⑵薄闇
携帯電話が震えた。
航はポケットの中から引っ張り出し、僅かに目を眇めた。送り人の名はルーク。何かのURLが貼られただけの短いメッセージだった。
普段ならばウイルスを警戒して開かない。しかし、航は彼に頼み事をしていたことを覚えていたので、ディスプレイをそっとタップした。
途端、凄まじい量の英文が表示された。目が滑る程の情報量に驚きつつ、ざっと流し見る。どうやら、それは超能力に関する研究レポートらしかった。作成者の名前を見て驚く。其処には、血を分けた双子の兄、湊の名前が確然と記されていた。
超能力は身体機能の一つ。そして、その一因として、脳から発せられる電磁波が挙げられる。
畏まった言い方で、馬鹿みたいなことを堂々と記している。鼻で笑いそうになり、そういえば、以前、湊は同じことを言っていたと思い出した。
超能力は身体機能。
身体機能である以上、それは遺伝する。
どうやら、このレポートは馬鹿みたいな空想の根拠を示しているらしかった。読み進める内に、何かの催眠を掛けられているかのような気味の悪さを覚えた。
かのナチスドイツが人造の超能力を実現したことも書かれているが、性質の悪い創作話だと切り捨てている。一方で、この論文は遺伝による超能力の開発は可能だと述べているのだ。
ネットに横行するオカルト知識の寄せ集めだ。だが、湊は根拠の無いことは言わない。ならば、これはきっと湊なりに根拠を示した事実なのだろう。
科学者は、成果を求める余りに人としての倫理を置き去りにすることがある。いつか、ゾーイが言っていた。湊は研究に没頭し、触れてはならないパンドラの箱を開けようとしているのではないかと思うと恐ろしかった。
論文を丁寧に読み進める。時間の経過は意識の外だった。小さなディスプレイの小さな文字が、何かを訴え掛ける。航にはそれがまるで、血を吐くような祈りに感じられた。
論文の最後にはデータの引用元と協力者、作成された日付が残っている。協力者、オリビア・スチュアート。作成日は、去年の夏。
白紙を挟んだ最後のページ。作成者、湊のサインの下に小さな一文が残されている。
ーー大切な友達に捧ぐ。
何なんだ、この奇妙な符号の一致は。
去年の夏、湊はオリビアと共にこの論文を書いた。そして、オリビアは亡くなり、湊は入院する程の大怪我をしている。SLCと遣り合ったのも去年の夏だ。無関係とは思えない。
突然、乾いた音がして、航の意識は現実へ引き戻された。視線を上げると、湊が立っていた。
「大丈夫?」
どうやら、目の前で両手を打ち鳴らしたらしい。文句の一つでも言ってやりたかったが、何故なのか、湊が泣きそうな顔をしていたので、躊躇った。
時計を見ると、午後五時だった。論文を読んでいる内に、二時間程経過している。
湊はキッチンに向かい、浄水器から水を汲んでいた。微かに消毒液の臭いがしたので、航は携帯の画面を消して問い掛けた。
「リリーのところへ行ってたのか?」
湊が俯いたまま目を向けた。言い当てられたことを驚く素振りは無い。全てを予期していたかのようだった。
「リリーの具合はどうなんだ?」
「痩せていたよ。そのまま消えてしまいそうだった」
悲観的なことを口にする湊は珍しい。
航は眉を寄せた。
湊が足繁くリリーのところへ通っていることは知っている。余命僅かの彼女の為に、出来ることを一つでも探しているのだろう。だが、正直、航は反対だった。
リリーを救うことは出来ない。彼女はもうすぐ死ぬ。せめて安らかに逝けるようにと祈ることは立派だが、その結果、湊は何を失うのだろう。それが嫌だった。
湊はコップ一杯の水を飲み干すと、独り言のような小さな声で言った。
「リリーがね、俺に訊いたんだ。人は死んだら何処へ行くのかって」
「……」
「答えられなかった」
当たり前だろう。
航にだって、答えようも無い。けれど、湊はそれを悔やむのだ。
リリーもリーアムも辛いだろう。それでも、航は湊が苦しむのが嫌だった。
「お前に出来ることが何かあるのか? そこまで心を砕く必要はあるのか?」
酷いことを言っている自覚はあった。
湊の行為は独善であるが、志は尊いものだ。それでも、今の湊が幸せには見えない。彼女の為に出来ることを探し、結果、何も出来ないのだ。
傷付くと解っていながら、送り出すことは出来ない。
航は奥歯を噛み締めた。
「解らない」
湊が言った。
掠れるような声だった。
「俺に何が出来るのかは解らない。……でもね、あの子といると、少しだけ、世界が優しくなるんだ」
顔を上げた湊は微笑んでいた。それこそ、そのまま消えてしまいそうだった。
「何でも救えるとは思わない。目の前にいたって、手を掴んでいたって、届かないことは幾らでもある」
「……」
「なあ、航」
キッチンから出て来た湊は、そのままソファの肘掛けに座った。消毒液と花の匂いがした。
「リリーがご飯を食べてたんだ。美味しい? って訊いたら、笑って美味しいって言ったんだ。……俺には、それが嘘だって解ったよ」
心臓が握られたみたいに痛かった。その時の湊の気持ちを思うと、もういいよと言って、何もかも許してやりたかった。
「眉毛が抜けていたことも、頬の肉が削げ落ちたことも、食べ物の味が解らないことも、全部薬の副作用なんだ。その治療を続けても彼女はたった一ヶ月も生きられないんだ。彼女は夏を迎えられない」
「……そんなの、初めから解っていただろ」
「うん。でも、きっと、心の何処かで期待していたんだ。奇跡が起こるんじゃないかって」
自嘲するように、湊が喉を鳴らす。
自分を卑下して慰めるような、そんな兄の姿は見たくなかった。それでも、此処で航が否定したら、湊は黙って一人で抱え込むのだろう。
「親父の伝手で、腕の良い医者が見付かるかも知れない。相談してみる」
「その程度のこと、俺がやっていないと思うの?」
「……」
そうなんだろう。湊が言うのなら、事実なのだろう。
解っていた。この世は不条理で理不尽で、欠陥だらけの欠陥品そのものなのだ。最善を尽くしたからといって最良の結果が得られるとは限らない。それを父が教えてくれた。
何でもかんでも救える訳じゃない。伸ばした手を必ずしも掴んでくれる訳じゃない。それでも誰かを救いたくて、全力を尽くしている。
航は携帯電話を握った。期待した分だけ裏切られた時の反動は大きい。でも、湊が出来ないというのなら、自分がやる。例え、それが独善だとしても。
11.天国に告ぐ
⑵薄闇
「あ、まただわ」
就寝間近のリビングで、カーテンの隙間から外を覗きながら母が言った。航は微睡んだ目を擦りながら隣へ並び、闇に沈む住宅地を見遣った。
電柱の影に、誰かが立っている。
一見するとそれは張り込んでいる警察官のようで、誰かに固執する変質者のようでもあった。
この不審者が現れたのは最近のことだった。何をする訳でも無いのに、時々其処に現れるのだ。母にも見えているということは幽霊の類ではないのだろう。不気味なことには変わりないけれど。
「葵君には?」
「言ったわよ。パトロールを強化してくれて、暫く見掛けなかったのに」
警官が遠去かったのを見計らって、再び現れたらしい。益々不気味だ。何か狙いがあるとしか思えない。
何かを見張っているのか、それとも観察しているのか。いずれにせよ、放っておくのも嫌だ。
「俺が葵君に伝えておく」
カーテンを閉めて、航は携帯電話を取り出した。
着信履歴から葵君の番号を探す。一番上は父だった。夕方に掛けたのだが、繋がらなかったのだ。
心配する母を寝室へ追い遣り、家の中の施錠を確認した。この家は葵君の助言を受け最新のセキュリティが設置されている。突破は難しいだろう。
一人きりのリビングのソファで胡座を掻き、通話が繋がるのを待った。二回目の呼び出しに応じた葵君は、相変わらず景気の悪そうな低い声をしていた。
『どうした』
「家の前に不審者がいるって、うちのお袋が話しただろ?」
『パトロールは強化してある筈だ。……またいるのか?』
航はカーテンの隙間からこっそりと覗き、不審者の存在を確かめた。
「警官が来なくなってから、また出るようになった。なあ、気味が悪ィよ」
『警邏に伝えておく』
「頼む。何だか、嫌な予感がするんだ。こんな田舎町に不審者が固執するようなものなんて無いのに」
『湊は?』
「は?」
どうして、其処で兄の名前が出るのだろう。質問の意図が読めない。航は自室を見遣る。
「もう寝てるよ。夜更かし出来ないタイプなんだ」
『……』
葵君の沈黙に、自分の答えが的外れであることを察した。航はカーテンを閉め、携帯電話を握り直した。
「湊が狙われてる?」
『解らない。……なあ、明日会えるか?』
俺は大丈夫だけど、と答えながら、多忙を極める葵君の方が難しいのではないかと思った。しかし、もしかすると事態は一刻を争うのかも知れない。夕方に見た兄の憔悴を思い出し、航は答えた。
「午前中なら大丈夫。午後はバスケの練習があるし、湊を見張っておきたい」
リリーの病状も確認するつもりだった。
葵君は了承の言葉を告げて、最後に戸締りに気を付けるように言った。言われるまでも無かったが、航は就寝前にもう一度家中の施錠を確認することに決めた。
通話を切る。ありとあらゆる隙間から気味の悪い虫が侵入し、足元をじわじわと埋め尽くすかのような悍ましさが残った。
そのまま何と無く着信履歴を流し見て、覚えの無い記録を見付けた。発信者は湊。時刻は深夜二時。此方からも応答しているが、航は覚えていなかった。
そして、その日付を見て愕然とする。
去年の夏だった。
その頃の湊は大学の寮にいた筈だ。着信はそれが最後で、以降は航から掛けるのみである。勿論、其方は覚えている。細々とした用件があって、電話したのだ。
自分達は用が無ければ電話なんてしない。ならば、この記録は何なのだろう。
日が昇る前に起き出して、航は湊のベッドを覗いた。此方の気も知らず呑気に眠りこけている。けれど、その寝顔を見て安堵が込み上げる。微かに聞こえる寝息が、兄が生きていると知らせてくれる。
身支度を整えていると、物音に気付いたのか湊が身を起こした。寝惚け眼を擦りながら、微睡んだ声で自分を呼ぶ。
「……もう出掛けるの?」
後ろ髪を引かれるような、庇護欲を掻き立てる声だ。本人には自覚が無いらしい。どちらが兄なのか解らない。
「いってらっしゃい」
布団に顎を埋めて、湊がふにゃふにゃと笑う。
肩の力が抜けてしまう。調子を崩されたような心地で、航は後頭部を掻いた。
「なあ」
「うん?」
「お前、あんまり独りで背負い込むなよな」
半分閉じかけていた瞼が僅かに開く。航は追及を避け、素早く背中を向けた。
「いってきます」
後ろ手に扉を閉める。
扉の閉まる音が、しんと静まり返った部屋の中に木霊していた。




