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ハロー、マイヒーロー!  作者: 宝積 佐知
11.天国に告ぐ
75/106

⑺君のヒーロー

 リリーを車椅子に乗せた時、なんて軽い体なんだろうと思った。


 腕なんか力を入れたら折れてしまいそうで、血管は糸のように細い。バイクも乗れず、バスケも出来ず、フィールドワークと称して町を歩き回ることも出来ない。


 自分よりも年上で、自分よりも余程苦労して、自分よりもずっと強く生きている人だと知った。


 僅かに聞こえる寝息と体温だけがその生命を知らせている。この微かな心音を繋ぐことを祈る人がいる。己を投げ打ってでも助けたいと願う人がいる。例え残り一ヶ月の命だとしても、最期の時に笑って逝けるようにと、流星に願いを込めるように。


 金色の睫毛に彩られた瞳が俄かに開く。

 起こしてしまっただろうか。状況を考えると、寝ていてもらった方が都合が良かったのだけど。




「やあ、リリー」




 リーアムが言った。

 航は車椅子の金具を調節しながら、扉の外の気配へ気を配った。最前線では湊が神妙な顔付きで耳を峙てている。廊下では単発の銃声と扉を叩くけたたましい音がした。

 磨り硝子の罅が広がっている。警察の到着を待つ時間は無かった。拳銃を所持したあの医者と、応戦しているのは警備員だろうか。現実感が無い。


 リリーは周囲をぐるりと見渡した。薬の影響が残っているのか焦点が合わない。彼女は何の薬を、いつから投与されていたのだろう。




「湊?」




 リリーは扉の近くへ目を向けた。

 片膝を突いて様子を伺っていた湊は、コミカルに肩を竦めた。航は車椅子の調整を終え、湊と立ち位置を代わった。




「何かあったの……?」

「うん、ちょっとね」

「大丈夫?」




 リリーの白い掌が、湊の頬へ触れる。


 大丈夫。湊が言う。

 航は目を逸らした。何故なのか、後ろめたかった。




「君を守るよ」




 湊の声が、いつかバスケコートで聞いた声と重なった。

 コートを切り裂いて行った背番号四番。それは仲間を奮い立たせた勇敢な司令塔の声だった。

 どんな時も諦めず、前を見据えてひた走る。いつかの光景が目に浮かび、航はそっと目を伏せた。




「君の為に出来ることを、ずっと考えていたんだ。君の病を治して、君の苦しみを代わって、君の辛さを叫んでやりたかった。……でも、何も出来ないんだ。俺は医者でもないし、ましてや、神様でもない」




 でもね。

 湊が言う。笑ったのだろうか。不気味に静まり返った室内に、湊の微かな息遣いが聞こえた。




「神様にはなれないけど、きっと、君のヒーローになれる」




 航は状況も忘れ、拍手を送りたいと思った。


 ヒーローとは、自分達にとって特別な言葉だ。賛辞であり、戒めである。湊にそれだけ言わせるのだ。彼女がどれだけ特別であるのか考えるまでも無い。


 自然と口角が上がる。航は誤魔化すようにして屈伸をした。例え余命一ヶ月だとしても、こんなところで死なせる訳にはいかない。


 湊が諦めないのなら、俺も諦めない。







 11.天国に告ぐ

 ⑺君のヒーロー








 作戦内容は至ってシンプルである。

 リリーを車椅子に乗せ、リーアムが一緒に脱出する。湊が囮となってその隙を作り、航がリーアム達の脱出を援助する。


 車椅子が空を飛べない限り、窓からの脱出は無理だ。あの主治医のいる正面突破しか有り得ない。所持していた拳銃の装弾数は八発。弾切れの瞬間を狙うしかない。


 湊が銃声を聞きながらタイミングを計る。航には銃声の違いなんて解らないので、任せるしかなかった。湊の身体能力やセンスは認めているが、懸念もあった。




「お前、どのくらいやれる?」

「うん?」

「肋骨折れてんだろ」




 二人で扉の下にしゃがみ込み、声を潜めて最終確認する。廊下の方から射撃音と怒声が聞こえる。同じように悲鳴も。

 どのくらいの人がその銃弾を受けたのだろう。無事なのか。




「精神論の話じゃねぇぞ。可能性は少しでも上げたい」




 湊よりも自分の方が囮に向いている。

 暗に言えば、湊は困ったように笑った。




「俺は大丈夫」

「本当かよ」

「嘘を吐くメリットが無いだろ。俺のこと、信じてくれるか?」




 湊は悪戯っぽく笑う。

 航は舌打ちした。




「お前がやって駄目なら、他の誰がやっても駄目だろ。……いつも言ってんだろ。俺の信頼を裏切るんじゃねぇ」




 心得た、とばかりに湊が鼻の頭を掻いて頷いた。照れている時の癖だった。


 頭の上で銃声が響いた。湊が押し殺した声で「あと一発」と囁く。航は頷いてリーアムへ目を向けた。


 最後の一発が鳴り響くと同時に航は扉を蹴破った。あの主治医を巻き添えにしてやるつもりだった。男は扉に背を向け、廊下の奥へ銃口を向けていた。

 扉が倒れると同時に振り返り、トリガーを引く。かちん、と虚しい音がした。


 走れ!

 湊が叫ぶ。リリーの乗った車椅子がミサイルのように飛び出した。銃弾を込めるまでの数秒、湊が進路を立ち塞ぐ。

 航はリーアムと共に脱出する手筈だった。だが、兄を置いて行くことは出来なかった。右足で主治医の手首を蹴り上げると、黒光りする鉄の塊は壁へ吹っ飛んだ。


 男が懐へ手を伸ばす。もう一丁の銃が取り出される前に湊が足払いを掛け、男が体勢を崩す。その隙を逃さず、床に押さえ付けようとして、ーー絶句した。


 その男の腹部は真っ赤に染まっていたのだ。

 身体中に弾丸を受け、立っているのが不思議な程だった。それでも眉一つ動かさず、痛みを感知していないかのように血を吐きながら拳銃を取り出す。


 知っている。

 この光景を見たことがある。


 考えるよりも前に体が動いていた。その男が何を狙うのか解っていた。重なって見えたのだ。クラブへ潜入調査した日、連続殺人を犯した男は、狂気に染まった目で獲物を狙い続けた。その矛先が何処へ向かうのか、航は知っていた。


 足払いを掛けた湊は体勢が整っていない。

 男が両足を踏ん張る。スラックス越しでも、その筋肉の隆起が解る。素人じゃない。この男は何か特殊な戦闘訓練を受けた玄人だ。


 男の足が湊の腹部を蹴り上げた。鉛でも仕込んでいたのか物凄い音だった。湊の体が軽々と吹っ飛ばされ壁に衝突する。

 湊は一度咳き込み、血の混ざった唾を吐き出した。航は男に組み付いたが、びくともしない。まるで、岩のようだった。


 何なんだ、こいつ!

 男の目は白く濁っている。最早、意識があるのかさえ解らない。


 どうすれば止まる!?

 どうすれば良い!!


 男は航の存在など気にも留めず、引き摺りながら湊へと迫る。湊が口の端を拭い、男を睨み付ける。

 銃口が湊を捉える。航は手を伸ばした。届かない。届かない。目の前にいるのに!


 その指がトリガーを引く、刹那。

 何処か遠くで、鐘の音が聞こえた気がした。


 放たれた銃弾が空中で停止している。夢を見ているのではないかと思うくらい、有り得ない光景だった。

 時間すら止まってしまったかのように、誰も動けない。湊が瞬きをした。その瞬間、銃弾は重力を思い出したかのように落下した。


 リノリウムの床に落ちた銃弾が静かに転がった。

 次の瞬間、生温かい風が吹き抜け、天井灯が激しく点滅を始めた。波紋が広がるように、廊下の壁に亀裂が走る。窓が一気に破裂し、硝子が雨のように降り注いだ。


 航は腕で顔を庇いながら湊の上に被さった。

 足元がぐらぐらと揺れる。応戦していた警備員達がどよめき、逃げ惑う。


 湊が身動ぎする気配がしたので押さえ付けた。ハリケーンの中にいるようだった。何が起きているのかも解らず、身を守るしかない。


 どのくらいの時間が経ったのか、腕の隙間から顔を覗かせた湊が呆然と呟いた。




「……PKだ……」




 航は顔を上げた。

 嵐にでも遭ったかのように、廊下は酷い有様だった。壁は罅割れ、窓硝子は全て吹き飛んでしまっている。蛍光灯は割れ、周囲は水を打ったかのような静寂に包まれていた。


 風の起点を追う。リーアムが両目を見開いて立ち尽くしていた。車椅子が、此方へ向いている。




「リリー……」




 湊が呼んだ。

 リリーは花が綻ぶようにして笑うと、膝を突いた。




「死なせないって、言ったでしょ?」




 何のことか解らない。

 湊は苦笑した。




「俺がヒーローになる筈だったのに」




 航も釣られて笑った。

 しかし、窮地は脱したが事態は好転していない。




「兎に角、逃げるぞ」




 航が言うと、湊が頷いた。リリーは重病患者とは思えない軽い足取りでリーアムの元へと行くと、その手を引いて歩き出した。


 病院を出た途端、リリーは糸が切れたかのように座り込んでしまった。湊曰く、PSIは脳を酷使する。当然の反応だと言いながら、当然のようにリリーを背負った。

 余りにも不恰好だったので交代を申し出ようとしたが、止めた。野暮だと思ったのだ。


 湊が携帯電話でリュウを呼んだ。

 黒いボックスカーと共に登場したリュウはいつもの仏頂面だった。何となく気まずくて目を逸らしたが、何も言われなかった。


 リリーとリーアムを後部座席に乗せ、扉を閉める。

 湊が状況を説明している間に愛車を運んだ。流石に車には載らないので、バイクに乗って追い掛けるつもりだった。湊がバイクに同乗すると言い出したのは意外だった。


 行き先が決まっていなかった。

 リリーを何処かの病院へ運ぶべきなのだろうが、何処が安全なのか解らない。丁度その時、湊の携帯電話が鳴った。


 母からだった。

 用件自体はお使いだった。湊は閃いたとばかりに手を打った。




「うちへ帰ろう」

「ふざけんなよ。クソババアを巻き込むつもりか」

「お母さんのこと、クソババアって言うなよ。これ以上、心配を掛けたくない。黙っていることが一番心配させる」




 まさか、それを湊に言われるとは思わなかった。

 とは言え、他に方法がある訳でもない。航は渋々頷いて、帰路を先導した。


 バイクで走りながら、湊が言った。




「家に着いて落ち着いたら、ちょっと出掛けるから」

「俺も行くからな」

「解った」

「何処に行くんだ?」

「大学だよ。リリーに投与されていた薬を調べたい」




 サイドミラー越しに見る湊は顔色が悪かった。何を考えているのか、航にも何となく解った。


 リリーを連れて自宅に帰ると、母が満面の笑みを浮かべていた。ミーハーな反応で出迎えるので恥ずかしかった。

 再び眠ってしまったリリーをソファへ寝かせ、湊がポケットを探る。其処にはあの注射器があった。いつの間に拾ったのだろう。


 大学で調べると言うと、リュウが手を挙げた。湊の代わりに調べてくれるらしい。どうやら、騒ぎを聞き付けたあの愉快な仲間達も大学に集まっているそうなので、任せることにした。


 リュウを見送り、リビングへ戻ると母がリリーの側にいた。深い眠りに着くリリーの手の甲を撫で、穏やかに言った。




「苦労して来たのね」




 母の目には何が見えるのだろう。

 航はテーブルの椅子を引き寄せ、その上に片膝を立てて座った。

 所在無さげにしていたリーアムに椅子を勧める。リーアムが座ったタイミングで、湊が玄関から戻って来る。




「湊は人の嘘が解るんだね」




 リーアムが言った。

 この後に及んで隠す意味は無いだろう。航が代わりに答えようとした時、母が言った。




「そうみたいね」




 まるで、何でもないことみたいに。


 父も嘘が解る人だった。だから、偏見なんて無いだろう。でも、リーアムは違う。他人なのだ。しかも、以前、湊はそれをはぐらかした。




「人よりちょっと、勘が良いのよね」




 勘が良い。その程度の認識なのだろうか。

 だから、母は父と結婚出来たのだろうか。航は湊の体質について今更何も思わないけれど、親しい人間がそうだと知ったら、変わらず接することが出来るか疑問だった。だって、怖いだろう。


 けれど、母は当たり前のことみたいに笑う。




「でも、湊は良い子よ。航も。私の自慢の息子なの」




 手放しに褒められるとむず痒い。航は母に褒められたことが余り無かった。反発ばかりしていたからだ。それでも、母は自慢の息子だと言ってくれる。


 俺達は、何か間違えて来たんじゃないか?

 そんなことを思った。母を巻き込みたくないと言って、何もかも隠して来た。それが本当に最善だったのか、今となっては解らない。




「俺もそう思うよ」




 湊が言った。




「俺にとっては、自慢のお母さんだ。……ずっと黙ってて、ごめん」




 母は笑った。




「隠し事と家出は蜂谷家の男の病気でしょ。慣れてるのよ、こっちは」




 逞しいな。

 航は朝日を見たような気分だった。眩しくて目を向けられないのに、活力が漲って来る。


 湊が拳を握り、リーアムに向き直る。覚悟を決めるような小さな深呼吸が航には見えた。




「……隠していて、ごめんな。俺には人の嘘が解る。リーアムと初めて会った時も、ご両親の事故を隠していたことも、あの加害者達が言い逃れしていた時も、本当は全部解ってたんだ」




 湊の拳が微かに震えていた。

 寒いのか、怖いのか。航には解らない。けれど、もしも後者ならば、その体質の為に傷付いたことがあったのではないかと思った。

 自分が素通りして来た嘘を見抜き、裏切られて来たのではないか。初めて、そんな風に思った。


 リーアムは黙っていた。彼がもしも責めるならば、航は庇うつもりだった。湊は悪意があって隠していた訳じゃない。けれど、その青い瞳は凪いだ水面のように静かだった。




「何故、黙っていたの?」

「……嘘が解っても、真実が見える訳じゃないから」




 ふふ、とリーアムが笑った。




「良いよ、許すよ。僕は君達に感謝してるから」

「リーアム……」

「でも、これからは隠し事は無しだ。フェアじゃないからね」




 スポーツマン特有の力強い笑みを見せて、リーアムが拳を向ける。

 湊は驚いたように目を丸め、顔を伏せた。




「約束は出来ない。俺にも優先順位がある。必要があればまた君に嘘を吐くよ」

「そんなの当たり前だろ。察しが悪いな」

「?」

「君を信じるって言ってるのさ」




 ほら、早く。

 腕が疲れて来たよ。


 リーアムが戯けて笑う。

 その屈託の無い笑顔に、どれ程救われるのか、リーアムは解らないだろう。観念したように湊が拳を向ける。二人が揃って此方を見るので眉を寄せた。




「航も」




 別に仲間になりたいとは思っていないのだけど。

 航は溜息を飲み込みつつ、拳を向けた。男三人でむさ苦しく、薄ら寒い光景だ。けれど、彼等が笑っているのなら、それが一番だと思った。

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