⑹優しい刃
事情聴取の為に警察署へ連れて行かれ、解放されたのは午後十時。航と湊は未成年だったので早かったが、他の面々は警察署で一泊したらしかった。
解放されたという連絡を受け、湊を連れてライリーの家へ向かった。ゾーイ、リュウ、ホセは既に集合していた。
目の下に隈を作ったライリーが、のんびりと言った。
「神木さん。丸くなったね」
どうやら、彼等と葵君は知己であるらしい。その経緯も気になるが、どうせ碌なことじゃない。
リュウが車で仮眠すると言うので、心配した湊が付いて行った。航はスツールに腰掛け、微睡む面々を見下ろしていた。
そういえばさ。
ライリーが言った。
「ホセ。お前の熱烈な告白、インカムに入ってたぞ」
ホセは困ったように笑った。
「本人に聞かれたくないだろうと思って、気を逸らすの大変だったんだぞ」
ホセは目を伏せた。
航は、彼がそれを想定していたかのように見えた。
「聞かれても良かったよ」
ホセが苦笑すると、ライリーが小さく舌打ちした。
地べたから立ち上がると、ライリーはホセの胸に向けて軽く拳を当てた。
「そう思うなら、顔を見て直接言え。狡いことすんな」
ライリーは肩を怒らせて、元の場所へ戻った。
ホセの寂しげな微笑みが、やけに目に付いた。
ホセの想いは、この場にいる誰もが知っていたらしい。もしかしたら、リュウもそうなのかも知れない。ライリーがこの話をすると解ったから、湊を連れて行ったのではないか。航はそんな風に思った。
航は兎も角、皆は疲れているようだった。ライリーが人数分の寝袋を引っ張り出して来ると、慣れた手付きでそれぞれ中へ収まった。中々シュールな光景だ。
微睡んだ声で、ホセが言った。
「俺が初めてカミングアウトした相手は、両親だったんだ。大学に入る前、堪え切れなくなってね。父親は激怒して、母親は大号泣。……生まれて初めて、タイムマシンが欲しいと思った」
ホセの声は、静かなリビングにそっと響いた。
「それから、勘当されて、今は絶縁状態。あの時は荒れたなぁ」
ホセは明るく話すけれど、誰も笑うことは出来なかった。辛くて苦しくて、堪えられなくて。藁にも縋る思いで伸ばした手を、他でも無い家族に拒まれる。自分なら、堪えられただろうか。
それって大変?
嘗て、湊はそう問い掛けた。馬鹿なことを。大変じゃない訳が無いだろう。本当に、人の痛みが解らない奴だ。
でも、ホセはそんな湊に救われたのだと言う。
家族にすら拒まれた助けを求める手を、湊は何でもないみたいに掴んでくれる。
大したことじゃないよ。
君に会えて良かったよ、と。当たり前のことみたいに。
湊のデリカシーの無さも、偶に役に立つらしい。
「脛に傷の無い奴なんていねぇよ」
ライリーが吐き捨てるみたいに言った。
「お前が辛かったことも解るけどな、だからって湊にそれを背負わせて良い訳じゃねぇ。ただでさえ、要らんこと背負い込む面倒な性格なんだ。可哀想だろ」
子供のように拗ねるライリーを、ゾーイが宥める。
彼等はきっと、ライリーの言葉の通り、傷を持っているのだろう。だから、他人の痛みが解るし、優しくすることが出来る。生い立ちへの同情はせず、彼等は前を向いて、今を生きている。
「なあ」
航はスツールの上に膝を立てた。
床に転がる三つの寝袋を見下ろして、芋虫みたいだな、と失礼なことを考えた。
「湊のこと聞かせてくれよ。あいつ、あんまり自分のこと話さないから」
ライリーは小難しい顔をした。
「湊が話さないなら、俺も話せねぇ。でも、俺達のことなら、話してやる」
そう言って、ライリーは寝袋から抜け出した。
枕元に置いていた携帯電話を手に取って、幾つかの写真を見せてくれた。
「これは、ホセと湊の試合を応援に行った時。これは、研究室で人造人間を作った時。これは、ゾーイの失恋を慰める会……」
ディスプレイに映る写真は、どれも航の知らないものだった。双子の兄の日常を垣間見て、むず痒いような不可思議な気分だった。
湊は笑っていた。入学したばかりの頃は嘘臭い笑顔だったが、それが次第に本物に変わって行くのが面白かった。
本当に良い仲間と巡り合ったのだろう。リュウと、ゾーイと、ホセと、ライリーと。
夏のキャンプの写真が映った。深緑の大きなテントと森を背景に、六人の男女がいる。戦隊ヒーローのように格好付けている五人を、リュウが冷ややかに見遣るというネタみたいな写真だった。
航は見覚えの無い人物を捉え、問い掛けた。
湊の横、ブルネットの女性が笑っている。
「この人は?」
航が問い掛けると、ライリーの顔が曇った。
室内に妙な沈黙が訪れて、自分がまずいことを訊いてしまったのだと即座に悟った。
黙り込んだライリーに代わり、ゾーイが言った。
「私達の仲間よ。名前はオリビア・スチュアート」
「……今は何処に」
「亡くなったわ。去年の夏の終わりに」
悪いことを訊いてしまった。謝罪するべきかとも思ったが、そんな義理も無いので黙っていた。
気まずさを誤魔化すように、ライリーは他の写真も見せてくれた。
トロフィーを片手に満面の笑みを見せるホセと、汗だくで朦朧とする湊。大きくなった焚火に驚くリュウとゾーイ。机に向かうライリーの背中。雑多な研究室。
そして、一枚の写真が映った時、航は息を呑んだ。
病室の写真だった。
白いベッドを囲むように、リュウとゾーイ、ホセ、ライリーが立っている。その中央、ベッドで半身を起こしているのは、湊だった。
頭には包帯、頬にはガーゼ。片手は釣られていて、眼窩が落ち窪んだような酷い隈がある。それでも笑みを見せているが、航には、それが偽物だと解った。
「何なんだよ、この怪我」
航が零すと、ライリーが驚いたように声を上げた。
「聞いてないのか? ……ああ。だから、一度も見舞いに来なかったのか」
ライリーは勝手に納得したようだったが、航は追求した。どう見ても大怪我だ。こんなの聞いていない。きっと、母も知らない。
では、父は?
航が問うより早く、ゾーイが言った。
「お父様はいらしていたわ。きっと、それ以外の人には秘密にしていたのね」
何だ、そりゃ。
何で。
二の句が告げないまま、航が写真を凝視した。
心霊現象の調査で怪我をした。湊は以前、言っていた。危険は付き物だと言うけれど、こんな大怪我は想像もしていなかった。
ベッドの側には心電図のモニターや、人工呼吸器がある。此処はICUか?
彼等はきっと口を噤む。航にはそんな予感があった。だが、逃すつもりも無かった。
「訊きたいことは、まだある。ーーSLCって、何のことなんだ?」
航がその言葉を口にした瞬間、空気が凍り付いた。
絶対、逃がさない。航は追求する。
「まさか、この怪我と関係あんのか?」
「俺達には、言えない。知りたいなら、湊に訊け」
ライリーは顔を歪めて言った。
口止めされている風ではない。彼等は知らなかったのだ。湊が黙っていたこと、航が単語を知っていたこと。そして、沈黙を貫く湊の意思を尊重している。口を割らせることは難しいだろう。
湊は外の車だ。
航は舌打ちして、家を飛び出した。
8.愉快な仲間達
⑹優しい刃
リュウのボックスカーは快適だ。通信機器の類が揃っているし、広い。後部座席を倒せば、足を伸ばして二回くらい寝返りが打てる。
寝そべったままノートパソコンを弄っていると、運転席でリュウが言った。
「SLCに動きがありましたよ」
湊は頷いた。
知っている。SLCの動向は、ずっと警戒していた。湊はノートパソコンにデータを映し、スペイン語の記事を流し見る。
「科学の力で、悪魔祓いに成功したってさ」
「其方ではありません」
「解ってるよ」
湊は苦笑し、キーボードへ手を伸ばした。
表向きの公式サイトとは違う、一部の会員にのみ許された秘匿性の高い裏サイト。不規則に変わるパスワードを打ち込むと、画面一杯に真っ赤な動画が映った。
一言で表すなら、それはスプラッタである。サタン崇拝者のサバトを連想させる凄まじい光景であった。
喪服を纏った教祖らしき人物が、台の上に拘束された少年を鋏で滅多刺しにしている。生贄の臓物を引き摺り出し、カメラレンズが曇る程の血飛沫が迸る。
脳が痺れるような不快感を覚えた。この映像は、作り物ではない。本物なのだ。カメラの前で、生きた人間が内臓を引き摺り出されている。
取り囲む大勢の人々が、狂喜し雄叫びを上げる。ミュートでありながら、熱狂した彼等の興奮が聞こえるようだった。
人々は頭から黒い布を被り、顔どころか体格や性別に至る全ての情報が隠されている。滅多刺しになった被害者の身元も、場所も特定不可能だ。
血塗れのナイフが鈍く光り、切っ先が少年の胸元を撫でる。少年は俎板の上を悶える魚のように痙攣し、その度に血飛沫が画面を汚した。教祖と思しき男が内部に手を突っ込む。網目状の血管と共に脈打つ心臓が引き摺り出されると、会場の興奮は最高潮に達し、会員達が我先にと生贄へ手を伸ばした。
傷口を素手で引き裂き、内臓を引き摺り出し、生き血を浴びて、眼球に鋏を突き立てる。少年はもう動かなかった。それが良かったのか、そうでなかったのかすら解らなかった。
両目が熱い。食道を逆流した胃液が喉の奥に張り付き、湊は必死に奥歯を食いしばった。
「被害者は、十七歳の男の子です。……あからさまですね」
リュウが言った。
唇が激怒に震えた。頭の中が真っ赤になって、思考することが困難だった。狂気に染まった饗宴を、食い入るように凝視する。目を逸らすことは出来なかった。
この少年は、自分の身代わりになったのだ。
少年の最期を網膜に焼き付ける。この絶叫を、悲劇を、狂気を忘れてはならない。自分の行為による結果から目を背けてはならない。
じくじくと、頭が痛む。鉄の箍が嵌められているようだ。画面越しにも感じられる激痛と憤怒が、頭の中を塗り潰して行く。
親父。
堪らなくなって、湊は口の中で父を呼んだ。
主義主張の異なる人々が共通の目標を持ち、足並みを揃える未来はまだ遥かに遠いだろう。父の掲げた理想は机上の空論でしか有り得ない。
だけど、歩みを止めない限り、遠去かりはしない。
「航には、話したんですか?」
航。その名を聞いた瞬間、怒りの波が引いて行く。
リュウは前を向いたままだった。フロントミラー越しに目が合う。湊は鼻を啜ると、履歴を消去し、ノートパソコンを閉じた。
沈黙の意味を理解したリュウが、溜息混じりに苦言を呈す。
「航は傷付きますよ」
「ああ」
「……そのプライドは、何の為ですか」
湊は笑った。
何の為かなんて、問われるまでも無い。
「全部、俺の為だよ」
こんなものは崇高な自己犠牲精神でもない、ただのエゴだ。傷も罪も、全部一人で背負う。それが誰かを傷付けるのならば、その苦しみも共に。
「俺はヒーローなんかじゃない」
湊が呟いた、その時。
防弾処理された車の窓が強く叩かれた。顔を上げる。航がいた。
眦を釣り上げて、眉間に皺を寄せ、口元は何かを堪えるように真一文字に結ばれていた。燃え盛るような激しい怒りが、硝子越しに伝わって来る。
さて、どうしようか。
航の手にした情報は何だ?
オリビアのことか?
SLCのことか?
それとも、半年前の入院のことか?
躱す用意はあった。航が追求出来ない論理も、遠去ける理屈もある。けれど、その全てが無意味であることも、湊は知っている。
真実を知ろうとする人の意志を止めることは出来ない。自分がそうであったように。
激しく窓が叩かれる。リュウが溜息と共に窓を開けると、途端に腕が伸びて、湊の胸倉を掴み掛かった。抵抗するつもりは無かった。
「お前に訊きたいことがある」
湊は笑った。
大人になったな、と思った。昔の航なら、問答無用で殴って来ただろう。そして、それを出来なかったことが、航の最大の敗因だ。
「俺に答えられる範囲なら」
「……開けろ」
恫喝され、リュウは渋々と扉を解錠した。
航が隣に詰めて来る。温かかった。バスケで鍛えて来た航は体温が高い。筋肉は熱いのだ。
小さく深呼吸して、航は切り出した。
「去年の夏、大怪我で入院したのか」
「ああ。……前に言っただろ。幽霊屋敷の調査で、ポルターガイストに巻き込まれたって」
航は何も言わなかった。
嘘だと思ったか、信じたか。何れにせよ、湊にはその反応で航が大した情報を得ていないことを理解した。
嘘は真実に紛れさせる。湊は嘘の吐き方も、見破り方も心得ていた。
「お前の仲間の一人が、亡くなったんだろ。何で?」
オリビアのことも知っているのか。
気の良い仲間達の顔が思い浮かび、湊は苦く笑った。
「詳しくは知らない。病院からは、心不全とだけ」
「心不全は心臓が停止した状態のことで、厳密には死因ではない。……お前が言っていたことだ」
「遺族でもない俺達には、詳細は知らされない。当たり前だろ」
航は黙っていた。此処で引くとは思わない。
さあ、次は何を問う?
答えは既に用意している。凡ゆる可能性に備えて、万全に備えて来た。微笑む余裕すらあった。ーーけれど、航は追求しなかった。
俄かに驚いていると、航は顔を歪めた。
「納得したんじゃねぇ。お前は何を訊かれても白状しない。そういう奴だ」
航の目には研ぎ澄まされた刃のような鋭利な光があった。ぞくりと、背筋に冷たいものが走る。
「いいか。俺はお前を殴っても、そのパソコンを奪っても良かったんだ。でも、お前を信じるから、訊かない」
目に見えない刃が、喉元に触れている。
湊は息が出来なかった。
「俺の信頼を、裏切るんじゃねぇぞ」
ーー脅しというならば、きっと、これ以上のものは無かった。
航は苛立ちを隠しもせず、勢いよく扉を開けると、大袈裟に音を立てて閉めた。肩を怒らせて、地面を踏み鳴らしながら家屋へ向かって歩いて行く。
呆然とした。それは果たしてどのくらいの時間だったのか。運転席から声を押し殺したような笑い声が聞こえて、湊ははっとした。
「彼を見縊らない方が良いのでは?」
「俺が航を見縊ったことなんて、一度も無いよ」
「それなら、思い上がっているのでしょう。己の半身を相手に、隠し通せると思っているのですから」
「隠し通せるとは思っていない。いつかは暴露る。でも、今はその時じゃない」
リュウは息を零すように笑った。
「航がその時まで待ってくれるとでも?」
「さあね。でも、その時の為に腹は括っておくよ」
携帯が震えた。
取り出すと、葵君からメッセージが届いていた。
あの男は死んだらしい。
場所は拘置状で、取り調べの最中に突然口から泡を吹いて倒れたという。検死した結果、口内に仕込んだシアン化カリウムによる服毒自殺であると判明した。この毒は青酸カリとも呼ばれ、成人男性であれば150〜300mgで死に至らしめる。
恐らく、犯人は逮捕されることを想定していたのだ。
報告をしてくれた葵君の胸中を思うと、何と返信したら良いのか解らなかった。犯人を逮捕しながらも、真相を語らせることも無く、裁判にも掛けられず、罪を償わせることも出来なかった葵君の屈辱を思うと、胸が抉られるように痛む。
被害者家族は、この事実をどのように受け止めるのだろう。そして、葵君はどんな思いでそれを被害者家族に打ち明けるのだろう。
自分に何か出来ただろうか。犯行手口に気付いた時、犯人がまともな人間ではないことも解っていた。しかも、犯人は口内に致死量の毒を含みながら犯行に及んでいたのだ。狂っているとしか言いようが無い。
仕方が無かっただなんて割り切れない。自分はあの狂った犯人を捕まえたかった。それは、もう二度と犯人に人を殺させてなるものかと思ったからだ。
草叢に横たわった青年の暗い目が無念だと訴えて来る。悔しくて堪らない。無意識に握っていた拳が軋み、爪が掌に食い込む。湊は拳で膝を叩き、大きく深呼吸をした。
教えてくれてありがとう。
当たり障りの無いメッセージを打ち込みながら、湊は遣り切れない虚しさを噛み砕く。
「リュウ」
呼び掛けると、リュウが振り向いた。
切れ長な目の奥に、柔らかな光がある。
「お前は、俺の友達でいてくれよ」
何処にも行かないでくれ。
懇願のような言葉に、リュウは目を丸めて、笑った。
「いいですよ」
息を零すように告げられるその言葉に、強張っていた肩の力が抜ける。湊は深呼吸した。
生贄となった少年が、雄叫びを上げる男が、ブルネットの後ろ姿が、此方をじっと睨んでいる。
こんな自己満足の妄想で楽になろうだなんて虫の良い話だ。湊は自虐的な気分のまま、喉を鳴らして笑った。