⑷生者の告白
大きな拳が光を遮る。
湊には、それがまるでフィクションのように感じられた。
振り上げられた硬い拳、それから裸の白熱灯。鉄の箱に似た密室は形容し難い感情の渦に包まれていた。それが稲妻のように振り下ろされる刹那、耳元で声が聞こえた。野原を吹き抜ける微風のような柔らかで清浄な声だった。
俺はいつも自分の目に見えるものしか大切に出来なくて、気付いた時には取り零してしまっている。
本当に大切なものは目に見えない。
それなら、俺はそれをどうやって大切にしたら良いんだろう。
目は閉じなかった。相手の一挙手一投足、自分の行為と結果、全てから目を逸らさず、あるがままを受け入れる為に。
頬を打つ拳に、焼けるような熱が口の中に広がった。
奥歯を噛み締める。噎せ返るような鉄の味がした。嵐のような罵声と暴力。突き刺さる敵意。
痛みよりも、恐怖よりも、焦燥が優っていた。
磨り硝子の向こうに月明かりが見える。
夜明けは遠い。追い掛けても追い掛けても届かない。まるで、逃げ水のように。
縋るような思いで胸元を握り締めた。首に繋がれた鎖が微かに音を立てる。頭上から大きな足が降って来て、蟻を踏み潰すようにして腕を抉った。
悲鳴は喉の奥に消えた。自分の喘鳴が遠くに聞こえる。顳顬を伝った血が目に入って、視界が真っ赤に染まる。耳鳴りが酷い。人の声なのか、物音なのか、何も判別出来ない。
痛かったのだろうか。それとも、熱かったのか。自分の感覚さえ曖昧で、泣きたいのか笑いたいのかも解らない。
視界がじわりと滲んだ。
瞼の裏で誰かが呼んでいる。声は出なかったので、胸の中で必死に応えた。この声が届かないことは解っている。懐かしい人影はどんどん遠去かり、やがて見えなくなった。
泣きたかったのか。逃げたかったのか。
よく覚えていない。
ただ、ずっと願っていた気がする。
なあ、ヒーロー。
此処にいるよって、声を上げてくれよ。
11.天国に告ぐ
⑷生者の告白
朝の静けさの中、エンジンの音が木霊する。
湊は目を閉じ、耳を澄ませた。
風の音、小鳥の声、朝日の暖かさ、弟のバイクの音。エネルギーが充填されるみたいに活力が漲って行く。瞼の裏に焼き付いた悪夢は気泡のように消えた。
目を開ける。見慣れた自宅が映り、腹の底から安堵が込み上げた。携帯電話を見ると、航からの折り返しの着信が入っていた。タイミング悪く出られなかったから、心配を掛けただろうか。
几帳面な航にしては、到着が遅かった。何処かで寄り道していたのだろうか。無事なら、それで良い。
やがて現れた真っ赤なクルーザーに何故だか涙が出そうだった。本当に、自分はどうしてしまったのだろう?
航はバイクに跨ったまま、ヘルメットを脱いだ。猫のような切れ長な目の奥、濃褐色の瞳が何かを見透かすように見詰めて来る。
「テメェに訊きたいことがある」
恫喝するような低い声だった。
その顔を見て確信する。航は真相に触れている。最早、どんな言葉を紡いだとしても、逃れることは出来ないだろう。
さあ、答え合わせをしてやろう。
「俺に答えられることなら」
肩を竦めて笑う。
航はエンジンを止めた。
「……去年の夏、お前の仲間のオリビア・スチュアートが死んだ」
「うん」
「オリビアはSLCの一員だった。殺したのは、SLCだな?」
「どうかな」
「責任の所在じゃねぇ。誰が手を下したのかってことだ」
逃げ道が塞がれて行くみたいだった。
湊は息苦しさを飲み込んだ。此処で自分が認めない限り、航の推理はただの空論だ。
「SLCは閉鎖的な新興宗教らしいな。脱退の意思を示せば苛烈な報復を行う。オリビアは、脱退しようとしたんだな」
「何で、そう思うの?」
湊が訊き返すと、航が睨んで来た。
手負いの肉食獣のような獰猛な眼差しだった。
「お前が暴行されたからだろ。そうじゃなきゃ、お前が責任を感じる理由が無い」
航は断言した。
だが、湊には解らなかった。そんなものは推論だ。真実かどうかの答え合わせなんて湊にも出来ない。だって、オリビアはもう死んだのだから。
「そして、お前がSLCに狙われた理由は、この研究レポートだ」
航は携帯電話を翳した。
見覚えのある文章が表示されていた。情報の流出元は何処だろう。誰の入れ知恵だ。葵君じゃないだろう。違法行為に手は出さない筈だ。
そういえば、耳の早い友達がいたな。
なるほど、ルークか。
「それとSLCに何の関係が?」
「ルーカス氏だ。SLCの一員で、超能力の遺伝について執着していた。それを軍事的に応用することも。……お前が言っていたことだ」
不思議だったんだよな。
航が言った。
「他人に興味の無いお前が、ロイヤル・バンクの事件に拘ることがさ」
「……」
「ルーカス氏はSLCで権力を持っていた。その根拠を示したお前のレポートは、無視出来なかっただろうさ」
湊は否定しなかった。意味が無いからだ。
航は確証バイアスに陥っている。全ては都合の良い解釈で、根拠が無い。
「それを俺が書いたって証拠は?」
「俺には解る」
湊は吐き捨てるように笑った。
なんだ、それ。反論の余地は幾らでもある。サインだって擬装出来るし、文章の癖なんて捏造可能だ。だが、航が余りにも真剣に言うから、信じたくなる。そういうところが、狡いと思う。
なあ。
航が言った。
「これは、手紙だな?」
そんなことまで、解るのか。
湊は俄かに驚いた。
「レポートの最後に、大切な友達に捧ぐって書いてある。大切な友達ってのは、オリビアのことだろ。だけど、どうしてこんな内容を送ったのか解らなかった。お前が変人だってことを踏まえてもな」
「酷いな」
「だから、このレポートを必要とする可能性を考えた。例えば……、オリビアは、PSIの能力者だったとか」
違うか?
問いながらも、航の口調は否定の言葉を許していなかった。
この後に及んで、言い訳する意味は無い。
湊は肩を落とした。此処で下手に誤魔化す方が、オリビアの尊厳を傷付ける。
「そうだよ」
湊は肯定した。
「オリビアは先天的なPSI能力者だった。俺と同じ、アンカーだった」
航の眉が跳ねた。
何だ、それは予想していなかったのか。
湊は苦笑した。
「俺はターゲット型、オリビアはリーアムと同じスピーカー型のアンカーだった。……そもそも、このアンカー理論を提唱したのは、オリビアなんだよ」
アンカー理論。
アンカーとは潜在的な被害者体質のことだ。ターゲット型は周囲のPSIを自分に集約し、スピーカー型は自分以外に拡散する。
「オリビアはよく言ってたよ。理論そのものに罪は無いって」
瞼の裏に蘇る、柔らかな笑顔。風に靡くブルネットは、まるで夜空の星のように綺麗だった。
「アンカー理論は不完全な理論だ。証明の根拠が無い。でも、彼女はそれを証明したかった」
「何故」
「彼女自身がアンカーだったからだよ。言っただろ。スピーカー型は周囲にPSIを拡散する。自分のせいで周囲が不幸になって行くんだ。お前なら堪えられるか?」
航が黙った。
頬が微かに膨らむのが見えた。奥歯を噛み締めたのだと解る。
「彼女の肉親は幼い頃に亡くなっている。天涯孤独の身だった。しかも、まるでタイミングを見計らったみたいに、彼女に関わることで周囲の人間は不幸になって行く。……だから、不幸の理由を解明することで、回避の方法を見付けたかったんだ」
けれど。
湊は続けた。
「アンカー理論が証明されることで、不幸になる人もいるだろう。謂れの無いレッテルを貼られ、弾圧の対象となることもね」
「それでも、オリビアは証明したかったんだろ。理論そのものに罪は無いから」
言葉の先を攫われて、湊は苦く笑う。
「どんなものも使い方次第だ。オリビアの気持ちも解るけど、リスクが高かった。だから、俺は別の観点から彼女の生い立ちを肯定しようと思ったんだ」
航の携帯電話を見遣る。
「航の言う通り、それは研究レポートではないよ。オリビアに宛てた手紙なんだ。……君のせいじゃないよって、伝えたかったんだ」
生まれ持ったものに文句を言っても意味が無いと思う。現状を嘆くよりも、少しでも明るい未来を目指して奔走した方が生産的だ。
超能力は遺伝する。子供が親を選べないように、彼女の体質は彼女の責任ではない。誰にでも起こり得ることで、誰のせいでも無い。ただ、それを伝えたかった。
「それがどういう訳かSLCの手に渡ってしまったんだ。何故なのかは今も解らない。そして、去年の夏の夜、俺はSLCから襲撃を受けた」
大学からの帰り道だった。
人気の無い夜の道、寮へ向かう途中。目の前に真っ黒のボックスカーが滑り込んだ。
「拳銃を突き付けられて、そのまま車に押し込まれた。目隠しをされて、薄暗い部屋に連れて行かれた。何処かの廃工場だったのかもね。埃と機械油の臭いが充満してた」
裸の白熱灯。埃の溜まった床。外からの音は聞こえず、其処が助けの望めない敵地であることを察した。
「酷く殴られたし、蹴られたよ。……鉄パイプで側頭部を殴られるとね、衝撃が頭蓋骨を伝って脳幹が痺れるんだ。耳から溢れた血があんなに赤いなんて初めて知ったよ」
「……」
「痛みってずっと続くものだと思ってたけど、一定の基準を超えると知覚出来なくなるんだ。脳が心を守る為に痛覚を麻痺させるんだろうね。お蔭で、SLCの奴等が何を言っていたのかも覚えてないんだ」
航の眉間に深い皺が刻まれた。
多分、残酷な話をしている。こんなことを今更言われたってどうしようも出来ないだろう。でも、知りたいと願ったのは航の筈だ。
「途中で意識が無くなって、気付いたら病院だった。リュウが見付けてくれたらしい。三日間昏睡状態だったらしいね。まるで、浦島太郎になった気分だった」
「……オリビアは」
「一度、病院に来たらしいけど、俺は寝てたから解らない。オリビアはそれからSLCに拉致されて、本拠地のハバナへ連れて行かれた」
「それで、お前等はオリビアを助けに行ったのか」
湊は答えを迷った。
そんな美しい理由じゃない。ただ、オリビアに会いたかった。其処で諦めたら、二度とオリビアに会えない。此処で屈したら、もう何処へも行けないと思った。
「SLCは修行と銘打って、会員を監禁して虐待する。心身共に追い詰められると人は変性意識状態に陥るんだ。それから、科学の力と言って独自に開発した新薬を過剰に投与することで、会員の思考を操る」
何が科学だ。反吐が出る。
彼等のやっていることは悪質な洗脳であり、科学とは無関係だ。
「手をこまねいていたら、手遅れになる。兎に角、行動を起こす必要があった。奴等の注意を引き付け、その矛先を変えなければならなかったんだ」
「それがハバナでの大立ち回りか。雑誌に載ってた」
「そう。なるべく派手にしたかった。そうすれば、オリビアを助ける隙が出来ると思ったんだ」
まあ、間に合わなかったんだけどね。
湊が言うと、航が顔を歪めた。優しい弟だ。航がそんな顔をする必要は無いのに。
「見付け出した時、オリビアは過剰な薬物投与によって昏睡状態だった。自発呼吸も儘ならなくてね、病院に搬送されても、手の施しようが無かった。SLCが何の薬を投与したのか解らなかったんだ」
せめて、薬物の成分が解れば、手の打ちようはあっただろう。後手に回った時点で、オリビアはもう助けられなかったのだ。
「亡くなる直前、意識が戻った。半狂乱で自分の喉を掻き毟って、血塗れになって、握り潰すような力で俺の手首を掴んで、言った。ーー君だけが守れるものが何処かにあるよって」
その言葉の真意は解らない。
慰めだったのか、呪いの言葉だったのか。本当に自分の姿が見えていたのかどうかさえ解らないのだ。
「そのままオリビアは心停止。亡くなったよ」
「……」
「投与された薬は体内に吸収されて、証拠が残らなかったんだ。証拠が無い以上、警察は捜査出来ない。それに、事件性を立証した時、槍玉に挙げられるのはオリビアだ。それは俺達の本意じゃない。だから、一連の事件は闇に葬ることにした」
話してみると呆気無い。
湊は携帯電話で時刻を確認した。病院の面会時間に差し掛かっている。遅刻だ。
「なあ」
航が言った。
湊は首を傾げた。何か言い残したことがあっただろうか。航は目の前まで迫ると、指先で湊の前髪を払った。
「この格好にも何か意味があるんだろ?」
意味。意味か。
湊は考えた。
「雑誌読んだんだろ? あれが理由」
「変装ってだけじゃないんだろ?」
「あの記事に、SLCやオリビアのことは少しも書かれていなかっただろ。俺の見た目のことしか書かれていなかった」
情報操作だ。自分達が敵対したSLCとは、思う以上に巨大な組織だったのだ。
記事を読んだ時の自分の気持ちが航に解るだろうか。本当に知らせたかった情報は隠され、どうでも良いことばかり並べ立てられ、無意味な賞賛を受ける。まるで喜劇を見ているようだった。
「偏執狂なら兎も角。外見に一体どれ程の価値があると言うの?」
自分が子供じゃなかったなら、見た目が整っていなかったなら、少しは真実が明らかにされたのだろうか。今となっては解らない。自分が何を間違えたのか、どうしたらオリビアを救えたのかさえも。
「俺はもうSLCには関わらない。でも、身を守る為に見張っておかないといけない」
何が敵で、誰が繋がっているのか解らないのだ。他人の嘘が見抜けても、真実が見える訳じゃないのだから。
「俺の話はこれでお終い。……何だよ、航」
航は、まるで痛みを堪えるみたいに顔をくしゃくしゃにしていた。泣きたいのだろうか。それとも、怒りたいのだろうか。解らないけど、航が辛そうにしているのは、嫌だ。
「そんな顔するなよ」
「……湊は、それで良いのかよ」
いつもそうだ。航は自分の代わりに怒ってくれる。悲しんでくれる。胸を痛めてくれる。それがどれ程、湊を救っているのか、彼だけが知らない。
「納得出来ないこともあるし、後悔もある。でも、決めたんだ」
これは俺が選んだ地獄だから。
湊が笑うと、航が唇を噛んだ。血が出ないと良いな、とぼんやり思った。
「……お前が」
航が言った。
「どうしてお前が、それを背負わなきゃいけないんだ」
湊は鼻で笑った。
「俺しかいない」
いつか誰かがなんて期待しない。奇跡は起こらないし、死者は蘇らない。報復は無意味だ。オリビアがそれを証明してくれた。
希望的観測の為に選択肢を見失って、何もかも手遅れになるのはもう沢山だ。それなら全部一人で背負った方がマシだ。
結局、自分に出来ることは一つしかない。
彼女を忘れないように、彼女に誇れるように、強く堂々と生きて行く。それだけだ。
「何でも救えるとは思わない。ならせめて、俺は俺に出来ることを精一杯やる」
「……」
航は何も言わなかった。納得したとは思わない。けれど、反論が出来ないということが、全ての答えだった。
「そろそろ、病院に行こう。リリーが心配する」
「湊」
話は終わった筈なのに、航が真剣な声で呼んだ。
振り返ると、濃褐色の瞳が真っ直ぐに射抜いた。心臓が一度大きく脈を打つ。航は右腕を持ち上げて、拳を向けた。
「俺は、お前の味方だからな」
意図を察して、湊は拳を当てた。己の言葉に嘘偽りが無いことを誓う自分達だけのジンクスだった。
つい、笑ってしまった。
すぐに航が小突いて来て「何笑ってんだよ」と凄んだ。
笑うだろ。
だって、俺のヒーローが味方だって言ってくれる。自分のことみたいに怒って、悲しんでくれる。それ以上に何を望むというの?
血と暴力に染まった密室で、自分はヒーローを呼んでいた。あの日の自分が救われたような気がして、泣きたくなる。
世界が冷たいことは知ってる。奇跡が起こらないことも。それでも、ヒーローがいるんだ。それだけで俺は何処へでも行けると思った。




