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⑴嘘

 What is evil? – Whatever springs from weakness.

(悪とは何か? ー弱さから生じる全てのものである)

 

 Friedrich Nietzsche







 初春の脆い日差しが雪を溶かして行く。それがやがて消える頃には春がやって来るのだろう。

 季節は巡る。時は立ち止まることをせずに進み続け、凡ゆる事象は過去に変わり、泡沫の如く消えて行くのだろう。


 湊は病院の廊下を歩いている。大きな窓から降り注ぐ日差しを受けながら、手にした花束をそっと握る。

 擦れ違う入院患者や看護師の足取りは軽い。普段は静謐な院内も、春の陽気に誰もが浮かれているようだった。


 通い慣れた病室の前に立ち、静かに深呼吸をする。この部屋に入る時、いつも自分に言い聞かせる。これは自己満足であることを忘れてはならない。誰のせいにもしないし、誰の為にもならないことを、自分は誰よりも自覚しなければならない。


 感情は全てこの場所に置いて行く。

 扉へ手を掛ける。ふっと漂った春の新緑の匂いに、何かが溢れそうになる。


 レースのカーテンが風を孕んで揺れる。真っ白なベッドに半身を起こす少女のシルエットが浮かび、湊は其処に許されない錯覚を起こす。

 ブルネットの女性が振り返り、まるで、自分へ微笑み掛けるような、そんな都合の良い妄想を。




「湊?」




 耳の底で優しく囁かれているような声が、自分を呼ぶ。有り得ない妄想は微風の中に霧散した。白磁の肌、青い瞳。リリーが慈しむように微笑んでいる。

 湊は後ろ手に扉を閉めながら、今にも叫び出し、壁に頭を打ち付けたいような自虐的な衝動に苛まれる。


 痩せた。

 そんなことは口が裂けても言えない。ただ、病の進行の速さに愕然とする。彼女の頬からは肉が削げ落ち、目の下には薄っすらと隈が浮かんでいた。


 リリーは余命一ヶ月の少女である。先天性のPSIの持ち主で、その力に助けられたこともある。だが、PSIは体力を消耗する。病の進行に拍車を掛けることも知っていた。


 抗癌剤の化学治療は行われない。彼女の容態は、医師が匙を投げる程度には悪化しており、今は死を待つばかりである。


 自分が何でも救えるとは思っていない。けれど、目の前にいながら何も出来ることが無いという事実は、中々に堪える。湊は平素を装って、ベッド横の椅子に腰を下ろした。


 さて、今日は何の話をしようか。

 湊は天井を見上げながら考える。出来ることならば、彼女の気持ちが一時でも明るくなる話が良い。




「どうしたの? なんだか、悲しそうな顔をしているわ」

「そんなこと無いよ」




 湊は笑って両手を組んだ。




「良いことがあったよ。親父と電話したんだ」




 父が海外でMSFの活動をしていることは話してあった。自慢の父だ。家族を亡くした彼女に話すべきか迷った日もあったけれど、何故なのか、無意味に隠し事をするのは嫌だった。


 元気そうだったよ、と言えば、まるで自分のことみたいに喜んでくれる。彼女に笑っていて欲しい。そんな独善が純粋な厚意として真っ直ぐに伝わるのが心地良い。


 見切り発車で話し始めたせいで、何を話せば良いのか全く纏まっていない。湊は苦し紛れに口を開いた。




「紛争地の悲惨さを痛感したよ」

「へぇ」




 自分の語彙力はゴミだな。湊は頭を抱えたくなった。

 だが、リリーの青い瞳が覗き込み、話の先を促す。湊は父の話を思い出しながら、餓死した我が子を切り売りする母親や、地雷で両足を吹っ飛ばされた少年兵の話はするべきじゃないと判断した。




「非常時には、平時では有り得ないような非道が罷り通る。それは、人の本質が表出しているのかも知れない」

「湊は、人の本質は悪だと思うの?」

「いいや? 何が正義かは人によるだろ」




 父の言葉を思い出す。

 狂っていない人はいない。そして、狂っている人間は、狂っていると解らない。だから、今の自分ももしかすると狂っているのかも知れない。




「私は、人の善性を信じているわ」




 湊は相槌を打った。ソフィアも同じようなことを言っていた。


 人は見たいように見て、聞きたいように聞く。何を信じるかは人によるし、それを否定しても意味が無い。リリーの言葉を綺麗事とは思わなかった。疑うよりも信じた方が良い。当たり前だ。その方が楽なのだ。


 勿論、それだけで生きていける程、世の中は甘くない。自然界の摂理が弱肉強食であるように、疑わなければ騙される。人生は綱渡りに似ている。一度でも踏み外せば転落し、這い上がることは難しい。


 ふと興味が湧いて、湊は問い掛けていた。




「どうして、そう思うの?」




 両親を失い、不治の病に罹り、余命は一か月。

 この世の何もかもを恨んだとしても、それは正当だろう。嘆いても恨んでも呪っても、湊はそれを否定しない。責める権利なんて誰にも無かった。


 リリーは笑った。頬に笑窪を浮かべた優しい笑顔だった。




「良いことばかりでは無いけれど、私は貴方に出逢えたもの」




 それだけで?

 湊は言葉を躊躇った。


 リリーは嘘を吐いていない。彼女は本心から、そう思うのだ。ただそれだけで、己の身に降り掛かる不幸を肯定すると言う。


 両目が熱かった。眼球が溶けてしまいそうな気がして目を伏せる。胸がぎゅっと締め付けられて、余計な言葉を零してしまいそうで、拳を握って必死に堪えた。




「湊」




 リリーが呼んだ。湊は上手く返事出来なかった。

 どんな顔をして、どんな風に答えたら良いのか解らない。こんなことは初めてだった。

 嘘を吐くのは得意だった。取り繕うのも、騙すのも。でも、彼女の前では、自分の持つ技術の全てが稚拙で無意味なものに思えた。




「私は貴方の味方よ」




 嘘は無い。彼女は本心からそう言っている。薄い掌が頬に触れ、心地良かった。リリーの青い瞳を見詰めていると、まるで深い海の底にいるみたいに感じられた。凡ゆる不幸も苦痛も遠い世界の出来事みたいに、ぼんやりする。


 ずっと此処にいたいような気がした。

 リリーと二人だけで、ずっと此処に。


 それが叶わないことは、誰よりも知っている。リリーはきっと自分を置いて逝ってしまうのだろう。そして、取り残された自分は彼女を過去にして前に進むのだ。ーーオリビアがそうであったように。


 ねえ、リリー。

 湊は掌に頬を寄せた。




「俺が死んだらどうする?」




 不謹慎で最低な問い掛けだ。だけど、知りたかった。

 自分はきっと彼女を亡くした後も、変わりなく生きるだろう。だけど、もしもリリーが異なる未来を思い描くのなら、彼女が望むように生きるのも悪くないかと思った。


 リリーは真剣な声で言った。




「死なせないわ」




 心臓が貫かれるようだった。

 雲間から一筋の光が差し込むように、世界が色付いて見える。吸い込まれそうな青い瞳、長い睫毛、白磁の肌。全ての視覚的情報は朧に消えて、彼女の声だけが木霊する。


 自分には他人の嘘が解る。信じる覚悟無く、信じて欲しいだなんて傲慢だ。だから、例え裏切られても、信じて良かったと思えるようになりたい。


 この子を守りたい。理不尽と不条理に晒されながら、弱音も泣き言も吐かず、愚直に人を信じると言う彼女を守りたい。これが自己満足でも独善でも、同情でも憐憫でも、きっとリリーは笑ってくれる。


 俺はこの子の為に、何でも出来ると思った。








 10.断罪

 ⑴嘘







「いい御身分だな」




 玄関を開けると、湊が立っていた。いつものオタク風の格好ではなく、カーキ色のMA-1を羽織っていた。何処かに出掛けていたのだろう。


 暖簾に腕押し、柳に風。湊は航の皮肉を苦笑で躱すと、そのまま真っ直ぐ洗面所へ向かった。


 何処に行っていたんだか知らないが、腹が立つ。今日は客が来る予定だったのだ。だから、航は練習後の体に鞭を打って夕食の支度をしていたし、母は態々化粧をしている。


 空は茜色に染まっていた。約束の時間まで後少しだ。


 キッチンに立ち、煮込んでいたロールキャベツの様子を窺った。煮崩れもしていないし、キャベツも柔らかそうだった。

 オーブンも稼働している。挽肉が余ったので、ココット皿でグラタンを作っていた。炊飯器が呼ぶ。米が炊けたらしい。中身は浅蜊とトマトのピラフである。我ながら良く出来ている。これから来る客には勿体無いくらい良い出来だ。




「俺より航の方が手際が良いだろ」




 洗面所から戻って来た湊が、悪びれもせず言った。

 事実、湊にうろうろされるより、一人でやった方が効率が良い。それでも、浅蜊の砂抜きや皿洗いくらい出来ただろう。

 言い返そうとしたが、航は黙った。顔も洗って来たらしい湊の睫毛に雫がぶら下がっていて、まるで泣いているように見えたのだ。けれど、濃褐色の瞳は静かに凪いでいた。


 何か良いことがあったのかな、と思った。

 ここのところ、湊は疲れているように見える。憔悴とまでは言わないが、何かを我慢し、堪えているような顔をしていた。だから、湊が穏やかな顔をしているなら、それは喜ばしいことである。


 だからと言って手伝わなくて良いかというと、それは別の話だ。航は完成したロールキャベツを皿に盛り付け、鍋を洗うように言い付けた。


 タイミングを見計らったかのようにチャイムが鳴った。湊はこれ幸いとばかりに玄関へ駆けて行って、結局、鍋は航が洗う羽目になってしまった。


 もういい。食後の片付けは湊にやらせよう。

 廊下の向こうから足音が近付く。航はミトンを装着しながら、オーブンの中を覗き込んだ。

 芳ばしい匂いが漂う。グラタンの表面では溶けたチーズがこんがりと焼けていた。空腹を訴えて腹の虫が切く鳴いている。航は天板から四つ分のココット皿を取り出した。


 丁度、リビングの扉が開いた。航はオーブンを閉めながら、客人へ声を掛けた。




「よう、リーアム」




 客人ーーリーアムは、口元に笑みを浮かべた。

 落ち着いた色合いのシャツとチノパン。髪はワックスで適度に纏められている。恵まれた容姿と相まって、何処ぞの御曹司かのようだ。隣に並ぶ湊が真っ黒クロスケみたいな出で立ちなので、余計にリーアムの存在感が際立っている。


 壁掛け時計を見上げる。午後五時。約束の時間ぴったりだ。時間を守るところは評価する。航がミトンを外していると、湊が鼻をひくつかせた。




「チーズの良い匂いがする」




 カウンター越しに調理台を覗き、湊が嬉しそうに言った。航は苦笑して、皿を運ぶように言い付けた。

 出迎えた母とリーアムが退屈な世間話をする横で、湊がテーブルを飾り付けて行く。最後にぴかびかに磨かれたシルバー類を整えると、テーブルの上はちょっとしたパーティみたいに華やかになった。


 四人で食卓を囲む。

 湊がいただきますの音頭を取り、航は早速ロールキャベツへ手を伸ばした。

 じっくり煮込んだので、キャベツは蕩けそうに柔らかい。噛んだ先から肉汁が溢れる。隣では湊がグラタンに息を吹き掛けていた。冷める前に食べようとする心意気は良いが、流石にまだ無理だろう。


 グラタンに四苦八苦している湊を、母とリーアムが眩しそうに見ていた。中身は兎も角、見た目の幼い湊が一生懸命に食事している様子は、小動物のようで見ていて面白いのだ。


 航はサラダを取り分けながら、水を差し出す。案の定、スプーンを口へ入れた湊が悲鳴を上げる。グラスを煽り、湊の喉が音を立てた。


 それでも諦めないのが湊という男なので、航は放っておいた。

 ピラフを飲み込んだリーアムが、楽しそうに言った。




「君達って、本当にどっちが兄なのか解らないねぇ」

「よく言われる」




 何故か威張った湊に、母が笑った。


 夕食にリーアムを呼んだのは母の提案だった。両親が他界し、姉は入院中。そんなリーアムの生活を心配した母親のお節介である。人の良いリーアムが断らなかったので、せめて美味い飯を食わせてやろうと思った。


 リーアムが来ることは湊も知っていた筈なのに、そもそも手伝う気が無かったらしい。航が起きた時には布団はもぬけの殻だった。その癖、誰より大食いで、大袈裟なくらい美味いと褒める。憎めない奴だ。


 食後に紅茶を淹れ、航はリーアムと共に暖炉の前へ陣取った。当然、皿洗いは湊に押し付けた。




「航は料理が上手なんだねぇ」




 親戚の叔父さんみたいにリーアムが零す。

 今日の夕食は手を掛けたのだ。褒められて悪い気はしないので、航は鼻を鳴らした。




「お母さんも優しいし、羨ましいな」




 それは嫉妬とは異なる穏やかな憧憬だった。リーアムは暖炉の火を眺める。オレンジ色の光が映り、青い瞳がゆらゆらと揺れていた。


 丁度、皿洗いを終えた湊が戻って来た。




「リーアムのお父さんとお母さんは、どんな人だったの?」




 濡れた手を暖炉に翳しながら、湊が問い掛ける。

 湊はデリカシーが無いので、訊き難いことを率先して口にする。リーアムは気を悪くした風も無く、滔々と語った。




「厳しかったけど、優しかったよ。親父は仕事が忙しくて家を空けがちだったけど、休みの日には一緒にバスケをした。お袋はお菓子作りが得意で、よくリリーと一緒にマドレーヌを作ってくれたんだ」




 リーアムの眼差しは遠い。その視線の先は暖炉の火を超えて、もう戻らない過去を見詰めているようだった。

 湊はソファに座ると、子供のように両足を揺らして「素敵だね」と言った。嫌味の無い素直な感想だった。


 リーアムは、十歳の頃に両親を飛行機事故で亡くしている。以前聞いた話を思い出す。


 飛行機事故。想像してみて、恐ろしくなる。遥か上空を飛ぶ鉄の鳥。空中でトラブルが起きてしまえば、乗客には何も出来ない。機内はパニックに陥っただろう。そして、それが墜落した時。彼等は苦しかったのだろうか。それとも、何かを感じる間も無く死んだのだろうか。願わくば、後者であることを祈る。彼等の死の苦しみがせめて一瞬であれば良い。


 湊はティーカップを覗き込みながら、唐突に言った。




「リーアムの両親は、何で亡くなったの?」




 は?

 航は顔を上げた。

 死因なんて、湊だって知っている筈だ。自分達は一緒にリーアムの口から聞いたのだ。知っている癖に敢えて語らせようと言うのか。無意味で、非道な振る舞いだ。


 航は窘めようとしたが、湊は真顔で言った。




「君達のご両親が亡くなったのは、九年前。その当時、死傷者を出すような飛行機事故は見当たらなかったよ」

「調べたの?」




 湊は答えなかった。

 リーアムは悪戯っぽく笑った。




「ごめんな。嘘を吐いた」

「良いよ。言いたくないことなら、答えなくていいから」




 忘れてくれ、と湊が眉を下げた。

 湊には他人の嘘が解る。リーアムが嘘を吐いていたのなら、その時点で解った筈だ。

 見抜けなかったとしたら、それはリーアムが自覚していなかったか、他にも嘘を吐いていたか、だ。

 湊は対象者が嘘を吐いた場合、違和感としてそれを知覚するらしい。しかし、真実が見える訳ではない。相変わらず、歪な能力だ。




「本当は交通事故なんだ。調べたなら、知ってるだろ?」

「調べてないよ」

「何でだよ。よく解らない奴だなあ」




 リーアムが可笑しそうに言う。




「頼みたいことがあるんだけど、聞いてくれる?」




 航は突っ撥ねようとしたが、湊が身を乗り出したので間に合わなかった。聞く前から無責任に「いいよ」と受け入れて、目をきらきらと輝かせている。


 ありがとう、とリーアムが言った。

 良い予感はしないけれど、湊が楽しそうにしているのなら、まあ、いいか。

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