⑹千錯万綜
「リリーがね、初めて言ったんだよ」
テーブルに肘を突いて、覗き込むようにしてリーアムが言った。
「死にたくないって」
湊は鏡を探した。自分がどんな顔をしているのか確認したかったのだ。だが、鏡を見付けたところで、どんな顔が正解なのか解る筈も無かった。
航が通話の為に席を外してから、十分程。
ルークと何やら悪巧みをしているらしい。健気なことだ。無い腹を探られるのは面白くないが、特に意図して隠している情報は無い。話していないことがあるとするなら、それは航の訊き方が悪かったのだ。
リーアムと取り留めの無い話をした。
昨日見たテレビの内容だとか、夕飯でお好み焼きを作ったら航が「粉物はもう見たくない」と青い顔をしたとか、そんな些細な話だ。会話が弾んでいるのかどうかは微妙なところだろう。
唐突な話題の転換には面食らったが、無視すべき内容ではなかった。果たして、リーアムはどんな反応を求めているのだろう。
「リーアムは、どう思ったの」
問い掛けながら、マグカップへ手を伸ばした。既に湯気は消え失せて温くなっている。両手で包み込みながら、指先の震えを隠した。
リーアムは笑った。
顔をくしゃくしゃにして、まるで泣いているみたいだった。
「ちょっとだけ、泣いた」
「……」
「どうして、リリーなんだろう。どうして僕等だったんだろう。そんなことをずっと考えてた」
湊は目を伏せた。
彼等の気持ち全てを理解出来るとは思わない。出来るというのなら、それは驕りで、同情だ。彼等の悲しみに寄り添いたいと思うのに、その為の手段が一つも見付けられない。それが悔しい。
「湊がお見舞いに来るようになってからだよ」
ぐっ、と奥歯を噛み締める。
覚悟を決めて、湊は口を開いた。
「行かない方が良い?」
「どうして?」
「解らない。でも、リーアムは悲しそうだ」
喘ぐように言うと、リーアムは笑った。
湊は良い奴だねぇ、なんて、朗らかに。
そうだろうか。多分、違う。
自分の行為は独善だ。エゴだ。それが彼等を傷付けるなら、自分は消えるべきだ。家族以上に優先すべきものなんて無いだろう。
「回数と時間を減らすから、ちょっとだけ、会いたい」
「ははっ」
リーアムが口を開けて笑う。そんなに可笑しいことを言ったつもりは無いけれど、先程の泣きそうな顔では無かったから、安心した。
「どうして、湊が遠慮するのさ」
「……どっちが良いんだろう」
本当に解らないのだ。リーアムがもう来るなと言うならば、それは尊重するべきだと思う。
リリーが死にたくないと願うのは、良かったのか、悪かったのか。どちらにしたって彼女の病は治らないし、残された時間は延長を許さない。もっと生きたいと願いながら死ぬのと、もう充分だと諦めながら死ぬのでは、どちらがマシなんだろう。
「湊なりに、リリーの為に出来ることを探したんだろう? その結果、側にいることを選んだ。それは、何でなの」
「何で?」
言葉尻を復唱し、湊は顎に指を添えた。
そんなの一つしかない。
「俺がリリーに会いたかったから」
湊は良い奴だね、とリーアムが同じことを言った。
「リリーに未来は無いよ」
その声は死刑宣告のように冷たかった。けれど、そんな悲しいことを言わなければならないリーアムの気持ちを思うと、湊は泣きたくなる。他人事の筈なのに。
「過去とか未来とか、どうでも良いんだ。今この瞬間が全てだ。そうだろう?」
リーアムが唇を結んだ。下唇を噛む白い前歯が見える。
何かを伝えなければならないと思うのに、何を伝えるべきなのか解らなかった。幾ら論理を組み立てても、結局最後は不恰好な感情の吐露になってしまう。
「ふとした時の横顔とか、笑った時の笑窪とか、こんな俺の話を真剣に聞いてくれるところとか。リリーと一緒にいると俺が楽しいんだ。だから、側で知りたいと思った」
それだけだ。
あの子といる時、自分がとてもちっぽけで、無様で、崇高に思えるのだ。リリーが許してくれるならと、自分のことを認めてやれる。
これが間違っているというのなら、善悪なんてものには何の価値も無い。別に法を守る為に生きている訳ではないから。
「リリーが惹かれたのが、君で良かった」
リーアムはアイスティーを飲み干して、席を立った。
ねぇ、湊。
リーアムが言った。
「リリーの恋を悲劇にしないで」
今度こそ、湊は言葉を失くしてしまった。
俺に何が出来る?
航が帰って来るまで、ずっと考えていた。リーアムが店を出たことにも気付かなかった。
店の外では通行人が傘を差している。いつの間に雨が降り出したのだろうか。
雨は泣かない誰かの為に降り注ぐ。
では、これは誰の涙なのだろうか?
11.天国に告ぐ
⑹千錯万綜
ルークは何て?
湊が言った。声は普段と変わりないのに、表情が冴えない。リーアムと何かあったのだろうか。
航は曖昧に濁した。SLCのスプラッタ映像に湊の声が合成された動画が送られて来て、携帯電話が壊れただなんて説明の仕様も無かった。
その携帯電話はすっかり壊れてしまったので、今は喫茶店のビニール袋に入れて厳重に包んである。本当に爆発したら困る。
湊は追求しなかった。何かを察したのかも知れないし、どうでも良いと思ったのかも知れない。ただ、何処か上の空で話す湊が気に掛かる。
本人が自覚しているのように、何だか湊は変だ。具体的に何が変かと言うと説明が難しいけれど、まるで人間のふりをするロボットみたいなのだ。
雨の中をバイクで走る程に酔狂ではないので、大人しく雨が止むのを待った。ミルクティーは冷めていたし、湊のマグカップは空だった。
大粒の雫が軒先から落ちて、側溝へ吸い込まれて行く。こんな雨水も海の仲間なのだと思うと何だか不思議だった。
特に会話も無いままぼんやりしていたら、湊が雨粒みたいに言った。
「オリビアが死んだ時」
湊は店の外を眺めているようだったけれど、きっと通行人も雨も見えていないのだろう。返事も求めず、湊が言う。
「奇跡なんて起こらないんだって、思い知った」
航は黙っていた。
きっと、湊は足掻いたのだ。最悪の事態を想定して、それを回避する為に最善を尽くした。それでも、何も救えなかった。
君だけが守れるものが何処かにあるよ。
不意に、聞いたことも無い筈のオリビアの声が聞こえた気がした。その時の湊は何を思ったのだろうか。
酷い言葉だ。
湊は何処かにいる他の誰でもなく、オリビアを守りたかったのに。故人に訊く術は無い。
「俺にとっては」
航は言った。
慰めのつもりは無い。湊は一人で勝手に立ち直る人間だ。其処に他者は必要無い。だから、航も思ったことを素直に言った。
「俺にとっては、お前が生きているだけで、奇跡みたいなもんだけどな」
だって、そうじゃないか。
リュウや葵君の話を聞く限り、湊は死ぬかも知れない程の重症だったのだ。それが五体満足で後遺症も無く、笑っていられる。それだけで充分だろう。
湊は変な顔をしていた。少しだけ目を見開いて、黒目が寄っている。それはまるで、虚を突かれたかのような、驚いたみたいな顔だ。
航は優しいね、とお決まりの言葉を言う。
どうでも良い。航は突っ撥ねた。
雲間から光が差して来て、雨が上がったことを知る。鈍色の雲は相変わらず立ち込めているので、夜にはまた降り出すかも知れない。明日の練習に備えて今日は早く帰って眠ろう。
だが、湊がリリーに会いたいと言うので、航は頷いた。もしかしたら薬が切れて目を覚ましているかも知れない。一目会いたいのは航も同じだった。
濡れたバイクの雫を払い、二人で病院へ戻った。雨に晒されたヘルメットを被ったせいで、二人揃って髪は濡れてぺしゃんこに潰れていた。受付の看護師が怪訝そうに見て来たので、せめて髪型くらいは整えるべきだっただろうかと後悔した。
人気の少ない廊下を歩く。
リリーの病室の扉が半分開いていた。微かな話し声が聞こえたので、航は期待した。リリーは起きているのかも知れない。
だが、病室を覗いてがっかりした。リリーは眠っていたのだ。ベッドの側には眼鏡を掛けた医師と若い看護師、それからリーアムがいた。
自分達に気付いたリーアムが医師を紹介した。
リリーの主治医らしい。
湊が会釈すると、医師と看護師も同じように返した。
どうやら投薬の時間らしかった。医師の手には注射器が握られている。
「それ、何の薬なんですか?」
湊が子供のように湊が問い掛けるので、リーアムは苦笑していた。
リリーの病は薬では治せない。鎮痛薬の類だろうか。航は部屋の隅に置いてあったパイプ椅子を引き寄せて腰を下ろす。
「痛み止めだよ。彼女の苦しみを少しでも減らしてあげたいからね」
医師は眼鏡のブリッジを押し上げて答えた。
予想通りだった。そのせいで日中の殆どを寝て過ごしているのだろうけれど、無いよりはずっと良い。航がぼんやりと聞いていた時、掠れた声がした。
「……やめて」
まるで死に際みたいな掠れた声だ。
湊だった。
顔を真っ青にして、寒さに震えるように唇を痙攣させている。ぞわりと鳥肌が立つ。航は腰を浮かせた。
「ーーやめてくれ!!」
何をトチ狂ったのか、湊が医師に掴み掛かる。リーアムが羽交い締めにするが、湊が悲鳴のような声で制止を叫んだ。
医師は、感情を削ぎ落としたような無表情だった。
湊のことなんて見えていないみたいに、注射針を点滴薬に突き刺そうとする。
「やめろ!」
湊の足先が注射針を掠めるが、医師は動かなかった。
注射器から押し出された薬が、点滴液の中に混ざっていく。そして、管を伝ってリリーの体内へと流れ込む。
湊は振り向くと、リーアムの顎を掴んだ。そのまま梃子の原理と遠心力を最大限に引き出して、大柄のリーアムを床へと叩き付けた。凄い物音がした。
「航! 湊を押さえて!」
床に叩き付けられながら、リーアムが叫ぶ。
航は頷いた。湊は掻き毟るようにしてリリーの腕に刺さった点滴の針を引き抜こうとしている。
「何してんだ!」
腕を掴むと同時に関節を押さえられた。そのまま容赦無く膝に打ち付けようとするので、柄にも無く焦った。湊は航の腕を折ろうとしたのだ。
こういうの、久々だな。
航は感慨深さを覚えつつ、身を翻して湊の背後を取る。関節を押さえて身動きを封じると、湊が焦ったように睨んで来た。
「離せ!」
「それなら落ち着け!」
「落ち着いてる!」
何処がだ!
航は頭を抱えたかった。湊はその隙に点滴の管を蹴った。針が抜けて液体が飛び散る。点滴のスタンドが倒れた先に花瓶があり、床へと落下した。
花瓶の割れる音が響き渡る。
物音を聞き付けた病院関係者と患者が、何事かと扉から顔を覗かせた。
航は滅茶苦茶に暴れる湊の両腕を背中に拘束し、馬乗りになって床に押さえ付けた。獣のような息遣いで湊が睨んで来る。興奮しているのかと思えば、顔色は真っ青で、今にも倒れそうだった。
安定剤を!
誰かの声がした。病院関係者が慌しく動き回る。若い医師やら看護師やら警備員やらが津波のように押し寄せ、病室は混乱状態だった。
航は、湊を見ていた。
リノリウムの床に突っ伏したまま、獰猛な眼差しを向けて来る。平静の状態ではない。けれど、動転しているようにも見えなかった。
応援に駆け付けた若い医師が湊の腕へ手を伸ばす。片手には注射器が握られていた。針の先から透明な液体が吹き出す。それが腕の皮膚を突き破る刹那、湊が叫んだ。
「あの人は嘘を吐いている!!」
体が勝手に動いていた。
注射器を握る医師の腕ごと蹴り飛ばした。悲鳴が上がる。薬剤を撒き散らしながら注射器が床を滑る。
湊の首根っこを引っ掴んで強引に起こし、航は正面から睨んだ。
「あの医者か?」
どいつが嘘吐きだ。
航が低く問い掛けると、湊は咳き込みながら主治医を指差した。
何故だ。
何故、医師が嘘を吐く必要がある?
しかし、湊が嘘を吐く意味も無かった。どちらを信じるかと問われたなら、航は湊を信じる。そんなの、当たり前だった。
舌打ちを零す。湊をリーアムへ押し付け、航は主治医へ迫った。その男の顔を見た時、寒気がした。
全くの無表情だったのである。焦りも動揺も無く、伽藍堂の瞳を向けている。この状況下において、明らかな異物だった。
男の手が白衣の下へ伸びる。
注射器か、と身構える。だが、次の瞬間、航は目を疑った。
「伏せろ!」
主治医の手にあったのは拳銃だった。
蛍光灯の光を反射し、鈍く光っていた。安全装置すら見当たらない。向けられた銃口、トリガーに掛かった指先。考える時間は無かった。
「航!!」
乾いた音が二回響いた。
航の顔を掠めた弾丸は壁に穴を開けた。硝煙の独特の臭いが広がる。悲鳴が耳を劈き、辺りはパニックに陥った。
主治医は人形のような凍り付いた無表情だった。銃口を航へ向けたまま、再びトリガーに掛けた指に力を込める。
発砲音と同時に視界が遮られた。リリーの布団だ。湊が咄嗟に投げ付けたらしい。銃弾は布団に穴を開け、壁に着弾する。そのまま主治医に被さったので、航は身を低くしたまま突進した。
兎に角、此処から遠去けなければならない。
湊やリーアムは兎も角、此処には意識の無いリリーがいる。
殆ど体当たりの状態で、主治医を病室の外へ追い出す。いつの間にか扉の側で待機していた湊と目が合った。航は意図を察して、主治医を蹴り飛ばした。
間髪入れずに湊が扉を閉める。鍵の落ちる音がして、やっとまともに息が出来た。
「説明しろよ、ーーうわッ!」
発砲音。
航は身を屈めた。主治医が扉の向こうから発砲しているらしい。磨り硝子に蜘蛛の巣状の罅が入る。
「お喋りしている時間は無さそうだね」
誰のせいだと思ってるんだ!
とは言え、湊のせいかは解らない。
扉が激しく叩かれる。嫌な緊張感が部屋の中に満ちていた。
湊が言った。
「突破されるのは時間の問題だ。脱出しよう」
「どうやって」
「弾切れの瞬間を狙う。……あれはトカレフTT-33だ。装弾数は八発。残りは二発」
もう何処から突っ込んで良いのか解らない。
「警察にーー、いや、葵君に連絡して」
湊が言い終わる前に、扉の向こうから発砲音が聞こえた。悲鳴が続き、何かの倒れる音が追い掛ける。
誰かが撃たれたのだ。
無事なのか? 生きているのか?
何でこんなことになったんだ?
頭の中がぐちゃぐちゃにこんがらがっていた。何が起こっているのか全く解らない。ーーでも。
「まず、リーアムはリリーを車椅子に乗せて。俺が隙を作る。航はリーアムの援護を……航?」
湊は諦めていない。
多分、湊自身、この状況を把握出来ていない。それでも打開の方法を考えて動き続けている。
「絶対の保証は無いけど、俺は全員が助かる方法を考える」
「……その全員には、お前も含まれてんだろうな」
「勿論」
航はその頭を押さえ付けた。
「やる」
湊が笑った。
どんなに絶望的な状況でも、諦めずに打開策を考える。逃げの一手ではなく、攻めの一手を。最悪の事態を想定して最善を尽くす。いつだって、自分達のやることは変わらないのだ。
悲鳴の中で、銃声が轟いた。
遠くからも聞こえる。応援が駆け付けたのだろうか。だが、自分達が此処にいるのでは人質も同然だ。
湊が言った。
「さあ、やろうか」