⑺人の善性
賑やかな繁華街を抜けた裏通り。
煤けたコンクリートの壁に囲まれた路地の一角に、その店はあった。道側には小さな窓が据え付けられ、常時ブラインドが閉められている。知る人ぞ知る其処は、秘匿性の高いバーだった。
近隣で悪質極まりない事故が起きたとしても、利用客は他人事と決め込み酒を煽る。店内はアルコールと紫煙の臭いに包まれ、浮世離れした雰囲気を漂わせていた。
狭いカウンターの奥に男が一人座っている。普段は馬鹿騒ぎの中心にいたにも関わらず、今は何かに怯え、ぎょろぎょろと周囲を睨み付けていた。
気心知れた友人が話し掛けると牙を剥き、触れようものなら威嚇する。平静と異なる姿はまさに何かに取り憑かれているようだった。
扉に下げられたベルが鳴る。客は目を向けない。店主は愛想良く声を掛け、その姿に俄かに驚いた。
一見すると精悍な青年である。屈強な肉体に見事な金髪は、見る者を惹き付ける強烈な存在感を放っていた。
店主は社交辞令の言葉さえ見失っていた。青年の落ち窪んだ眼窩の奥にある碧眼は、獲物を前にした肉食獣のような残酷さを滲ませている。彼が一歩を踏み出す度に空気が罅割れ、粉々に砕けていくような感覚だった。青年は誰の制止も受けず、真っ直ぐに目的の人物の元へと進んで行く。
安酒に浮かされた喧騒を抜け、青年はカウンターの前に立った。その視線の先は病的に怯える一人の男である。白熱灯を遮る青年の影に気付いた男は怪訝そうに眉を寄せ、唸るように問い掛けた。
「誰だ、お前」
青年は目の下の隈を隠しもせず、疲れ切った顔で少しだけ微笑んだ。そして、質問には答えず、静かに問い掛ける。
「幽霊を見たというのは、本当ですか?」
周囲は水を打ったように静まり返った。
アルコールに浮かされた男は吐き捨てるように嗤うと、軽薄に言った。
「ああ、そうさ。俺は幽霊に取り憑かれているんだ」
青年は頷くと、男の隣のスツールを引いた。
客は彼等の遣り取りに神経を尖らせた。平和ボケした人々にも、彼等の間に流れる剣呑な空気は感じ取ることが出来た。それは些細な刺激で破裂しそうな緊張感に溢れている。
青年が言った。
「幽霊はどうして、貴方を恨むのでしょうか」
「知るかよ。逆恨みだろ」
「貴方は、反省していますか」
それが最後の問いであると、男は気付かない。
ショットグラスの蒸留酒を飲み下すと、口角を吊り上げた。
「俺のせいじゃねえ」
そうですか、と。
掠れるような声で青年が言った。客のざわめきは男に聞こえない。彼には見えなかったのだ。青年が背中に回した手に、鋭利なナイフを握っていたなんて。
青年は予備動作無く男の首を掴んだ。そのまま勢いよくカウンターに叩き付けると、ショットグラスが割れて悲鳴のように鳴った。
銀色の刃が白熱灯の光を反射する。恐怖と動揺に染まった客の声は雑音に等しかった。青年は鈍く光ったそれを振り上げる。
その時だった。
「リーアム!!」
子犬のような少年が扉を蹴破る勢いで転がり込んだ。助けを求める人々の視線が集められ、まるで彼にスポットライトが当たったようだった。
開け放たれた扉の向こうから無数のヘッドライトの光が差し込んだ。獣の息遣いに似たエンジンの音と、如何にも不良少年といった調子の青年達が並んでいる。
彼等を制するように、痩せ型の少年が現れる。
リーアムは、彼等の名を呼んだ。
「湊、航……」
航は、込み上げる遣る瀬無さにどんな顔をするべきか解らなかった。どんな言葉も不正解であるように思った。
警察に保護された後、自宅には戻らずそのままリーアムの元へ行った。家はもぬけの殻だった。嫌な予感を覚え、航は界隈に詳しいルークやライアンの力を借りてリーアムを探した。
バイクで夜の街を駆け回り、行き着いた先がこのバーだった。
事故の加害者が通っていたという寂れたバーだ。猛烈な嫌な予感に湊が後部座席を飛び降りた。航も後を追った。そして、二人が目にしたのは、加害者に刃を振り上げるリーアムの姿だった。
湊は身を低く構えたまま、制止を訴えた。
「やめろ、リーアム」
「何故」
リーアムは泣き出しそうな顔をしていた。
「彼は反省していない。だから、同じ過ちを繰り返す」
「だからといって、君がその手を汚す必要は無いんだよ」
「じゃあ、他に誰が?」
航は奥歯を噛み締めた。
リーアムは男をカウンターに押し付けたまま、刃を握り直した。
「貴方は反省していない。そうでしょう?」
顔面をずたずたに切り裂かれた男が、痛みに喘ぎながら必死に弁明する。
「反省している! 俺はもう二度と車には乗らない! 被害者に申し訳無いと心から、」
「ねえ、湊」
男の言葉を遮って、リーアムは湊に問い掛けた。
「この人の言っていることは、本当?」
湊が息を呑むのが解った。
湊には他人の嘘が解る。だから、その男が心の底から反省しているのかも解る。そして、恐らく、答えは否だ。それは、その場凌ぎの言い訳だ。
「答えなくていい」
航は庇うように前へ進み出る。
湊がどう答えたって、リーアムは納得しない。
男の嘘を見抜けば、リーアムはナイフを振り下ろすのだろう。けれど、湊が嘘を吐けば男は野放しだ。
どちらを選んだって、湊が傷付く。
リーアムはそれでもなお、問い掛けた。
「司法は全自動じゃない。それなら、一体誰が死者の魂を救ってくれるの?」
そんなこと、湊が答える必要無い。
リーアムの握ったナイフが鋭利に光った。
「誰も救ってくれないなら、僕がやる」
湊が何かを答えようとした。その時だった。
店内を照らしていた白熱灯が何の前触れも無く突然、内部から破裂した。細かな硝子片が飛び散り、店内は暗闇に包まれた。耳を劈く悲鳴と動転した声、逃げ惑う人々の雑踏。辺りはパニック状態に陥った。
リーアムはナイフを握っていた。一刻を争う自体だ。
航は闇の中、目を凝らした。激しい明暗の変化に視界が点滅する。
「リーアム!」
湊の切羽詰まった声が聞こえた。
声の方向と響きから空間を把握する。最後の記憶と照らし合わせ、大凡の検討を付ける。迷っている時間は無かった。
航が拳を振り上げた時、何処からか金属の焼ける嫌な臭いが漂った。猛烈な寒気が足元を襲う。まるで、得体の知れない何かが背後から迫り来るような恐怖だった。
ぴちゃん。
水の音が聞こえた。振り返る余裕は無かった。
闇の中、蛇のような何かが這い回る。それは航の脇を擦り抜け、リーアムに取り付く湊へ向かっていた。
アンカー理論。
航は忌々しく思った。
ぴちゃん。ぽたっ。
ぐちゃ。
足元は凍える程に寒いのに、周囲は湿気を帯び生温かった。硫黄のような異臭で鼻が曲がりそうだ。
店の外からバイクのヘッドライトの光が差し込む。湊が突き飛ばされるのが見えた。体格差では敵わない。
それでも一矢報いようとナイフを取り上げる。湊の横を何かが掠めて行った。顔色を失くしたリーアムが振り返る。その胸倉を引っ掴み、渾身の力を込めて横っ面を殴った。
肉を打つ乾いた音が響いた。
リーアムが倒れる横で、湊がナイフを抱えている。航は痺れるような痛みと共に拳を握った。
「てめぇの我儘に、湊を巻き込むんじゃねぇ」
起き上がったリーアムは、口の端から滲む血を拭った。嘆くような、安堵したような複雑な顔だった。
顔面を血塗れにした男が悲鳴を上げる。湊がその胸倉を掴み上げ、渾身の力で殴り飛ばした。男の身体が勢い良く壁に衝突し、硝子や雑貨の壊れる凄まじい音がした。
「二度と、俺達の前に姿を見せるな!!」
湊の怒声が響き渡る。男はそのまま転がるようにして逃げ出した。追い掛けようとは思わなかった。目の端に、何かが男を追うのが見えたような気がした。
店の外からルークやライアンの罵声が聞こえた。航はヘッドライトの光を頼りに湊の元まで辿り着くと、ほっと一息吐いた。
アンカー理論が事実ならば、男を狙った何かが湊へ矛先を変える可能性があった。殺しても死にそうにない兄だが、無事で良かった。
ヘッドライトの明かりの中、リーアムは天井を仰ぎ、何か憑き物が落ちたような顔で笑った。
復讐を誓ったのだろうか。それとも、止めて欲しかったのだろうか。航には解らない。リーアムがどんな覚悟で刃を握ったのかなんて、解る筈も無かった。
湊が自分を呼んだ。抜き身の刃を預けられ、余りの不用心さに呆れてしまう。けれど、きっとそれが湊にとっての自分への信頼なのだと思った。
身軽になった湊はリーアムの前に膝を突いた。
そして、幼子に語り聞かせるように酷く穏やかに語った。
「誰が死者の魂を救ってくれるのかって、訊いたね」
それは、喧騒の遠退くような静かで真摯な声だった。
「俺は、誰にも救えないと思ってる」
湊はリーアムの掌を掴んだ。それはあの瞬間、ナイフを握った手だった。
「俺は神様を信じていないからね。神様が全てを解決するのなら、この世に司法も医学も必要無かった。そうだろう?」
肩を竦め、湊が戯けたように笑う。
「きっと、全部自己満足なんだ。救うのも救われるのも、全部その人が勝手に決めることだ」
湊はリーアムの手を握り、真正面から覗き込んだ。
「リリーが言ってたよ。人の善性を信じるって」
リーアムがはっとしたように目を丸めた。
航はその言葉で、湊の行動の全てを理解した。
報復ではなく、更生を。私刑ではなく司法による裁きを。それは、湊自身がリリーの言葉を守りたかったから。
ねぇ、リーアム。
湊が言った。
「傷跡がいつか癒えるように、君の憎しみも消える日が来る。だから、生きていこう。それだけが、俺達に出来る死者への唯一の救いなんだ」
ただそれだけのことが、どれだけ困難であるか。
航は黙っていた。綺麗事も理想論も嫌いだ。けれど、現実主義の湊が主義を曲げてまで貫こうとした正義だ。否定する権利は誰にも無い。
俯いたリーアムの頭が微かに上下する。
きっと、それこそがリリーの願った人の善性なのだと思った。
湿っぽい雰囲気は苦手だ。
航は血の滲む拳をポケットに突っ込み、店を出た。バイクに跨ったルークが、気怠そうな目で言った。
「市議会議員の汚職、裏が取れたぜ。奴等を守るものはもう何も無い」
「ああ」
「……?」
コネクションを潰す為の情報を集めてもらったのだ。湊が司法で裁かなければ意味が無いというから。
けれど、罪を許そうと言う彼等を前に、自分達の画策は価値を失くしてしまった。
湊がリーアムと連れ立って店を出る。湊は辺りを埋め尽くす少年達に苦笑した。その目がポケットに押し込んだ拳を見遣るので、航は舌打ちを漏らした。
そういえば、あれは何だったのだろう。蛇のような何かが店内を這い回り、最後は男を追い掛けて消えた。湊には見えていなかったようだった。ならば、あれはきっと霊と呼ばれる何かだ。
その話をした時、湊が奇妙なことを言った。
「あの人はもう助けられないよ」
その声は無感情に凪いでいた。
「死者の思考は停止している。目的を達成するまで、止まることはない」
声に見合わぬはっきりとした口調だった。
何が言いたいのだろう。航が睨んでも、湊は答えなかった。
10.断罪
⑺人の善性
バーを出てから、リュウを呼んだ。
見慣れた黒いボックスカーの到着を待ちながら、リーアムと色々な話をした。
今はこの世にいない両親のこと、施設でのこと、バスケのこと、リリーが病に侵されたこと。聞いたことのある話も、そうではない話も、航は黙って耳を傾けた。
彼の生い立ちを知る程に、この世の理不尽を憎まずにはいられなかった。その全ての苦しみが、二人の悪魔によって齎されたものだと思えば恨まずにはいられなかった。両親が生きていれば避けられただろう辛苦を、彼は姉と二人きりで堪えて来た。
リュウのボックスカーにはソフィアが同乗していた。咎めず、航は後部座席に座った。助手席の湊が喋り倒すので、車内は不思議と居心地が良かった。
そのままリーアムの両親の亡くなった事故現場に向かった。規制線の解かれた事故現場は、今は僅かな報道陣がいるだけで静かなものだった。彼等も撤退の支度を始めているから、此処はやがて元通りの静寂を取り戻すのだろう。
リュウの用意した手向けの花を供えて、皆で黙祷した。神に祈るのではなく、自分達の覚悟を示す為に。
黙祷を終えた時、ソフィアは申し訳無さそうに言った。
「此処にリーアムの両親はいないわ」
きっと、そうなのだろう。ソフィアがそれだけ言うのだから、そうなのだろうと思いたかった。心優しい彼の両親が、加害者を恨み、悪霊となって顕現しただなんて信じたくなかった。
では、誰が?
あの夜、加害者の下半身を引き千切ったのは、一体誰なのか。湊の言うように単なる自然現象なのか、それとも。
「そういえばあの時、声を聞いた気がしたよ」
崖下を覗きながら、湊が言った。
湊には霊の存在を知覚出来ない。見えないし、聞こえないし、感じられない。そんな湊に何が聞こえたのだろう。どうせ聞き違えか空耳だろうと鼻で笑おうとして、航は黙った。湊は酷く真剣な表情をしていた。
「子供の泣き声だった」
腹の底が冷える。
子供の泣き声。加害者を恨む子供となると、航に思い浮かぶのは交差点で起きた凄惨な死亡事故である。
昨日の事故で亡くなった夫婦が、五歳の息子を探して彷徨っていたわ。
不意にソフィアの言葉が蘇る。
五歳の息子は事故現場から二キロ以上引き摺られ、窒息死した。遺体は激しく損傷し、肉は裂け、骨が露出していたーー。
まさか。
霊感と呼ばれる感覚が全く無い湊が知覚出来たのは、それだけ濃厚な質量を持った霊だったのではないか。それこそ、成人男性の下半身を引き千切る程のーー。
「もう、俺に出来ることは何も無い」
湊が静かに言った。
何かの覚悟を決めたような悲壮な顔付きだった。
その予言が的中したことを知ったのは、翌日のことであった。ルークからのメッセージに、生き残った加害者の男が死んだと記されていた。
場所はあの交差点。時刻は奇しくもあの死亡事故が起きたのと同時刻である。男は交差点中央で血塗れになって倒れていた。
アルコールや薬物の反応は無く、監視カメラにも通行する車の姿は映っていない。男は何処からともなく現れて、交差点の中央に差し掛かると突然倒れた。そして、下半身が丸ごと無くなっていた。
スピーカーには、微かに音声が残っていた。
夥しい雑音の中、幼い子供が笑っている声だった。
事件の顛末を知った湊は、静かだった。まるで、この結末を予期していたかのようにさえ見えた。航は苦い思いを噛み締めながら問い掛けた。
「お前は、何処まで解っていたんだ?」
問い掛けながらも、答えを聞きたくなかった。
湊は加害者を見殺しにしたのか。
「俺は霊の存在を知覚出来ないから、それがリーアムの両親なのか、あの子供なのかも解らなかったよ」
「じゃあ、どうしてあいつが死ぬって思ったんだ」
「どういう風に死ぬかなんて解らなかったよ。まあ、ろくな死に方はしないと思ってたけど」
それだって、何処まで本当なのか解らない。
航には湊の嘘を見抜けない。
「ただ、リーアムの両親ではないことを祈った」
最初に加害者の一人が死んだ夜、湊は死者に語り掛けた。その声が届かないとしても、祈るような気持ちで。
湊の信じた人の善性とは、罪人を許せるリーアムのことだった。そして、その為の手段が司法による処罰である。つまり、あの加害者二人は初めから勘定に入っていなかったのだろう。
「全てを救えるとは思わない」
その通りだ。
湊があの加害者まで守る必要は無いし、価値も無かった。切り捨てて当然のものを切り捨て、守るべきものを守った。ーーでは、この後味の悪さは何なのだろう?
これが正解であったとしても、何かを諦める湊の姿は見たくなかった。それが航のエゴだとしても。
「でも、守りたかったよ」
深い後悔を乗せて、嘆くように湊が零した。
既に背中を向けている湊を追求する者はいない。しかし、それが全ての答えだと思った。
守らせてやりたかったな。
航は胸の内に、そんなことを零した。




