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⑶許されざる者

 耳を疑う程の凄惨な出来事というものがある。しかも、それは全く予想の付かないタイミングと形で、暴力のように容赦無く降り掛かるのだ。


 航は今でも、父が死んだと言われた日のことを思い出す。電話を受けた母が、顔を蒼白にして、掠れた声で返事をしていた。只事ではないと思った。


 リビングで読書していた湊と顔を見合わせる。受話器を置いた母が、フローリングに膝を突いて、父が死んだと言った。航は嘘だと怒鳴った。母は泣いていた。


 母がそんな嘘を吐く筈が無いことも、紛争地で活動する父が常に危険に晒されていたことも、解っていた。けれど、航は認める訳にはいかなかった。


 テレビでは、空爆された紛争地の映像が繰り返し流れた。落雷のように空が光り、この世の終わりを思わせる轟音が響く。何が起きているのか解らない。泣き噦る母と、呆然とする自分を、湊が震える腕で抱いていた。


 家の電話は引っ切り無しに鳴っていた。母は憔悴していたので、航と湊は交互に応対した。父の声が聞こえるのではないかと期待して、その度に打ちのめされる。身体の末端から切り刻まれるような、悪い夢を見ているような、そんな最低な心地だった。


 ニュースキャスターが涙ながらに訴えた。

 彼は英雄です。他者を守る為に己を犠牲にした父はヒーローだと讃えられた。航は酷く残酷な気持ちでそれを聞いていた。


 航も湊も、泣かなかった。

 泣けば、父の死は悲劇になる。そう思ったからだ。


 父が生還し、二年以上もの月日が流れた。それでも、電話の音が聞こえる度に、航は緊張する。そんな自分が大嫌いだったし、許せなかった。父の活動を肯定し切れないことも嫌だった。


 葵君が昔、言っていた。

 親父のすごいところ。それは、死んでヒーローになったのではなく、生きてヒーローであり続けているところだと。航は共感する。誰かの為に、なんて理由は美しいけれど、無責任だ。本当に相手のことを思うのならば生きなければならない。航は強くそう思う。


 夜中にサイレンが鳴っていた。

 航が目を開けると、湊が部屋の窓から外を覗いていた。真っ赤な回転灯が幾つも通り過ぎて行く。夢現のまま、航はベッドから抜け出した。


 湊は一度だけ振り向いて、そのまま外を睨んでいた。サイレンは鳴り止まない。胸騒ぎを覚えた。堪らなくなって、兄の名を呼ぶ。湊はカーテンを閉めると、少しだけ笑った。




「何かあったみたいだ。大したことじゃないと、良いんだけど」




 航は頷いた。

 もう寝よう。湊はそう言って、ベッドへ潜り込んだ。


 サイレンは止まない。

 それがいつかの電話の音に聞こえて、航は蹲るようにして眠った。








 10.断罪

 ⑶許されざる者







 昨夜の騒ぎを知ったのは、朝食のトーストを焼いていた時だった。見慣れた通学路の交差点がテレビに映っていた。


 交通事故が起こったらしい。

 時刻は午後十一時。交差点に進入したライトバンの脇に、信号を無視した車が二台、突っ込んだのだと言う。捲し立てるような口調で語るニュースキャスターは、他人事にも関わらず、怒りに震えていた。


 一家四人が乗ったライトバンは激しく損傷していた。ライトバンは衝突の際に五十メートル跳ね飛ばされ、運転席と助手席に座っていた夫婦は即死。後部座席の二人の子供も搬送後に亡くなっている。信号を無視した車の運転手は両者共軽傷であり、現在は取り調べの最中である。


 昨夜のサイレンの正体を知り、航は恐怖とも憤怒とも付かない苛烈な感情に目眩がした。お蔭でトーストは焦げてしまっていた。


 朝食を食べている最中も、付けっ放しのテレビが続報を伝えている。事故の詳細が明らかになる度に、喉に重石が痞えるような息苦しさに襲われた。


 後部座席に座っていたのは、十歳と五歳の兄弟であった。兄弟は衝突の時に車外へ放り出され、凄まじい勢いでコンクリートへ叩き付けられた。兄はその時点で即死。弟は追突して来たもう一台の車に轢かれた。

 弟は即死ではなかった。追突して来た車の車体下部に巻き込まれ、生きた状態で二キロ引き摺られ、窒息死した。遺体の損壊は激しく、肉は引き裂かれ、骨が露出していたという。


 路上にはブレーキ痕が無く、弟を引き摺った車は蛇行運転していた。恐らく、被害者を振り落とそうとしたのだ。


 食欲は失せた。航はトーストを牛乳で流し込んだ。

 湊は研ぎ澄まされた刃のような鋭さでテレビを睨んでいた。其処に映る二人の容疑者は、昨日遭遇したあの二人組だった。


 堪らず、航はトイレに駆け込んだ。便器を抱えて朝食を嘔吐する。廊下から母が何か言っていたが、解らなかった。頭蓋骨の中から金槌で殴られているような酷い頭痛に襲われて、目を開けていることすら出来ない。


 電話が鳴った。そのタイミングも最悪だった。

 トラウマがフラッシュバックして、航は身体中から力が抜け、気力や活力の全てが消え失せ、目の前が暗くなって行くような気がした。


 背中を摩る気配に、遠退いた意識が戻って来る。

 湊の声がした。便器を抱える航の手を取ると、水の入ったグラスを掴ませた。航はそれを一気に飲み干した。




「湊、あれ、あいつ等、」

「うん」




 湊は冷静だった。自分達はいつもそうだ。一方が怒っている時は一方が宥める。役割分担というものを、無意識下で行う。




「葵君に連絡する。リュウに頼んで、昨日のドライブレコーダーも警察に提出してもらう」




 この凄惨な事件を、ただの交通事故として処理させる訳にはいかない。可能な限りの厳罰を望む。それは報復ではない。もう二度と同じ悪夢を繰り返させない為だ。


 昨日の時点で警察に突き出していれば、防げた事件だった。自分達は神ではない。何でも救えるとは思わない。けれど、助けられたかも知れないという可能性が、癒えない傷のようにいつまでも苦しめる。


 リュウから連絡があったと、湊が言った。どうやら、リュウもニュースを見たらしかった。ドライブレコーダーを警察に提出するというので、湊は同伴した。当然、航も付いて行った。


 警察署は蟻の巣を突いたような騒ぎだった。マスコミが押し寄せ、犯人の様子を問い詰める。近年稀に見る悪辣な事件だった。


 事前に葵君へ連絡を入れていたので、裏口から入ることが出来た。リュウを車に残して、二人で署内へ入った。

 取り調べの最中にあった二人の男についても話を聞くことが出来た。それは以前、湊が嘘を見抜くという能力で捜査に貢献して来たという功績によるものだった。


 マジックミラーの向こうで、怒鳴り散らして来たあの男が座っているのが見えた。弱り切った表情で俯き、謝罪を繰り返し口にしている。

 反省している。航にはそう見えた。だからと言って許せる訳ではない。彼等は法の下で裁かれるべきだ。被害者と同じ目に遭えば良い。航が込み上げる怒りを噛み殺していると、湊が冷たい目で言った。




「あの人は、嘘を吐いている」




 捜査官が眉を寄せた。

 湊には他人の嘘が解る。まさか、冤罪だとでも?

 航が信じられない思いで見詰めると、湊は顔を歪めた。




「あの人は反省なんてしてない。きっと、余罪がある。調べて下さい」




 湊は一息に言い切ると、踵を返した。

 航は後を追った。


 警察署から出て、湊は真っ直ぐに事故現場へ向かった。死者への葬いの品が山のように供えられている。花や手紙、子供の好きそうなお菓子。咽び泣く遺族とカメラのフラッシュ。この世の悲劇を煮詰めたようだった。


 規制線の向こうに葵君がいた。FBIが出て来るような事件ではないけれど、湊が連絡を入れていたから、心配して来てくれたのだろう。

 自分達の姿を認めると、葵君は苦渋に染まった顔で招き入れてくれた。


 事故現場は凄惨な状態だった。

 コンクリートは抉れ、蛇行した血の跡が続いている。細かく割れた硝子が散乱し、ひしゃげた車の部品が転がっていた。事故車両は撤去されていたが、現場は衝突の激しさを物語っている。




「ブレーキ痕が無い」




 湊が独り言のように呟く。葵君は頷いた。




「衝突時、突っ込んで来た車は百二十キロ以上出ていたらしい。それに、加害者の血中アルコール濃度は基準値を超えていた」




 危険運転の上に、飲酒運転かよ。

 吐き気がした。同じ人間とは思えなかった。五歳の子供を車の下部に巻き込んで、二キロ以上引き摺って、ブレーキを掛けた痕すら無いのだ。


 彼等は反省していないと、湊は言っていた。

 余罪があるとも。




「加害者側の弁護人は、心神喪失状態だったと主張している」

「何を、言ってるんだ」




 航は絞り出すように言った。

 心神喪失とは、精神的な障害によって善悪の分別が出来ない状態のことだ。彼等は、責任能力が無いから無罪にしろと言っている。


 ふざけるな!

 航は叫んだ。動き回っていた鑑識官や捜査員が振り返る。葵君は眉を寄せて言った。




「検察側は否定している。お前等のお友達が持って来たドライブレコーダーは良い証拠になる」

「……心神喪失の理由は何だと言っているの?」




 湊が静かな声で言った。煮え滾る怒りを押し殺したような声だった。




「九年前、奴等は死亡事故を起こしている。その時のトラウマを今も抱えていると」




 九年前の交通事故?

 嫌な符号だ。まさか、そんな筈無い。航は否定したかったが、口の中がからからに乾いていて声が出なかった。




「クラーク夫妻の亡くなった事故だよ」




 駄目だと、思った。

 冷静な判断はもう出来ない。堪え難い激怒と嫌悪が込み上げて、今にも凶器を握って犯人の元へ駆け出してしまいそうだった。


 あの二人組は、リーアムとリリーの両親を殺したのだ。交通事故と聞いているが、恐らく、それは真相じゃない。


 リーアムが嘘を吐いていた訳が解った。

 彼は知っていたのだ。両親の死は不幸な事故ではなかったのだと。そして、犯人がのうのうと生きていることを。

 堪え難い激情を呑み込む為に、自分に言い聞かせて来たのだ。あれは事故だったと。

 それでも堪えられず、事故そのものを偽った。詮索されたくなかったからだ。




「事故がトラウマ? 馬鹿馬鹿しいね」




 湊が据わった目で嗤った。

 その通りだ。交通事故のトラウマがある人間が、こんな最悪な事故を繰り返すなんて有り得ない。彼等は反省していないのだ。だから、同じことを繰り返す。


 葵君は頷いた。




「俺も同感だ。奴等は事故で死んだクラーク夫妻の霊を振り切る為に速度を出したと言っている。聞くに堪えない戯言だ。……ただ、そういう奴等に限って、逃げ道を持っている」




 葵君が言った。




「追突した男の親父は市議会議員だ。今も裏で手を回している。九年前と同じだ。不起訴になる可能性は高い」




 九年前、彼等は未成年だったという。

 葵君の口から、クラーク夫妻の亡くなった交通事故の詳細を知る。未成年の彼等はあの山道でレースをしていた。飲酒運転だったという。


 対向車線を走っていたクラーク夫妻の車に衝突し、そのまま逃げた。酒を抜く為に自宅へ逃げ帰り、入浴し、眠った。クラーク夫人は即死であったが、夫は辛うじて生きていた。搬送後、間も無く亡くなったが、彼等がすぐに救急車を呼んでいれば、助かったかも知れない。助からなくても、リーアムやリリーに何か声を掛ける時間が許されたかも知れない。しかし、彼等はそれをしなかった。


 薄汚い自己保身の為に義務を放棄して、逃げ帰り、惰眠を貪った。権力者の父に泣き付き、罪から逃れた。


 両目が熱かった。

 事故に遭った時の夫妻の無念や、リーアムやリリーの気持ちを思うと悔しくて堪らない。

 全ての人間が悪人とは思わない。罪は赦される日が来ると思う。けれど、許されてはならない罪もある筈だ。


 彼等は悪魔だ。




「……湊」

「うん」




 解ってる。

 湊が腕を掴む。




「あいつ等は、法の下で裁かれるべきだ。絶対に逃がさない」




 火の点いた目で、湊が言った。

 独善でも、自己満足でも何でも良い。ただ、あの悪魔達は絶対に許してはならない。




「それは警察の仕事だ。俺はお前等の言葉を信じる。だから、お前等も信じろ」

「……でも、九年前、法はあいつ等を裁かなかった!」




 その時に実刑判決が出ていたなら、今回の事件は防げたかも知れない。

 葵君が宥めるように言う。




「だからと言って、ルールを破って報復しようと言うのなら、それはあいつ等と変わらない」




 解ってる!

 航は叫んだ。正論も正解も解っている。言われるまでも無い。でも、それならこの悔しさを、虚しさを、遣る瀬無さを、どうしたら良いんだ!




「リーアムのところに行こう」




 湊の言葉で、航ははっとした。

 今回、最も心を痛めているのは自分達ではなく、リーアムだ。会ったところで何を言えば良いのか解らないけれど、彼を一人には出来ないと思った。



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