⑷泣き声
「湊……?」
半開きの扉から内部を覗く。
高密度の闇が充満し、屋敷は不気味に静かだった。
航は懐中電灯で遠くを照らし、荒れ果てた内装に顔を顰める。玄関先には何かの破片が散乱し、とても裸足で歩ける状態ではない。
内心で謝罪しつつ、土足で上がる。後ろを歩くソフィアが何かの破片を踏み、乾いた音が鳴った。
可能な限り遠くまで照らしてみたが、人の気配は無い。建物の間取りを頭の中に思い浮かべ、早速行き先を迷う。
こんな時、湊がいれば。
そう思わずにはいられない。兄がいれば、今頃はよく解らない蘊蓄を語って静寂を打ち砕き、迷いの無い足取りで先頭に立ったのだろう。
「……赤ちゃんの声がする」
ぽつりと、ソフィアが言った。
そんなことは知っている。そして、それが人ならざる者の声であることも察していた。
「お前、幽霊と話せるんだろ。説得して湊を取り返せよ」
「降霊術には手順があるの。それに、此処は」
ソフィアは辺りをぐるりと見渡した。
「此処は牢獄のようだわ。子供達の霊が出口を探して彷徨ってる……」
牢獄に子供?
意味不明だ。航は舌打ちを漏らし、廊下を早足に進んだ。
廊下の突き当たりに部屋が一つ。一応内部を覗いてみたが、家探しでもしたかのように荒れ果てていた。とても足を踏み入れることは出来ない。
床に落ちた血痕を辿り、リビングへ。
大きな窓には裂けたカーテンが下がり、壁には鋭利な刃物による傷が幾つもあった。倒れた植木は腐っており、枯葉が散らばっている。家具の類は全て横倒しになっており、家の中に台風でも直撃したみたいだ。
家族の団欒の場所だっただろうソファーも悲惨な有様だった。其処に突き立てられた斧に背筋が凍る。
何だ。この家で何があったんだ?
ふと顔を上げると、裂けたカーテンの向こうに窓硝子が見えた。外は闇に染まり、鏡のように自分達の姿を映している。ーーその時、血の気の無い腕が窓を叩いた。
バンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンッ!
ソフィアの悲鳴が耳を劈く。航は石像になってしまったかのように動けなかった。
音は止まない。開けてくれ、助けてくれ。そう懇願するみたいに。
子供の腕だった。
自分に似た未発達の細い腕。
航が動かないと察したのか、腕は静かに消えて行った。二人は固まっていた。
頬から冷たい汗が落ちて、一気に拍動が戻る。呼吸が止まっていたらしく、必死で酸素を吸い込んだ。
航は全身にびっしょりと汗を掻いていた。酸欠で頭がくらくらする。
「何だってんだよ……」
膝に手を突いて呼吸を整える。
バスケの試合をした後よりも疲れていた。
ソフィアは口元を押さえ、歯切れ悪く言う。
「貴方を仲間にしたいんだわ」
「はあ? 何で」
ソフィアは言葉を躊躇ったようだった。
航が眉を寄せて促すと、歯切れ悪くソフィアは言った。
「貴方は独りぼっちの苦しさを知ってる」
その言葉に苦い思いが込み上げて、航は悪態吐いて立ち上がった。
リビングにはカウンターキッチンが付いていた。喉がからからに乾いていたが、この場所の水は死んでも飲まない。どれ程の間使われていなかったのか、排水管からは腐臭が漂う。
調理台のナイフスタンドが空になっていたので、ぞっとした。何処へ行ってしまったのだろう。
冷蔵庫は当然稼働していない。何かしらの情報があるのかも知れないが、安全優先だ。
キッチンの向かい側にはトイレと風呂場があった。嫌な予感しかしないので見なかったことにする。危ない橋は渡らない。航のモットーだ。
一階にはもう一つ部屋があったが、行かなかった。
血痕は誘うように二階の階段へ続いていた。
木製の折り返し階段は、板が腐食しているのか足を乗せる度に軋んだ。手摺には触れず、踏み外さないように慎重に進む。
航が二階へ差し掛かった時、後ろにいたソフィアが悲鳴を上げた。勢いよく倒れ込み、そのまま下へ落ちて行く。航は咄嗟にその手を取った。
血の気が引いた。腕に掛かる重みは少女一人分の体重とは思えなかった。ソフィアが痛みを訴えて叫ぶ。航は懐中電灯でその足元を照らした。
手だ。
幾多もの白い手がソフィアの足を掴んで、階下へ引き摺り込もうとしている。
「ふざけんなよ……!」
階段は軋み、今にも抜けそうだ。航は全身に力を込めて、ソフィアの腕を引っ張った。脱臼程度で済むのなら安いものだ。
唐突に力が軽くなり、航は一気に引き上げた。
勢いを殺し切れず、二人で二階の突き当たりまで吹っ飛んだ。打ち付けた背中が鈍く痛んだ。
航が呻いていると、ソフィアは慌てて起き上がった。
腕に鋭い痛みがあり、見れば何処かにぶつけたのか皮膚が切れていた。
狼狽するソフィアを押し退けて、ポケットから大判のハンカチを取り出す。端を歯で押さえて切り裂き、包帯の代わりにする。
「……慣れてるのね」
「まあな」
昔から生傷が絶えなかった。直情的な性格は自覚している。下らない喧嘩なんて山程したし、バスケをしていれば気付かぬ内に痣だらけになっていた。
こんな傷大したこと無い。
ただ、空気が悪いので破傷風だけが心配だ。
処置を終えた航は階下を照らして見た。
先程のせいで階段は所々穴が開いていた。背水の陣と呼べる程に追い込まれていないが、確実に誘い込まれている。
二階には四部屋ある。虱潰しに見ても良いが、多分、怪しいのは北側だ。あの女がいたのも、湊が怪しんでいたのも北側だった。
床にはご丁寧に血痕が続いている。
どうする。ーーいや、進む以外の選択肢は無い。
情報が欲しい。此処は何なんだ。曰く付きの物件というものは世の中に掃いて捨てる程ある。
湊は事前に所有者と連絡を取っていた。情報共有する暇が無かったのか。それとも、敢えて言わなかった?
爪を噛む。済し崩し的に此処まで来たが、本当に正しい判断だったのか。湊ならどうしただろう。
航が思考の渦に飲み込まれ掛けていると、ソフィアが言った。
「地下から赤ちゃんの声がする……」
その言葉に呼応するように、階下から赤子の声が響いた。
ああああーー……。
ああーー……。
あれ程に不気味だった声が、何故だか悲鳴のように聞こえた。誰か助けてと、身体を震わせて泣いているような。
航は周囲を見渡し、錆び付いた古い傘を見付けた。
元が何色だったのか解らない程に色褪せているが、丸腰でいるのは心許なかった。
「泣いているわ……。冷たくて、暗くて、苦しいって……」
目を伏せたソフィアは、苦しそうに胸元で両手を握っていた。
航には霊が何を言っているのかなんて解らない。だが、今のソフィアが演技をしているとは思えなかった。
1.幽霊屋敷
⑷泣き声
お楽しみは後に取って置く方だ。
航が選んだのは南に位置する部屋だった。どうせ全部の部屋を見る必要があるのなら、初めから危険を冒すことも無い。
階段横のインナーテラスを抜け、南の角部屋へ。
どこもかしこもおんぼろで、歩く度にぎしぎしと床が鳴る。錆びた引き戸をこじ開けて、扉を蹴り飛ばす。破裂音に似た乾いた音と共に扉は開いた。
子供部屋のようだった。
ファンシーな壁紙は汚れて、ペガサスのイラストが薄笑いを浮かべているのが何とも不気味だった。
部屋の中央に人形が山を作っていた。意味深だ。航が傘の先で突くと、女児向けの着せ替え人形がごろりと転がったので声を上げそうになった。
しかし、その下から見慣れた兄の顔が見えて、航は叫んでいた。
「湊!」
ぬいぐるみの山に隠されるように、湊が寝転んでいた。意識は無い。思わず駆け寄って揺さぶるが、目を開けなかった。脈拍は弱く、まるで冬眠中の動物のようだった。
顳顬から血が溢れている。硝子で切ったのだろう。
深くはなさそうだが、場所が場所なだけに心配だった。
湊さえ見付かれば、他の事はどうだって良い。
意識の無い兄を担いで部屋を出ようとした瞬間、ソフィアが叫んだ。
「下がって!」
目の端にオレンジ色の光が見えた。その種火は二人の周囲を取り囲むようにして円を描き、一瞬にして激しく燃え盛った。突然の事態に声も出ない。呼吸する度に喉が焼けそうだった。
火気なんて無かったのに、これではまるで自分達を逃すまいとしているようだ。炎は壁を焼き焦がし、足元に転がるぬいぐるみを溶かして行く。
ああああーー……。
ああーー……。
轟々と唸りを上げる炎を前に、航は愕然と立ち尽くしていた。消火器なんてある筈も無い。身の丈より高く燃える炎に航は成す術が無かった。
炎の向こうでソフィアが呼んでいる。
湊は目を覚まさない。
このまま突っ切れるのか。湊を担いで?
でも、此処にいたら二人共死んでしまう。
追い詰められ、思考が停止する。真っ赤な炎に照らされ、航は最悪の状況を考えた。
どうしてこんなことになっているんだ。俺が湊を巻き込んだのか。俺のせいなのか。
貴方は独りぼっちの苦しさを知ってる。
不意にソフィアの声が蘇り、反吐が出そうだった。
あれは、七歳の頃だっただろうか。
航と湊はバスケットボールチームに所属していた。
バスケが好きだった。だから、我武者羅に練習して、実力を磨いた。ただ上手くなりたかった。そして振り向いた時、仲間はいなかった。
どの世界に行っても、出る杭は打たれる。
航が受けていたのは、直接的な暴力ではなく、徹底した無視だった。話し掛けても無視。怒鳴っても無視。掴み掛かっても無視。まるで自分が透明人間になってしまったかのようだった。
凍えるような孤独を知っている。
生まれて初めての挫折は血の味がした。
炎に包まれながら、視界が絶望に暗くなって行く。
苦い後悔が込み上げて、何も考えずに叫び出したくなる。
だが、その時。炎に照らされた兄の横顔が、いつかの夕暮れに見たそれと重なって見えた。
夏の夕暮れ、影法師。
無表情の兄が何かを言った。透明感のある瞳に映る覚悟。ーーあの時の兄の言葉が、自分には聞こえていた。忘れてなんていなかった。
いつか誰かが、なんて期待しない。
今、俺がやるんだ。
湊がチームの上級生を殴ったのは、その翌日だった。
自分よりも大きな少年を相手に、防御も取らず、何の見返りも無いのに。馬鹿だな、と思った。
「……俺が」
航は、いつかの兄の言葉をなぞった。
「俺がやるんだ」
その言葉を口にすると、まるで闇の中から朝日が昇ったかのような希望に胸が熱くなる。
腹の底から勇気がこんこんと湧き出て来て、迷いも柵も全部溶けて消えてしまった。
こんなところで死んでたまるか!
航は傘を開いた。
ああああーー……。
ああーー……。
赤子の声が聞こえる。
航は声を張り上げた。
「受け止めろ!」
傘を振り被り、風を作る。天井に届きそうな炎が弱まった瞬間、航は湊を投げ飛ばした。
瞠目しながらもソフィアは湊を受け止めたらしかった。陽炎に滲む世界の奥で、ソフィアの混乱が聞こえた。航は救われたかのような心地になっていた。
炎はどんどん激しくなり、最早脱出は困難だった。
万事休すだ。
航はその場に座り込み、焼けて行く天井を他人事のように眺めていた。
どうしてこんなところに来たんだっけ。
航が現実逃避を始めた時、炎の向こうから声がした。
「航!」
切羽詰まった兄の声が響いて、航は弾かれたように立ち上がった。炎が突然弱まって、モーセの海割みたいに道が現れる。
湊は何かの粉を握っていた。航が炎の隙間を駆け抜けると、湊は足元に置いていた紙袋から有りっ丈の白い粉を振り撒いた。
ベーキングパウダー、炭酸水素ナトリウムだ。
キッチンから運んで来たのだろうか。だが、部屋の中を埋め尽くす炎を消すにはどう考えても足りない。このままでは屋敷そのものが焼け落ちる。
だが、不思議と不安は無かった。
炎に照らされる兄の横顔を見ていると気持ちが凪いで行って、火事も赤子の声も幽霊も怖くはなかった。
三人は暫く炎を眺めていた。
そして、炎は見る見る内に勢いを失くし、最後は何事も無かったかのように消えてしまった。真っ黒に焦げた壁紙と天井だけがあの炎の勢いを物語る。
熱に溶けたぬいぐるみの瞳がまるで口惜しいと泣いているように見えた。