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⑷エゴ

 葵君と別れ、すぐにリーアムへ連絡を入れた。十回以上電話を掛けたが繋がらず、自宅に行ってみたが不在だった。胸騒ぎがした。湊がストバスコートに行こうと提案したので、航は頷いてバイクを走らせた。


 普段以上の安全運転で、のろのろと走った。自分の精神状態が正常でない自覚があった。それでも、公共機関を利用していては手遅れになるような焦燥感に苛まれ、居ても立っても居られなかった。湊は何も言わなかった。


 ストバスコートに着くと、リーアムがいた。

 たった一人で、基礎中の基礎を繰り返し繰り返し、丁寧に練習している。散った汗が初春の日差しに光る。一心不乱なその目には、ゴールリングすら見えていないようだった。


 リーアムの名を呼んで、湊が子犬のように駆けて行く。其処で漸く我に帰ったみたいに目を丸め、此方を見た。水浴びでもして来たのではないかと思うくらい、全身が汗で濡れていた。




「……事故のこと、聞いた?」




 リーアムが言った。


 あの二人組が両親を殺した犯人だと、いつから気付いていたのだろう。昨日の時点で察していたのなら、リーアムの側にいながら気付きもしなかった自分達はとんだ愚か者だ。


 彼がこれまで何を堪えて来たのか、何を背負って来たのか、航は何も知らなかった。


 バスケットボールを脇に抱え、リーアムはフェンスに凭れ掛かった。額に浮かぶ汗を拭い、訥々と語った。




「両親はウェストチェスターで自営の運送業をしていたんだ。九年前の冬の夜、雪が降っていた。山道は危険だから、仕事場に一泊する予定だった。……でも、僕が熱を出したから、無理して帰ろうとしたんだ」




 その帰り道、両親は事故に遭った。

 リーアムの声は冷たく乾いていた。




「お袋は即死で、遺体は見せてもらえなかった。親父は搬送時点では生きていたらしいんだけど、右半身が酷く損傷していて、数分と持たずに死んだ。僕もリリーも、死に目には会えなかったよ」




 どちらが良かったのかな。

 リーアムが泣き出しそうな目で微笑む。

 そんな問いを抱かなければならないということ自体が、既に最悪だった。




「加害者は未成年だったらしいね。無免許の飲酒運転で、あの山道でレースをしていたって。検察は悪質な危険運転だって実刑判決を求めたけど、不起訴になった。加害者はとても反省している、情状酌量の余地があるってね。僕は法律に詳しくないから、難しいことはよく解らない」




 それで、リーアムは納得したのだろうか。

 十歳の子供が突然、理不尽に両親を奪われ、頼るべき先も無く施設に放り込まれ、犯人は今ものうのうと生きている。罰を求めなかったのか。世界を恨まなかったのか。例え、リーアムが報復を望んだとしても、それは正当な権利ではないか。


 航は拳を握り締めていた。当時の彼等の胸中を思うと、胸が張り裂けそうだった。だって、十歳だ。まだまだ親の庇護が必要だった。両親がいれば避けられた幾つもの困難を、彼等はたった二人で堪えなければならなかった。


 リーアムは少し俯いて、独り言のように零した。




「加害者を恨んだことは、無かったよ。両親を死なせたというのなら、僕も同罪だ」

「それは違うよ」




 眉根を寄せて、湊が縋るように訴える。




「リーアムは悪くなかったよ」

「じゃあ、誰が悪かったの?」




 湊が押し黙ると、リーアムは喘ぐように追求した。




「誰を責めたら良かったの?誰を恨んだら良かったの? 誰を憎めば、僕等は救われたの?」




 誰も助けてくれなかった。

 リーアムの声は掠れていた。航には掛ける言葉が見付けられなかった。加害者が悪かったことなんてリーアムだって解っている。でも、法律は彼等を裁けなかった。


 憎んでも恨んでも呪っても何も変えることが出来ない。だから、リーアムは忘れることを選んだ。過去に囚われて未来を見失うことのないように。


 そんな途方も無い日々の積み重ねを、あの悪魔達は裏切った。




「なあ、湊。君はこれからどうするの? あの加害者達を裁く為の証拠を集める? それとも、報復する?」

「……」

「その全てが自己満足で、誰かの傷口に塩を塗り込む行為だって自覚しているかい?」




 もう、忘れたかったよ。

 リーアムがぽつりと言った。


 何も言うべきでは無いのだろう。航にだって、そのくらい解る。そっとして置くべきだ。

 昨夜の交通事故だって、自分達に出来ることは何も無い。葵君の言うように警察に任せ、どんな結果が出たとしても受け止めるしか無い。


 嫌な沈黙が流れた。遠くでクラクションの音が聞こえる。車なんて発明されなければ良かったな、と思った。

 その時、ストバスコートの横に一台のタクシーが滑り込んだ。リーアムが虚ろな眼差しを向ける。航は後部座席から降りて来た人物に驚いた。


 ソフィアだ。

 プリーツの入ったグレーのスカートに、黄色のセーター。いつもの紺色のブレザーを羽織った彼女はまるで学生のようだった。

 走り去るタクシーを見送って、ソフィアは慎重にストバスコートの錆びた入り口を潜った。




「やあ」




 リーアムがフランクに声を掛ける。

 彼は取り繕う術を持っている。己の悲哀も憤怒も隠し切ることが出来る。きっと、それが彼の処世術だった。


 ソフィアは言葉を躊躇うように視線を彷徨わせた。灰色の瞳はリーアムを捉え、逃げ場を求めるようにして湊へ向けられた。




「……昨日の二人組、事故を起こしたのね」




 ソフィアも、覚えていたらしい。

 今も正にその話題だったけれど、航はこれ以上の詮索からは逃れたかった。自分達は祈るしかない。この国の司法を、人の善性を信じることしか出来ない。




「知り合いに聞いたんだけど、不起訴になりそうだって」




 航はソフィアの素性をよく知らないが、彼女にはそれなりのコネクションがあるらしい。




「私、事故現場に行ったの。昨日の事故で亡くなった夫婦が、五歳の息子を探して彷徨っていたわ」




 五歳の息子は、夫婦の亡くなった事故現場から二キロメートル引き摺られたのだ。死んでもなお、彼等は苦しんでいる。




「ねぇ、湊。貴方は人の心が見えるんでしょう? 加害者が反省しているというのは、本当なの?」




 加害者は、九年前のクラーク夫妻の事故によるトラウマを抱えていた。その為に正常な判断が出来ない状態にあった。

 過失致死が認められても、判決は軽いものになるだろう。既に六人もの命を奪っているにも関わらず、だ。


 ルーカス氏の屋敷を訪れた時、湊はエマから真実を聞き出す為にブラフを張った。ソフィアはそれを覚えていたのだろう。だから、湊に加害者の反省が真実であるのか教えて欲しいのだ。




「人の心なんて見えないよ。あれは、嘘だ」

「私はそう思わないわ。だって、貴方は初めて会った時、私に言ったのよ。ーー君は嘘を吐いていないって」




 カマ掛けただけだよ、と湊が言う。

 ソフィアは悔しそうに口元を歪めた。




「貴方のこと調べたわ。六歳の時に、連続殺人事件の犯人逮捕に貢献したらしいわね。犯人の嘘を見抜いたって」

「偶々だよ」




 湊は認めなかった。




「ねぇ、お願い。私はあの二人組を信じることは出来ないわ。被害者と同じ目に遭わせてやりたいと思う。それが出来ないなら、せめて、可能な限りの厳罰を望むわ。そうでなければ、誰が被害者を救ってくれるというの?」




 ソフィアの気持ちが痛い程に解る。航だって同じ思いだった。

 湊は答えなかった。多分、答えられなかったのだと思う。此処で加害者の本心を口にしても、何も変えることは出来ないのだ。湊は加害者の嘘が解るけれど、証拠が無ければ信じてもらえない。ソフィアの気持ちも解るが、湊の無力感も理解出来る。




「やっぱり、殴れば良かったな」




 そうだな。航は肯定した。

 昨日のあの時、湊を羽交い締めにしたことを後悔した。せめて、殴らせてやれば良かった。そうすれば、この虚しさも少しはマシだっただろう。








 10.断罪

 ⑷エゴ








 茜色に染まる空を鳥が横切って行く。鳶だろうか。

 航はバイクに寄り掛かり、ぼんやりと空を眺めていた。ストバスコートには誰もいない。リーアムもソフィアも既に立ち去っている。取り残された迷子のように湊だけが隣にいた。




「なあ、航」

「あ?」




 唸るような声で返すと、湊が顔を上げていた。濃褐色の瞳が茜色に染まって見えた。




「俺は納得出来ない」

「……そんなの」

「だから、徹底抗戦する」




 航は溜息を吐いた。




「葵君に、警察に任せるしかねぇんだよ。俺達には何も出来ない」

「いや、出来る」




 湊は断言した。迷いの無い目をしていた。

 航は片眉を跳ね、話の先を促した。




「この刑事裁判の争点は、加害者に罪の意識があったかどうかだ。検察側の証拠は不十分だった。だから、六人もの命を奪った奴等が下らないコネクションなんかで不起訴になった」

「……」

「それなら、誰もが認めざるを得ない形で、告白させる」

「どうやって?」

「捜査の基本は聞き込みだ。加害者の周囲を探る。あいつ等の正体を明かして、反論出来ない証拠として提出する。あとは、コネクションでは太刀打ち出来ないように世論を味方にする」




 口にするのは簡単だ。そんな証拠がすぐに見付かるとは思えない。長い時間が掛かるだろう。湊だって、解っている筈だ。




「署名でも集めるか? 被害者を晒し者にして?」

「被害者とか遺族とか、それは後で考える」




 無責任だな。

 リーアムの話は全く響いていないのだろうか。否、響いた上で、この結論なのだろう。




「俺は自分が納得出来ないから、納得出来る形で決着を付ける」

「具体的には?」

「一発殴る」

「……はは」




 腹の底から可笑しさが込み上げて来て、航は吹き出すようにして笑ってしまった。

 湊らしい。そうだ。その通りだ。湊は自分が腹が立つから、殴ると言っているのだ。被害者も遺族も関係無い。それは個人的な憂さ晴らしで、誰にも責任を背負わせない。


 湊の正義というのは、所謂、独善の自己満足なのだ。それがどうしたと踏ん反り返っているところが救えないし、誇らしい。




「付き合うぜ」




 互いに拳をぶつけて、笑った。


 作戦会議と称して、二人で頭を突き合わせて情報を整理した。先程も湊が言っていたが、刑事裁判で争点となるのは加害者の罪の意識である。あの二人組の振る舞いを鑑みるに良心の呵責なんてある筈も無いだろうが、目に見えないものは証明することが難しい。


 司法とは、疑わしくは罰せず、だ。冤罪のリスクは大きい。湊は他人の嘘を見抜ける。航はそれを信じているが、証言として認められる筈も無い。


 八方塞がりになる前に、原点回帰する。この事件の根底にあるのは九年前のクラーク夫妻の交通事故だ。あの二人組の危険運転致死罪であることは明白だった。

 思い出されるのは、昨日、彼等が吐き捨てた言葉だった。


 此処は幽霊が出るんだ。あんた等も呪われないように、気を付けるんだぞ。


 ソフィアは、あの場所にクラーク夫妻の霊はいないと言っていた。ならば、事故現場が引き起こす自己暗示なのだろうか。




「あの時の二人の言葉は、嘘だったのか?」




 航は問い掛けた。あの言葉が嘘ならば、彼等は幽霊を信じていないことになる。湊は小難しい顔で唸った。




「……覚えてない。俺も頭に血が上ってたから」




 自覚があったようで何よりだ。

 航は笑った。




「奴等の周辺で尻尾を掴みたいところだけど、今は警察署だもんな」

「解放された時には手遅れだ」

「コネクションをどうにかした方が良いね。今から手を回していたんじゃ間に合わない」




 湊が爪を噛む。

 二人で首を捻っていたが、妙案は浮かばない。これなら、警察署から出た瞬間に殴った方が早いのではないだろうか。


 湊が言った。




「九年前の事故を調べよう」

「今更? 何の為に?」

「気になるのは、九年も前の話が今更広がっているってことだよ。噂の出所を調べたい」

「怪談の出所を調べるなんて、出来ることなのか?」




 雲を掴むような話だ。

 湊はふふ、と笑って携帯電話を取り出した。




「情報戦は俺の得意分野だよ?」




 なるほど、ネットか。

 膨大な情報の海であるインターネット。界隈に流れる噂の出所を調べるくらい、湊には訳無いのだろう。


 携帯電話だけでは効率が悪いと言って、湊はリュウを呼び付けた。黒いボックスカーの中はまるでスパイ映画のようなハイテク機器が積み込まれているのだ。

 リュウは警察署で捜査協力していたらしい。漸く解放されたと思ったら呼び出されるのだから、気の毒だ。


 後部ドアから乗り込んだ湊は、床で蜷局を巻くコードの上に座った。航も促されたが、バイクを置いて行く訳にはいかないし、下手に触れて壊すのも嫌だったので断った。


 湊は凄まじい勢いでキーボードを叩いている。集中状態に入ったらしい。こうなると、声を掛けても無駄だ。

 運転席の窓を開けて、リュウが顔を覗かせた。




「リーアムは大丈夫でしたか?」




 航は面食らった。話し掛けられたこと自体が随分と久しぶりだった。リュウにも他人を心配する心があったことにも驚く。




「あんまり」

「そうでしょうね」




 リュウは同意した。

 彼の中でリーアムはどのような立ち位置にいるのだろう。航のことを敵視しているが、その理由も解らない。ただ一つ言えるのは、リュウは湊の味方であるということだけだ。


 その時、車の中から話し声が聞こえた。湊がハンズフリーで通話しているらしい。相手はライリーだ。機械工学の秀才だと聞いているので、相談しているのかも知れない。


 一人で何でも抱え込まなくなっただけ、マシか。

 航はそんなことを考え、ふと思い付いて携帯電話を取り出した。


 湊はきっと真相に辿り着く。そして、証拠を手に入れるだろう。それなら、自分がやることは、湊の掴んだ証拠を握り潰されないように世論を味方にすることだ。


 履歴から番号を選び、タップする。呼び出し音が三回鳴って、繋がった。

 雑音混じりの喧騒の中で、聞き慣れた声がした。




「ルーク。頼みがあるんだけど」

『いいよぉ』




 酔っ払っているのか、やけに上機嫌だ。同い年なので未成年だが、それをこの場で指摘する意味は無い。何より、ルークは飲酒運転のような馬鹿で無謀な人間ではないと知っている。




「昨日の夜、交差点で事故があっただろ。一家四人が死んだ」

『知ってるよ。胸糞悪い最低な事故だ』

「その犯人が不起訴になりそうなのも、知ってるか?」

『それって、市議会議員の馬鹿息子だろ? 確か、昔も同じようなことやらかして無かったか?』




 流石に耳が早い。この界隈の情報は既に把握しているのだろう。インターネットで違法ギリギリのラインで情報を探す湊よりも、手っ取り早い。




『ムカつく奴等だ。ぶっ飛ばしてやりてぇよ』

「同感だ。でも、法を犯す訳にはいかねぇよ」

『お利口さんだねぇ』




 電話の向こうで、ルークがけらけらと声を立てる。だが、航には、彼が笑ってなんていないことが解っていた。




『どうして欲しいんだ?』




 航は車を振り返った。

 凄まじい勢いでキーボードを叩く兄の横顔を見遣り、航は息を吐く。法を犯すならば、それは奴等と変わらない。葵君の正論が頭の中でくるくると回る。




「奴等のコネクションを潰せるだけの情報が欲しい」

『ふうん。報復ではなく?』

「ああ」

『まあ、やるだけやってやるよ』




 ルークが笑っている。

 通話を切った航は、再び兄の横顔を見た。

 ゲームセットにはまだ早い。航は拳を握った。

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