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ハロー、マイヒーロー!  作者: 宝積 佐知
11.天国に告ぐ
69/106

⑴君の為に出来ること

 Insanity Is doing the same thing over and over again and expecting different results.

(同じことを繰り返しながら、違う結果を望むこと、それを狂気という)


 Albert Einstein





 いいかい?

 今から、大切な話をするよ。


 諭すように、語り掛けるように。酷く丁寧に父が言った。湊はその日のことを幾度と無く反芻しては、胸の中に刻み込む。


 六歳の春だった。

 父と航と共にブロンクスの公園でキャッチボールをした。小休憩とばかりに寝転ぶ二人から離れ、木漏れ日の下で景色を眺めていた。

 その時、一人の少年が何処からともなく現れた。平均値を具現化したような何処にでもいそうな少年は、退屈そうに芝生に寝転んだ。湊は何の警戒もしなかった。やがて彼は自分の側までやって来ると、口の端に笑みを浮かべて言った。


 美味しいお菓子があるんだ。

 楽しい玩具もある。

 だから、一緒に行こうよ。


 少年の言葉は、まるで掌から砂が零れ落ちるようにして通り抜けてしまった。湊に解ったのは、彼が嘘を吐いているということだけだった。

 肌が薄く粟立ち、手足から血の気が引くような感覚だった。湊は何も考えず、彼の嘘を指摘した。その瞬間、少年の面からは表情の類がごっそりと削げ落ちた。


 父と航が異変に気付き、仲介した。少年の様子を不審に思った父が通報し、彼は逮捕された。その少年は、児童連続誘拐殺人の犯人だったのだ。自分が無事でいられたのは、父のお蔭だった。


 少年を警察署に届けた後、父と沢山の話をした。

 その一つ一つが今の湊を形作っている。




「嘘が解っても、その人の心が解る訳じゃない。それを善悪の基準にしてはいけない」

「どうして?」

「全ての嘘が悪い訳じゃない」




 父は泣き出しそうに見えた。


 悪くない嘘って何だろう。

 その時の湊には解らなかった。


 ーーこの世には、嘘より残酷な真実があるだなんて。







 11.天国に告ぐ

 ⑴君の為に出来ること








 日に焼けない白い肌は、いっそ透けてしまいそうに見えた。


 青い血管を辿る。細い首筋、痩けた頬、血の気の無い面に浮かぶ微笑み。まるで悪い夢を見ているようだ。

 金糸の髪が風に踊る。初春の日差しの中、彼女はこのまま何処か遠いところへ消えてしまいそうで、泣きたいような、叫び出したいような酷い気分だった。


 両手を握る。溢れ出しそうな激情を堪える為に、静かに深呼吸する。目の前の女の子に心配をさせたくは無い。きっと、それだけが自分に出来る唯一のことだった。




「湊?」




 リリーが呼び掛ける。

 湊は、目を伏せて笑った。両目が熱かった。このまま眼球ごと溶けて、流れ落ちてしまうのではないかとさえ思った。


 俺は駄目だな。

 胸の内に吐き捨てる。

 何でも救えるとは思わないけれど、目の前の女の子の笑顔さえ守れない自分は、一体何の為に此処にいるのだろう。


 自分に何が出来る?

 そう問い掛けたいのを、寸前で堪えた。そんなこと、彼女に訊くことではない。


 彼女の両親を死なせた二人組が死んだことは、話せなかった。裁判にも掛けられず、反省もさせられず、罪を償わせることも、彼女の信じる善性を証明することも、自分には出来なかった。


 自己憐憫も絶望もせず、残された人生を懸命に生きようとする彼女を、自分勝手な同情で汚してはならない。自分よりもリーアムの方が、リーアムより彼女の方が、余程泣きたい筈だった。




「今日は何の話をしようか」




 顔を上げたら、両目の熱は何処かへ消えてしまっていた。これでまた、自分は冷静で思慮深い顔が出来る。

 リリーは不思議そうに小首を傾げた。そうして、いつかのあの日みたいに、そっと手を伸ばす。


 冷たい手だった。

 血が通っていないのではないかと思うくらいに、薄くて冷たい掌だ。酷く優しい手付きに、まるで自分が許されているのではないかと都合の良い錯覚をしてしまう。




「話を聞かせて」

「うん」

「貴方の」

「俺の?」




 リリーの青い瞳が覗き込むと、何かを見透かされているようで恐ろしかった。けれど、彼女がとても優しく触れるから、まるで、自分が許されているのではないかと。


 湊は少し考えてから、口を開いた。




「俺には、他人の嘘が解るんだ」




 自分のものとは思えないくらい、弱く掠れた声だった。リリーの掌がゆっくりと下りて行き、自分の手を握った。




「真実が解る訳じゃない。でも、本当のことじゃないって解るんだ。今のところ、外したことが無い」




 繊細な硝子細工を扱うように、リリーの掌を撫でる。骨の浮き出た手の甲には痣があった。点滴の跡だ。腕や手首の血管に針を刺すことが難しい場合、手の甲を選ぶ。しかし、皮膚の薄い部位には痛みが伴う。彼女は一体、どれ程の痛みを堪えて来たのだろうか。


 何でも救えると思うなよ。

 弟の声が耳元で聞こえる。

 解ってる。全部、解ってるんだ。


 これはエゴだ。




「能力の発現は六歳だった。当時、真偽を見定める程の知識データは持ち合わせていなかった。ならば、これは洞察や推察に拠らない感覚的な知覚能力だ」




 幼い頃を思い出す。

 幼少期の自分は、それが善悪を見定める一種の物差しだと思っていた。善人は真実を語り、悪人は嘘を吐く。思い出すと吐き気がするくらい傲慢な考え方をしていた。




「俺の親父も他人の嘘が解る人だった。お爺ちゃんもね。そうなると、俺の能力は遺伝と考えるのが筋だ」

「航は?」

「航は遺伝しなかった。親子間でも体格や性格は異なる場合があるからね。……まあ、俺は親父の生き写しらしいから」




 消毒液の臭いがする。

 自分の覚悟と共に、五感が研ぎ澄まされて行くのが解る。湊は深呼吸して、言った。




「恐らく、俺が受け継いだのは自己防衛の為の感知能力。それが他人の嘘に特化したんだろう」




 リリーが眉を寄せた。薬剤の影響なのか、形の良い眉毛は所々穴を開けている。




「私には、まるで超能力のように聞こえるわ」

「はは」




 つい笑いが漏れて、慌てて口を押さえた。

 彼女の反応が、まるで、オリビアのようだったから。




「同じことを言った人がいたよ。俺は遺伝と考えていたけど、その人はギフトだと言った」




 ギフトーー。

 それは屡々才能を指す。もしもそれが天からの授かりものだとするならば、何の為に、という疑問が生じる。尤も、自分は神を信仰していないので、些細なことだった。


 リリーが問う。




「その人は今どうしてるの?」

「死んだよ。去年の夏に」




 瞼の裏に蘇る。

 苦悶に歪んだ顔、掻き毟った喉、腕に残る点滴の痣。


 オリビア。

 胸の内で名を呼ぶ。返事は無い。彼女の声を忘れかけている自分に驚く。人の忘却力は恐ろしい。忘却は自己防衛本能だ。自分は、彼女を忘れたいのだろうか。




「……その人は」




 ぽつりと、リリーが言った。




「その人は、ロマンチストなのね」




 湊は苦笑しつつ頷いた。


 科学者なんて、皆ロマンチストだ。そうでなければ、確約された未来も無いのに学問に傾倒するような身を滅ぼす真似はしないだろう。




「その人は、貴方の能力を神聖なものだと思ったのね」

「そうなのかな」

「貴方は自分の能力が嫌いなの?」

「別に。だって、生まれ持ったものをどうこう言ったって意味が無いじゃないか」




 自己憐憫なんて自分からは最も程遠い感情だ。自分の境遇を嘆くくらいなら、打開の方法を考えて行動する。そうやって生きて来た。


 違うのかな。

 不意に、そんなことを思った。

 リリーはどう思うんだろう。こんな自分はリリーの目にどのように映るのだろう。他者評価を気にするなんて初めてだった。


 自分自身のことを評価するのは難しい。卑屈であれば過小評価し、傲慢であれば過大評価する。そして、湊は前者だった。自分の卑屈さが嫌いだし、無力さが許せない。だから、努力する。それ以外の方法を知らない。


 自分と同じなのだろうかと考えて、即座に否定する。他者の感情を決め付けるのは悪い傾向だ。すぐに修正しよう。




「湊は、自分の性格が好きじゃないのね。だから、自分の感情を殺す」




 殺すとは、随分乱暴な言い方だ。リリーらしくないな、と思い、自分がリリーの何を知っているのだろうと自嘲する。




「私は許すわ」




 リリーが手を握る。温かい掌だった。どちらが熱を分け与えたのかなんて、きっとどうでも良かった。繋いだ手が温かい。それ以上の答えはいらなかった。




「貴方の弱さも、脆さも、未熟さも」

「でも」




 喉の奥がぎゅっと詰まる感覚がした。幾つもの光景がフラッシュバックのように蘇り、くらくらする。耳鳴りと共に吐き気がして、思わず口元を押さえた。


 でも、俺は救えなかったんだよ。

 だから、オリビアは死んだんだ。


 こんなこと、リリーが知る必要無い。


 俯いた時、手の甲に雫が落ちた。ふと顔を上げると、リリーの瞳から、ダイヤモンドみたいな光が溢れるのが見えた。

 泣いていると気付いた時には、体が勝手に動いていた。彼女の細い肩を抱いて、あやすように背中を撫でていた。




「どうして、泣くの?」

「悲しいからよ」

「どうして、悲しいの?」

「貴方が泣かないからよ」




 胸の中に立ち込める暗雲に一筋の光が差し込むようだった。身も世も無く泣き出したいような、叫び出したいような形容し難い感情が湧き出して、湊はリリーの肩を抱き締めた。


 俺の為に、俺の代わりに、そんな風に泣いてくれるの?


 抱き寄せた肩は細くて、彼女が死の淵に立っていることを嫌でも知らしめる。もうすぐ、彼女は死ぬ。この手の届かないところに行ってしまう。


 今この瞬間に、独りきりじゃなくて良かった。

 自分の為には涙一つ、弱り目一つ見せない彼女をこの腕が包み込んでいると思うと、言いようの無い愛しさが込み上げて来る。


 彼女は別れの時にも泣き言一つ零さないのだろう。遺される弟を思って、そっと微笑んで静かに逝くのだろう。それを見届けた時、自分は泣くのだろうか。それとも、笑えるのだろうか。思い出だけが美しく残って、自分はやがて彼女の声も笑顔も忘れて行くのだろう。


 どうしたら良いのか解らない。覆すことの出来ない現実が、津波のように容赦無く自我を呑み込もうとしている。自然災害の前に人が無力であるように、今の自分は途方も無く無力で弱い存在だった。


 俺の寿命を分けてやりたかった。

 だからどうか、この人を助けて。


 そんな都合の良い話は有り得ないと解っている。


 奇跡なんて起こらない。奇跡を願って神頼みなんて、そんなの俺じゃない。ーーそれでも、祈ってしまう。縋ってしまう。


 時計の音が聞こえた。秒針はこんなに大きな音を立てるのかと驚くくらい、部屋の中は静かだった。


 ねえ、湊。

 震える声で、リリーが言った。




「人は死んだら、何処へ行くのかな」




 湊には答えられなかった。

 科学者である自分は、霊魂の存在には否定的だった。リリーを慰める言葉の一つも言えない自分が堪えられない程、悔しかった。




「貴方と出会ったことを、後悔したくないよ」




 リリーの言葉の真意は見えない。ただそれが偽ることの出来ない真実の言葉であることだけは、確かだった。

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