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⑸檻

 凍て付く風が吹き抜ける。

 夕暮れを迎えた街は静かだった。


 降り注ぐ粉雪がうっすらと街路へ積もり、背中を丸めた人々が早足に歩いて行く。航はバイクのシートの雪を払った。

 ヘルメットを渡す為に振り返ると、湊は携帯電話をじっと見詰めていた。長い睫毛に積もる雪も、凍える寒風も気付かないように俯いている。


 父から連絡が入ったのだろうか。

 航が側へ行くと、湊が言った。




「ルーカス氏の娘に会えるよ」




 湊は手にした携帯電話を眼前に突き付けた。メッセージアプリの受信画面にはソフィアの名前があった。

 集合時間と場所を知らせる端的なメッセージだ。航は頷いて、湊の頭にヘルメットを押し込んだ。


 路面の凍結に注意しながら、航は目的地へ急いだ。

 来た道を引き返すようだ。車の轍を走りながら、航はハンドルを握っていた。


 厳しい門扉を構える豪邸の前にバイクを停めた。訝しむような警備員の視線を受けながら、航は掌にバイクのキーを弄ぶ。鈍色の雲と降り注ぐ粉雪が不気味だった。

 一足先にバイクを降りた湊が警備員に話し掛けている。牢獄に似た門扉が軋みながら開く。促されるままに航はバイクを押して進んだ。


 手入れの行き届いた芝生の庭。豪奢な噴水と池。整備された白い道。正面で待ち構える大きな屋敷は、まるでRPGで見るラスボスの居城のようだ。


 使用人の案内でガレージへ向かった。

 ガレージは嗅ぎ慣れたガソリンと機械油の臭いが充満していた。所狭しと並べられた高級車の群れ。傷一つ無い車体は磨き込まれ、光沢を放っている。


 愛車を置いて行くのは不安だった。高級車の群れを見る限り、整備員の腕は確かなのだろう。だが、いざという時に取りに行くことは難しい。航は後ろ髪を引かれる思いで、ガレージを出て行く湊を追った。


 玄関ホールには白い螺旋階段があった。吹き抜けかと思う程に高い天井には華奢な造りのシャンデリアがぶら下がっている。観葉植物は青々と茂り、室内は光に満ちている。

 大理石の床には赤いペルシャ絨毯が敷かれていた。どうせこれも、目が飛び出るくらい高価なのだろう。航は土足で踏み入ることを躊躇した。




「ソフィア」




 湊が言った。

 螺旋階段の手前、来客用の革張りのソファにソフィアが座っていた。俯いて携帯電話を見ている。此方に気付くとソフィアはほっとしたように顔を歪ませて立ち上がった。


 航は、先程、湊の携帯電話に届いたメッセージを思い出した。待ち合わせ場所と時間、要件を記した端的なメッセージ。彼女はルーカス氏の死の真相と向き合う決意をしたらしかった。


 湊が駆け寄ると、ソフィアは携帯電話をポケットにしまい込んだ。航の姿を認めると控え目に微笑む。

 何か言葉を交わす前に使用人の一人がやって来て、螺旋階段の上へ促した。マネキンのような笑顔だった。


 航は違和感を覚えた。

 この屋敷は人々の憧れる豪華で贅沢に包まれているのに、まるで作り物のように感じられるのだ。降り注ぐシャンデリアの光も、笑顔で迎える使用人も、何もかもが偽物に見える。人は屡、生活感を排除しようとするが、此処は何かが根本的に違う。


 使用人に促されるまま螺旋階段を登る。繊細な細工の施された手摺と白亜の階段。埃一つ無い赤絨毯。航は肌寒さを感じ、両手を擦り合わせた。







 9.生贄

 ⑸檻







 五階建ての屋敷の最上階。長い廊下の突き当たりにある部屋の前で使用人は足を止めた。ノックの音が静かに響く。使用人は返事を待たず、金色のドアノブを回した。

 飴色の扉が軋み、開かれる。途端に噎せ返るような花の匂いがした。車のヘッドライトを諸に浴びたかのような眩しさに目を細める。


 その部屋は、個人のものとは思えない程に広かった。航の家のリビングの二倍はある。正面の大きな窓からは鈍色の雲と粉雪が見えた。繊細なレースのカーテンが端に蟠っている。

 大理石の白い床にはペルシャ絨毯が敷かれていた。計算され尽くした幾何学模様が高密度のノットで描かれている。薄くしなやかなそれは一目で高級な品と解る。

 置かれた木製の衝立の奥には天板付きのベッド。見たことも無い高級そうな芸術品が、暖炉やサイドボードの上に鎮座していた。




「お嬢様。お客様をお連れしましたよ」




 使用人の落ち着いた声が呼び掛ける。

 衝立の向こうで誰かが立ち上がる気配があった。


 花の匂いが濃くなる。

 航は湊の背中越しに、その少女を見た。


 輝くような見事な金髪と、陶器のような白い肌。髪と揃いの睫毛は天を突くように長く、その下には柘榴石のような赤い瞳がある。通った鼻梁の下、小さな唇は血を吸ったように赤い。


 御伽噺から抜け出して来たかのように美しい少女だった。航は自分の培って来た美的感覚が土台から崩れ落ちるような感覚を味わった。部屋を彩る高級な芸術品の数々を放逐するような、いっそ冒頭的なまでに美しく整った少女。


 湊も神様の依怙贔屓と言わんばかりの整った容姿をしているけれど、この少女の前では路傍の石にも等しかった。幾ら磨いても、石ころはダイヤモンドに敵わない。


 航もソフィアも、失語症のように言葉を失くしていた。足音も無く歩み寄る少女を前に、呼吸すら躊躇われる。形容し難い衝動が腹の底から込み上げて、今にも逃げてしまいたくなる。


 何故なのか、他人とは思えなかった。間違いなく初対面である筈なのに、奇妙な既視感があった。この感覚を知っている。息苦しさから呼吸していたことを思い出したように、知っていた筈なのに知覚出来ていなかったかのような感覚だった。




「初めまして」




 湊は小さく会釈すると、人懐っこい笑みを浮かべた。




「俺は湊。こっちは弟の航。それから、友達のソフィア。今日は君に会いに来たんだ」




 少女は足を止めた。

 不思議そうに丸められた瞳が湊を見ている。




「君の名前は?」




 少女の唇が開かれ、吐息のように言葉を零した。




「エマ」




 その瞬間、頭の奥が痛んだ。頭蓋の中で凶暴な何かが暴れているみたいだった。奥歯を噛み締め、必死に呻き声を噛み殺す。




「初めまして、湊。私はエマ・ルーカスよ」




 天使のようにエマが微笑む。

 湊と握手を交わし、赤色の虹彩が此方を見た。その瞬間、航の身体は無重力空間に放り出されたかのように凡ゆる抵抗の術を失っていた。


 頭が割れそうに痛いのに、身体が独りでに動き出す。関節が糸で繋がれているかのように腕が持ち上がり、エマと握手を交わす。




「宜しくね、航」




 稲妻のような衝撃が身体中を駆け巡った。

 他人との接触は嫌いだった筈なのに、血液が歓喜に沸騰する。心臓が高鳴って、エマから目を逸らすことが出来ない。


 エマと手が離れる。それすら惜しかった。その視線がソフィアへ移る。堪え難い不快感が込み上げて、その腕を奪ってしまいたいとすら思った。


 視界が点滅する。靄に覆われて、視覚的情報が遮断されて行く。甘い痺れが手足の末端から染み込んで、何もかもが置き去りになる。


 その時、栗色の後頭部が視界を遮った。湊だ。子犬のような真ん丸の瞳に自分が映っている。

 邪魔だと思った。お前が其処にいると、エマがよく見えないだろう。退けよ。




「航?」




 湊の濃褐色の瞳が見詰めて来る。

 航。発音を確かめるように一つ一つの音を丁寧に発声し、じっと覗き込む。




「アメリアさんに似てるね。綺麗な子だ」




 軽口でも叩くかのような口調でありながら、その目は研ぎ澄まされた刃のように静かだった。

 視界から靄が晴れて行く。暖炉で薪が爆ぜ、航は自分の身体の使い方を思い出した。


 惚けているソフィアの前で、エマは可憐に笑っていた。


 エマに促され、ソファへ座った。夢の中にいるみたいに感覚が鈍っている。使用人は一度退出し、すぐに紅茶と焼き菓子を持って来た。


 ソフィアの視線はエマに縫い付けられていた。航もまた、磁石のように其方を見てしまいそうになる。その度に湊が隣でじっと覗き込むので、如何にか平静を保っていられた。


 エマと相対して初めて知る。

 湊という男は、惑星のような猛烈な存在感を持っているのだ。二人が並ぶと視界の暴力である。どちらに目を向ければ良いのか解らない。脳が麻痺してしまったかのように思考が停滞してしまう。


 航は苦心して湊へ視線を固定していた。睨んでいるつもりは無かったのだが、ソフィアが「喧嘩しないで」と苦言を呈するので肩を落とした。




「エマちゃんは、何年生なの?」




 湊はにこにこしていた。

 相手は年下だが、九歳だ。湊の対応が適しているのかは正直、微妙なところだろう。


 エマは長い睫毛に彩られた目を歪めて、無邪気に問い返した。




「何年生って?」

「学校だよ」

「学校って何?」




 航は耳を疑った。

 アメリカの義務教育は州によって異なるが、ニューヨーク州では四歳から始まる。しかし、九歳だと言うこの少女は学校というものを知らないらしい。


 一瞬、ネグレクトを疑った。だが、疾病などにより通学が困難な場合もある。航は黙って耳を傾けていた。




「エマちゃんは普段、何して遊んでいるの?」

「本を読んだり、お絵描きしたりしてるよ」

「俺も本が大好きなんだ」

「本当?」




 エマは嬉しそうにソファの上を跳ねた。そのまま本棚へ向かって物色を始める背中を呆然と見ていた。


 一般的に九歳とは子供である。だが、目の前の少女はそれよりもずっと幼く見えた。自分が九歳だった頃を思い出す。湊と殴り合いの喧嘩をしたり、ストリートバスケをしたり、家出したりと碌なことはして来なかった。


 馬鹿だった自分の幼少期を振り返って猛省している航を他所に、湊とエマは本棚の前で談笑していた。

 ソファに取り残されていたソフィアがぼんやりと言った。




「湊に似てるわ」




 航は頷いた。




「そういえば、前に言っていた真相を知る為の手段って何なの? 湊は何か確信があるみたいだったけど」




 航は答えなかった。この場でエマを疑っているだなんて言えないし、航には信じられなかった。

 以前遭遇した殺人鬼は屈強な男で、明確な殺意を持っていた。それに比べてエマは華奢で無垢な子供なのだ。




「ーー俺もこの論文、読んだよ」




 湊の声がした。

 二人は本棚の前にしゃがみ込んで穏やかに笑い合っていた。その容姿も相俟って、二人はまるで兄妹のように見える。実際は、湊は航の双子の兄なのだが、不思議な感覚だった。




「ゲノム編集ベビーについては倫理的観点から疑問の声が上がっている。でも、科学の進歩という意味では大いなる挑戦だと思う」




 湊がいきなり小難しい話を始めるので面食らってしまった。何の話をしているのだ。航が声を掛けると、湊が平然と答えた。




「ゲノム編集による子供の性別操作が、倫理的に許されるのか話題になっただろ? その研究者が、先天性の病を防ぐ為のゲノム編集に着手したんだ」




 湊は科学雑誌を見せて来た。専門用語が細かい文字で羅列されている。毛程も興味の無いテーマを見せ付けられて、航は退屈で欠伸が出そうだった。




「ゲノム編集が進歩すれば、いつか人類から病という概念は無くなるかも知れない。まあ、薬剤耐性菌の存在を考えるといたちごっこのような気もするけどね」




 湊が活き活きしているので悪い気はしないが、これは以前ゾーイが懸念していた倫理の欠如なのではないだろうか。研究者は時として知的好奇心を満たす為に、人としての倫理を置き去りにしてしまう。




「遺伝子工学に興味があるの?」




 湊が優しく語り掛けた。その時になって、航は違和感に気付いた。湊の手にある科学雑誌は、エマの持ち物なのだ。学校にも通わない九歳の少女が読み解けるとは思えない。




「俺も科学が好きなんだ。だから、学校っていうところで色々な勉強をしているんだよ」

「へぇ、いいなあ」

「エマちゃんは学校に行かないの?」




 エマは俯いて、ぽつりと言った。




「パパが、駄目だって言うから」




 その言葉を聞いた時、航はネグレクトの可能性を思い出した。虐待には様々な種類があるが、子供の意思を無視して行動を制限するのはそれに該当する。




「パパは怖かった?」

「怖くないよ。とっても優しかったよ」




 それが過去の形を取っていることが悲しかった。エマは父を亡くしたばかりなのだ。唯一の肉親を失った傷は深いだろう。航も父を失う経験をしたことがある。実際には生きていたのだが、今でもその時のことを思い出すと胸が苦しくて、心臓が冷たくなる感覚がする。




「パパはいつも優しかったよ。私の為に色んなものをプレゼントしてくれるの」




 見て、とエマが言った。

 首に華奢な鎖が掛かっている。服の下から取り出されたのは銀色の指輪だった。


 九歳の娘に与えたとは思えないプラチナの指輪だ。エマはネックレスを外すと、湊の掌に乗せた。

 湊と二人で指輪を観察する。内側には二人分のイニシャルが刻まれていた。


 鈍く光るそれを見た時、航は悍ましさに吐きそうになった。


 T.LよりE.Lへ、愛を込めて。

 これは父から娘へのメッセージというよりも、人生の伴侶へ贈った愛の言葉だ。




「パパは私のことが大切なんだって。外は危ないから、安全な家で守ってくれてるの」




 それは洗脳だ。

 愛妻家と呼ばれたルーカス氏の虚像が崩れ落ちる。彼は妻そっくりの娘を、妻のように愛した。




「ベッドの中でもパパは優しいのよ。私が苦しいと優しく肩を撫でて、キスをしてくれるの」




 嬉々として性行為を匂わせる思い出を語るエマに、生理的な嫌悪感を抱く。この少女は知らないのだ。それがどんなに異常なことなのか。


 ソフィアは顔色を失くしていた。湊は口元に笑みを浮かべていたが、その目は凄みを増していた。

 湊は大人による性的虐待の被害者になり掛けたことがある。航は堪らず、その背中を撫でた。




「お母さんのことは覚えてる?」




 湊が言った。

 嫌悪も不快も完璧に繕った静かな声だった。


 エマは小首を傾げ、答えた。




「少しだけ。……見て」




 エマは肩口を引っ張った。日に焼けていない白い肌が歪に引き攣って、醜いケロイドになっていた。




「私が三歳の頃、ママがお湯を掛けたの。心の病気だったんだって。それから入院して、病気で死んじゃったんだよ」




 三歳で母から熱湯を浴びせられたのか。

 アメリアは精神を病み、三年後に自殺した。それか父は妻の代わりにエマを愛した?


 何なんだ、この狂った家は。

 航に理解することは出来なかった。自分の育った環境とは余りにも違い過ぎる。


 湊は労わるようにエマの服を直した。




「お母さんのことはどう思う?」

「解んない。お母さん、いつも泣いていたから」




 胸が締め付けられるようだった。

 生まれ育った孤児院から売り飛ばされ、二回り以上も違う男に娶られた。幸せだったとは思えない。ルーカス氏は愛情だと言ってエマを屋敷に閉じ込めている。きっと、アメリアもそうだったのだろう。


 娶られた時、アメリアはまだ十四歳だ。彼女には未来があった。希望があった。それを大人達が薄汚い欲望の為に奪い取り、人としての尊厳さえ踏み躙ったのだ。


 ルーカス氏が自殺だったのか他殺だったのかなんて、もうどうだって良い。地獄に落ちてしまえと思った。




「ママは、私が嫌いだったのかな」




 湊は何も言わなかった。

 こんな時くらい、よく回る口で慰めてやれば良いのに。航はそう思ったが、黙っていた。


 湊は同情しない。他人行儀な同情はアメリアの苦しみを侮辱することになる。だけど、エマの気持ちはどうすれば良いのだろう。無条件に愛される筈の母から拒絶され、父から異常な愛情を受け、己の境遇を俯瞰することも出来ない。


 慰めがこの子を救えるのかと問われれば、答えはノーだ。湊の行為は正しい。だけど、それでも、と願ってしまう。


 ソフィアがエマの肩を抱く。暖炉に照らされた二人を航は遣る瀬無い思いで見ていた。こんな時に掛ける言葉の一つ出て来ない自分が虚しかった。


 湊は窓の外へ目を向けている。

 硝子の向こうでは大粒の雪が横殴りに吹き付けている。かたかたと揺れる窓枠の音は、まるで誰かの悲鳴のようだった。

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