⑵後悔先に立たず
「私は便利屋さんじゃないのよ」
春の日差しを浴びながら、ソフィアがぶうぶうと文句を言った。
リーアムから相談を受けた湊は、その日の内にソフィアに連絡して約束を取り付けた。殆ど押し切るみたいに話す兄の姿は頼もしかったけれど、流石にソフィアに同情の念を禁じ得ない。湊の言葉は何故か断ることが難しいのだ。
自宅の前で待ち合わせをしていた。湊は携帯電話を握り締めたまま、街路の向こうから聞こえるエンジンの音に耳を澄ましている。
少し待つと黒いボックスカーが現れた。運転席の窓がするすると降りて、リュウの辛気臭い顔が覗く。すぐ後にリーアムがやって来て、待ち人はそれで全員揃った。
「何処へ行くの?」
ソフィアが尋ねる。紺色のブレザーは今日も皺一つ無く、糊が効いている。膝丈のスカートから覗く生っ白い足が如何にも貧相で、航は溜息を吐く。
湊はヘルメットを小脇に抱え、運転席のリュウに何やら話し掛けているようだった。説明する気は無いらしい。航は二度目の溜息を呑み込み、ソフィアに向き合った。
「ドライブだよ」
「ドライブ?」
説明が難しい。
リーアムの相談内容は、とある心霊スポットの調査である。
目指すのは、NYCから一時間程北上した場所にある。ハーリーマン州立公園の先、ハドソン渓谷を横断するベア・マウンテン橋である。此処はロックランド郡、オレンジ郡とウエストチェスター郡を結ぶ交通の要であると同時に、自然豊かな絶景ポイントでもある。航の生活圏には掠りもしないが、いつか行ってみたいと思っていた。
湊と二人ならばバイクで良かったのだが、調査内容を鑑みるとソフィアはいた方が良いし、相談者であるリーアムも外せない。バイクに四人乗りは出来ないので、足代わりにリュウを呼び出したのだ。
全員でリュウの車に乗っても良かったが、狭い車内の気まずい空気が容易に想像出来たので、断った。その際、リーアムが自分と湊の乗車位置を交換したいと申し出たが、「自分より大きな男を乗せる趣味は無い」と言って突っ撥ねた。
湊はよく喋る男であるが、普段は意外に思う程、静かである。バイクの後ろに乗せていてもはしゃいだり、悪戯に騒ぎ立てたりしない。通り過ぎて行く景色をじっと眺めたり、時折歌を口ずさんだりする程度で、後は殆ど無言だ。航はそんな兄を乗せて走る時間が好きだった。
リュウの運転する車を先頭に、バイクで一時間程走った。長閑な田園風景を抜けると辺りは木々の生い茂る鬱蒼とした山である。激しい勾配の山道はそれなりに神経を使ったが、湿気を含んだ自然の匂いは好ましかった。
途中、ハーリーマン州立公園を通過した。ベア・マウンテン橋はその北西にある。岸から東に伸びる長い吊橋を眺めると、その先は森の中へ消えて行くように見える。色褪せた紅葉を背景に、ハドソン川を横断する橋のシルエットが不気味に浮かび上がる様を、航は手前の料金所から見詰めていた。
中天を過ぎた太陽の日差しを浴びながらも、山から吹き下ろす風は凍て付く程に冷たい。航はバイクを停めて、悴む指先を擦り合わせた。
少し先に到着していたリュウ達も同様に車を停めていた。後部座席から飛び降りた湊が駆けて行く。航はバイクのエンジンを止め、その後を追った。
車から降りて来たソフィアとリーアムが疲れた顔をしていた。車内は葬式のように静かだったらしい。リュウがラジオも付けないので、気まずい沈黙をエンジンの唸りが虚しく響いていたという。
帰りは緩衝材に湊を貸してやろうかと思ったが、そんな義理も無いことに思い至り、止めた。
リーアムは橋の袂に立ち、深緑に濁るハドソン川を見下ろしていた。吹き上げる風が彼の前髪を揺らす。
先日、兄は橋から川に飛び込んだ。嫌な記憶を打ち消すように拳を握り、航はその隣へ立った。
見通しの良い直線道路である。事故の概要を知らないので、航はどんな声を掛けるべきなのか解らなかった。
10.断罪
⑵後悔先に立たず
少し休憩を挟んで、橋を渡り、山道を走った。その先はリーアムの案内に従った。
横風に煽られ、運転が乱れる。後ろで湊が身を屈めるのが解った。航はハンドルをしっかりと握りながら前を見据えた。リーアムの両親は交通事故で亡くなった。普段以上の安全運転を心掛けざるを得なかった。
整備されているとは言え、勾配のきつい坂道に急カーブが連続し、気が休まらない。対向車両がそれなりの速度を出して来ることや、山から吹き下ろす冷たい風、突然現れる蛇や鹿などの野生動物に何度も度肝を抜かれた。
上り坂の途中、崖側に待避所があったのでバイクを停めた。坂を一気に下る暴走紛いの荒い運転を苦く思いながら、航はリュウの車の後ろに隠れる。当然だが、車と衝突すればバイクが吹っ飛ばされる。自分が幾ら安全運転をしても、相手が暴走すれば致命傷を負うのは此方である。
「途中に、花が供えられていたね」
湊が言った。航は気付かなかった。運転に集中していて、それどころでは無かったのだ。
湊が言うには、花は比較的新しいガードレールが設置された急カーブの途中にあったらしい。
「統計上、交通事故で一番被害が多いのは、運転者でも無ければ同乗者でもなくて、歩行者らしいね」
車は走る凶器である。
航は頷いた。車に比べればバイクは小さいが、歩行者に比べるとバイクも十分脅威である。
リーアムが車から降りて来る。湊が労うように手を振ると、リーアムは苦笑した。
「途中に花があっただろう? 彼処で、僕の両親は死んだんだ。急カーブの出口付近で、対向車と正面衝突して、ガードレールを突き破って崖の下に転落した」
航は崖の下をそっと覗き見た。ハドソン渓谷の両側には痩せた木々が突き出ており、その下方には辛うじてハドソン川が見えた。高さは凡そ二百メートル。生身なら即死だ。吹き荒ぶ寒風に震えながら、航はぞっとした。
「母の座っていた助手席はぐちゃぐちゃだったらしい。即死さ。運転席にいた父は搬送後に死んだ」
死の瞬間、彼等は何を思っただろう。
幼い子供を残して逝かなければならなかった父親の胸中は、残念ながら航には想像も出来ない。
湊は航と同じように崖下を覗きながら、感情の死んだ声で言った。
「正面衝突みたいな事故では、運転者よりも助手席の同乗者が危険なんだ。運転者は反射的にハンドルを切るから」
他意は無いだろう湊の言葉に、リーアムが目を伏せた。航も苦い思いを隠し切れず、眉を顰めた。
命には生存本能がある。危機を回避する為に、他の命を犠牲にしてしまうことがあるのだ。それは決して間違いではない。誰も悪くないのだ。
生存本能とは生命そのものに課せられたプログラムである。
父の葬儀で、祖父が言っていた。そして、本当に追い詰められ、死ぬかも知れないと思ったその瞬間に、父は自分を犠牲にしてでも他者を守ろうとすることの出来る人だったと。
航は、そんなもの糞食らえと思った。
他人を助けて自分が死んでいたら意味が無い。父は奇跡的に生還したのだが、左手首から先を失い、現在は義手だ。
「話してくれて、ありがとう」
湊が言うと、リーアムは肩を竦めた。
「実は、本題は此処からなんだ」
そう言ってリーアムは向き直った。
「君達も解ると思うけど、此処は運転の難しい道だ。連続する急カーブと勾配の激しい坂道、冬場は路面も凍るし、元々事故の多発する危険な場所だ」
実際に走ったから、解る。
リーアムの両親ではないけれど、こんな悪路でいきなり目の前から対向車がやって来たら、避けようとして急ハンドルを切ってしまうだろう。
「此処に、幽霊が出るって噂が流れているんだ」
しんみりとした空気が、一気にきな臭くなって来た。航の眉間には自然と皺が寄る。リーアムは風で乱れた髪を撫で付けながら、山道を見下ろした。
「深夜になると、金髪の夫婦の幽霊が現れて、事故を招くという」
「何で幽霊って解るの?」
湊が問い掛ける。
気にするべき点は其処なのだろうか。驚いたり、怯えたり、人並みな反応には期待していないが、航にもズレた返答であることは解った。鈍いのか鋭いのかよく解らない男だ。
リーアムは苦笑した。
「僕だって実際に見た訳じゃない。眉唾物だと思う。……でも、噂には続きがあってね。その金髪の夫婦は、昔此処で死んだ幽霊だって言うんだ」
リーアムが調査を頼んだ理由を悟った。
此処に現れるという幽霊は本物なのか、偽物なのか。それが本物ならば、正体は何なのか。もしも、それがリーアムの亡き両親ならばーー、その目的は何なのだろうか。
「湊はどう思う?」
リーアムの青い瞳が射抜く。湊は目を眇めた。
「悪質な噂だと思う」
「何故?」
「だって、リーアムのお父さんとお母さんが亡くなったのは、九年前だろ?」
「僕の両親とは限らないだろ」
「違うと言い切れるなら、わざわざ調査を頼まないだろ」
まあ、尤もな話だった。
九年前の事故を持ち出して幽霊だ何だと言うのは不自然だ。気になるのは、火の無いところに煙は立たないというように、噂には何かしらの事実があるのではないかということだった。
リーアムの両親の事故と結び付く何かがあったのではないか。そんなことを考える。
車から降りて来たソフィアが、渓谷を見下ろして言った。
「……確かに、此処には地縛霊がいるわ。でも、リーアムの両親ではない」
地縛霊とは、何らかの理由によってその土地から離れることが出来ない死霊のことだ。ソフィアが言うには、この地には地縛霊が存在する。
湊は小難しい顔で唸った。
「元々、事故の起き易い場所なんだろう。そういう場所には負の感情が集まり易い。自己暗示に近いかな。事故現場と知ると何となく不吉に思う。其処で事故が起これば因果関係を想像する。また、負の感情が集まる」
本人は意図していないらしいが、湊の主張はソフィアの意見を真っ向から否定している。ソフィアは呆れたように溜息を吐いた。
「いずれにせよ、此処に貴方の両親はいないわ」
安心して、とソフィアが微笑む。
リーアムは苦く笑った。
その時だった。
耳を劈くような急ブレーキの音が山々に木霊した。急斜面を滑走するように真っ赤なシボレーが突っ込んで来る。航は殆ど反射的に湊の手首を引っ掴んだ。
待避所に停まっているリュウのボックスカーの脇を掠めるように、シボレーが急旋回する。後輪が勢いよく滑り、リュウの車諸共、崖下へ転落するのではないかと思った。
路面に凄まじいブレーキ痕を残し、ゴムの焦げる悪臭と共にシボレーは停止した。運転席のリュウがハンドルを握って身を伏せている。湊は車に駆け寄ろうとしていた。恐らく、突っ込んで来る車の方向からリュウの身を案じたのだろう。航が押さえ付けた為に叶わなかったが、湊は悲鳴のような声を上げた。
「リュウ!」
航の手を振り払い、湊が運転席へ走る。
あわや大惨事という状態であったが、衝突はしていない。ハンドルに突っ伏していたリュウも流石に顔色が悪かった。衝突していたら、車ごと崖下に転落している。
誰だ、こんな馬鹿な運転をするのは。
航はシボレーを睨む。シールドの貼られた窓からは内部が見えない。それもまた、腹立たしい。
するするとウインドウが下りて、荒っぽい声がした。
「死にてぇのか!」
軽薄な顔付きの若い男だった。堅気の仕事に就いているとはとても思えない。ろくでなしを絵に描いたような人物が、自分の危険運転を棚に上げて怒鳴り散らす。
怒りが顳顬を痙攣させる。こういう馬鹿が車を運転しているという事実が堪えられない。航が怒鳴り付けようとした時、湊が遮った。
「ーーこのクソ野郎!!」
そのまま掴み掛かろうと近付いて行くので、航は瞬時に我に帰った。湊を背中から羽交い締めにするが、肋骨が折れているとは思えない力で強引に進もうとする。
しかし、見た目は幼い子供だ。湊の怒気に当てられた男が車から降りて来て、両者は鼻が付きそうな程の至近距離で睨み合いになった。
「危ないだろ! もう少しで、ぶつかるところだったぞ!」
「こんなところで停まってんじゃねぇ!」
湊の言葉は正論だ。この場に警察がいたら、逮捕されたのは間違い無く若い男だった。湊は顔を赤くして食い下がるが、男は見た目から侮って聞く耳を持たない。
仕方無しに航が前に出ると、男は怖気付いたかのように後退った。更に車から降りたリュウやリーアムが前に出ると益々身を縮め、舌打ちをした。
「このクソガキが! 轢き殺すぞ!」
男は湊を睨んでいる。恐らく、自分達の中で一番小柄で弱そうな湊をターゲットにしたのだろう。腹立たしい奴だ。
助手席からもう一人の男が降りて来て、飄々と宥め始めた。その口振りは、まるで子供が言い掛かりを付けて来たのだと言っているようだった。相手をすることすら馬鹿らしいと嘲笑う男に、航は怒りを募らせる。
「何キロ出して走ってんだ! あんた一人が死ぬなら兎も角、他人を巻き込むな!」
「何だと?!」
湊は頭に血が上っているらしく、全く引く気が無い。
男が湊の胸倉を掴もうとしたので、航は振り払った。眉間に深い皺が刻まれる。
「警察を呼びましょう」
携帯電話を取り出したリュウが、冷静に言った。
僕は構いません。突き放すような冷たい声に、男達が掌を返す。
「僕の車にはドライブレコーダーが付いているので、証拠として提出します。このやり取りも録画しています」
流石だ。航は拍手を送ってやりたかった。
途端に態度を軟化させた男が、紙のように薄っぺらな謝罪を口にする。お互い様だと嘯くので、航は腹が立った。例え此方に過失があったとしても、絶対に譲らないと誓った。悪いのはこの男達だ。
「此処は幽霊が出るんだ。あんた等も呪われないように、気を付けるんだぞ」
そんなことを言って、男は車へ乗り込んだ。最後に窓から盛大な舌打ちを零して、車は走り出す。改造されたマフラーの排気音が耳障りだった。
反吐が出る。
湊が口汚く吐き捨てた。珍しい。だが、多分、湊が怒っていなければ、航は相手を殴っていたかも知れない。
現場の調査を終えると、早々に帰路に着いた。
航は後部座席に湊を乗せた。顔を見なくても解るくらい、湊は怒っていた。最早、何に怒っているのか疑問なくらい長引いていた。
怒り慣れていない人間は、その収め方を知らない場合が多い。湊は感情の制御に優れている。一時的な感情でないことは明らかだった。
「何に怒ってんの」
自宅近くの信号を待っている間に、航は問い掛けた。サイドミラーに映る兄はハムスターのように頬を膨らませている。全く怖くない。
「ああいう馬鹿がいるから、交通事故は無くならないんだ」
それは暴論だろう。交通事故の大半は不注意であり、危険運転ではない。とは言え、湊の気持ちも解る。
あの現場は、リーアムの両親が亡くなった場所だ。先日の心霊写真の時の少女も交通事故が原因で昏睡状態になった。
恐らく、湊は目の前で取り零すことが嫌なのだ。
リュウが死ぬかも知れなかった。それなのに、あの男達は反省の態度すら見せなかった。
「お酒の臭いがした」
飲酒運転だったのだろうか。
信号が変わったので、追求は出来なかった。
やはり、警察に突き出せば良かったかな。
航はそんなことを後悔した。




