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ハロー、マイヒーロー!  作者: 宝積 佐知
11.天国に告ぐ
76/106

⑻嵐の前

 分析結果が出たよ。


 携帯電話を握る手に力が篭る。

 湊は夜の闇に包まれた庭先で耳を峙てた。


 電話の相手はライリーだった。研究室に勢揃いしてくれたらしい。全く、頼もしい暇人共だ。

 先を促すと電話はホセに代わった。湊にはその意味が解った。予想もしていた。


 端的に言うと、薬は所謂、精神刺激薬だった。

 特定の脳内物質に作用し、精神状態を乱すのだ。メタンフェタミンやニコチン、メチルフェニデート等の物質の名前が上がり、最早溜息も出なかった。

 それ等の物質作用から鑑みるに、この薬の製造者、或いは投与した者は脳内にあるリミッターを外したかったのだろう。


 防衛機制の破壊。

 聞き覚えのある話だ。それを破壊されたら、人は衝動と欲望のままに活動する獣以下の生物に成り下がるだろう。


 効能と副作用は比例する。リリーの病が診断されたのは去年のクリスマス。それからずっとこの薬を投与されていたのなら、症状にも納得出来る。


 カルテが見たいと思った。診断結果に嘘があれば、例え紙面上だとしても手掛かりくらいは掴めるだろう。どうせ、カルテの改竄なんて彼等にとっては造作も無いことなのだからーー。


 ふと、気付く。

 何故、そう思う?

 頭の中でここ数週間の記憶が錯綜した。ロイヤル・バンク、ルーカス氏の自殺、アメリアの死、残されたエマ。リリーの病、超能力による殺人、痛みを知覚しない殺人犯。SLCとオリビア。脳と超能力の関係。


 散らばっていた点と点が糸で繋がる。

 全ての起点にあるのは。


 湊は頭を抱えた。腹の底で何か冷たいものが暴れているような悍ましい感覚だった。前髪を握り込み、確証バイアスから抜け出す為の選択肢を無数に探す。けれど、いずれの可能性も同じ結論に帰結する。




「……俺の、論文……!!」




 オリビアに宛てた手紙のつもりだった。

 アンカー理論に固執する彼女に、別の観点を知らせることで前を向いて欲しかった。君のせいじゃないよと教えたかった。そして、アンカー理論が立証された時、彼女が孤独にならないように。


 スピーカーの向こうでホセが呼んでいる。

 応えなければ。そう思うのに、喉がからからに乾いていて声が出なかった。


 リリーが狙われたのは、PKの能力者だったからだ。

 PSIに対して脳内物質に刺激を与えるーー自分が、論文に書いた。

 脳内物質を操作することでPSIに対抗する。クラブで連続殺人鬼と対峙した時にもやったことだ。つまり、リリーは、SLCの被験者の一人だった。




「……ごめん」




 一方的に通話を切って、走り出した。

 リビングに繋がる窓を開き、転がるようにしてトイレを目指す。ソファで微睡んでいた航が呼んだような気がしたけれど、応えられなかった。


 胃液が食道を逆流する。便器を抱えて吐き出した。

 消化途中の夕飯の残りと黄色っぽい胃液が便器の中に浮遊する。指先が冷たかった。頭の中をハンマーで殴られているみたいだった。


 喉は焼け付く程に熱いのに、体は何処までも冷え切っている。肌一面に鳥肌が立っている。視界がぐらぐらと揺れて、何処に焦点を当てるべきなのか見当も付かない。


 絞め殺される鶏の断末魔みたいな声が出た。

 額に汗の雫が張り付いて、吐瀉物の上にぽたぽた落ちる。生理的な涙が滲んだ。


 ごめん、と誰にともなく呟く。同時に、自分の中の誰かが、許されたいだけだろうと嘯く。頭の中がぐちゃぐちゃだった。


 俺があの論文を書いたから?

 だから、オリビアは死んで、リリーは苦しめられたの?

 ルーカス氏は? 連続殺人の被害者達は?


 俺が殺したの?




「……湊?」




 背中に声が聞こえた。航だ。


 大丈夫。大丈夫。自分に言い聞かせる。

 大丈夫だって言うんだ。ちょっと気分が悪くなったんだって、何でも無いよって、笑って。


 SLCが巨大な組織であることは知っていた筈だ。動向を見張っていた。奴等のターゲットが自分である内は、他の誰も巻き込まないで済むと思いたかった。そんな希望的観測で、一体今までどれくらい大切なものを取り零した来たのだろう。


 病院はグルだった。ロイヤル・バンクも敵だ。警察組織はどうだろう。FBIは。駄目だ。何処までSLCが入り込んでいるのか解らない。


 どうやって太刀打ちする?

 一般人の、ましてや未成年の自分に何が出来る。

 誰が信じる?




「……湊、こっち向け」




 肩を掴まれて振り向かされる。咄嗟に目元を拭った。情けない顔は見せられない。

 航の手には水の入ったグラスがあった。手を添えられて喉の奥に流し込まれる。食道にこびり付いた胃液が元のように落ちて行く。




「落ち着いたか?」




 嫌悪も憐憫も無いフラットな顔で、航が言った。

 声が出なかった。激しい混乱状態の後、虚無に似た冷静さを取り戻す。そして、次に湧き上がって来たのは燃え盛るような憤怒だった。


 SLCは実験をしていたのだ。

 自分の論文の真偽を確かめる為に、オリビアやリリーはその被験者だったのだ。


 ーー人の命を、何だと思っているんだ!!!!!!


 なんて醜い。なんて汚い。ーーでも、自分には何も出来ない。

 誰かに話せばその人も巻き込む。研究室の仲間も危険だ。家族も、葵君も、リーアムやリリーも。


 どうすれば良い。どうすれば良いんだ。




「湊!」




 ぱちんと、シャボン玉が弾けるように。

 航の顔が見えた。濃褐色の瞳に、酷い顔をした自分が映っていた。




「てめぇ、何処見てやがる」

「航……」




 視界が明瞭になって行く。フローリングの廊下からバイブレーションの音が響いていた。一体、いつから。

 航は舌打ちを一つ零すと、膝に手を突いて立ち上がった。そのまま真っ直ぐに歩いて携帯電話を拾うと、いつもの仏頂面で差し出して来た。




「お前の愉快な仲間が呼んでるぞ」

「うん……」

「出たくないなら、俺が代わりに話す。でも、俺には全部言え」




 拳を握る。

 いつまでも手を伸ばさずにいたら、航が溜息を零して通話を始めた。




「湊は今、手が離せねぇ。用件は俺が聞く。……あ? 平気だよ。……んだよ。じゃあ、後で折り返しの電話させるから」




 じゃあな。

 そう言って、航は通話を切った。

 携帯電話を投げて寄越されたが、指先がもつれて受け取れなかった。トイレの床に携帯電話が落ちて、ごつんと低い音がした。




「じゃあ、洗いざらい話してもらおうか。何の話をしてたのか、何でお前がそんな顔色してんのか」




 恫喝するように航が凄む。酷い悪人面だった。双子の自分もこんな顔をしているのだろうか。

 怖くはない。けれど、何故なのか涙が出そうだった。




「場所変えるか? もうちょっとくらいなら、待ってやっても良い」

「……駄目だ」

「あ?」

「駄目だ。航を、巻き込めない」




 航の片眉が跳ねる。胸倉を掴まれて、視界が揺らいだ。至近距離から濃褐色の瞳に射抜かれる。




「巻き込んでみろよ」




 喉が詰まって、空気の抜ける音がした。

 航は力を緩めない。




「てめぇが言ったんだろうが。何も言わないことが一番相手を心配させるってよ。あれは嘘か? 方便か?」

「……でも!」

「でもじゃねぇ!!」




 肩が跳ねる。殴られると思ったし、それを甘んじて受けようとすら思った。けれど、航は胸倉を掴んだまま、低い声で話し続けた。




「お前は自分で選んだ道なら、地獄でも行くんだろ? 俺もそうだ。お前が地獄に行くって言うなら、俺はいつでも地獄まで行って、その首根っこ掴んで引き戻してやらァ」




 航は鼻を鳴らして、手を離した。咄嗟に後ろへ手を突いたら、スリッパに滑って倒れそうになる。

 LEDの光を遮って、航が正面に立ち塞がる。




「てめぇは俺の兄貴なんだろ?! それなら腑抜けた姿見せんじゃねぇ!! てめぇは轍で道導だろ! てめぇだけ横道逸れて、俺だけ真っ直ぐ歩けるかよ!!」




 心が震えた。いつもそうだ。航の言葉には熱があって、滅茶苦茶な感情論なのに心を打つ。


 弟に此処まで言わせて、何も出来ないのでは兄を名乗れない。湊は口元を拭って立ち上がった。




「……全部話す。だから、場所を変えよう」




 背中を向けると、おう、と低い声が返って来た。

 開け放たれた窓を見る。外には夜の闇が広がっていた。







 11.天国に告ぐ

 ⑻嵐の前









 状況は凡そ把握出来た。と言うよりも、或る程度の予想はしていた。


 航は項垂れる湊の後頭部を眺めながら、どんな言葉を掛けるべきか悩んだ。

 余り人前で落ち込んだり悩んだりしない男である。一人で勝手に決めて走り出して、勝手に立ち直るのが常だった。そんな湊が憔悴し切っているので、叱り付けるべきなのか慰めるべきなのか解らない。


 事の発端は湊の論文である。

 オリビアの為に書いたそれが何故かSLCに流れた。それを見たSLCは真偽を確かめる為に人体実験を行なっていた。


 湊が論文を書いたせいで、オリビアは死に、リリーが苦しんだのか。航は全力で否と叫ぶ。そんなことに責任を感じているのならば、それは傲慢というものだ。


 最も糾すべきはSLCであり、次点が論文を流出させた者だ。湊がどんな荒唐無稽な論文を書こうとそれは表現の自由であると思う。第一、本人は友人を励ます為に書いたのだ。


 そして、流出させた人物については察しが付いている。賢い癖に鈍い湊は疑いもしていないようだが、第三者として関わって来た航には一目瞭然である。


 流出させたのは、オリビアだろう。

 湊はオリビアに手紙を書いたのだ。他に登場人物がいない。それが故意によるものなのか、事故なのかは解らない。だから、湊はオリビアを疑えないのだ。


 犯人探しをするのは時間の無駄だろう。今やるべきは其処じゃない。優先すべきは身の安全。その最優先がリリーである。


 リリーの病がSLCによる捏造である可能性が出て来た。しかし、病院で検査した訳ではないのだ。湊的に言うなら、希望的観測によって選択肢を見失う状態である。病が嘘ならそれで良いけれど、真実だった場合のことを考えると打てる手は打たなければならない。


 流石に医療関係者の知り合いはいない。湊やあの愉快な仲間達ならコネクションくらい持っていそうなものだが、彼等が動くと足が付く。結局、リリーが危険なのだ。


 どうする。

 信頼出来る医療関係者。ーーと考えたところで、閃いた。むしろ、どうしてすぐ其処に行き着かなかったのかと情けなく思った。




「親父に相談しよう」




 顔を上げた湊が、まるで何言ってんだこいつ、みたいな顔をして来たのでムカついた。

 航は苛立ちを呑み込みながら言った。




「親父なら顔が効くだろ。信頼出来る病院を紹介してもらえるし、何ならSLCと渡り合うコネクションもあるかも知れない」




 過大評価ではない。

 自分達の父親は、本当に普通じゃないのだ。

 何故か名だたる大企業の社長と懇意にしていたり、有名ロックミュージシャンと知り合いで新曲が毎回送られて来たり、ハリウッドスターから直々に新年の挨拶があったりする。


 祖父は臨床心理学会の権威であると同時に、フィクサーと呼ばれる世界の裏の重鎮であり、叔父は元メジャーリーガーである。もう訳が解らないくらい顔が広いのだ。そんな親父はMSFで世界中を飛び回っているし、自分達の後見人はFBI捜査官である。何を怖がる必要があるだろう。


 善は急げだ。

 航はポケットを探って携帯電話を取り出そうとしたが、昼に壊れたことを思い出した。そういえば修理可能なのだろうか。


 がっくりと肩を落としていると、湊が携帯電話を差し出した。プライバシーを気にしているんだかそうじゃないんだかよく解らない男である。

 航は携帯電話を受け取ると、父の番号へ掛けた。紛争の真っ只中で医療援助を行う父と繋がる望みは薄かった。スピーカーに切り替えて二人で小さなディスプレイを覗いた。


 十回以上呼び出し音が鳴った。

 掛け直そうかと言い掛けたタイミングで、いきなり通話が繋がった。




『どうした?』




 何をしてくれた訳でも無いのに、父の声を聞くと安心するのは何故なんだろう。航は緩みそうになる涙腺を叱咤して、事の経緯を懸命に話した。

 スピーカーの向こうでは何やら騒がしかったけれど、父は通話を切らずに最後まで聞いてくれた。そして、航が話し終えると明るく言った。




『じゃあ、俺の知り合いの病院を紹介するから、其処で詳しく検査してもらえ。話しておくから』




 なんて心強いんだろう。湊がぐだぐだ悩んでいたのが馬鹿みたいだ。まあ、馬鹿には違いないんだけど。




『よく相談したな。偉いぞ。お前等より、俺の方が選択肢が多い。任せろ』




 親父。掠れるような声で湊が言った。

 もっと早く相談するべきだった。それこそ、湊が入院した時に。


 入院した時?

 そういえば、親父は知っていたのだ。湊がSLCに狙われて、重症を負って運ばれたことを。見舞いにも行ったらしい。




「親父は、湊が怪我したこと知ってたんだろ?」

『……』

「何で黙ってたんだ。何で、その時に助けてくれなかったんだ!」




 携帯電話に向かって怒鳴る。隣で湊が制した。




「親父は助けてくれたよ。俺の所在を隠してくれたのは、親父なんだ」




 情報操作。なるほど、汚い大人の好きな手だ。

 しかし、自分達を守るのもその汚い方法なのだ。責めるべきではないけれど、隠し事をされていたということが許せなかった。




『何でもかんでも救える訳じゃないからだよ』




 聞き飽きた言葉だ。

 航は鼻で笑った。




「それで息子が死にかけてたら世話ねぇわ」

『違いないな』




 いつもそうだ。父は聞き分けが良いふりをする。だから喧嘩にならない。




『近日中に帰るよ。それから作戦会議をしよう。葵にも連絡を入れておくから、呉々も勝手な行動起こすなよ』




 誰に言ってんだ。

 航が凄むと、父が笑った。この暖簾に腕押し感は何なのだろう。


 通話を切る。航は湊に向き直った。




「ほらな? 相談して良かっただろ」

「うん……」

「あとはあの愉快な仲間達に連絡してやれ。心配してんだろ」




 湊は肩を竦めて笑うと、目の前で電話を掛け始めた。

 何処か吹っ切れたような明るい声だった。航はその声を聞きながら、幼い頃の兄の姿を思い起こしていた。

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