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⑹報い

 事故現場に行きたいと、湊が言った。

 それはあの交差点ではなく、クラーク夫妻の亡くなった峠の事故現場を指していた。自暴自棄な行動ならば止めるべきである。しかし、湊は冷静な顔付きで、静かに言った。




「俺はリーアムに頼まれたんだ。噂の真偽を確かめるって」




 今更、初心に帰ったらしい。

 湊の頭にヘルメットを押し込んで、航はバイクの鍵を片手に握った。


 辺りは静かだった。

 喧騒止まない警察署周辺から離れると、辺りは閑静な住宅街である。ハドソン川を遡り、鬱蒼とした森沿いの道を走る。頬を撫でる風は冷たく、指先が悴んだ。

 流石に雪は降らないようだったが、星を隠す鉛色の雲が重苦しく、何かが起こりそうな不吉な雰囲気を醸し出している。


 昨日の待避所に到着したのは午後八時半。

 乾いたアスファルトを走る車はいなかった。耳が痛くなるような静寂の中、崖下から微かに水音が聞こえた。


 ガードレールの下をそっと覗く。木々の生い茂る森の中は暗く、何が潜んでいても見えはしないだろう。時折吹き付ける寒風が木々を揺らす。航は胸の中に湧き出す嫌な予感を誤魔化すようにして掌を握った。

 湊はヘルメットを脱ぐと、ガードレールには近付かずに山側の車線ばかりを見詰めている。




「クラーク夫人は崖から転落して、即死した。司法解剖では、車の部品が体を貫いて、胴体は真っ二つだったらしい」




 航は奥歯を噛み締めた。


 クラーク夫人は即死。クラーク氏は病院に搬送されたが、子供達に会うことも叶わずに亡くなった。そして、その子供達は施設へ送られ、今は不治の病に侵されている。


 誰か。

 誰か、助けてくれ。

 航はそう願わずにはいられなかった。


 クラーク夫妻を殺した悪魔達は今も野放しで、司法では裁くことが出来ない。そうしてのうのうと生き延び、今度は一家四人を轢き殺し、罰から逃れようとしている。




「ねぇ、クラークさん」




 突然、山を見上げながら湊が言った。




「辛いですか。悲しいですか。それとも、憎いですか」




 航は黙っていた。

 湊は霊の存在を知覚出来ない。伸ばした手は届かず、声は聞こえない。ソフィアは此処にクラーク夫妻の霊はいないと言っていた。それ以上の答えは無い。ならば、湊は何をしようとしているのだろう?




「俺は、悔しい」




 そう言って、湊は目を伏せた。

 泣いているのではないかと思う程、弱々しく掠れた声だった。だが、航は泣いていないことも解っていた。湊は泣かない。どんな逆境の中でも起死回生の策を練り、諦めない。自分の境遇を憐れまないし他人の感情に深入りしない。

 そんな湊が悔しいと言っている。それがこの一連の事件の残虐性を物語っている。




「報復はしない。それを望まない人がいるから」




 リーアムのことだろうか。

 自分に向けられない言葉の意味は解らない。

 けれど、願わずにはいられない。報復が許されないのならば、せめて公正なる判決を、然るべき処罰を。


 航が目を伏せた、その時だった。

 乾いたアスファルトに白い光が踊った。悲鳴のようなブレーキの音が静寂を切り刻む。真っ赤な車が凄まじい速度で迫っていた。




「湊!」




 湊がアスファルトへ倒れ込む。その僅か数十センチの距離を一台のスポーツカーが走り抜けた。

 ヘッドライトに目が眩みながら、航は俯せに倒れた湊に駆け寄った。

 スポーツカーは十メートル程走ると停止した。アスファルトに残るブレーキ痕が生々しかった。


 扉の開く音がした。湊と揃って顔を上げれば、其処に立っていたのはあの悪魔達だった。

 此方の姿を認めると苦々しく顔を歪め、舌打ちを吐き捨てる。磨き込まれた革靴が地面に降り立つ。動悸のようなエンジンの音が山々に木霊し、緊張が走った。




「また、テメェか」




 運転席を降りた男が言った。

 航は立ち塞ぐように、起き上がらない湊の前に立った。




「それはこっちの台詞だ、クソ野郎」




 航。

 湊が縋るように呼んだ。


 解ってる。全部、解ってる。

 此処でこの悪魔達を責め立てたところで何も変わりはしない。言葉による脅迫も、説得も無意味だった。一発殴れば納得するなんて次元はとうに過ぎてしまった。報復も処罰も望めないならば、果たして自分に何が出来るのだろうか。何も出来ないだなんて諦める程に賢くもない。




「死にてぇらしいな……!」




 拳を打ち鳴らし、男が歩み寄る。

 怖くなんて無かった。自分達がこんな下衆に負ける筈も無い。諦めるつもりも無い。




「お前等のコネクションは必ず潰す。何処に逃げたって追い掛けて、絶対に罪を償わせてやる」




 男が喉を鳴らして嗤った。




「ガキが粋がってんじゃねぇよ」

「俺達がガキなら、てめぇ等は何なんだよ」




 自分達を嘲る物言いにカチンと来て、航は脊髄反射で言い返した。一触即発の緊張の最中、湊がゆっくりと起き上がる。見上げる程の身長差だ。男は湊を見遣ると口元を歪めて嗤った。




「そういや、お前は偉そうなこと言ってやがったな」




 何が、罪は許さないだ。

 男が大股で歩み寄る。航はその進路を立ち塞いだ。




「お前みたいなガキには、何も出来やしねぇよ!」




 航が奥歯を噛み締めた、その時。

 背後から悪寒に似た冷気を感じ、半身で振り向いた。湊の濃褐色の瞳が暗く沈んで見えた。迸る怒気が冷気となって辺りを包み込む。




「報復がお望みかい?」




 湊は薄く笑っていた。

 背筋に冷たいものが走る。気圧されたように男が後退り、湊が一歩前へ進み出た。

 異様な空気を察したのか、助手席からもう一人の男が顔を覗かせた。苛立ちを滲ませた男が懐へ手を伸ばす。ナイフか、拳銃か。航は身を低く構える。湊は怯まない。


 その時、ぐらぐらと足元が揺れた。地震? 土砂崩れ?

 航と同様に男が身構える。湊だけが、何も感じていないかのように真っ直ぐに立っていた。

 山の唸り声が聞こえる。地中深くから突き上げるような振動は激しくなり、立っていられない。その時になって漸く、湊は状況を察したらしかった。


 乾いたアスファルトに亀裂が走った。山道が傾き、停車していた筈の車両が崖へと引き寄せられて行く。ガードレール脇に停めていたバイクが音を立てて倒れ、ヘルメットが転がった。


 荒波の中に浮かぶ筏のようだった。余りの激しい揺れに立っていられない。崖へと引き寄せられる車から男が飛び降りる。車体がガードレールに衝突し、ミシミシと音が鳴った。




「地震?」




 頭を抱えたまま、湊が呑気に問い掛ける。その顔を見て、航は少しだけ冷静さを取り戻した。

 ただの地震じゃない。湊の知覚が余りにも遅過ぎる。つまり、これは、心霊現象だ。


 稲妻のような音が聞こえた。振り向くと金属のガードレールが紙みたいに破けていた。男達の乗っていた車の後輪が崖の向こうに落ちる。あとは、一瞬だった。

 車は崖の下に広がる闇の中へ吸い込まれて行った。斜面を転がり落ちる音が不気味に響く。森の中から野鳥の悲鳴が聞こえた。




「うわあああッ!」




 男か悲鳴を上げた。俯せに倒れ込んだまま、ずるずると崖へ引き寄せられている。それはまるで、目に見えない何かが男の足を掴み、闇の中へ引き摺り込もうとしているようだった。




「助けてくれッ!」




 どの口が言うんだーー!

 航は舌打ちを漏らした。こんな奴等を助ける義理は無い。天罰だ。だけど、それを望まない者がいる。

 湊は匍匐前進するようにアスファルトを這うと、男の腕を掴んだ。溺れる者が藁に縋るように、湊の手を掴み返す。

 揺れは止まない。突き上げるような直下型から、激しい横揺れに変わり、男を湊諸共引き摺り込もうとしてたいる。


 航は湊の腰にしがみ付いた。この悪魔共が死のうが呪われようが構わなかったが、湊が巻き込まれるのは駄目だ。そして、湊は目の前で助けを求められたら手を離せない。


 男の下半身が崖の下に落ちる。半狂乱になって助けを求め、湊の腕を益々強く握り締める。湊の顔が痛みに歪む。航は無我夢中だった。


 突然、無重力空間に投げ出されたみたいに軽くなり、男は糸が切れた操り人形みたいに動かなくなった。横揺れは徐々に収まり、森は静寂を取り戻して行く。


 湊はアスファルトに突っ伏したまま、男の腕を握り締めていた。下半身を崖下へ落としたままの男は身動き一つしない。失神したのだろうか、情けない。

 ゆるゆると身を起こした湊が男へ目を向ける。その次の瞬間、痙攣のように肩が震えた。




「……航。向こうを向いていて」

「は?」

「見ない方が良い」




 意味深なことを言って、湊は目を伏せた。

 この期に及んで何を言うのかと睨み、航は勢いよく湊の体を引き寄せた。二人分とは思えない程の軽さだった。男の体がアスファルトの車道へ引き上げられた瞬間、戦慄が走った。


 下半身が、無かった。

 上空から叩き切られたかのように腰から下は喪失している。血塗れの小腸が溢れ、血液がアスファルトを黒く染め上げて行く。


 喉の奥が震えた。食道から胃液が逆流する。咄嗟に喉元を抑えるが、堪えられなかった。

 逃げ出すようにその場を離れ、道の脇で嘔吐した。喉の奥が焼けるように熱く、耳の奥が鋭く痛んだ。


 一頻り胃液を吐き出し、航は兄の姿を探した。湊は同じ場所から動いていなかった。下半身を失くした男は、湊の腕を掴んだまま事切れている。


 呆然と言葉を失くして座り込む兄と、下半身を切断された男の死体。余りにも非現実的な光景に目眩がした。切断面から溢れ出す血液が湊の足先に届く刹那、残された男が狂ったように叫んだ。




「うわああぁあああッ!!!」




 転がるように男は逃げ出した。

 アスファルトの亀裂に躓き、革靴が脱げる。男はそれも構わず裸足で駆け出す。その背中を追い立てる恐怖が、目に見えた気がした。







 10.断罪

 ⑹報い






 夜の山は赤い光に包まれ、まるで山火事のようだった。


 津波のように押し寄せる緊急車両と報道陣。耳障りな喧騒は遠くに聞こえた。航はパトカーの後部座席で扉に凭れながら、窓の向こうをぼんやりと眺めている。


 警察に通報したのは湊だった。

 現場保存を考えて身動き一つしなかったらしいが、他殺である限り湊は容疑者の一人である。現場の状況を調べる程にその謎は深まり、捜査員は苦虫を噛み潰したように顔を歪めて頭を抱えた。


 男は失血性ショック死であると考えられている。警察が到着する前に湊も同じことを言っていた。だが、最期の瞬間を目の当たりにしただろう湊は失血性のショック症状が現れていなかったとも語った。つまり、男は何らかの凄まじい恐怖から心因性のショックを受け、そのまま死んだのだと言う。航としては、どちらでも良かった。


 とても自然な死ではない。だが、他殺も考え難かった。湊は容疑者の一人だったが、その死体に腕を掴まれていたことや、凶器の類が見付かっていないこと、成人男性の胴体を切断することは物理的に不可能であることから、間も無く容疑者から外された。湊が本気で殺害を目論んだのならば、自分が疑われるような証拠は一切残さないだろう。


 別車両で事情聴取を受けていたらしい湊が解放され、航の元にやって来たのはそれから一時間程後のことだった。その時には至って普通の顔付きに戻っており、とても猟奇的な事件に巻き込まれた後とは思えなかった。


 現場には葵君の所属するBAUも到着していた。猟奇的な殺人事件やシリアルキラーを捜査する組織だ。彼等の管轄である。


 湊は窓の向こうを眺めながら、ぽつりと言った。




「下半身が見付かっていないらしい」




 男の胴体はまるでギロチンでも使ったかのように切断されていたらしい。何らかの自然現象で切断が証明可能だったとしても、その半分が消失するなんてことがあるのだろうか。




「科学的に説明出来ることなのか?」

「さあ」




 湊は肩を竦めた。




「詳しく調査してみないと解らない。でも、証明したいと思う。此処で証明出来なかったら、悪霊の存在を認めることになる」




 その通りだ。

 ソフィアもリュウも、此処にリーアムの両親の霊はいないと言っていた。けれど、こんな現象が起きてしまったら、あの男達の不愉快な言い訳が信憑性を持ってしまう。




「上空を通過した飛行機の表面から、氷が落ちて来ることがある。それが偶然、あの人の胴体を切断したという可能性もある」

「飛行機が飛んでいたのか?」

「公式記録には無いね。でも、可能性は零じゃない。氷なら溶けるから、凶器は残らない」

「じゃあ、下半身は何処に行ったんだよ。氷みたいに溶けたって?」

「……」




 湊は顎に指を添えて俯いた。思案する時の癖だ。

 別に、湊を追い詰めたい訳じゃない。現実逃避を許してやっても良い。だが、湊は暴走することがあるので、常に釘を刺す必要があった。




「リーアムのお母さんの遺体、下半身が無かったらしいね」




 湊が言った。

 酷い偶然の一致は、悪夢のようだった。

 思案を終えた湊が顔を上げる。




「霊的な何かが作用しているとしたら、残った男が狙われる。何か対策しなきゃ」

「放っておけば?」




 罪人が裁きを受けるのだ。それは正当な結果であり、止める理由は無い。湊は眉を寄せて、少しだけ笑った。




「殺すことは容易い。どうせ、人はいつか死ぬ。それなら、せめて生きている内に然るべき罰を受けるべきだ」

「その為に、あの男を守るのか?」

「当たり前だろ。俺は逃すつもりも、諦めるつもりも無い」




 止めるべきなのだろうか。それとも、背中を押すべきか。湊を見ていると、航は自分がどうあるべきなのか迷う。結果は誰にも解らないならば、せめて少しでも救いのある方へ賭けるしかない。




「助けられる可能性があるのに、何もしないのは俺の矜持に反する」




 航は頷いた。

 サイレンの音が甲高く鳴り響く。それはまるで、誰かの断末魔のように聞こえた。

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