⑸掉棒打星
奇跡とか、運命とか。
そういう言葉が嫌いだ。人知を超越した何者かの意思を感じさせる曖昧で漠然とした言葉には不快感を抱く。まるで、自分が取るに足らないちっぽけな存在だと言われているようだからだ。
けれど、世の中には科学では証明出来ない不可思議な現象が起こる。それを奇跡と呼ぶのなら、ーー神なんて糞食らえと思うのだ。
湊が、ノートパソコンの前で項垂れている。断頭台に立つ罪人のような悲愴感を漂わせながらも、その目には煌々と炎が揺れていた。航は、ブルーライトに照らされる兄の横顔をただ見ていた。
九年前の事件を調べ終え、湊は語り尽くされた概要を滔々と語った。目新しい情報は無かった。ただ一点を除いて。
クラーク夫妻の死亡事故。
それは間違い無く事故だった。あの悪魔達が如何に危険で無謀な運転をしていたとしても、殺人事件ではない。奴等に殺害の意図は無く、当時の司法では裁くことが出来なかった。何故ならば、奴等が生き残ったことそのものが奇跡だったのだと言う。
クラーク夫妻の車に衝突したことで、奴等は転落を免れた。そして、泥酔しながら無事に帰還したことも奇跡だった。そうした奇跡の上に生き残った奴等が自首という選択をしたことは喜ぶべきことである。人は誰しも道を誤る。処罰することは容易い。だからこそ、司法は前途ある若者の更生を願うべきである。ーーそれが、当時の弁護側の主張である。
反吐が出る。
何が、奇跡だ。奴等は更生なんてしていない。
そんな奴等が生き残ったことが奇跡と言うのならば、なんて無意味な奇跡なんだろうと思わずにはいられない。
罪を憎んで人を憎まずとは、誰の言葉だったか。
それでは、余りにも。余りにも、遺族が救われないじゃないか。
「せめて、お父さんが生き残ってくれていたら」
湊が独り言のように呟いた。航は頷いた。
リリーとリーアムは当時十歳。頼れる親戚も無く、施設へ送られた。社会的立場が圧倒的に弱かったのだ。
命の重みには違いがあるらしい。
それが堪らなく悔しかった。
「来月、公道を使ったレースがある。彼等は其処に参加する予定だった。だから、練習のつもりだったんだろうね」
それこそ、危険運転の証拠じゃないか。
航は奥歯を噛み締めた。事故によるトラウマを背負った人間が、そんなことを出来るのだろうか。自分ならば、無理だ。
「……山道の幽霊が噂になったのは、半年くらい前だね。出所を掴むことは出来ないけど、噂を流したのはあの二人組と確定して構わないだろう」
ノートパソコンを指して、湊が言った。
ディスプレイに映るのは膨大な文字の海だった。どうやら匿名の掲示板らしい。凡そ半年前、何者かがクラーク夫妻が霊となって現れると書き込んでいた。
気になるのは、その霊の衣服についての記述だ。
事件は市議会議員の圧力によって公にはならなかったにも関わらず、クラーク夫妻の容姿や衣服についての情報が正確なのである。
ライリーが警察の情報バンクに侵入して調べたところ、それは事故当日のクラーク夫妻の姿に相違無いと言う。
この噂話を流した何者かは、どうやってそれを知り得たのか。答えは簡単だ。実際に見たのだ。事故当日、その何者かはクラーク夫妻の事故と衣服を知ることが出来た。そうなると、浮かび上がる人物は限られて来る。
身内や警察関係者を除外するのなら、書き込んだ人間はあの二人組以外にはあり得なかった。
ディスプレイの横にメール受信のポップアップが出る。ソフトを開き、湊が言う。
「……ライリーから追加情報。書き込みの発信地は奴等の溜まり場のバーだってさ」
湊は深い溜息を吐いた。
魂まで抜けてしまいそうな深い溜息だった。
「これも証拠として提出する。あの二人組に罪の意識は無い。自分達が死なせた人間を面白可笑しく噂話にして書き込むなんて、とてもまともな神経の持ち主とは思えない」
「でも、それは違法に調べた情報だろ。証拠には出来ない」
「裁判の証拠に出来なくても、裁判官の心証には影響する」
こんな遣り方しか出来ないのかよ。
航はそれが悔しかった。誰がどう見ても奴等を非難するだろう。それなのに、どうして司法は奴等を裁けないのだ。
「法を犯せば、それはあいつ等と変わらない。葵君の言葉は尤もだと思う。……じゃあ、法を犯しているあいつ等が法に守られているのはおかしいじゃないか」
航が言うと、湊が顔を歪めた。
こんなことを湊に言ったって仕方が無い。困らせるつもりなんて無かった。それでも、八つ当たりでも誰かにぶつけなければ堪えられなかった。
「遺族が強大な権力を相手に何処まで闘えるんだ? 示談になるのは明白だ。そうしたら、あいつ等は野放しになって、また罪を繰り返す」
湊は暫し目を閉じて、何かを堪えるように眉を寄せた。痛い程の静寂だった。航は死刑宣告を待つような心地で、次の言葉を待った。
「……今の俺達がコネクションと闘うには、世論を味方に付けるしかない。だけど、その為に遺族を晒し者にする訳にはいかない」
「他に、方法は」
湊は目を伏せた。
多分、湊には選べない手段がある。それを強要するつもりは無い。無い、けれど。
「やれることは全部やる。だから、そんな顔するな」
苦笑した湊が肩を叩いて来た。
そんな顔とは、自分は果たしてどんな顔をしていたのだろう。
10.断罪
⑸掉棒打星
湊が調べた情報を警察に持って行くというので、航は付き添った。到着してみると、警察署の前は酷い騒ぎだった。
押し寄せるマスコミと野次馬、警察関係者の押し問答。白いフラッシュの光が眩くアスファルトを照らす。
葵君の口利きもあって裏口へ案内された。マスコミも、まさか自分達のような子供が事件の証拠を提出に来ているとは思わないだろう。
警察署内は緊張感に包まれていた。膨れ上がった風船のように、僅かな刺激で破裂してしまいそうだ。
受付の前に葵君が立っていた。相変わらず景気の悪そうな顔をしている。腕を組んでむっつりと黙り込んでいたが、湊が書類を手渡すと、舌打ち混じりに言った。
あの二人組が釈放されるらしい。
その裏で多額の保釈金が積まれたと言う。しかし、それは飽くまで仮釈放であり、検察側は刑事事件として起訴する準備を進めている。
自分達に出来ることなんて何も無かった。蚊帳の外のまま進む状況に焦りばかりが募る。
その時、空気がざわりと動いた。顔を上げると、階段の上から人の塊がゆっくりと降りて来るのが見えた。
あの時の二人組だ。
複数の警察官に付き添われ、まるで護衛されるようにして歩いて来る。彼等は伽藍堂の瞳をしていた。空虚ではなく、無関心だ。警察署内の空気も、白い目も、棘のある囁きも何もかもを遠い世界に置き去りにしてただ歩いている。
裏口へ向かうらしかった。
正面口はマスコミが見張っている。四面楚歌の状況を意に介さず、堂々と進み続ける。
握り締めた拳が震え、軋むように鳴った。
せめて、謝罪の一つでも聞けたなら。藁にも縋るような心地で足を踏み出せば、隣で湊が手を伸ばした。
「湊……」
「うん」
此方の意図を察し、湊が頷く。
硝子のように透き通った鋭い眼差しだった。湊は音も無く歩み出すと、二人組の前へ立ちはだかった。
湊の姿を認めると、二人組は眉間に皺を寄せ、周囲を固める警官達が訝しむように睨んだ。
「お久しぶり……いや、昨日ぶりですね」
天気の話をするかのような穏やかな口ぶりで湊が言う。
二人組は湊を見詰めていた。一度見たら忘れることは難しい顔だろう。苛立ちの波がじわじわと侵食して行くのが目に見えるようだ。
湊は口の端に笑みを浮かべている。
「昨日のドライブレコーダーを提出しましたよ。でも、後悔しています。やるなら、警察ではなく、マスコミにするべきだった」
湊は肩を竦めた。子供のような所作と周囲の物々しい雰囲気が酷くアンバランスだった。
「マスコミってピラニアに似てますよね。弱った獲物を見付けると、貪欲に食い付いて離れない。今も警察署の外で、獲物がやって来るのを待っている」
怖いですよねぇ。
他人事みたいに湊がうっとりと笑う。被疑者の顔が怒りに紅潮し、腕が痙攣のように震えた。怒気を察知した警察官達が身構えるが、湊は止まらなかった。
「貴方が死なせた人達の名前を知っていますか? 年齢は? 彼等が何を思い、何を願い、何を背負って来たのか、一欠片でも解りますか?」
解る筈が無い。だから、同じ過ちを繰り返す。
航は拳を握った。悔しくて堪らないのに、湊が被害者に代わって言い募ってくれているということが、泣きたくなるくらい嬉しかった。
「貴方に良心というものがあるのなら、どうか正当な裁きを受けて欲しい。コネクションに頼らず、被害者の無念を背負ってくれ」
湊の拳が握られている。
被疑者が言った。
「ああ……。俺達は、許されないことをした。後悔している……」
憔悴し切った声だった。
この二人は罪を認めている。だからと言って楽観視はしない。彼等は罪から逃れる為ならば何でもする。
湊の目がすっと眇められるのが見えた。嘘を見抜いたのだろう。彼等は嘘を吐いている。
これだけ言っても駄目なのかよ。
航は遣り切れなかった。マスコミに情報を流しても構わないと脅しながら、湊は対話という手段を選んでいる。それは、奴等の善性を信じようとしたからだ。
「反省している。裁判では真実を語るよ」
男が顔を上げた。
「俺達は悪霊に取り憑かれていたんだってな」
腐り濁った瞳だった。粘着質な声はぞっとする程に冷たかった。
その瞬間、湊が拳を振り上げた。握る瞬間から見えていたが、航は止めるつもりは無かった。
目の前の男の頬を打ち付ける筈だった拳は、寸でのところで警官に押さえられた。男が目を見開く。殺気を纏わせたまま、湊が辺りを睨み付けていた。
剣呑な雰囲気に包まれる中、湊は拳を握ったまま、全くの無表情だった。濃褐色の瞳には氷のような光が宿る。
「俺は因果律というものを信じている。凡ゆる事象は結果であり、原因が存在する。これからの貴方の身に降り掛かる全ては貴方の罪だ。……努努忘れないように」
それは、呪いめいた忠告だった。
湊は拘束を振り払い、刃のように吐き捨てた。
「罪は貴方を許さない」
後ろを歩いていた男は俯いていた。微かに肩が震えている。泣いているとは思わなかった。擦れ違い様に見えた二人の口元には、微かな笑みが浮かんでいた。
喉を鳴らすような笑い声が聞こえる。それは不協和音のように彼方此方に木霊して消えて行った。二人組が裏口を出た瞬間、カメラのフラッシュが凄まじく光った。押し付けられる報道機器を嘲笑い、二人組はスーツ姿の弁護士に出迎えられる。
取り残されたように湊が項垂れていた。
航は掛ける言葉が無かった。労わりも励ましも何もかもが湊の矜持を傷付けると解っていた。
全ての人間が悪人とは思わない。けれど、この世には、救いようも無い程の悪が存在する。そして、そいつ等はのうのうと生きて、他人に迷惑を掛け、尊いものを奪い、傷付け、蹂躙して行くのだろう。
航の頭の中に、報復という言葉が過った。
そんなことを思う度に絶望する。
「ごめんな」
湊が泣き出しそうに笑った。
何を謝る必要があるのだろう。航が目を向けると、湊は肩を落とした。
「駄目だった」
そんなこと、湊が謝る必要無い。
航は舌打ちを漏らした。だが、湊が此処で諦める筈も無かった。
「被害者の遺族に会おう。署名運動についての許可が得られるなら、世論を動かせる。規模によってはコネクションを無効化出来るから」
「……それは」
それは、再三言って来たことだ。
被害者を晒し者にすることになる。自分達のエゴに他人を巻き込むのは本意ではない。
「リーアムが承諾してくれるなら、それは美談になる。人は逆転劇に感銘を受けるものだ。扇動は容易い」
航は溜息を吐いて、その後頭部を叩いた。
顔は冷静だが、頭に血が上っているのだろう。
「言っていること、ぐちゃぐちゃだぞ。お前は自分が納得出来ないから一発殴るって言ってたんだろ」
「そうだよ。殴る為には手順が必要なんだ。まずはあの人達と同じ土俵に上がらないといけない」
「その為に、何を踏み台にするつもりなんだ?」
湊が黙る。余程、腹が立っているのだろう。湊が動揺しているのなら、自分は冷静であるべきである。航は諭すように言った。
「今のお前、冷静じゃねぇよ。あいつ等を許せないと思ってるのは、俺も同じだ」
湊は不貞腐れたように目を逸らした。解り易い男だ。
ふと気付くと、部屋の中は生温い空気が満ちていた。
署内にいた警官達が穏やかに微笑んでいた。
「君は勇敢だな。中々出来ることじゃないぜ」
警官の一人がやって来て、湊の頭をくしゃくしゃに撫でた。瞠目する湊に視線を合わせるようにして警官が膝を曲げる。
そうかな。
ぼさぼさの頭を撫で付けながら、湊が呟く。
「でも、何も変えられなかったよ」
警官は苦笑した。
署内に漂う諦めの空気に嫌気が差し、今すぐに此処から出たかった。引き止めようとする葵君の腕を躱して、航は湊の袖を引いた。
被疑者の退場に伴い、玄関は閑散と静まり返っていた。奴等はさぞ立派な悪役、或いは被害者面を晒したのだろう。
駐輪場へ到着するまで、湊は黙りこくっていた。
落ち込んでいるようにも見えるし、考え込んでいるようにも見える。後者であることを祈りながら、航は最低な提案をした。
「リリーに頼むことは出来ないのか?」
リーアムの協力を得ることは難しい。ならば、その双子の姉であるリリーはどうだろう。弟の為と思えば、彼女は幾らでも泥を被るだろう。
湊の顔が歪む。まるで、泣き出す寸前のようだった。
「報復という意味なら、手段は幾らでもある。でも、そうやって掴み取った結果に、価値があるとは思えない」
綺麗事だな。
航は吐き捨てた。しかし、それが湊の正義で、絶対に譲れないものであることも解っている。
「俺はまだ諦めないよ」
航は笑った。
それでこそ、湊だ。
「なら、腑抜けた顔を晒すんじゃねぇよ」
押し付けるようにヘルメットを被せ、航はポケットに手を入れた。




