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⑹理性の糸

「嫌だ」




 眉間に皺を寄せた湊が言った。


 玄関の向こうは猛烈な勢いで吹雪いている。美しい庭園は真っ白に染まり、僅か先も見えない程に視界が悪かった。バイクでは、とても帰れそうも無い。


 エマの部屋を後にした航は、帰宅の為に玄関へ向かった。使用人が苦い顔をしていたので嫌な予感はしていたが、まさかこれ程に吹雪くとは予想していなかった。


 吹雪は勢いを衰えさせることなく、日が暮れる程に悪化して行った。バイクどころか、徒歩でさえ帰宅は困難だった。

 都会の真ん中で遭難してしまいそうだ。携帯電話で調べたところ、吹雪は明日の朝まで続くらしかった。記録的な豪雪により電車やバスは運転を見合わせ、帰宅難民が公共機関で溢れている。


 使用人達が気遣って客室を用意して、一晩の宿を提供すると申し出てくれた。有り難い話だ。それにも関わらず、湊は「帰る」の一点張りで、聞き分けの悪い子供のように駄々を捏ねていた。




「嫌だ。此処にはいたくない」

「仕方無いでしょ。こんな吹雪の中を帰るのは難しいわ」




 宥めるようにソフィアが言った。

 湊は外套を羽織ったまま、玄関先で外を睨んでいる。湊が超能力者だったなら、雲の一つや二つ吹き飛ばせそうな鋭い眼光だった。




「航」




 縋るように湊が見て来るので、航は溜息を吐いた。




「この吹雪は無理だ。死ぬぞ」

「でも、嫌なんだ」

「俺だって、さっさと帰りてぇよ。だからこそ、闇雲に動き回るよりは、大人しく機会を伺うべきだろ」




 湊は納得したようでは無かった。

 焦ったように外を睨み、足元が忙しなく床を叩く。檻に入れられた熊のようにうろうろと彷徨いながら、携帯電話を見詰めていた。


 帰宅は無理だ。

 航は早々に判断すると、母へ連絡を入れた。帰宅の遅れている自分達を心配していたらしい。知人の家に一泊すると伝えれば、一先ずは安心したらしかった。


 湊は携帯電話を見て舌打ちを漏らした。珍しい。




「リュウと繋がらない」

「何で、リュウ?」

「此処にはいたくないんだよ」




 車で迎えに来てもらうつもりなのだろうか。友達を足代わりに使おうとは良い度胸だ。航は好い加減面倒になって、横から携帯電話を奪った。




「お前が幾ら焦っても吹雪は止まねぇ」

「航は何も感じないの?」




 何のことだ。

 湊は声を潜めた。




「此処は何か変だ。まるで、ドラマのセットの中にいるみたいだ」




 確かに、此処は気味が悪い。

 航もこの場所に来た時に同じようなことを感じた。まるで、作り物の中にいるようだった。


 湊は他人の嘘を違和感として知覚しているらしいが、航には解らないのだ。同じ感覚を共有することは難しい。




「エマは嘘を吐いていたのか?」




 湊は顔を歪め、首を振った。




「嘘は吐いていなかった」




 では、エマの語る言葉は全て真実だったのか。

 母からの虐待も、父からの異常な愛も、幸も不幸も解らないエマの感覚も全てが真実。だからこそ、恐ろしい。航にもそれは解る。解らないのは、今の湊だ。




「この屋敷にいる人は誰も嘘を吐いていない。だから、気持ち悪い」




 航だって、この家は不気味だと思う。だが、湊のように吹雪も構わず今すぐに出たいとまでは思わない。


 霊的な感覚ならば、自分の方が知覚出来る。湊には霊の存在を感じることが出来ないのだ。此処に霊はいないのだろう。ならば、湊は何に怯えているのだろうか。


 個人的な感覚を言葉で表現するのは難しいので、詳細な説明は求めなかった。


 航は溜息を吐いた。




「……解った。お前がそんだけ言うなら、やれるだけやってみようぜ」




 ソフィアが目を丸める。制止の言葉が出て来る前に、航は身支度を整えた。湊が安心したように肩を落とすので、やれやれという気になっていた。


 外は吹雪だ。バイクでは帰れない。

 だが、湊は帰りたいのではなく、此処にいたくないのだ。意味の無いことはしない湊がこれだけ言うのだから、信じてやろうと思った。




「本気なの?! 凍死するわよ!」

「そうだな。危ないから、お前は此処に残れ」




 ソフィアは言葉を失くしてしまったかのように口をぱくぱくと動かしていた。航も彼女の立場ならば同じことを言っただろう。けれど、今の湊は普通じゃない。


 玄関の扉の前に立つと、使用人達が慌てて駆けて来た。ソフィアと同じようなことを喚いたが、航は止まらなかった。

 危険は承知だ。無事に帰宅出来るとは思っていない。やるだけやって駄目なら、湊も納得するだろう。


 ダウンジャケットのチャックを閉めて、手袋を嵌める。ぐっと扉を押した時、後ろから使用人の声がした。




「その扉は開きません」




 言葉の通り、扉は開かなかった。凍り付いたかのようにドアノブが回らないのだ。吹雪のせいだろうか。湊が代わりに手を伸ばしたが、扉は硬く閉ざされている。




「吹雪の影響で、オートロックシステムがダウンしています。明日には復旧すると思いますが……」




 蹴破るか?

 他人の家の扉を壊すのは流石に気が引ける。航が立ち止まると、湊はするりと横を抜けて歩き出した。




「裏口がありますよね?」

「扉は全てオートロックです」




 湊は窓に手を伸ばした。

 割るつもりなのかと焦ったが、窓は嵌め殺しの防弾硝子だった。少なくとも、湊の力では開かない。




「機械室を見せて下さい。コンピュータの故障なら、直せるかも」

「屋敷の外の電線が凍結しているようです。エアコンや電灯は別の電源なので稼働していますが、扉は難しいでしょう」

「何処かに開く窓は無いんですか?」




 使用人は目を伏せた。湊は一階にある客室の扉に入って行き、窓へ向かった。手動の為に僅かに開閉したが、人が通り抜けられる程ではない。


 閉じ込められたのだ。

 窓の隙間から吹雪が唸る。日常と非日常が切り替わる感覚がした。


 航は観念して上着を脱いだ。


 暫く湊は屋敷の中を駆け回っていたが、収穫は無かったらしい。航は広間の暖炉の前で走り回る湊と追い掛ける使用人のコミカルな動きを見守っていた。


 時刻は午後八時。

 空腹を感じた頃、使用人が夕飯へ誘った。航は汗を滲ませる兄の首根っこを掴んで食堂へ向かった。


 染み一つ無い白い食卓の上に、三又の燭台が立っている。気が遠くなる程に長いテーブルの端に座り、航は俯く湊を宥めていた。


 夕食はフランス料理だった。

 デザートのような前菜が運ばれて来る。玉蜀黍と桃のコンポジション。航はテーブルマナーを思い返しながら、堅苦しい食事に嫌気が差した。

 ソフィアは完璧なテーブルマナーを披露し、嫌味ったらしくシェフを褒める。前菜なんて腹の足しにならない。湊の作るお好み焼きの方がマシだな、と思った。


 魚料理の後には、肉料理が続く。

 真鯛のポワレ、鴨肉のコンフィ。上品な味だとは思ったが、毎日食べたいとは思わない。こういうものは偶に食べるから美味いのだろう。湊は気分が悪いと言って、食事には一切手を付けなかった。


 口を湿らす程度の水しか飲まないので不安になる。バゲットを押し付けると、齧歯類のように少しだけ齧った。


 デザートはカラメルとシュークリームだった。艶々とした質感と濃厚な甘い匂い。航は甘いものが好きではないので断った。ソフィアが幸せそうに口元を綻ばせている。


 食後のコーヒーが運ばれて来た時、エマがやって来た。踊るような軽やかな足取りだった。

 この家に同世代の人が来ることは無かっただろう。浮かれる気持ちも解る。エマは遅れて食事を始めると、歌うような口ぶりで湊に話し掛けた。


 科学の専門用語がぽんぽん飛び出していた。一を聞いて十を知るように、湊の僅かな言葉から概要を把握する様は、とても九歳の少女とは思えなかった。

 航には彼等の会話に入ることが出来なかった。一つ一つの話は解るのだが、唐突に話題が切り替わるのだ。彼等にしてみれば自然な流れなのだろうが、話に付いて行くのがやっとだ。


 湊のI.Qは140を超えている。

 そんな兄と対等に渡り合えるエマは、一体何者なんだろう。


 エマが食事を終えるのを待って、航は食堂を後にした。話し足りないのかエマは自分達に充てがわれた客室まで付いて来た。道中も湊を質問責めにしていたが、嫌そうにはしていない。会話も弾んでいるようだった。


 扉の前に到着すると、エマが寂しそうに言った。




「もっとお話したいよ」

「うん。また明日、いっぱいお話ししよう」




 屈み込んだ湊が宥めるように言った。エマは口を尖らせる。




「じゃあ、お話は明日にするから、一緒に寝ても良い?」




 それは、不味いだろ。

 九歳の少女を異性とは意識しないが、湊とエマが一緒に寝ている姿を想像すると背徳的な気分になる。湊に限って間違いを起こすとも思えないけれど。


 湊が困ったように言う。




「俺は誰かと一緒だと眠れないんだよ」




 嘘吐け。

 いつでも何処でも寝る神経極太野郎の癖に。




「だって、寂しいよ。せっかくお友達になれたのに」




 その気持ちも解る。

 エマは唯一の肉親である父親を亡くしたばかりだ。例えその愛情が常軌を逸していたとしても、孤独を恐れる彼女の気持ちには覚えがあった。


 だからこそ、弱味に漬け込むような真似は駄目だ。この子は正常な判断が出来ない状態にあるし、今この瞬間が孤独でなかったとしても、自分達はずっと側にいられる訳ではない。


 湊は眉を八の字にして「また明日」と手を振った。

 取り付く島も無い、あっさりした対応だった。湊は背を向けるとさっさと部屋の中へ入ってしまった。

 エマを置き去りにするのは心苦しいが、自分に出来ることは無い。航も後を追った。


 部屋の中にはベッドが二台並んでいた。

 湊は携帯電話を取り出して部屋の中をぐるぐると彷徨っていた。電波を探しているのかと思ったが、どうやら盗聴器の類を探しているらしい。そういえば、孤児院でも同じようなことをしていた。


 満足したのか携帯電話をポケットに戻して、今度は窓に向かった。そして、開かないことを悟るとベッドに大の字になって寝転んだ。やっと諦めたらしい。




「冷たいんだな」




 苦言のつもりは無かったが、先程のつっけんどんな言い方を指摘した。湊はぼんやりと天井を眺めている。

 何となく、いつもと違うように思った。気分が悪いと言っていたが、本当に体調を崩していたのかも知れない。


 航はさあ。

 独り言のように湊が言った。




「あの子の寝るって、どういう意味だと思う?」

「は? そんなの一緒のベッドで、」




 航は口を噤んだ。

 エマの話を思い出す。父親からの性的虐待。それを普通だと、愛情だと受け止めていたエマ。ならば、あの子の示す寝るとは。




「あの子は危うい。俺達の常識が通じない相手だ」




 ふう、と息を吐き出して、湊は俯せになった。

 航は空いているベッドに腰を下ろした。




「お前はエマを疑っているのか?」

「……解らないけど、あの子は嘘を吐いていない」




 湊は勢い良く起き上がった。その拍子にベッドのスプリングが鳴ったが、構わずに胡座を掻いた。


 湊は他人の嘘が解る。隠し事をしているかどうかもその範疇である。そして、その精度は百発百中であるが、そもそも嘘とは本人が自覚するものに限るらしい。つまり、本人の自覚しない嘘は見抜けないのだ。




「此処は息苦しいよ。早く家に帰りたい」




 そんなことを呟いて、湊はベッドに潜り込んだ。








 9.生贄

 ⑹理性の糸








 ふと、夜中に目が覚めた。

 寝惚け眼を擦りながら枕元の携帯電話へ手を伸ばす。時刻は午前三時。窓の外は雪のせいで薄っすらと明るく見えた。


 話し声が聞こえたので目を向けると、窓際に湊がいた。一人掛けのソファで膝を抱えながら、誰かと電話をしているらしかった。

 航が目を覚ましたことに気付くと、嬉しそうに目を細めて笑った。




「親父と電話が繋がったよ」




 微睡んでいた意識が一気に覚醒する。航は布団を押し退けて湊の元へ向かった。

 携帯電話を受け取り、急き立てられるように耳へ押し当てる。


 父の声が自分を呼んだ。それだけで毛布に包まったように安心する。異国の地にいる父の声はノイズ混じりだったが、泣きたくなるくらい温かかった。


 航はスピーカーモードに切り替え、携帯電話をテーブルに置いた。ブルーライトに照らされ、闇は部屋の隅で蟠る。湊は機嫌良さそうに話し始めた。




「トーマス・ルーカス氏の屋敷にいるんだ。こっちは春の大雪でね、帰れなくなっちゃったよ」




 父が心配そうな声を出した。紛争地にいる父に心配は掛けられない。航は遮るようにして言った。




「明日には雪も止むみたいだよ。そうしたら湊を連れて帰るさ。心配すんな」




 父は少しだけ安心したようだった。

 湊が甘えるような声で「ねぇ」と言った。




「ルーカス氏の奥さん、鬱病で入院してたんだって。親父、知ってた?」

『さあ』

「何で鬱病になったんだろう」

『知らねぇけど、ストレス社会だからな』




 のらりくらりと躱され、航は歯噛みした。

 医者には守秘義務がある。患者の個人情報は明かさない。湊は続けて問い掛けた。




「ルーカス氏が自殺したことは知ってた?」

『自殺? 死んだのか?』

「そうだよ」




 父は驚いたような声を出した。

 帰国していた頃の事件だったようにも思うけれど、元々浮世離れしている人だった。そんな父が紛争地にいるのだから、待っている家族としては心配である。




『ルーカス氏は自殺しねぇ』




 父は断言した。確信があるかのようだった。

 当然、湊も「何故?」と問い掛けた。父は言った。




『娘を溺愛してた。殺されたなら兎も角、自殺なんて絶対にしない』

「……俺も、そう思う」




 航は同意した。

 ルーカス氏の人物像を知る度に、自殺するような人間とは思えなくなっていた。ロイヤル・バンクという巨大銀行と溺愛する娘を残して、自殺するだろうか。

 睡眠薬を常用していたという情報も怪しい。医師と繋がっていたのなら、書類は幾らでも改竄出来る。それに、処方されていたとしても本人が服用していたとは限らない。


 湊は小さな画面を見詰めていた。




「ルーカス氏の娘に会ったよ。……この家は何かがおかしい。狂気みたいなものを感じるんだ」

『狂っていない人間なんていねぇ』




 なんだそりゃ。

 航は呆れた。だが、湊は違ったらしい。




「親父も?」

『多分な』




 何が可笑しかったのか解らないが、湊と父は声を揃えて笑っていた。


 昨日さあ。

 父が言った。




『市場に行ったんだよ。満員電車みたいに路地が全部人で埋まってんだよ。ゴミだか商品だか解んねぇ品物が並んでんだ。中には見たことない虫の瓶詰めとか、葉っぱの束とかあって』




 瓶詰めの虫。

 航は想像だけで気分が悪くなった。虫を食べる文化は意外と多いのだが、自分ならば飢え死にした方がマシだと思う。




『虫は意外と美味かった。ミルワームみたいな幼虫は油で炒めたらピーナッツみたいな味がしたよ』

「止めろ」




 明日からピーナッツが食べられなくなりそうだ。

 父は笑っていた。湊の神経の図太さは間違い無く父譲りだと思う。




『俺の仲間が干し肉を買ったんだよ。非常食は大切だからな。売ってたのはがりがりに痩せた女の人で、子供をおんぶしてた』




 父がいるのは中東の紛争地。賑わう市場があるだけマシなのかも知れない。生活水準は低く、常に危険な感染症が蔓延している。人種差別は根深く、諍いが絶えないらしい。




『仲間がその場で干し肉を食おうとしたらさ、その女の人が泣くんだよ。話を聞いたらさ、その干し肉、餓死した息子だって言うんだ』




 航は口元を押さえた。

 喉の奥から胃液が込み上げる。流石の湊も顔色が悪かった。何でも無いみたいに話す父が異常なのだ。




『肉は返したよ』

「そんなことが許されるのかよ……!」

『悍ましいだろ。でも、戦争ってそういうものだよ』




 狂ってる。

 航は吐き捨てた。だが、父は平素と変わらぬ声で言った。




『先週、二人の少年兵を救護した。一人は地雷で両足を吹っ飛ばされて、血塗れで絶叫してた。混濁した意識状態で、呪いの言葉を吐くんだ。瀕死の重傷で、敵味方の判断も出来ないのに』




 どうして父がこんな話をするのかは解らないけれど、きっと大切なことを語ろうとしている。航も湊も耳を峙てて黙っていた。




『もう一人は比較的軽傷だった。問診の一環で話をしていたら、彼等は貧しい村の生まれで、家族を養う為に兵隊になったって言うんだ。戦時下では若者を兵士とする為に洗脳することがある。事実、地雷で両足を失くした少年は洗脳されていた。でもね、もう一人の少年は正気だったんだ』




 父の話は恐ろしいのに、何故だか心が凪いで行く。非日常の話を聞いているから、自分の現在地がどれ程に安全で恵まれているのか解る。


 此処には飢餓も貧困も、命を脅かす武器も無い。雪を凌げる屋根があり、寒さから逃れられる布団がある。守るべきものがあって、守ってくれる存在がいる。




『自分の状況を俯瞰的に理解していて、戦争の愚かさや悲惨さも知っていた。賢い子だった。望んで戦場に身を置いている訳じゃない。他の選択肢が無かったんだ』




 航は父の掲げる目標を思い出す。誰も殺されない世界を願い、その為の手段がMSFでの活動を通して命の価値を高めることだった。


 なあ。

 父が言った。




『俺達の信じる常識って何なんだろうな』

「社会の大多数の意見かな」

『集団になる程に個人の意思は縮小する。民衆は流され易い』




 ヒーローらしかぬ言葉だ。

 昔、聞いたことがある。ヒーローとは守るべき弱者がいてこそ成り立つ相対評価のことだ。他者評価に惑わされないからこそ、父はヒーローと呼ばれるのかも知れない。




『食うや食わずの人々に、それは違法だから止めろと言えるか? 餓死した我が子を食用肉として泣きながら切り売りする親もいる。家族を生かす為に他人を殺す子供もいる。常識とか倫理観とか、そんなものに価値は無い。彼等は生きなければならない』




 父の言いたいことが、解る。




『狂っている人間は狂っていると解らないし、そうしなければ生きられない人もいる』




 狂っているのか否かなど、極限の世界では瑣末なことなのだろう。航には、それが戦時下のことだけを指しているようには思えなかった。




『そっちの時間だと深夜だろ? 遅くに悪かったな。沢山寝ろよ』

「ああ。親父こそ」

『良い夢見ろよ』




 そんなことを言って、父は通話を切った。

 胸がぽかぽかと温かい。よく眠れそうだ。航が欠伸を漏らすと、湊が笑っていた。




「安心したら、お腹が空いて来たよ。早く朝にならないかな」




 湊が呑気に言う。それまでの辛気臭さは消し飛んでいた。

 父は偉大だ。航は笑った。

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