⑶呼び声
朝露の落ちる音すら聞こえそうな静寂。
航は朝日に照らされる屋敷を敷地外から眺めていた。
昨晩に見たものが何だったのかは解らない。だが、とても穏やかな状態とは思えない。
湊は何でもない顔をして装置を回収している。流石に慣れているのか手際が良かった。
窓を叩くような凄まじい音は互いに聞いていたが、あの白い手を見たのは航だけだった。湊に打ち明ければ何らかの科学的な解釈をしてくれただろうが、一時的な安息の為にプライドを折ることは出来ない。ましてや、自分が恐怖しただなんて口が裂けても言えなかった。
集音マイクとサーモグラフィー装置を纏め終えると、湊はほくほくとした顔で戻って来た。夜に比べると早朝は恐怖感が少ない。今なら乗り込んでやっても良い気もするが、湊は帰宅を促した。
二人で装置を抱えて自室へ戻る。
湊は棚から無数のコードを取り出して装置と繋げた。先に再生されたのはサーモグラフィーによる室内の映像だった。
暗視カメラと違って内部の状態が見える訳じゃない。
温度の高いところは黄色に、低いところは青色に映し出される。装置を設置した時点では何の異常も無かった。
屋敷は二階建ての5LDKだ。玄関からリビング、ダイニングと順に映像を再生して行く。これで中に人型でもあったら鳥肌ものだが、映像の中には何も映っていなかった。
画面を凝視する湊の後ろで、航はほっと胸を撫で下ろした。幽霊なんて信じないし、怪奇現象なんて思い込みだ。航はそう強く信じている。
昨日の出来事も何かしらの原因があったのだろう。航は算段を付けて壁へ凭れ掛かった。寝不足の為か身体が怠かった。
「二階北側の部屋の温度が低いね」
「はあ」
そりゃ、北側だからな。
此処が母国と違うことも理解していたが、北側は一般的に寒い。日が当たらないのだ。加えて、この地域はまだまだ寒い。立地を考えると幾らでも説明は出来そうだ。
湊は顎に指を添えていた。
「キッチンと風呂場も低い」
「どのくらい?」
「一番低いのは二階の部屋で、マイナス十五度」
「はーー」
マイナス十五度?
確かに昨日は寒かった。手袋無しでハンドルを握ることは出来なかったし、吐く息も白かった。だが、氷点下になる程では無かった。
二人が調査機器を設置している最中、屋敷の一部は冷凍庫のように冷え切っていたのだ。
「特に寒いのは夜の十一時半頃。ーーはは、俺達がいた時間じゃないか」
湊が笑った。
「統計的に霊が出現する時は気温が下がる。何かあるな、此処は」
「何かって」
「解らない。マイクの方も確認しよう」
もう嫌だ。聞きたくない。
それでも逃げ出すことはプライドが許さない。航は前にも後ろにも進めず、作業を続ける湊の背中を呆然と見ていた。
パソコンにスピーカーが接続される。
鳥肌が止まらない。暖房は効いている筈なのに、寒くて堪らない。湊の眼鏡が青白く光って見える。
微かなノイズが部屋の中を支配する。銅像のように動かない湊の後ろで、航は氷のように固まっていた。
漣のようなノイズの中に、細木を踏むような音と誰かの声がする。誰かが何かを言っている。そして、遠くから赤子の泣き声。ーー次の瞬間、怒り狂ったような乾いた音が流れた。
あの時だ。
航は直感した。
自分達が立ち去ろうとした時、家の中から聞こえた壁や窓を叩く音。大勢の人間が助けを求めて駆け回り、めちゃくちゃに暴れているようだ。
ああああーー……。
ああーー……。
赤子の声がした。
航達の乗ったバイクが走り去る音がして、やがてスピーカーはノイズだけが残された。
二人は沈黙した。
映画では感じられない圧倒的な臨場感。これが作り物でないことは、自分達が一番知っている。
湊はパソコンを操作して、屋敷周囲の水脈や古い地図を映した。
「水撃作用に似てる」
「何それ」
「水圧管内の水流を急に締め切ると、水の慣性で、管内に衝撃と高水圧が発生するんだ。液体だけではなくて、気体を含めた流体で起こる」
湊の声は理性的に落ち着いていた。
それを聞いていると不思議と心が穏やかになる。
「屋敷は地下から風が吹き上げていた。俺が窓を開けたことで密室の屋敷内の空気が流動し、衝撃が発生した」
「出鱈目だろ」
航が指摘すると、湊はにししと笑った。
部屋の中に満ちていた緊張が解け、春の陽だまりみたいに暖かくなる。
湊の言っていることは尤もらしいが、情報不足の現状では推測でしかない。確証の無いことは口にしない兄が敢えて発言した理由を思うと、腹立たしいような、擽ったいような気持ちになる。
湊はパソコンを閉じて立ち上がった。
「俺は調査を続けるよ。検証無くして真実は掴めない」
「まさか中へ入るのか?」
「勿論」
一度言ったら聞かない奴だ。
航は正直、もう白旗を振っても良かった。此処には自分を見縊り、侮る低俗な人間はいない。航が嫌だと言えば湊はそれを受け入れるだろうし、笑いもしない。
それでも。
「俺も行く」
湊は瞠目した。
「危ないかも知れない。科学的な説明の付かない現象が起こるかも」
「起きてるだろ、もう」
藪を突いて蛇を出す必要は無い。そんなこと、航だって承知の上だ。問題なのは、此処で自分が降りたら湊が一人になるということだ。
のめり込むと止まらない。知的好奇心を満たす為なら自分の身を犠牲にすることも厭わない。放って置いて取り返しの付かない事態になるのは、ーー怖い。
湊は顎に指を添えて考え込んでいる。
屁理屈を考えているのかも知れないが、航とて折れる気は無かった。腐っても双子の兄弟だ。
結論を出したらしく湊は顔を上げた。
「ソフィアを呼ぼう」
「何で」
「餅は餅屋だろ。俺は幽霊が見えないし、こういう類の状況のセンサーが無いんだ」
つまり、見えないし聞こえないし感じないのだ。
昨晩、航が見た白い手も、湊ならば見えなかったのかも知れない。
航は携帯電話を取り出し、湊の眼前に突き付けた。
「葵君から連絡先は聞いてある。だらだら調査するつもりは無ぇ」
「ああ」
湊が拳を向けて来たので、航も同じように拳を向けた。己の心に嘘が無いことを証明する為の二人のジンクスだった。
1.幽霊屋敷
⑶呼び声
凡ゆる意味で手続きというものは面倒だ。
法で雁字搦めの社会に於いては身の周りの微細な行為に対して許可が必要であり、その番人は総じて頭が固い。
ソフィアへ連絡を取る為、葵君から聞いた番号へ掛ける。受け付けたのは神経質な女で、航が何かを言う度、重箱の隅を突くように詮索し、追求した。
結局、直接本人と話せるようになったのは午後六時過ぎだった。ブルーライトの影響なのか、面倒な手続きのせいなのか頭が痛かった。
航が経緯を説明すると、ソフィアはあからさまに嫌そうな声を出した。超常現象に批判的だった航が協力を求める状況を訝しんでいるようだった。
埒が明かないので、途中で湊と代わった。最悪な第一印象を残していた兄は、航が呆れてしまう程に巧みな話術で約束を取り付け、何でもないことのように笑っていた。
科学者というよりも詐欺師だ。
横で聞いていた航は卑屈に思った。
航が手続きに四苦八苦している間、湊は収集した情報を整理し、あの屋敷の所有者に調査の許可を取っていた。この地球上に手続き不要の安寧の地は無いな、と虚しく思う。
ソフィアとの待ち合わせは午後八時。
遅い夕食を済ませ、軽く大学授業の予習と復習をしておく。
夜に出掛けるので、母にも許可を求める必要があった。湊が調査の為と言うとあっさり許されたので、肩透かしを食らった心地だった。日頃の行いは大事だ。多分、航だったら口論になっていたと思う。
行動するなら夜は避ける。
航はそう思っていたのだが、結局、夜だ。深夜ではないことに胸を撫で下ろすべきなのだろう。
機材を背負った湊をバイクの後部座席に乗せ、待ち合わせ場所であるあの幽霊屋敷へ向かった。
街は死んだように静まり返り、活気に満ちた昼間が嘘のようだった。
予定時間より少し早く到着したので、二人で作戦会議をする。
機械は不調になる可能性があるというので、アナログな地図を広げる。湊は古い水脈図を指して言った。
「地下で二つの古い水脈がぶつかってる。この前、建物の外周から測ってみたら、僅かに傾いていた。ポルターガイストは水撃作用と地盤沈下で説明出来る」
あの騒音の正体は地盤沈下だというのだろうか。
何だか丸め込まれているような気がして、航は問い掛けた。
「あの声は?」
「あれは声というより、音だよ。地下から吹き上げた風が、建物の隙間を通り抜けて声みたいに聞こえるんだ」
航は唸った。
湊が言うなら、そうなのかも知れない。ただ、今の自分も湊も情報が不足している。例えそれが如何に整合的な結論であったとしても、確証が無ければ推測でしか無い。
手のことを聞こうとして、辞めた。
あれは見間違いだった。少なくとも、湊は見ていないのだ。
湊は屋敷を見上げて言った。
今にも崩れそうなおんぼろ屋敷だ。
「一応、私有地に入る許可は取ってある。でも、今日は外から見るだけにしよう」
「入らねぇの」
「嫌な予感がする」
ふうん。航は曖昧に相槌を打った。
もしも無鉄砲に乗り込んだり、航を労わるような物言いだったら、殴っていたかも知れない。しかし、湊は慣習に従って計画的に動いているらしい。
「あ、ソフィアが来たよ」
おーい。
湊が大きく手を振った。ーーその時だった。
街灯に照らされたソフィアの顔が強張る。航は考えるよりも早く振り返り、あの窓に目を奪われた。
誰かが、いる。
嵌め殺しの窓に顔を押し付けて、胡乱な眼差しで此方を睨んでいる。
長い黒髪は垂れ下がり、紙のような顔色は生きている人間には見えなかった。
身体中から血の気が引いて、足元が揺れる。心臓が激しく脈を打ち、今すぐ叫び出したい衝動に駆られた。
二人の様子に気付いた湊が窓を見上げる。
「何? 何かいる?」
屋敷と自分の周囲をぐるぐる見渡して、湊は首を傾げる。今も窓にはあの女が呪い殺さんとばかりの眼光を放っているのに、湊には見えていないらしい。
ああああーー……。
ああーー……。
赤子の声が聞こえる。航は咄嗟に耳を覆った。
鼓膜が貫かれたかのように耳が痛かった。駆け寄って来るソフィアが白く霞んで見える。
ああああーー……。
ああーー……。
絶対に風の音じゃない。航は確信した。
酷い頭痛と耳鳴りに苛まれながら、航は気力を振り絞って窓の女を睨み返した。女の白濁した瞳が航を捉え、血を吸ったような唇が弧を描く。
ぴしっ。
軋むような音がした。窓硝子に蜘蛛の巣状の亀裂が入った。女は白い掌を向け、おいでおいでと手招きしている。
掌で押されているかのように、罅が少しずつ広がって行く。そして、次の瞬間、窓硝子は粉々に砕け散った。硝子片が庭先に降り注ぐ。航はそれを呆然と眺めていた。
これが何を示唆しているのか。
航の頭の中は真っ白だった。理解の及ばない何か良くないことが起こっている。
落下した硝子片を調査しようと、湊が敷地に足を踏み入れる。
「待て、湊!」
航の制止を叫ぶ声は、届かなかった。
内部でガス爆発でも起こったかのように窓硝子が窓枠ごと吹っ飛び、激しい物音を立てて落下したのだ。
突然の事態に航は湊の姿を見失った。ほんの一瞬だった。降り注ぐ硝子の雨の向こうにいた兄は、忽然と消え失せていた。
「……湊?」
すぐ目の前にいた筈だ。手を伸ばせば届く距離だった。だが、其処に兄はいない。姿を消す寸前まで持っていた地図が硝子片の下敷きになり、びりびりに破けていた。
「湊!」
我を忘れて叫ぶ。返事は無かった。
その代わり、玄関扉が迎え入れるように開いていた。
ああああーー……。
ああーー……。
昨日見た陳腐なホラー映画が脳裏を過る。
森の奥の洋館は悪霊の棲み着く幽霊屋敷で、迷い込んだ旅人を食べてしまう。
まさか、湊が。
「湊!」
堪らず駆け出す航の腕をソフィアが掴んだ。
振り払おうとするが、その細腕に込められた力は想像以上に強い。航は僅かに冷静さを取り戻し、半開きの扉に酷い絶望感を抱いた。
ああああーー……。
ああーー……。
赤子の声は止まない。気付くと女もいなかった。
何が起きているのかさっぱり解らないが、非常事態であることは確かだった。
乗り込むか?
いや、警察に連絡するか?
駄目だ。兄が幽霊に攫われただなんて絶対に信じてもらえない。
葵君に助けを求めるか?
警察よりは話を聞いてくれる筈だ。湊がいなくなったのは事実だ。自分には通報の義務がある。
航は震える手で携帯を取り出した。
圏外だった。しかも、表示されている文字が全て不気味に文字化けしていて、使い物にならない。
玄関扉がきぃきぃと鳴いている。
黒い染みが点々と屋敷の奥まで続いている。湊の血か? まさか、怪我でも?
迷っている暇は無かった。
「湊を探しに行く。お前は警察を呼べ」
「私の携帯も動かないわ」
「なら、走って街まで戻れ」
湊が怪我をしている可能性がある。あの大量の硝子片を頭から浴びて無事でいられる筈が無い。
ソフィアは腕を掴んだまま、首を振った。
「貴方は行ってはいけない。あの女が見ていたのは、湊ではなくて、航よ。貴方を狙ってる」
「だったら何だってんだよ! 湊を見捨てろって言うのか?!」
航は怒鳴り付けたが、ソフィアは微塵も怖くないと言うように強く睨み返して来た。
「私も行くわ」
腕を掴む力は強く、微かに震えていた。
ソフィアは言った。
「その為に私を呼んだんでしょ。力になるわ」
航には反論も起死回生の策も何も浮かばなかった。
「勝手にしろ!」
航は苛立ちのままに吐き捨てた。
取り残された湊の荷物の中から懐中電灯を取り出し、屋敷を睨む。点々と続く血痕が兄のものでないことを祈りながら、航は足を踏み入れた。