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ハロー、マイヒーロー!  作者: 宝積 佐知
11.天国に告ぐ
72/106

⑷生者の告白

 大きな拳が光を遮る。

 湊には、それがまるでフィクションのように感じられた。


 振り上げられた硬い拳、それから裸の白熱灯。鉄の箱に似た密室は形容し難い感情の渦に包まれていた。それが稲妻のように振り下ろされる刹那、耳元で声が聞こえた。野原を吹き抜ける微風のような柔らかで清浄な声だった。


 俺はいつも自分の目に見えるものしか大切に出来なくて、気付いた時には取り零してしまっている。


 本当に大切なものは目に見えない。

 それなら、俺はそれをどうやって大切にしたら良いんだろう。


 目は閉じなかった。相手の一挙手一投足、自分の行為と結果、全てから目を逸らさず、あるがままを受け入れる為に。


 頬を打つ拳に、焼けるような熱が口の中に広がった。

 奥歯を噛み締める。噎せ返るような鉄の味がした。嵐のような罵声と暴力。突き刺さる敵意。


 痛みよりも、恐怖よりも、焦燥が優っていた。

 磨り硝子の向こうに月明かりが見える。


 夜明けは遠い。追い掛けても追い掛けても届かない。まるで、逃げ水のように。


 縋るような思いで胸元を握り締めた。首に繋がれた鎖が微かに音を立てる。頭上から大きな足が降って来て、蟻を踏み潰すようにして腕を抉った。


 悲鳴は喉の奥に消えた。自分の喘鳴が遠くに聞こえる。顳顬を伝った血が目に入って、視界が真っ赤に染まる。耳鳴りが酷い。人の声なのか、物音なのか、何も判別出来ない。


 痛かったのだろうか。それとも、熱かったのか。自分の感覚さえ曖昧で、泣きたいのか笑いたいのかも解らない。


 視界がじわりと滲んだ。

 瞼の裏で誰かが呼んでいる。声は出なかったので、胸の中で必死に応えた。この声が届かないことは解っている。懐かしい人影はどんどん遠去かり、やがて見えなくなった。


 泣きたかったのか。逃げたかったのか。

 よく覚えていない。

 ただ、ずっと願っていた気がする。


 なあ、ヒーロー。

 此処にいるよって、声を上げてくれよ。








 11.天国に告ぐ

 ⑷生者の告白









 朝の静けさの中、エンジンの音が木霊する。

 湊は目を閉じ、耳を澄ませた。


 風の音、小鳥の声、朝日の暖かさ、弟のバイクの音。エネルギーが充填されるみたいに活力が漲って行く。瞼の裏に焼き付いた悪夢は気泡のように消えた。


 目を開ける。見慣れた自宅が映り、腹の底から安堵が込み上げた。携帯電話を見ると、航からの折り返しの着信が入っていた。タイミング悪く出られなかったから、心配を掛けただろうか。


 几帳面な航にしては、到着が遅かった。何処かで寄り道していたのだろうか。無事なら、それで良い。

 やがて現れた真っ赤なクルーザーに何故だか涙が出そうだった。本当に、自分はどうしてしまったのだろう?


 航はバイクに跨ったまま、ヘルメットを脱いだ。猫のような切れ長な目の奥、濃褐色の瞳が何かを見透かすように見詰めて来る。




「テメェに訊きたいことがある」




 恫喝するような低い声だった。

 その顔を見て確信する。航は真相に触れている。最早、どんな言葉を紡いだとしても、逃れることは出来ないだろう。


 さあ、答え合わせをしてやろう。




「俺に答えられることなら」




 肩を竦めて笑う。

 航はエンジンを止めた。




「……去年の夏、お前の仲間のオリビア・スチュアートが死んだ」

「うん」

「オリビアはSLCの一員だった。殺したのは、SLCだな?」

「どうかな」

「責任の所在じゃねぇ。誰が手を下したのかってことだ」




 逃げ道が塞がれて行くみたいだった。

 湊は息苦しさを飲み込んだ。此処で自分が認めない限り、航の推理はただの空論だ。




「SLCは閉鎖的な新興宗教らしいな。脱退の意思を示せば苛烈な報復を行う。オリビアは、脱退しようとしたんだな」

「何で、そう思うの?」




 湊が訊き返すと、航が睨んで来た。

 手負いの肉食獣のような獰猛な眼差しだった。




「お前が暴行されたからだろ。そうじゃなきゃ、お前が責任を感じる理由が無い」




 航は断言した。

 だが、湊には解らなかった。そんなものは推論だ。真実かどうかの答え合わせなんて湊にも出来ない。だって、オリビアはもう死んだのだから。




「そして、お前がSLCに狙われた理由は、この研究レポートだ」




 航は携帯電話を翳した。

 見覚えのある文章が表示されていた。情報の流出元は何処だろう。誰の入れ知恵だ。葵君じゃないだろう。違法行為に手は出さない筈だ。


 そういえば、耳の早い友達がいたな。

 なるほど、ルークか。




「それとSLCに何の関係が?」

「ルーカス氏だ。SLCの一員で、超能力の遺伝について執着していた。それを軍事的に応用することも。……お前が言っていたことだ」




 不思議だったんだよな。

 航が言った。




「他人に興味の無いお前が、ロイヤル・バンクの事件に拘ることがさ」

「……」

「ルーカス氏はSLCで権力を持っていた。その根拠を示したお前のレポートは、無視出来なかっただろうさ」




 湊は否定しなかった。意味が無いからだ。

 航は確証バイアスに陥っている。全ては都合の良い解釈で、根拠が無い。




「それを俺が書いたって証拠は?」

「俺には解る」




 湊は吐き捨てるように笑った。

 なんだ、それ。反論の余地は幾らでもある。サインだって擬装出来るし、文章の癖なんて捏造可能だ。だが、航が余りにも真剣に言うから、信じたくなる。そういうところが、狡いと思う。


 なあ。

 航が言った。




「これは、手紙だな?」




 そんなことまで、解るのか。

 湊は俄かに驚いた。




「レポートの最後に、大切な友達に捧ぐって書いてある。大切な友達ってのは、オリビアのことだろ。だけど、どうしてこんな内容を送ったのか解らなかった。お前が変人だってことを踏まえてもな」

「酷いな」

「だから、このレポートを必要とする可能性を考えた。例えば……、オリビアは、PSIの能力者だったとか」




 違うか?

 問いながらも、航の口調は否定の言葉を許していなかった。


 この後に及んで、言い訳する意味は無い。

 湊は肩を落とした。此処で下手に誤魔化す方が、オリビアの尊厳を傷付ける。




「そうだよ」




 湊は肯定した。




「オリビアは先天的なPSI能力者だった。俺と同じ、アンカーだった」




 航の眉が跳ねた。

 何だ、それは予想していなかったのか。

 湊は苦笑した。




「俺はターゲット型、オリビアはリーアムと同じスピーカー型のアンカーだった。……そもそも、このアンカー理論を提唱したのは、オリビアなんだよ」




 アンカー理論。

 アンカーとは潜在的な被害者体質のことだ。ターゲット型は周囲のPSIを自分に集約し、スピーカー型は自分以外に拡散する。




「オリビアはよく言ってたよ。理論そのものに罪は無いって」




 瞼の裏に蘇る、柔らかな笑顔。風に靡くブルネットは、まるで夜空の星のように綺麗だった。




「アンカー理論は不完全な理論だ。証明の根拠が無い。でも、彼女はそれを証明したかった」

「何故」

「彼女自身がアンカーだったからだよ。言っただろ。スピーカー型は周囲にPSIを拡散する。自分のせいで周囲が不幸になって行くんだ。お前なら堪えられるか?」




 航が黙った。

 頬が微かに膨らむのが見えた。奥歯を噛み締めたのだと解る。




「彼女の肉親は幼い頃に亡くなっている。天涯孤独の身だった。しかも、まるでタイミングを見計らったみたいに、彼女に関わることで周囲の人間は不幸になって行く。……だから、不幸の理由を解明することで、回避の方法を見付けたかったんだ」




 けれど。

 湊は続けた。




「アンカー理論が証明されることで、不幸になる人もいるだろう。謂れの無いレッテルを貼られ、弾圧の対象となることもね」

「それでも、オリビアは証明したかったんだろ。理論そのものに罪は無いから」




 言葉の先を攫われて、湊は苦く笑う。




「どんなものも使い方次第だ。オリビアの気持ちも解るけど、リスクが高かった。だから、俺は別の観点から彼女の生い立ちを肯定しようと思ったんだ」




 航の携帯電話を見遣る。




「航の言う通り、それは研究レポートではないよ。オリビアに宛てた手紙なんだ。……君のせいじゃないよって、伝えたかったんだ」




 生まれ持ったものに文句を言っても意味が無いと思う。現状を嘆くよりも、少しでも明るい未来を目指して奔走した方が生産的だ。


 超能力は遺伝する。子供が親を選べないように、彼女の体質は彼女の責任ではない。誰にでも起こり得ることで、誰のせいでも無い。ただ、それを伝えたかった。




「それがどういう訳かSLCの手に渡ってしまったんだ。何故なのかは今も解らない。そして、去年の夏の夜、俺はSLCから襲撃を受けた」




 大学からの帰り道だった。

 人気の無い夜の道、寮へ向かう途中。目の前に真っ黒のボックスカーが滑り込んだ。




「拳銃を突き付けられて、そのまま車に押し込まれた。目隠しをされて、薄暗い部屋に連れて行かれた。何処かの廃工場だったのかもね。埃と機械油の臭いが充満してた」




 裸の白熱灯。埃の溜まった床。外からの音は聞こえず、其処が助けの望めない敵地であることを察した。




「酷く殴られたし、蹴られたよ。……鉄パイプで側頭部を殴られるとね、衝撃が頭蓋骨を伝って脳幹が痺れるんだ。耳から溢れた血があんなに赤いなんて初めて知ったよ」

「……」

「痛みってずっと続くものだと思ってたけど、一定の基準を超えると知覚出来なくなるんだ。脳が心を守る為に痛覚を麻痺させるんだろうね。お蔭で、SLCの奴等が何を言っていたのかも覚えてないんだ」




 航の眉間に深い皺が刻まれた。

 多分、残酷な話をしている。こんなことを今更言われたってどうしようも出来ないだろう。でも、知りたいと願ったのは航の筈だ。




「途中で意識が無くなって、気付いたら病院だった。リュウが見付けてくれたらしい。三日間昏睡状態だったらしいね。まるで、浦島太郎になった気分だった」

「……オリビアは」

「一度、病院に来たらしいけど、俺は寝てたから解らない。オリビアはそれからSLCに拉致されて、本拠地のハバナへ連れて行かれた」

「それで、お前等はオリビアを助けに行ったのか」




 湊は答えを迷った。

 そんな美しい理由じゃない。ただ、オリビアに会いたかった。其処で諦めたら、二度とオリビアに会えない。此処で屈したら、もう何処へも行けないと思った。




「SLCは修行と銘打って、会員を監禁して虐待する。心身共に追い詰められると人は変性意識状態に陥るんだ。それから、科学の力と言って独自に開発した新薬を過剰に投与することで、会員の思考を操る」




 何が科学だ。反吐が出る。

 彼等のやっていることは悪質な洗脳であり、科学とは無関係だ。




「手をこまねいていたら、手遅れになる。兎に角、行動を起こす必要があった。奴等の注意を引き付け、その矛先を変えなければならなかったんだ」

「それがハバナでの大立ち回りか。雑誌に載ってた」

「そう。なるべく派手にしたかった。そうすれば、オリビアを助ける隙が出来ると思ったんだ」




 まあ、間に合わなかったんだけどね。

 湊が言うと、航が顔を歪めた。優しい弟だ。航がそんな顔をする必要は無いのに。




「見付け出した時、オリビアは過剰な薬物投与によって昏睡状態だった。自発呼吸も儘ならなくてね、病院に搬送されても、手の施しようが無かった。SLCが何の薬を投与したのか解らなかったんだ」




 せめて、薬物の成分が解れば、手の打ちようはあっただろう。後手に回った時点で、オリビアはもう助けられなかったのだ。




「亡くなる直前、意識が戻った。半狂乱で自分の喉を掻き毟って、血塗れになって、握り潰すような力で俺の手首を掴んで、言った。ーー君だけが守れるものが何処かにあるよって」




 その言葉の真意は解らない。

 慰めだったのか、呪いの言葉だったのか。本当に自分の姿が見えていたのかどうかさえ解らないのだ。




「そのままオリビアは心停止。亡くなったよ」

「……」

「投与された薬は体内に吸収されて、証拠が残らなかったんだ。証拠が無い以上、警察は捜査出来ない。それに、事件性を立証した時、槍玉に挙げられるのはオリビアだ。それは俺達の本意じゃない。だから、一連の事件は闇に葬ることにした」




 話してみると呆気無い。

 湊は携帯電話で時刻を確認した。病院の面会時間に差し掛かっている。遅刻だ。




「なあ」




 航が言った。

 湊は首を傾げた。何か言い残したことがあっただろうか。航は目の前まで迫ると、指先で湊の前髪を払った。




「この格好にも何か意味があるんだろ?」




 意味。意味か。

 湊は考えた。




「雑誌読んだんだろ? あれが理由」

「変装ってだけじゃないんだろ?」

「あの記事に、SLCやオリビアのことは少しも書かれていなかっただろ。俺の見た目のことしか書かれていなかった」




 情報操作だ。自分達が敵対したSLCとは、思う以上に巨大な組織だったのだ。


 記事を読んだ時の自分の気持ちが航に解るだろうか。本当に知らせたかった情報は隠され、どうでも良いことばかり並べ立てられ、無意味な賞賛を受ける。まるで喜劇を見ているようだった。




「偏執狂なら兎も角。外見に一体どれ程の価値があると言うの?」




 自分が子供じゃなかったなら、見た目が整っていなかったなら、少しは真実が明らかにされたのだろうか。今となっては解らない。自分が何を間違えたのか、どうしたらオリビアを救えたのかさえも。




「俺はもうSLCには関わらない。でも、身を守る為に見張っておかないといけない」




 何が敵で、誰が繋がっているのか解らないのだ。他人の嘘が見抜けても、真実が見える訳じゃないのだから。




「俺の話はこれでお終い。……何だよ、航」




 航は、まるで痛みを堪えるみたいに顔をくしゃくしゃにしていた。泣きたいのだろうか。それとも、怒りたいのだろうか。解らないけど、航が辛そうにしているのは、嫌だ。




「そんな顔するなよ」

「……湊は、それで良いのかよ」




 いつもそうだ。航は自分の代わりに怒ってくれる。悲しんでくれる。胸を痛めてくれる。それがどれ程、湊を救っているのか、彼だけが知らない。




「納得出来ないこともあるし、後悔もある。でも、決めたんだ」




 これは俺が選んだ地獄だから。

 湊が笑うと、航が唇を噛んだ。血が出ないと良いな、とぼんやり思った。




「……お前が」




 航が言った。




「どうしてお前が、それを背負わなきゃいけないんだ」




 湊は鼻で笑った。




「俺しかいない」




 いつか誰かがなんて期待しない。奇跡は起こらないし、死者は蘇らない。報復は無意味だ。オリビアがそれを証明してくれた。


 希望的観測の為に選択肢を見失って、何もかも手遅れになるのはもう沢山だ。それなら全部一人で背負った方がマシだ。


 結局、自分に出来ることは一つしかない。

 彼女を忘れないように、彼女に誇れるように、強く堂々と生きて行く。それだけだ。




「何でも救えるとは思わない。ならせめて、俺は俺に出来ることを精一杯やる」

「……」




 航は何も言わなかった。納得したとは思わない。けれど、反論が出来ないということが、全ての答えだった。




「そろそろ、病院に行こう。リリーが心配する」

「湊」




 話は終わった筈なのに、航が真剣な声で呼んだ。

 振り返ると、濃褐色の瞳が真っ直ぐに射抜いた。心臓が一度大きく脈を打つ。航は右腕を持ち上げて、拳を向けた。




「俺は、お前の味方だからな」




 意図を察して、湊は拳を当てた。己の言葉に嘘偽りが無いことを誓う自分達だけのジンクスだった。


 つい、笑ってしまった。

 すぐに航が小突いて来て「何笑ってんだよ」と凄んだ。


 笑うだろ。

 だって、俺のヒーローが味方だって言ってくれる。自分のことみたいに怒って、悲しんでくれる。それ以上に何を望むというの?


 血と暴力に染まった密室で、自分はヒーローを呼んでいた。あの日の自分が救われたような気がして、泣きたくなる。


 世界が冷たいことは知ってる。奇跡が起こらないことも。それでも、ヒーローがいるんだ。それだけで俺は何処へでも行けると思った。

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