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⑶弱音

 何故だか嫌な予感がしたので、自宅には戻らなかった。代わりにストバスコートでバイクを停め、航は葵君に電話を掛けた。

 留守番電話に繋がったので、すぐに話したいから折り返して欲しいと残した。


 ストバスコートでは、春休みを謳歌する子供達が無邪気にボールを追い掛けていた。その中に見覚えのある青年の姿が見えたので、航は目を見張った。


 リーアムだ。

 自主練というよりは戯れのような温い空気の中、リーアムは楽しそうに笑っている。


 此方に気付くと、子供達に何か声を掛けた。子供の小さな瞳が航を捉える。微かな歓声が硝子片のように降り注ぎ、航は自分がずたずたに刻まれるような自虐的な気分に陥った。


 九歳というと、目の前にいる子供達と同じくらいだ。自分達の導き出した答えは、そんな幼い少女を追い詰めるだろう。堪らなくなって目を伏せると、足元にしゃがみ込んでいた湊と目が合った。




「ちょっと、気分転換でもして来るよ」




 白い歯を見せて湊が言った。

 立ち上がった湊が向かったのはストバスコートだった。リーアムと擦れ違い様に一言二言何か話したようだったが、航には聞こえなかった。


 湊がバスケに参戦すると言うと、子供達があからさまに不満の声を上げる。遠くから此方を指差して、あいつが良かったと大胆に訴える。嘗められている。

 航が苦笑いしていると、湊は気にすることも無く不敵に笑っていた。そのまま始まったゲームをぼんやり見ていると、リーアムが隣にやって来た。




「今日は休み?」

「お前は?」




 質問には答えずに返すと、リーアムは頷いた。




「午前練だったんだ。君達に会えたら良いなと思って」




 航は曖昧に相槌を打って、コートを眺めていた。

 湊は背が低い。子供達に混じると何処にいるんだか解らない。それでも、流れるようなカットインに目が奪われ、まるで湊にだけスポットライトが当たっているようだった。


 そういえば、と思い出して、航は口を開いた。




「湊、バスケ辞めてなかったぞ」

「え?」

「今はどういう扱いになってるんだかよく解らないけど、あいつのチームメイトもそう言ってた」




 言いつつ、航は、怪我の為ではないかと思った。

 詳細はまだ不明だが、夏に入院する程の大怪我を負っている。その傷が癒えていないのではないだろうか。

 そこまで伝える義理も無いので黙っていると、リーアムが問い掛けた。




「チームメイトって?」

「ホセって奴」

「ああ、彼か」




 それなりに有名人だったらしい。そういえば、湊もホセは上手いと褒めていたのだった。




「それは喜んでいいのか、複雑だね」

「何で?」

「個人的には嬉しいけどね。チームで勝ち進む為には、強敵はいないに越したことは無いだろ?」




 それはそうだ。

 湊は決して目を惹くようなスター選手ではない。だが、いるのといないのでは大違いなのだ。潤滑油となり、緩衝材となり、湊はチームを活かすプレーをする。


 なあ、航。

 リーアムは眩しそうにコートを見詰めながら言った。




「航は、挫折したことある?」




 唐突な質問だ。航は答えられなかった。

 それを言葉にすることが怖かった。まるで、自分の弱さを認めてしまっているみたいで。




「航は人間関係で潰れかけたんだろ? 知ってるよ」




 リーアムの視線はコートから動かない。

 笑みすら浮かべたリーアムの横顔が、まるで知らない人のように見えて不気味だった。




「俺はね、君達にプレーで殺されたんだよ」




 殺された? 俺達に?

 航はその言葉を復唱した。リーアムは漸く振り返り、微かに笑った。




「詳細に言うなら、湊かな。君達は覚えていないかも知れないけど、俺は忘れない。初めてコートで対峙した時、湊は俺を潰す為に、徹底的にマークしたんだ。未だに思い出してもぞっとするくらい冷静で執拗なプレーだった」




 歓声が遠い。

 リーアムの声ばかりが鮮明だった。


 航は、リーアムと初めて会ったことを覚えていない。腐っていた時期があった。その頃は何もかもが無価値に思えていたのだ。


 湊は自分のように腐らなかったし、根本的に負けず嫌いなので手を抜くことはしなかっただろう。相手が本気であればある程、それを鏡のように返して来る。




「湊は腹立つくらい良い選手だよ。PGのお手本みたいな選手だ。チームの要で先頭に立ち、それをプレッシャーに感じない。しかも、他人の評価に左右されず、腐らない」





 べた褒めだな、と航は皮肉っぽく思った。




「躱しても躱しても追い付いて来る。投げても投げてもシュートは入らない。チームの士気はぐっと下がって、皆無言で、航がトドメを刺した」

「……覚えてねぇ」




 正直に答えると、リーアムは笑った。




「君はそうだろうね。全部、湊が仕組んだんだろ。お蔭で、俺は軽いイップスになったよ」




 航は黙った。こんな時に掛ける適切な言葉が何一つ浮かばなかった。


 イップスとは、精神的な原因により、突然自分の思い通りの動きや意識が出来なくなる症状のことだ。

 明確な治療法は無く、克服出来るかはその人次第。長ければ完治するまでに年単位の時間が掛かることもあり、イップスが原因でそのスポーツを辞めた者も多い。


 他人事とは思えなかった。チームから拒絶されたあの頃、湊がいなければ自分は此処にはいなかっただろう。


 リーアムは作為的な笑みを浮かべ、明るく言った。




「ゴールを狙って構えると、視界が揺れるんだ。耳鳴りがして、心臓が冷たくなる感じがする。逃げてるつもりは無いのに、ゴールが途轍も無く遠くに見える。ちょっと腐ってた時期があってさ、湊の姿を見ると酷い吐き気がした」




 航は次の言葉を躊躇った。

 リーアムの言葉の端々から滲むのは、湊に対する仄暗い感情だ。お前のせいで、お前がいたから。そんな声が聞こえるようで、気分が悪い。


 航はぐ、と奥歯を噛み締めて、言った。




「それは今も? だから、仕返しみたいに湊を巻き込むのか?」




 リリーのポルターガイスト現象の時も、心霊写真の時も、リーアムは相談したいと言って湊を巻き込んで来た。

 恨んではいない。湊は自分で考えて決めた。だからと言って、快くは思えない。


 リーアムは首を振った。




「そこまで性根は腐ってないよ。もう乗り越えたしね。俺はただ、航が羨ましかった。同じポジションで、俺より劣ってる筈なのに、湊がいるってだけで俺より活躍して、スポットライトを浴びてる。俺だって、湊がいれば君に勝てた」

「……」

「でも、イップス克服して、いざ再戦と思ったら、……湊いないんだもんなぁ」




 リーアムは晴れ晴れと笑っていた。肩の荷が下りたかのようだ。

 航には、彼の抱える感情がどういうものなのか解らなかった。悪意や害意では無い。恨みや憎しみでも無い。じゃあ、リーアムがこの話をする意味は何だ。




「航に勝った時、もっと達成感があると思ったよ。でも、虚しかった。あの時は湊を恨んだね。……そうしたら、湊が言っただろ」




 覚えている。

 航は口を結んだ。




「自分がいてもいなくても、航は良い選手だって。……頭をぶん殴られた気分だった。俺は湊を通してしか航を見ていなかったし、湊の目に俺は映ってなかったんだって思い知った。独り相撲って、こういうのを言うんだろうね」




 最低の気分だった。

 自嘲するように、リーアムが吐き捨てた。




「自分の今までが否定された気分だったよ」

「……湊は、ちゃんと見てたよ」




 リーアムは即座に否定した。




「見てなかっただろ。大局ばかりで、個人には無関心だろ」




 それを否定することは難しかった。

 湊は他人に期待しないし、個人への関心が薄い。ホセのようにそれを長所と捉える人間もいれば、リーアムのように短所と糾弾する人間もいる。正解は無いのだ。湊は他人の評価に価値を見出せないから、誰かの為に自分を変えようとは思わない。


 でも。

 リーアムが言った。




「でも、憎む余地も無いくらい、良い奴だもんな……」




 リーアムはフェンスに寄り掛かると、凭れながら座り込んでしまった。蹲るリーアムを遠くから湊が見ている。


 気遣うような視線が煩わしくて、航は放逐するように手を振った。湊は苦笑するとゲームへ戻って行った。


 春先に湊が帰宅してから感じていたのだが、湊という人間は異様に人を惹き付けるのだ。容姿に始まって、今度は内面、それから過去。好意ならまだ良いが、それだけじゃない。


 以前、湊の語っていたアンカー理論が頭を掠める。先天的な被害者体質。それは超能力に限ると思っていたが、もしかすると、そうではないのかも知れない。

 超能力は人体機能。ならば、界隈に犇めく悪意すら引き寄せてしまうのではないか?


 すっかりオカルト知識に毒されている自分に気付き、航はうんざりした。そういえば、リーアムもアンカーの一人だ。悪意を引き寄せる湊とは逆に、リーアムはそれを自分以外の周囲へ拡散するという。例えば、血を分けた己の半身ーーリリーに。


 最低な可能性だ。自分も湊を笑えない。


 この場にいると、足元がぐら付いて真っ直ぐに立っていられないような気がした。好い加減、兄の窺うような視線も煩わしかったので、航は逃げ出すようにして身を起こした。







 9.生贄

 ⑶弱音







「あんまり、航のことを虐めるなよ」




 窘めるように湊が言うと、リーアムが苦笑した。

 航と入れ違いでコートから出た湊は、先程の弟と同じようにフェンスへ凭れ掛かった。


 脇腹がじくじくと泣いている。罅の入った肋骨は痛いし、運動不足は否めない。




「航は優しいね」




 リーアムが言った。

 当たり前だろ。俺の弟だぞ。湊は誇らしいと同時に、それが言葉通りの賞賛ではないことも解っていた。


 初対面の時から、リーアムは嘘を吐いていた。友好的な態度、誠実な言葉、穏やかな物腰。全ての真実が目に見える訳ではないから、彼の何処に嘘があったのかは解らなかった。


 それがどうやら嫉妬であるらしいと気付いたのは、つい最近だった。アーロン教授や恋する少女の生霊を知り、湊は嫉妬や憧憬といった感情を理解したのだ。

 羨ましいと思うことはある。けれど、だからといって相手を苦しませるのは根本的に間違っている。劣等感に支配されて浅慮な行動を選ぶのは逃避だろう。相手を変えるよりも自分が変わった方が生産的で効率が良い。




「リーアムは、航が羨ましいんだね」




 湊は率直に言った。逆上されても構わなかった。

 その程度で壊れる関係性ならば、維持するに値しない。


 リーアムは目を伏せた。髪と同じ金色の睫毛が日差しに透けている。




「湊がいたから、航は活躍出来た。俺はずっとそう思ってたよ」




 リーアムの言葉の意味を考える。

 彼は以前から言っていた。航には湊が必要だった。あれがリーアムにとって唯一の落とし所なのだ。今の湊にはそれが解る。だが、それを肯定する訳にはいかなかった。




「俺がいてもいなくても、航は良い選手だ」




 航は勇敢だ。

 自分よりも大きな相手にも果敢に立ち向かい、最後の最後まで諦めず、結果から目を逸らさない。だから、自分はどんな時も諦めずにいられた。


 こういう言葉は好きではないのだけど、航は多分、天才と呼ばれる側の人間なのだろう。勿論、天才が努力していないという意味ではない。凡人が百努力するところを、天才は十の努力で自分のものにする。


 湊にはそれが解る。少なくとも、自分には航のような才能は無かったし、体格にも恵まれなかった。生まれ持ったものに文句を言ったって意味が無いから、割り切っただけの話だ。そして、皆が皆、そうして割り切れるのではないことも知っている。それが悪いとも思わない。




「努力する天才に、凡人はどうやって立ち向かえば良いんだい?」




 弱音のような微かな声だった。

 何と返せば良いのだろうか。リーアムは自分が天才ではないと思っているのだ。心に深く根付いた劣等感をどうやって振り払えば良いのだ。湊にはそれが解らない。


 迷った挙句、湊は苦渋混じりに在り来たりな言葉を吐いた。




「勝ち負けが全てじゃないよ」

「それでも。勝ちたいと思う俺は愚かなのかな」

「……いや」




 どうしたら良い。

 どうしたら、自分の手は彼に届くのだろう。身動ぎ一つ出来ない泥濘にいるリーアムに届く一本の糸を探し、湊は小さく呟いた。




「尊敬する」




 素直な気持ちを伝えると、リーアムは自嘲するように肩を竦めた。


 リーアムという人間を思う。

 体格にも身体能力にも恵まれ、努力を怠らなかった。彼は挫折を知っている。だから、立ち上がることが出来るのだろう。


 湊は幼少期から努力する天才、航と競って来た。


 力で劣るなら体力を、速さで劣るなら技術を。自分が血の滲むような努力の末に会得したものを、航は僅かな練習で自分のものにしてしまう。


 悔しくなかったかと問われれば、悔しかったと答える。でも、湊は航の努力を一番近くで見て来た。


 リーアムがどう思うかなんて、もうどうでも良かった。自分の弱さを打ち明けてくれた彼に対して誠実でありたいと思う。




「何を勝ちとするかは人による。俺はまだ負けていないし、負けたつもりも無い。納得出来ないなら、足掻き続けるしかない。だって、そうとしか生きられない」




 これでも、スポーツマンだからね。

 そう言うと、リーアムは泣き出しそうに笑った。




「笑いたい奴には笑わせておけば良いさ。少なくとも、俺も航も、君の挑戦を笑いはしない」




 これで見限られるのならば、自分はその程度の男だったというだけの話だ。悔しければ認められるような人間になれるように努力するしかない。初めから自分のやることは何も変わらないのだから。




「……もっと早く、君に会いたかったよ」




 リーアムは膝に顔を埋めた。


 コートでは航が駆け回っている。子供を相手に大人気無く本気になって、不敵に笑っていた。




「昔、航が俺に言ったんだ。俺が自由に泳ぐ為の水をお前が作ってくれる。その言葉を大切にしたいと思った」




 リーアムの顔は見えない。ただ、願うしかない。責任感の強い彼が弱さを払拭し、また顔を上げて前を向けるように。


 ポケットで携帯電話が震えている。航の携帯電話だった。取り出してみると葵君から着信が入っている。

 湊は身を起こし、コートに向かって声を張り上げた。薄っすらと汗ばんだ航が振り向く。湊には、それが何故だか遠い昔に見た弟の姿に重なって見えた。

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