⑷希望の轍
殴られた頬が熱かった。
口の中が切れたのか、血が一杯に溜まっていた。咳き込みと共に吐き出せば、足元に血反吐が零れ落ちる。ふと目線を下げた時、転がされた四人の伽藍堂の瞳が見えた。まるで、恨めしいと訴えるように。
熱病に冒されたような熱い息を吐き出して、湊は思い切り背凭れに身体を預けた。頭の中がぐちゃぐちゃだったので、兎に角、冷静になりたかった。
ルークは今、何処にいるのだろう。
此処で引き合いに出さないということは、アンバーはあくまでも俺の意志で選択することに価値を見出しているのだ。それなら、自分が折れなければ、いずれ会える筈だ。
正念場って訳だ。
今の自分に出来るのは、堪えることだけだ。
湊は奥歯を噛み締めた。
「君も科学者なら、優先すべき倫理も解るだろう?」
アンバーは柔らかく問う。
湊は黙って睨んだ。
優先すべき倫理?
こんな地獄みたいな場所に、倫理なんてものは存在しない。人権も、道徳も、人が尊いと考えるものは何も無い。
馬鹿にするな。
込み上げて来る怒りを堪えるように、湊は背中で拳を握った。
この人は、俺が膝を突くところが見たいんだ。何もかもを諦めて、許しを乞うて欲しいのだろう。それは去年の夏に傷付けられた己の矜恃を取り戻す為だ。
此処で俺が折れてしまったら、父を、オリビアを仲間を裏切ることになる。ーーだから、決めた。
絶対に屈しない。
それが今の自分に出来る唯一にして最大の抵抗だ。
何か手掛かりは無いのか。
湊は部屋の中をそっと見渡した。屈強な男達が愉悦と興奮の波に飲み込まれ、拳を握っている。対峙するアンバーは膝の上で両手を組み、自分が折れる瞬間を今か今かと待っている。
打ちっ放しのコンクリートの壁、冷たい床。
手掛かりになるものは、何か。
ふと、目を上げた時、裸の白熱灯が見えた。
……揺れている?
室内に風は無い。地震か?
足元に集中する。床は微かに揺れていた。地震の揺れ方じゃない。微かに聞こえるボイラーの音。此処は工場か?
嗅覚に意識を傾ける。
血と汗、硝煙の臭い。機械油の臭いはしない。それよりも、何処か生臭い感じがした。
エアコンの類や窓も見当たらないのに、この人数に反して室温は低く、湿度は高い。
白熱灯は僅かに横揺れしている。
SLCが何処かの建物に立て籠もるメリットは無いだろう。
なるほど、船か。
湊は顔を上げた。
アンバーと手下の男達。カメラはアンバーの横だろう。ターゲットである自分をよく観察出来る位置にある。
船ということは、彼等は自分を何処かへ連れて行きたいのだろう。時間経過は正確ではないけれど、尿意も空腹感も無いので、眠らされてから時間はそれ程経っていない筈だ。
この船が向かうのはSLCの本拠地、ハバナか?
この情報をどうやって伝える?
誰に? ーーそんなの、一人しかいなかった。
アンバーがパソコンを取り出す。ディスプレイに映るのは匿名の掲示板だった。自分の映像が至る所に拡散され、何も知らない人が好きなことを言っている。
自分に対する憐憫と同情、不甲斐無さへの憤りと諦念。なんだこれは、掃き溜めか。
「見たまえ。これが大衆の正体さ」
アンバーは嘆くように言った。
「集団になることで思考は縮小し、誰かが溝に落ちれば一斉に石を投げ排除しようとする。彼等は家畜と同じだ。何千年も前から変わらない劣等種だ」
下らない。
湊は右足で円を描くように床を撫でた。
気付かれないよう視線はアンバーへ固定したまま、口を開く。
「それでも、人はより良い未来を信じて一歩一歩進んで来た筈だ」
「大勢の犠牲を出しながらね」
「犠牲者を無意味にしないことこそが、俺達に出来る最善だ」
「……君は解っていないね」
アンバーが溜息を吐いた。
「その言葉こそが、多数派の暴論なんだ。君は犠牲者に向かって、仕方が無かったと諭すのかい?」
「貴方の指す犠牲者って、誰のことなんだ」
湊は琥珀色の瞳を睨んだまま、爪先を滑らせる。
今度は歪んだ円だ。
「超能力者のことか?」
「或いは、そうだね。人種、性差、能力値。人は凡ゆるものを他者と比較し、弾圧の対象として祭り上げる」
「だから、人類皆、超能力者にでもしたいのか?」
アンバーは笑った。
「僕が目指すのは、有象無象の淘汰さ。思考する力も無く、他者に寄り掛かかることで自我を保ち、強者に諛うことで自分の有用性を証明しようとする馬鹿で、愚かで、惨めな底辺のゴミを、焼却したいのさ」
謂わば、革命だね。
アンバーはうっとりと、そんなことを言った。
それは一種の選民思想なのだろう。己の正義を貫こうとする思想犯のようにも聞こえるけれど、やっていることは、認められないことに駄々を捏ねる子供と同じだ。
この人は去年の夏から何も変わっていない。
恐らく、彼は他人に過度な期待をしている。自己承認欲求を満たす為に、他者を選別したいのだ。そんなものは何の意味も価値も無い虚構の世界に等しい。
多数派と少数派の逆転。強者による独裁。アンバーの世界では、自己を失くした人形しか生きられない。
匿名掲示板で他人が何を言おうがどうでも良いことだ。憤りも同情も憐憫も好きにすれば良い。そのことに対して、湊は何も感じなかった。不特定多数の中で人は過剰に攻撃的になるものだし、湊にとっては雑音でしかない。自分が自分であるということに、他人は関係無い。
「……話が逸れたね。ゲームの続きをしようか」
湊は祈るような思いで床を撫でる。
「俺に選んで欲しいなら、そっちも答えてくれ」
少しでも時間を稼ぐ必要がある。
視線は天井からぶら下がる白熱灯。
気付け、気付け!
「オリビアはどうして死んだんだ?」
アンバーは目を眇め、両腕を組んだ。
周囲の男達へ目配せすると、その内の一人が部屋を出て行った。何かしらの指示があったのだろうけれど、解らない。アンバーは背凭れに体を預け、静かに口を開いた。
「彼女は優秀な会員の一人だった。だが、SLCを抜けるなんて間違ったことを言うから、思考を正常に戻してあげたのさ」
やはり、オリビアは脱退を考えていたのか。
しかし、SLCという組織は脱退を許さない。監禁し、薬物によって洗脳する。
次の疑問は、その動機だ。
何故、オリビアは脱退を考えたのか。
「オリビアはね、君に裏切られたと思っていたよ」
「俺に?」
何故だ。
どうしてそんな誤解を。
「君には解らないだろうね」
「……」
「オリビアの話を聞いて、僕は君に興味を持った。でもね、会員を唆した罰は受けてもらう必要があったからさ」
だから、襲撃したのさ。
アンバーは嗤っている。
「だけどねぇ、オリビアは君の怪我を見て下らない罪悪感を抱いたみたいでね」
そして、脱退を考えたのか。
何だ、それ。
全部、俺のせいじゃないか。
俺があんな手紙を書いたからオリビアは傷付き、自分は襲撃され、彼女は殺された。
途方も無い虚しさに苛まれ、笑い出したいような、泣き叫びたいような衝動が込み上げる。
俯いた湊の頭の上で、アンバーが嬉々として言った。
「さあ、ゲームの続きをしよう」
扉が開かれる。
現れたのは一人の女性だった。
腹が大きく膨れている。妊婦だ。彼女は顔を真っ青にして、震える唇で祈りの言葉を繰り返した。
扉を閉めたアンバーは、それまでと同じように銃口を妊婦の後頭部へ押し付けた。
「この人は我がSLCの会員の妻でね、夫の外出中に姦淫し、妊娠したんだ」
「それが不貞だと、どうして解る」
「はは。それを君に見定めて欲しいのさ」
頭が割れそうに痛い。
この問いは、それまでと違う。
彼女の罪は彼女のものだ。だけど、その胎に宿る命に何の罪があると言うのか。
子供に親は選べない。
たった一人でノアを産み、育てたフローラの声が聞こえた気がした。
「選び易いようにしてあげるよ」
再び扉が開く。
その向こうから、引き摺られるようにして現れたのは、ルークだった。猿轡を噛まされ、両手両足を拘束され、芋虫のようだった。
怯え切った眼差しで、何かを懸命に訴えている。
湊は静かに深呼吸をした。此方の動揺は、毛程も勘付かれてはならない。常に余裕の態度でいなれけば、正当な取引は行えない。
「お願い。助けて。この子は本当に夫の子よーー!」
女性の言葉は歪んで聞こえた。
この人は、嘘を吐いている。
アンバーが嗤った。
「君が間違えた時は、こっちの少年を殺すよ」
こんなの自分の能力の証明とは関係無いじゃないか。嘘を見抜いたって、間違ったって、どちらかは死ぬ。この人は、ただ自分を貶めたいだけだ。忌々しさに目眩がした。
もういい。
諦念にも似た冷たい感情が湧き出して、湊は口を開いていた。
「ルーク」
アンバーの足元に転がされたルークは、恐々と目線を上げた。巻き込んで申し訳無いと思う。でも、此処で自分は折れられない。
「死ぬ時は一緒だ」
口角を上げて言えば、ルークが笑ったようだった。
アンバーには、解らないだろう。
湊は顔を上げた。
これ以上、アンバーの掌で踊らされるのは沢山だ。この予定調和をぶっ壊してやる。徹底抗戦は得意だ。
「アンタは人々を馬鹿だと思ってるんだろう。他人を見下すことでしか自己を保てない弱い人だ」
アンバーは笑っているが、湊にはその琥珀色の瞳が翳ったように見えた。
湊は推測する。ーーこの人は、他者から否定されて来なかったのだ。だから、味方しかいない不完全な箱庭の王様になった。
何もかもが自分の思い通りにならないと気が済まないのだ。ツークツワンクで盤そのものを引っ繰り返すような幼稚な人間だ。故に、反抗し続ける自分を無視出来ない。
「アンタは要するに、馬鹿なんだ。アンタが見下す人々の小さな積み重ねが歴史を作って来たということが、まるで解ってない」
「……何を」
「他人を認めて自分を省みる度量が無いから、誰かのせいにして現実から逃げているんだろう。誰かを攻撃することで優位に立てていると勘違いしている愚かな大衆そのものが、アンタだよ」
アンバーの顳顬が痙攣した。
周囲を固める男達が殺気立って距離を詰める。だが、湊は躊躇わなかった。沈黙は肯定だ。アンバーの狂った思想を許す訳にはいかない。
「自分が特別な存在だと信じたいんだろう? 認めて欲しいんだろう? だから超能力に縋りたいんだろう? 肩書きが無いと満足に立つことも出来ないから」
「……」
「アンタが例え認められて、尊敬されたとしても、革命が成功したとしても、そんなものは一時的な流行と同じで、すぐに忘れられる。人間なんて誰しもちっぽけな存在で、目の前の日常を積み重ねるだけで精一杯なんだよ」
アンバーの銃は妊婦の後頭部を捉えていた。
間に合うか? 届くか?
もういい。後のことは後で考える。俺は今の自分に出来る最善を尽くす。
「超能力は身体機能。それは、差別的な意味ではない。人は誰もが誰かにとっての特別だ。能力の有無や優劣でその人の価値が決まるなんてことは有り得ない」
ルークを見る。
巻き込んで本当に悪かった。また一緒にバスケがしたかったな、なんてぼんやりと思った。
「アンタはレイシストだ。俺は、そんな偏見と差別に立ち向かう為にあの論文を書いたんだよ。……超能力があろうがなかろうが、命の価値に違いは無い。俺はそう信じている」
親父。
俺に力を貸してくれ。こんな時こそ、笑って挑むんだろ。
湊は腹に力を込めた。
「命の価値を揃える。誰も殺されない世界。机上の空論だろうと綺麗事だろうと、俺は親父の掲げた理想を実現する。……だから」
アンバーを睨み、湊は言った。
それは宣戦布告と等しかった。
「俺は絶対にアンタに負けない」
12.テンペスト
⑷希望の轍
映像の中の湊の足元が、奇妙な動きをしていた。
航はライリーの肩越しに画面を見詰め、唐突に、それを理解した。
数字だ。
006ーーわたる。湊は、自分に向けて何かのメッセージを送っている。
映像の中の湊は、アンバーというSLC教主と話しているようだが、時々視線が散るのだ。先程、酷く殴られていた。包囲されているのだろう。
だけど、それだけじゃない。その目は天井から下がる白熱灯を睨んでいた。自分でなければ気付かないような些細な視線の動きだった。
何故、白熱灯を?
どんなメッセージがある?
航は身を乗り出し、ライリーの肩を掴んだ。
「この白熱灯、揺れてないか?」
ライリーが映像を凝視する。
ゾーイが頷いた。
「地震?」
「陸路は検問が張られてるし、時間と移動距離から割り出した地域に地震は無いな」
「じゃあ、空調?」
「白熱灯が揺れる程の風は無さそうだけどな。湊の髪も揺れてない」
確かに、あの鬱陶しい前髪が微動だにしないのは不自然だ。メッセージを伝える為に、敢えて身動き一つしていないとしたら?
「音量を上げてくれ」
航が言うと、ライリーがすぐに実行した。
音声だけを抽出し、湊とアンバー、不特定多数の男の声の他に、雑音が混じる。まるで、重低音のような唸り。
「何の音?」
ゾーイが言うと、ライリーは類似音を無数に引き出して照合を始めた。
「一番似ているのは、ボイラーの音だな」
「工場?」
「いや……」
ゾーイの発言を航は否定した。
瞼の裏に浮かぶのは、ハバナの海だった。SLCの本拠地。
「船だ」
陸路は検問が張られていて、脱出は容易ではない。
地区内には海に通じる河川があり、距離と時間を考えると可能性が高い。
ライリーは周囲の河川に設置された防犯カメラの映像を映した。田舎であるせいで、流石に数は少ない。けれど、ルートから絞り出せる筈だ。
幸運にも河川は入り組んでおり、海までは距離がある。此処を抜けられたらお終いだ。航は立ち上がった。
「追い掛ける」
「船をか?!」
問答する時間が勿体無い。
航がヘルメットを引っ掴むと、通路を塞ぐようにリュウが立ちはだかった。
「SLCは危険な集団です。神木さんが到着するのを待って、警察に任せるべきです」
「うるせぇな。そんなの、俺だって解ってんだよ」
正論なんて解ってる。
だけど、それに何の価値があるだろう?
「警察が間に合う保証は無ぇ。それなら、俺は自分に出来ることをやる」
リュウは訝しむように目を細めた。
理解出来ないかも知れない。でも、別に良かった。
「湊の正義が他人に汚されることが許せないって言ってただろ。ーー俺もそうだよ」
今もインターネットでは何も知らない馬鹿な民衆が好き勝手に喚いている。兄の人格すら否定し、悪意の礫を投げ続ける。きっと、湊はそれでも折れないし、痛がらない。だけど、傷付かないのとは、違う。
透明人間だった自分の側にいてくれたのは、そういう湊だった。他人の評価に踊らされず、自分が信じたものを最後まで貫こうとする。
「俺はこういう人間だって、胸を張って言える奴が世の中にどのくらいいるんだよ。自分の心を信じて、先陣切って真っ暗な道を走って行ける奴がさ」
善悪も正誤もただの言葉だろう。誰も答え合せなんてしてくれない。それなら、自分が信じたいものを信じたって良い筈だ。
「湊はそういう奴なんだ。俺はそういうところがいつも眩しくて、羨ましくて、格好良いと思ってた」
こんなこと、本人には絶対に言ってやらないけど。
「バイクの後ろに、湊を乗せて走ってる時、俺は何処へでも行ける気がした。何も怖くなかった」
後部座席に座った湊が、調子外れの鼻歌を歌っている。天気は晴れでも雨でも良い。びしょ濡れでも、凍えていても、湊は笑ってくれる。
「此処で俺が退いたら、その時間が無くなっちまうかも知れないってことだろ? 俺はそんなの御免だね。湊には言ってやらないけど、俺はその時間が何より好きなんだ」
それこそ、バスケットボールをしている時よりも。
立ち尽くすリュウの胸を押すと、簡単に道が開いた。
航はポケットの中からバイクの鍵を取り出し、掌に乗せた。
「ヒーローじゃなくったって良いんだ。悪者でも、悪党でも、何でも良いんだ。湊さえいれば、俺は無敵なんだ」
玄関の扉に手を掛け、振り返ると、リュウとゾーイ、ライリー、ホセが見詰めていた。
どうせ、本人は此処にいない。航は笑った。
「湊の敵は、俺の敵だ。戦う理由はそれで十分だ」
リュウは腰に手を当て、深い溜息を吐いた。
口元には微かな笑みが浮かんでいる。
「本当に、貴方達はそっくりですね」
それが誰を指しているのか、航には解る。
当たり前だ。自分達は、己の血肉を分けた双子なのだ。
「僕も行きます。湊を助けたいのは、僕も同じです」
廊下の向こうでライリーが声を上げた。
「不審船を捕捉したぜ! ナビゲーションは任せろ」
「私はFBIとの連絡をするわね」
「僕は映像の解析を続けようか」
ライリーが、ゾーイが、ホセが笑う。
その時、湊の携帯電話が震えた。着信。ライアンからだった。状況を伝えると、河口付近で不審船を待ち伏せてくれると言う。
失っても、失っても、希望はある。
父の口癖が耳元で蘇り、胸が熱くなる。
ゲームセットにはまだ早い。
航は玄関を飛び出した。




