爆風によって吹っ飛ばされて天井に衝突し、意識を失ったらしかった。沈没する船と一緒に海へ沈んだ自分を航が助けてくれたそうだ。当分、頭が上がりそうにない。
ぼんやりしていると、航に叩かれた。全然力が入っていないから、痛くはない。でも、航が辛そうにしているのが、痛かった。
「死ぬなんて、死んでも言うな」
そんなこと言ったかな。
記憶を振り返る。ーーああ、似たようなことを叫んだか。
アンバーに二択を迫られた時、俺を殺せと。
そっか。そうだよな。もしも反対の立場だったなら、俺だって怒った。そりゃそうだ。
手を伸ばす。腕は泥を纏っているみたいに重かった。
航の腕を掴み、心から言った。
「ごめんな」
航は何も言わなかった。
そうだね。航は、ずっと言ってくれてたのにな。
一人で背負うなって、相談しろって。その全てが自分を案じ、大切にしてくれていたのに。
夜半に眼を覚ました時のことを思い出す。
二段ベッドの上から聞こえる微かな寝息に、酷くほっとしたんだ。
一人じゃない。その事実がどれだけ自分を支え、励ましているのか、航はきっと知らない。教えるつもりも無い。
泣きたい時、苦しい時、もう駄目だと投げ出したくなり、前すら見えない絶望の時。いつも、航がいた。
後悔と不安で押し潰されそうだったあの夜、深夜であるにも関わらず、航は電話に出てくれた。ただそれだけのことが、泣きたい程に嬉しかった。
航はいつも其処にいてくれた。
自分の代わりに怒ってくれた。
それがどんなに頼もしく、湊の心を支え、救って来ただろう?
助けて欲しいだなんて思わない。自分の行為の結果は自分が背負う。高潔なのではない。ただ、自分はそうとしか生きられないのだ。
その結果が自分一人ではどうしようも無かった時、必ず航が手を差し伸べてくれる。
航は無かったことにしない。
苦痛も悲哀も絶望も慟哭も、弱さも脆さも全部自分の糧にして前を向く。
「航が俺のヒーローだった」
うるせぇよ。
掠れた声が、熱い雫と共にぽつりと落ちる。
雨かな、なんて笑いながら、湊はただ航の手を握っていた。
担架に乗せられた時、リリーとリーアムの姿が見えた。軽く手を振ると、彼等がそっくりの笑顔を向けてくれた。
心配をさせてしまっただろうか。そんなことを気にしていたら、航が教えてくれた。
「リリーがお前を助けてくれたんだぞ」
どういうことだろう。
湊が待っていると、航が説明した。
海から引き上げられた自分は呼吸が止まっていた。航は肋骨を折る勢いで心肺蘇生を試みたが、効果は見られなかった。そんな中、リリーが現れた。
リリーはPKを使って皮膚や骨を潜り、心臓を直接マッサージしたらしい。自分が意識を取り戻したのは、それから僅か三十秒後のことだったという。
超能力の医学的応用。
自分のやりたかったことを、簡単に成し遂げてしまったのだ。
悔しくもなければ、虚しくもなかった。
ただ、嬉しかった。其処に可能性という名の希望を見た気がした。
「意識が無かった時、夢を見たよ」
研究室にオリビアがいて、穏やかに笑っていた。
彼女が教えてくれた。呼んでいる人がいると。
きっと、今の自分が生きているのは、彼女のお蔭なのだろう。自分に降り注ぐ脅威や不幸を、彼女が退けてくれた。
別に良いだろう。都合が良くても。
自分が信じたいように信じたって、誰の害にもならない。
そんなことを言うと、航は腫れぼったい瞼を擦って言った。
「俺は、目に見えないものは信じられねぇ。でも、湊が其処にあったって言うなら、……そうなんだろうと思う」
航は元々、超心理学に対して懐疑的だった。
同意を求めていなかったので、別にどうとも思わない。航は鼻を啜った。
「良いんじゃね。忘れなくても、後悔してても。大切だったんだろ? じゃあ、覚えててやれば」
充血した目は流れ行く車窓の景色を見ている。
濃褐色の瞳が透き通っていて、とても綺麗だった。
「無かったことにしなくても、大切なものがいっぱいあったって、良いだろ」
航はそんなことを言った。
湊は自分の脈拍を聴きながら目を伏せた。
どうして、弟の言葉はこんなにも心を打つのだろう。
許されることは切ない。
強くなろうと思う。
検査の為に一日入院した。帰国した父が見舞いに来てくれて、久しぶりに二人で話をした。
「名演説だったな」
父が茶化すように言った。
アンバーとのやりとりのことだ。あの時は無我夢中で、怒りのままに捲し立てた。それがインターネットによって世界中に配信されていることなんて忘れていた。
湊はベッドの上で、ぼんやりと思い出す。
アンバーは嘘を吐いていた。それが何だったのかは解らない。教主が逮捕されたことでSLCは壊滅状態だと言う。どうでも良かった。初めから敵討ちなんて考えていなかったから。
「絵本に出て来るような怪物も悪者も、いなかったよ」
湊が言うと、父は目を伏せた。
長い睫毛が頬に影を落とす。俯いた顔が航に似ていると、いつも思う。
ヒーローは悪者をやっつけて、世界は平和になって、めでたしめでたし。そんなエンディングを何処かで期待していた。だけど、この世は泣きたくなる程に理不尽で不条理なのだ。
アンバーが逮捕されたところでオリビアは生き返らないし、世界は平和にならない。湊にとってSLCは許せない組織だったけれど、それに救われた人も確かにいたのだろう。
何が正しかったのか、間違っていたのか。
答え合わせはまだ出来ない。だからこそ、笑っているしかない。次にやって来る嵐に備えて。
「……去年の夏、お前がSLCに乗り込んだ時」
父が呟くように言った。
「歩みを止めない限り、いつか届くって言っただろう」
「うん」
「俺も、そう思う」
父は二十代の頃からMSFで活動している。
海外の紛争地で医療援助をしながら、世界の命の価値を揃えようとしているのだ。それから二十年近くの月日が流れたけれど、まだその日は来ない。
「いつかを、ずっと信じてる」
命を、生活を脅かすものが何も無く、愛する家族と共に穏やかな平穏を送り、温かい布団の中で生涯を終える。誰も殺されない世界。
「俺はそれ以外の結末を認めない。その為にずっと、戦い続ける」
湊は頷いた。
それでこそ、ヒーローだと思う。
葵君が昔、言っていた。父のすごいところ。
死んでヒーローになったのではなく、生きてヒーローであり続けているところ。その通りだと思った。
生きて行くしかない。
悲しいことも遣り切れないことも、全部自分のものにして進むしかないのだ。
翌日、母が迎えに来た。
母は終始黙っていて、不機嫌に見えた。
叱られて当然だった。湊は他愛の無い会話をしながら謝るタイミングを見計らった。病院の玄関を出た時、母はいきなりその場にしゃがみ込んでしまった。
何が起きたのかと隣に膝を突く。母は顔を覆って泣いていた。微かに聞こえる嗚咽に胸が締め付けられた。口では何も言わずにただ待っていてくれた母がどれだけ心配をしたのか、どれ程に苦しい思いをしたのかと考えると、湊は謝る以外の術が無かった。
「心配掛けて、ごめんね」
蹲る母の肩を抱き、湊は目を伏せた。
駐車場には父と航がいた。泣き腫らした目をした母を見て、父はそっと手を引いた。湊には掛ける言葉が見付からなかった。
俯いていると、航が言った。
「帰るぞ、湊」
帰宅してから、結局、母は寝込んでしまった。
父がお粥を作り、寝室へ運んだ。航が昼食を用意してくれた。弟と二人きりで囲む食卓は静かだった。
食器の触れ合う音が微かに響き、それが何故だか心地良かった。蓋をした暖炉、無くなった毛足の長いカーペット、ロッキングチェアに掛けられていたブランケットももう仕舞われている。
もうすぐ夏が来る。
丸っこいスープボウルを手に取る。ブロック状の南瓜が溶けていて、素朴だけど、喉から胃に染み渡る優しい味だった。
「美味いよ」
湊がそう言った時、航が両目を見開いて固まっていた。どんな顔だ、と笑おうとして、喉が詰まる。
頬が濡れていた。大粒の雫が音を立ててテーブルの上に落ちる。湊は鼻を啜ってから、またスープを口へ運んだ。
美味い、と。
馬鹿の一つ覚えみたいに繰り返す。
そうかよ。
航が素っ気無く、けれど穏やかに言った。それきり何も言わなかった。
初夏の空は残酷なまでに鮮やかに、美しく澄み渡っている。湊は涙を拭った。
「頼みがあるんだ」
湊が言うと、航は手を止めた。
信用されていない顔だと思った。日頃の行いを振り返り、湊は苦笑した。




