⑵手
夕暮れに染まる帰路を辿る。
逢魔時を迎えた街は異世界に迷い込んでしまったかのように静かだった。
商業地区を抜け、区画整理された住宅地へ。
色取り取りの鞄を背負った学生は、回遊魚のように見えた。
広い街路の端にはセイタカアワダチソウの黄色い花が咲き乱れ、雑草が逞しくアスファルトを突き破っていた。収穫を目前にした玉葱の葉が畑にばたばたと倒れいる。五時を告げる鐘の音が遠くに聞こえ、航は自分の意識がぼんやりと溶けていくかのような錯覚に陥っていた。
思い出す。
あれは七歳の夏だっただろうか。
血のような夕暮れの中、長く伸びた影法師を追い掛けていた。
着衣水泳でもしたかのように体が重く、神経ばかりが針のように鋭かった。湿気った空気が煩わしく、口を開くのも面倒で終始口を噤んでいた。
隣を歩く兄が顎先を伝う汗を拭う。頬は熱さに火照っていたが、その面は人形のような無感情だった。
兄は何かを言ったようだった。
独り言だったのかも知れない。振り向いた時、双眸には刃のような強い覚悟が滲んでいた。それが何に対するものなのか、航には解らなかった。
白いセダンが脇を抜ける。
航の意識はシャボン玉が弾けるようにして唐突に現実へ戻った。
喜色に染まった家族連れの賑やかな声が耳障りだった。乾いたスキール音が溶けて行く。テールランプを眺めていた。
帰り着いた自宅は闇の中にあった。
母も出掛けているのだろう。室内灯がセンサーの反応で淡く灯る。航は構わず、玄関からリビングを抜けて、自室へ向かった。進学と同時に入寮した兄の荷物は少なく、殆ど航の一人部屋だった。
二段ベッドの脇に鞄が投げ出されていた。幾つかの紙の束と分厚い専門書、真新しい眼鏡ケース。身辺整理が習慣付いた自分達には珍しい光景だ。
ノートパソコンが青白い光を放ちながら、スリープモードで鎮座している。雲一つ無い青空とエメラルドグリーンの海が鮮やかだった。
航が棒立ちしていると、背後で扉の開く気配がした。
振り返る間も無かった。兄は電灯のスイッチを入れると、平坦な口調で言った。
「ハバナの海だよ」
スリープモードのディスプレイを指して、湊が言った。その手には二人分のマグカップがあった。
ラベンダーの甘い匂いが部屋の中に充満し、体が怠くなる。湊はマグカップをサイドチェストの上に並べると、ベッドに腰を下ろした。
綺麗だろ。
そう言って湊は微笑んだ。
兄がサーフィンを趣味としていることは知っている。どのような経緯でハバナまで行ったのかは知らないが、大学生活を満喫していることは解る。
航の反応を待たずして、湊はベッドに散らかした資料を一部取り上げた。白いコピー用紙で、表紙には何も書かれていなかった。
資料を片手にパソコンを操作し、スリープモードを解除する。黒縁のダサい眼鏡がブルーライトを静かに反射していた。
「トーマス・ルーカス氏の事件を洗い直しているんだ」
湊はディスプレイに薬物の映像を映した。
「ペントバルビタールは実験動物の麻酔によく使われる鎮痛催眠薬だ。依存性や致死率が高く、扱いの難しい薬だけど、入手自体は困難ではないんだ。ルーカス氏も常用していたらしいし」
過剰摂取による自殺に用いられる薬としては第一位である。
化学式を暗唱し、湊は不景気そうな顔で俯いた。
「業績不振や孤立無援の状況を悲観して、衝動的に自殺を図ったという警察の判断は納得出来る。部屋は密室で、物理的にも時間的にも、第三者の立ち入りは不可能だった」
航はサイドチェストからマグカップを取った。
透き通る薄茶色の液体からラベンダーの香りが立ち上る。柔らかな湯気の向こうで湊は顎に指を添えていた。
思考する時の癖だ。
邪魔な前髪を払ってやると、湊は曖昧に微笑んだ。
「お前は何が引っ掛かってんの?」
航は問い掛けると、湊は逡巡するように目を伏せて答えた。
「タイミングが不自然だ」
そう言って湊はネットニュースを映した。
ロイヤル・バンクは外国為替相場の不正誘導を巡り、集団訴訟の真っ只中だった。敗色濃厚と報道されていたが、当の本人が死んでしまったのでは何もかもが宙ぶらりんだ。
「敗色濃厚ってのは競合相手による情報操作なんだ。状況を鑑みるとイーブンだし、ロイヤル・バンクは控訴の準備があった」
航はハーブティを啜った。
口の中にラベンダーの香りが広がり、体が重くなる。
「その状況で自殺するかな」
「知らねぇ。衝動的な行為だったんじゃねぇの。自殺なんてそんなもんだろ」
湊は手持ち無沙汰にスクロールしながら、ぽつりと言った。
「ソフィアの証言も引っ掛かる」
湊はくるりと振り向いて、真っ直ぐに此方を見詰めて来た。嘘を見抜く怜悧な双眸は相変わらず奇妙な透明感を放っている。
「ソフィアとルーカス氏には接点が無かった。つまり、ソフィアには証言による利益が何も無いんだ」
「お前、本当にあいつの言うこと信じてんの?」
探るように問うと、湊はさらりと答えた。
「前に言っただろ。幽霊や霊能力が実在するかどうかは解らない。仮に存在したとしても、確かめる術も無い。ーーでも、ソフィアは嘘を吐いていなかった」
航は反論しなかった。
湊がそう言うのなら、事実なのだろう。
「嘘が解っても、真実が見抜ける訳じゃない」
「それで?」
「情報が足りないと思う。兎に角、ソフィアに会わなきゃ」
航は頷いた。
自分達の話は机上の空論で、確証が何も無い。それこそ先入観にも基づいた推論なのだ。この不足を補う為には、やはり、もう一度彼女に会う必要がある。
湊はパソコンを閉じて、ベッドに寝そべった。傷一つ無い滑らかな額に皺が寄っている。退屈な沈黙に溜息を吐き、航は投げ出されたレポートを何と無く拾い上げた。
無地の表紙を捲る。
航は其処に刻まれた単語を読み上げていた。
「SLC?」
航が言うと、湊がぱちりと瞬きした。
内容へ目を通す寸前、湊の手がレポートを攫っていた。
未完成なんだ。
照れ臭そうに湊が笑う。何の研究なのかよく解らないが、どうせ碌なことじゃない。
憂鬱な気分になり、航は欠伸を噛み殺す。
携帯を片手に拾い、電話帳から葵君のアドレスを引き出す。今は兎に角、情報が必要だった。
1.幽霊屋敷
⑵手
航があの噂を思い出したのは、夕食の回鍋肉を並べている時だった。既に外は暗く、星が瞬いていた。
洗い終えたフライパンを乾かしながら、リビングで寛ぐ兄の背中を眺める。テレビを観ているらしい。地方芸人のコントを真顔で見ているので、同情の念が湧いてしまう。
笑えとは言わないが、せめて何か発言してやれよ。
炊飯器から大盛りの白米を装って茶碗を並べる。湊は重い腰を上げて夕食の手伝いを始めた。
漆塗りの箸六角は、両親が母国に帰省した時の土産だった。双子の親は皆そうなのか、何かと揃えたがる。
赤い千鳥格子は航、青い千鳥格子は湊。湊が鯨の形をした箸置きに並べている間に味噌汁を掻き混ぜて注いだ。
両親は不在だった。
海外出張中の父は兎も角、母は近所のママ友と飲み会らしい。せっかく二人が揃っているのだから顔を出せと酔っ払った母の電話が一時間前。家の中は航と湊の二人きりだ。
漬物を切り分ける兄の旋毛を見下ろして、僅か一年の間に随分と身長差が出来たものだと呆れてしまう。
研究室に篭り切りの湊は、趣味だったバスケを辞め、偶に気晴らしのサーフィンを楽しむ程度だ。太陽光の影響なのか、二人の背は十センチ程も差が開いていた。
何故かオタク風の出で立ちになっているし、血縁関係を疑われる程に自分達は異なる成長を遂げていた。友人に紹介しても、兄が湊だとは信じられないだろう。
母の下らない要求は黙殺することに決め、手を合わせる。
いただきます。
二人の声は見事に重なり合っていた。
無言で食べ始めるのかと思いきや、湊は何時に無く饒舌だった。
美味い美味い、おかわり。
馬鹿の一つ覚えみたいに繰り返し、皿を空にする様は見ていて気分が良い。大した料理は作っていないので、こんなことならもっと手の込んだ料理を出してやれば良かったとほんの少し後悔した。
普段は碌なものを食べていないのかも知れない。
そう思うと憐れになって、食後のデザートに杏仁豆腐も出してやった。湊は目を輝かせてスプーンを手にしていた。
航は甘いものが好きではないので、大袈裟に喜ぶ兄の姿を頬杖を突いて眺めていた。
長い前髪が邪魔そうだ。以前のように目玉クリップで留めてやっても良かったが、今は母から預かった髪ゴムがあった。
額の中央でちょんまげを結うと、湊は視界が広くなったと喜んで眼鏡を置いた。
杏仁豆腐を大喜びで食べ続ける湊はそのままに、何となく眼鏡を取って透かして見る。ブルーライトカットの眼鏡には度が入っていない。普段はパソコンばかり見ているのだろう。だから、自分に比べてモヤシみたいに痩せっぽちで生っ白いのだ。
湊はおかわりを要求したが、残りは母の分だ。無視して皿を洗う為にさっさと立ち上がる。
水盤に皿を並べ、スポンジで泡立てる。
三月のニューヨークはまだ冬だ。暖炉の火が室内を暖かく照らし、外では粉雪が舞うこともある。
食器洗いの温水を止め、航は両手の水を払った。
そういえば。
航が態とらしく言うと、湊は子犬のような目を向けて来た。
「この辺りで幽霊屋敷の噂って聞いたことある?」
口にするのも忌々しい単語だ。
湊は考え込むように天井を見上げてから、思い至ったのか不敵に笑った。
「ウィンチェスター・ミステリー・ハウスのことかな?」
カリフォルニア州サンノゼにある有名な幽霊屋敷だ。
ウィンチェスター銃で成功を収めた屋敷の主人が、霊の呪いから逃れる為に三十八年もの間増改築を繰り返した。不可解な内部構造が話題を集め、今では世界一謎に包まれた館として有名である。
溺れる者は藁をも掴む。航にとってはその程度の認識だった。
「今は観光客も入れるらしいね。其処では方位磁針が狂ったり、ラジオが勝手に喋り出したり、心霊写真が撮れたり、怪奇現象が起こるらしい。俺も一度は調査に行きたいと思ってたんだ」
嬉しそうに語る湊には悪いが、その話ではない。
航は軽く咳払いした。
「ウェストチェスター南部の田舎にある幽霊屋敷だよ。肝試しに行った奴等が本物の幽霊を見たって言って尻尾を巻いて逃げ出したんだ」
湊は残念そうに眉を下げた。
ウェストチェスター・ミステリー・ハウスの話の後では、どんな話でも下らないものに聞こえる。
湊は概要を聞き終えると、閃いたとばかりに手を打った。
「調査に行こう」
「調査?」
「そう。今から」
「今から?!」
食事を終えた湊は自室へ行くと大きなリュックサックを抱えて戻って来た。
幾つかの大きな機材を入念に点検する湊からは鼻唄まで聞こえる。すっかり制止させるタイミングを失ってしまっていた航は濡れた手を拭き、その隣にしゃがみ込んだ。
「どうやって調査するんだよ」
「間違っても中には入らないから安心して」
いや、無理だろう。湊のそういう言葉は信用出来ない。トラブルメーカーという星の下に生まれた兄が何事も無く生還するとも思えない。ーーだが、放って置く訳にもいかない。
機材の準備を整え終えた湊へ、ヘルメットを投げて寄越す。フルフェイスの黒いヘルメットはまるでこれから銀行強盗にでも行くようだ。
これと言った会話も無く二人で家を出る。ガレージから重厚感のある単車を運び出し、エンジンを温める。獣のような激しい息遣いと共にフロントライトが点灯し、愛車は準備万端だった。
バイトの貯金を叩いて買ったバイクは赤いクルーザーだった。この辺りは交通が不便なので出掛ける時はいつもこれだ。
湊を後部座席に乗せるのは初めてだったが、見計らったかのようなタイミングで軽々と乗った湊は嬉しそうに笑っていた。
「良いバイクだね」
「当たり前だろ」
タフでクールな印象を与えるボディに、赤がよく映えている。高速回転するエンジンはアメリカンバイクの中でも馬力があり、広い直線の道を延々と走ることの多いこの地には馴染んでいる。
拍動のようなエンジンの揺れが心地良い。湊が「早く早く」と急かすので、航は悪戯っぽく笑ってアクセルを回した。
動き出しはゆっくりだ。
郊外の街路は驚く程に広く、平坦だった。思い切りアクセルを回すと凄まじい重力が掛かる。
振り落とされるなよ、と聞こえるか聞こえないかくらいの声を掛けるが、湊は夜の街並みに目を奪われていた。
道も空いているし、順調に行けば二十分くらいで目的地へ着く筈だ。
頬を撫でる夜風が気持ち良かった。背後でガチャガチャと機材の揺れる音が聞こえるが、この際、どうでも良い。
そうして到着した噂の幽霊屋敷は、やはり無人で闇の中に沈んでいた。
二階建ての家には、既に何かがいそうな不気味な雰囲気があった。バイクを路肩に停めていると、先に降りた湊がマイクのようなものを家屋の周囲へ等間隔に並べていた。割れた窓から器用にカメラを差し込む。
「それ何?」
「集音マイクとサーモグラフィー」
航は曖昧な相槌を打って、スタンドに重石を乗せる湊の背中を見ていた。色白で伸ばしっぱなしの髪をした湊の方が余程幽霊に見える。
機材に触ると壊してしまうかも知れないので、重石を乗せる作業だけ手伝った。最後に防犯に備えてブザーやら発信機やら取り付けていたが、そもそもこんな場所に好き好んで来る奴がそうそういるとも思えない。
設置完了し、湊は腰に手を当てて息を吐いた。
「今日の作業はこれでお終い。明日の朝、回収する」
呆気無いものだ。
湊のことだから屋敷に乗り込むかと思ったが、既に許可無く私有地に入っているので、これ以上の勝手はしないらしい。
「さあ、帰ろう」
いそいそとヘルメットを被る湊を後部座席に乗せ、航は最後に屋敷を見上げた。
白い外装は色褪せており、蔦が無数に巻き付いている。庭は雑草に覆われて、まるでジャングルだ。何処かで蛙の鳴き声が聞こえる。
不意に、二階の窓へ目を奪われた。
「何だ、あれ……」
白い何かが窓に張り付いていた。航は嵌め殺しの窓を凝視してーー、血が凍った。
手が。
血の気の無い真っ白な掌が、窓に張り付いていた。
掌から奥は闇に沈み何も見えない。行儀良く伸ばされた一本一本の指が生々しく、そして、悍ましく見えた。
それがこの世ならざるものであることは瞬時に解った。
頭の中で緊急サイレンが鳴り響く。サイドミラー越しに覗き込む湊を無視して、航は勢い良くアクセルを回した。
「何だよ……!」
掌は揺れていた。
さよならの挨拶をするように、手招きをするように。
旋回して街路へ飛び出す寸前、屋敷の方から窓を叩くような音が一斉に鳴り始めた。
「ーー何なんだよ!!」
冷たい汗が頬を伝い、逃げる以外の思考が消えてしまっていた。身体ががちがちに強張って頭の中が真っ白になる。
弾丸のように飛び出すと、街は普段と変わりなく静寂に包まれていた。
心臓の音が五月蝿い。
全身に鳥肌が立って指が縺れる。
それでも懸命に走り続けた。振り向いたらあの白い手が追い掛けて来るような気がして、信号すら無視して自宅へ急いだ。
もう無我夢中だった。
如何にか自宅へ帰り着いたところで、湊が労わるような穏やかな声で問い掛けた。
「大丈夫?」
大丈夫な筈無いだろう!
航は肩で息をしながら、顎先から落ちる冷や汗を拭った。湊は不思議そうに目を丸めていた。
後部座席からぴょんと飛び降り、湊は振り向いた。
「明日の朝に装置の回収に向かうよ」
航も来てくれる?
湊がのんびりと言う。航は断ってしまいたかった。だが、臆病者と思われるのも嫌なので、渋々頷いた。
あの白い手が網膜に焼き付いて離れない。
あれは一体、何だったのだろうーー?