⑵最低な可能性
マダム・マリーの自宅を出てから、湊は息吐く間も無く歩き出している。航が呼び止めると、湊は平素な顔で振り返った。
「さっきの質問は何なんだよ!」
「うーん」
湊は周囲をぐるりと見回すと、声を潜めた。
「まだ、言えない。もっと証拠を集めないと」
そう言って湊はバイクへ向かって行く。その背中に焦りのようなものを感じ、航は黙って追い掛けた。
次の行き先は、アメリアの生まれ育った孤児院だった。ブロンクスの郊外、田園風景に溶け込む簡素な建物は、子供達の歓声に包まれている。
施錠されているようだったが、門扉は押せば簡単に開いた。白い砂利の敷かれた小道を進み、事務所の扉をノックする。がばがばの防犯設備に、他人事ながら心配になる。
応対したのは気の良さそうな若い男だった。黒髪に緑色の瞳が印象的で、その瞳は吸い込まれてしまいそうに美しかった。福祉事業に携わる者特有の笑顔を浮かべ、青年は突然の来訪に気を悪くした風も無く受け入れてくれた。
「学校の宿題で、福祉の現場を調べています」
湊は名前さえ偽って、さらりと嘘を吐いた。
青年が偉いねと微笑んだので、航は申し訳無い気持ちになる。まさか、目の前にいる男が米国最高峰の大学に飛び級で入学した秀才とは思わないだろう。
湊は予め用意していたかのような当たり障りの無い質問をして、片手間にメモを取った。横から見ていた航には、そのメモが何の意味も無い落書きであることが解った。
「お兄さんは此処に長く勤めていらっしゃるんですか?」
「いや、僕はまだ此処に来て五年の新入りさ」
「大変なお仕事でしょう」
「まあね。でも、遣り甲斐があるよ」
「素晴らしいですね。お兄さんが新入りということは、他の方はもっと長く勤めていらっしゃる?」
「そうだね。院長はこの孤児院が作られた時から変わらないから、もう四十年は此処にいるよ」
「うわあ、すごいなぁ」
湊が相槌を求めるので、航はされるがまま、頷いた。
「院長先生にもお話を伺いたいのですが、今日は此方に?」
「ああ。声を掛けてみよう」
青年は席を立ち、部屋を出て行った。
その瞬間、湊は来客用のソファから立ち上がって事務所の片隅に向かった。何をするのかと見ていると、湊はポケットから何かの装置を取り出して周囲に向け、一人で頷くと棚へ手を伸ばした。
「おい、湊!」
湊は事務所に置かれた資料を読み始めた。
そのまま携帯で写真を撮るので、航は慌ててその肩を掴んだ。
「何してるんだよ!」
「大きい声を出さないでよ。名簿を探してるんだ。アメリアさんが此処にいた証拠が欲しい。この孤児院はアナログだから、ハッキングじゃデータを抜き取れないんだ」
「犯罪だろ!」
「好奇心旺盛な子供の悪戯だよ」
湊が一枚の書類に向かって写真を撮った時、扉の向こうから足音が聞こえた。湊は何事も無かったかのように元の位置へ戻り、紅茶を飲み始めた。
航が駆け寄った時、扉が開いた。
其処に立っていたのは、遠近法が狂っているのではないかと思うくらい恰幅の良い老人だった。
偏見だが、航は肉体労働や福祉事業に従事する人は痩せているものだと思っていた。孤児院の院長が太っているという状況に理解が遅れ、その隙に湊が飄々と偽名の自己紹介をする。
院長が席に座ると、湊は先程の質問を繰り返した。絶妙なタイミングの相槌と、痒いところに手が届くようなお世辞に院長は締まりの無い笑みを浮かべていた。
すっかり気を良くした院長は、職員の個人情報や施設の経営状況までぺらぺらと語った。この調子で子供達の個人情報まで第三者に話してしまうのではないかと思うと、ぞっとする。湊は世間話のように適当に聞き流しているようだった。
そういえば。
唐突に湊が言った。
「以前、アメリアさんという方にお世話になったんです。ほら、ロイヤル・バンクの社長とご結婚されたアメリアさんですよ。聞いたところ、この孤児院の出身だとか。良い人でしたよね?」
途端、院長の表情が強張った。
傍観者に徹していた航にも、この院長が何かを隠していることは解った。
湊は気付いていないかのように呑気な顔をして、懐かしむようにして語った。
「アメリアさん、不思議な人だったなあ。僕が失くした自転車の鍵を見付けてくれたり、何も言っていないのに悩んでいること見抜いたり。……昔から、そうだったんですか?」
院長はポケットから木綿のハンカチを取り出すと、額に浮かぶ脂汗を拭った。
湊には他人の嘘が解る。この男の返答がどうであれ、湊は真実だけを拾い上げるだろう。
「あの子は……不思議な力を持っていた」
院長は顔を歪ませた。
膝に置いた拳が震えている。怒りではない。恐怖だ。この男は、何十年も前の少女を未だに恐れている。
「悪い子では無かったよ。規則を破ったことも無いし、揉め事を起こしたことも無い。だが、時々、あの子は人の心が見えているのではないかと。……そう感じることがあった」
院長は俯いていた。
湊はその顔を冷ややかに見詰めている。それはまるで、死刑囚と処刑人のようだった。
院長の懺悔にも似た告白を聞き終えると、湊は無邪気な笑顔を浮かべて席を立った。扉を出る刹那、湊が振り返る。院長は縋るような弱り切った目を向けていた。
「死者は告発することが出来ない。だけど、罪は消えることは無い。貴方が許されたいと思うのなら、死者に認められるように、堂々と生きて行くしかない」
湊は丁寧に頭を下げ、出て行った。
院長は抜け殻のようだった。航が扉を潜ると、先程の青年が驚いたように目を丸めていた。既に庭先へ出て行った湊の背中を見遣り、航も軽く会釈した。
9.生贄
⑵最低な可能性
バイクの元へ辿り着くと、湊が頭を抱えてしゃがみ込んでいた。体調でも悪いのかと心配したが、航が手を伸ばすと湊は力無く笑った。
「ちょっと、気分が悪くなったんだ」
体調ではない。
航は湊の言葉の意味を察して、隣に座った。
畑から流れ込む乾いた土の匂いと、子供達の笑い声。鈍色の空を横切る小鳥の囀り。時間がとてもゆっくりと流れているように感じられた。
「……説明出来るようになったか?」
航が問うと、湊は小さく頷いた。
「アメリアさんは、先天的な超能力者だ。ESPかPKかは解らないけど、もしかしたら、複合的な能力者だったのかも」
航は頷いた。
マダム・マリーの自宅を訪れた時から、湊は何か確信を持っていたようだった。人は確信を持つと反対意見を聞き入れず、都合の良い情報ばかりを集めようとする。それを確証バイアスと呼ぶ。だからこそ、異なる可能性を模索したのだろう。
見て、と言って湊は携帯電話を取り出した。
映っていたのは先程の孤児院で盗み取った書類だ。どうやら、過去の経費帳らしい。あの短時間で撮ったということは、到着する前から確信を持っていたのだろう。
「アメリアさんが施設を出た年に、孤児院には大金が振り込まれている。振り込んだのはロイヤル・バンクの子会社だ」
「子供を売ったっていうのか」
あの時の院長の反応と湊の言葉を思い出す。
ばらばらだった点と点が糸で繋がる。
アメリアは超能力者だった。それに目を付けたルーカス氏は大金を積んで、当時、経営難に陥っていた孤児院から買ったのだ。
最悪だ。アメリアが不幸だったのかはどうかは、今となっては解らない。だが、子供の意思を無視して金で売買した彼等は醜いと思う。反吐が出る。
「どうして、其処まで……」
超能力というものが希少なのは解る。だが、ルーカス氏はアメリアを妻にしている。物珍しさならば、籍を入れずに飼い殺すという選択もある。
航は自分の考えの汚さに愕然とした。酷い自己嫌悪に襲われて言葉を失くしていると、湊が言った。
「俺はね、超能力は人体機能の一つだと考えているんだ。超能力者と呼ばれる人は、脳の発達が常人と違うんだ。容量や脳内物質の量なんかがね」
要約しろ、とは思わなかった。湊は多分、大切なことを語ろうとしている。
「脳に限らず、人体機能は遺伝する。体格や肌の色、病や身体能力。つまり、超能力は遺伝するんだ」
「……ルーカス氏は、超能力者の遺伝子を求めたってことか?」
「八十年代、アメリカは超心理学の軍事的応用について莫大なお金を投資していた。生前のルーカス氏はその後援者の一人だ」
湊は淀みなく語った。
この事実をどうやって調べたのだろう。インターネットの検索エンジンではとても調べられそうも無い。
方法も気になるが、もしかすると、あの気の良い仲間達が関与しているのかも知れないと思った。
「胸糞悪ィけど、それがルーカス氏の自殺と関係あるのか? アメリアの霊が呪い殺したとでも?」
「この前の事件、覚えているだろ?」
問い掛けられ、航は息を呑んだ。
先日のクラブで遭遇した殺人鬼は、超能力者だった。触れるだけで脳を破壊し、人を操って自殺に追い込む。操ることが本当に出来たのか今となっては解らないが、破壊することは恐らく可能だ。
「超能力者がルーカス氏を自殺させた? でも、アメリアは死んでーー」
航は口を覆った。
超能力は遺伝するーー。
湊の語った可能性が、形を成して立ち塞がる。
「娘か」
湊は黙っていた。
ルーカス氏の一人娘。確か、年齢は九歳だ。
そんな子供が、とは思わなかった。心霊写真の時に悪霊となったのは九歳の少女だった。信念を貫くということに、年齢は関係無い。
湊は俯いたまま言った。
「ソフィアの降霊術が成功しない理由を考えていたんだ。マダム・マリーの時には成功したのに、ルーカス氏はファーストコンタクト以来、沈黙している。霊に人格があるとは考え難いけど、ソフィア的に言うなら、ルーカス氏は語るべき言葉を持たなかったから、現れることが出来なかったんじゃないかと思うんだ」
推測だ。だが、辻褄合わせだと跳ね除けるには、余りにも核心を突いているように思う。
ルーカス氏は自殺させられた。それが何故なのか、犯人が誰なのかも解らない。けれど、彼に死ぬ意思は無かった。だから、ソフィアに他殺を告発したーー。
何なんだ、この酷い偶然の一致は。まるで、自分達をこの結論へ導こうとしているかのようじゃないか。
「動機は? 娘が超能力者だったとして、どうして実の父親を殺すんだ?」
母親の恨みを晴らそうとでも?
航は両手を握った。
殺人犯の心理なんて航には解らない。衝動的な殺人も事故も未必の故意もあるだろう。だが、少なくとも湊の仮説の通りならば、犯人は明確な殺意を持ってその手を下している。
ルーカス氏はやり手の銀行マンで、敵も多かった。しかし、愛妻家として有名だったという。例え、彼が妻を娶る為に強引な手段を使ったとしても、殺される程に恨まれるものなのだろうか。
ああ、だからか。
航は唐突に理解した。湊は誰かに会いたがっていた。それはきっと、ルーカス氏の娘だ。会って確かめたかったのだ。湊には、他人の嘘が解るから。
「妻や娘についての情報は殆ど無い。娘に至っては、顔も名前も解らない」
娘は九歳だ。それが出回るようなら世も末だ。
「一般人の俺では、アポを取ることも難しい」
「家の前まで行って、どうする気だったんだよ」
「ソフィアがいただろ」
此処でどうしてソフィアの名が出るのだ。
航の疑問の答えを、湊はあっさりと提示した。
「ソフィアは米国の超心理学会では有名な霊能者だ。秘書ならルーカス氏が超心理学に傾倒していたことを知っている筈だ。通してくれた可能性は高い」
つまり、湊はソフィアを水戸黄門の印籠代わりにするつもりだったのだ。
「まだ不明な点はある。葵君も言っていたけど、自殺に使われた睡眠薬の瓶が見付かっていない」
そういえば、そうだった。
湊の仮説が衝撃的だったので、完全に抜け落ちていた。
「超能力が対象の脳に影響を与えるなら、睡眠薬は必要無かった。そして、それを持ち出す理由もね」
「それは、そうだな」
「微々たる問題ではあるけれど、不明な点をそのままには出来ないよ。俺達がまずやらなきゃいけないのは、その睡眠薬の瓶の所在を確かめることだ」
あれから随分と日が経っている。処分されている可能性は高い。だが、確かめなければならないのだ。それによって、他殺なのか自殺なのか、犯人が誰なのかが変わって来る。
「どうやって探すんだ?」
「ソフィアに期待していたんだけど、今はまだ難しいね」
湊はソフィアの霊能力をESPーーサイコメトリーと考えているらしかった。彼女は物体や空間に残る死者の思念を読み取る。だから、同じ状況を辿ることで何かしらの手掛かりを掴めるのではないかと踏んだらしい。
湊が言った。
「全ての不可能を除外して最後に残ったものが如何に奇妙なことであってもそれが真実となる」
「シャーロック・ホームズか」
「うん。俺は真実に行き着くまで、抗うことは止めない」
この最低な仮定を裏切る、優しい真実が証明されることを切に願う。湊はそう言って膝を抱えた。
最低な可能性ーー。
そうだろう。誰も救われない悲しい可能性だ。この答えは、両親を亡くした一人の少女を告発する。事情はどうあれ、その子の未来を思えば、余りに残酷な選択だった。確証の無いことは語らないと宣言する湊が敢えて口にした意味を理解出来ない航ではない。
葵君。
航は忌々しく思った。
舌打ちを漏らし、航は湊の腕を引っ張った。蹲る湊を強引に立たせて、ヘルメットを被せる。
「まだ仮説だ。真実じゃない。全部、葵君に話すぞ。その後のことは、警察に任せよう」
「ああ」
立ち上がった湊は、背筋を伸ばして前を見据えていた。




