⑷作戦会議
双子の消えたリビングで、葵は深く溜息を吐いた。
先程の航の言葉に、頭を殴られたようだった。
湊は親父じゃねーぞ。
その通りだった。返す言葉も無い。確かに自分は、湊と彼等の父を重ね見ていた。
葵と彼等の父ーー和輝の関係性は説明が難しい。精神病患者と担当医という間柄だったのだが、其処に行き着くまで信じ難い事件や出来事が沢山あった。和輝が結婚する前にはルームシェアをしていたこともあるし、天涯孤独の葵にとっては、最も身近な人間である。
和輝はMSFにて、中東の紛争地で医療援助を行っている。通常の活動地とは異なる戦場の最前線だ。いつ死んでもおかしくない。彼の家族は、その覚悟をしている。
数年前、彼の活動拠点が空爆されたことがあった。和輝を含む団員は被爆し、全滅した。突然の訃報に世界が戦慄した。
その頃の家族は正直、見ていられなかった。
妻である奈々は憔悴し、そして、十歳だった双子は、父を探す為に家を飛び出した。そのまま一年間、行方不明になったのだ。
葵は、自分の無力さを恥じた。
和輝のいない世界で、彼等の一番近くにいたのは葵だった。自分が支えてやらなければならなかった。
双子は一年間の家出の後にひょっこり戻って来た。当然、父の死に納得している訳も無く。
その後、和輝は生きていたことが発覚するのだが、楽観的に受け入れることは出来なかった。父に抱き付く双子は泣いていた。湊と航が泣いている姿を見るのは、それが初めてだった。
その時になって、湊と航が、小さな胸にどれだけの感情を抱え、堪えて来たのかを悟った。人前では涙一つ見せない気丈な彼等が、まるで在りし日の和輝を見ているようで切なかった。
湊は父親にそっくりだった。
嘘を見抜く能力や、偏見の無さ、妥協を許さず立ち止まらない行動力は瓜二つだ。だから、いつから湊が和輝と同じ道を辿ってしまいそうで、恐ろしかった。
「……子供って、親が思うよりも、願うよりもずっと早く大きくなるのよね」
デカフェのコーヒーを差し出して、奈々が言った。
リビングには葵と奈々、ゾーイの三人きりだった。時折爆ぜる薪の音ばかりが大きく聞こえた。
「もう何も出来なかった赤ちゃんじゃない。自分の考えがあって、それを達成する為の力もある」
「……」
「あの子達がすごいのは解ってるわ。だって、私と和輝の息子よ? でもね、だから心配しなくて良いかって言うと、それはまた別の話」
奈々の言うことはよく解る。
彼等の教育方針はどちらかと言うと放任的で、息子達の身に降り掛かる凡ゆる困難を見守って来た。良いことも悪いことも、長所も短所も彼等自身に決めて欲しい。息子達が歩む道を親が決めてはいけない。そう言って。
見守るということは、何もしないということではない。彼等が困難に立ち向かう時には背中を押し、助けを求める時には手を差し出す。臍を噛むような焦燥に苛まれながら、二人の人格を育てて来た。
葵には、その教育方針についてとやかく言う権利は無い。
奈々は疲労を乗せて、溜息を吐いた。
「時々、あの子達の決意を、何処まで見守って良いのか迷う。和輝は、口を出すのは悪いことじゃないって言うけど、自分は何も言わないからね」
「そうだろうな」
此処にいない友人の顔を思い浮かべ、葵は苦笑した。
「あの子達、和輝には何でも言うのに、私には何も言わないのよ? 一番近くにいるのに、嫌になっちゃう」
「それは、お母様が大切だからでは?」
それまで黙っていたゾーイが言った。
葵は、自分には言えない言葉だと思った。思っていても、解っていても、言えない。
「思春期なのよね、きっと」
奈々はそんな風に言って、話を切り上げた。
キッチンへ行くと三人分のマグカップを用意して、ゾーイに届けるように頼んだ。引き際を心得た賢い母だ。彼女の存在が、どれだけあの二人を支え、守って来ただろう。そして、あの二人も痛い程にそれを解っている。
悪いことをしたな、と思う。
母が大切だからこそ、湊は反論出来なかった。航はそれを知っていたから、怒ったのだ。葵の言葉は、無抵抗の湊を痛め付けているように感じただろう。
幼い頃に戻ったようだ。
幼少期、航は湊を庇って喧嘩ばかりしていた。あの二人が本当に怒るのは、片割れを馬鹿にされた時なのだ。航の地雷を踏んだことを悟り、苦い後悔を噛み締めた。
8.愉快な仲間達
⑷作戦会議
母に一枚の置き手紙を残して、家を出た。
暗くなる前に帰宅するつもりだったので、詳細は記さなかった。航はいつものようにバイクの後部座席に湊を乗せて、朝焼けの空の下をぐんぐん走った。
湊のナビに従って到着したのは、町外れの小さな家だった。物置小屋のような質素で雑多な印象に、酷い肩透かしを食らった心地だった。
ライリーという湊の友人の家らしい。機械工学を専攻しているエリートだと言うので、どんなハイテクな家に住んでいるのかとわくわくしていたのだ。
しかし、砂利道を抜けた玄関に行き着いた時、不釣り合いな最新式のカメラ付きインターホンが設置されていたので驚いた。ベニヤ板のような玄関扉は巧妙に隠されているが鋼鉄製で、庭には赤外線が張り巡らせてある。
まるでスパイ映画のようだ。
インターホン越しに応答する湊と家主を横目に、航は心を踊らせた。
扉の向こうから現れたのは、如何にもオタクという、ナードの象徴にも似た色白の青年だった。光合成が足りていないのか、肌はモヤシのように白い。湊が鍛えられたスポーツマンに見えるくらい、その青年は貧弱を絵に描いたような風体だった。
寝癖の残った頭と野暮ったい眼鏡。ダサいスウェットとサンダル。同じ空間にいても話し掛けはしないだろう人種だ。湊が紹介するので会釈で応えたが、青年は無感情の目を向けると、後は何も言わなかった。
部屋の中へ促され、航は慌てて後を追った。玄関から続く廊下とリビングは、外観からは想像も付かなかったが、広く整然としていた。いっそ生活感が無いくらいだった。
リビングにはゾーイとホセ、リュウの三人が車座になっていた。床にはスナック菓子やアルコールの瓶が並び、宴会のようだ。
此処に来た目的を忘れそうだ。航は頭を掻いた。
「クラブの監視カメラをハッキングしといたぜ」
ライリーはホセの隣に座り、ビールを呷った。
部屋の隅に放置されたスツールを引き寄せた湊が「どうだった?」と問い掛ける。押し付けるように促され、航は腰を下ろした。他人の家の床に座るのは、抵抗があった。
ぐいぐいと背中を押されたので、少しだけ詰めてやった。背中合わせに湊が座る。ゾーイが楽しそうに笑っていた。
ライリーは自室らしい奥の部屋からノートパソコンを持って来た。キーボードを叩くと、薄暗い映像が映る。あのクラブの内部だとすぐに解った。
湊から未開封のミネラルウォーターを差し出され、航は受け取る。キャップを回して開け、湊へ返した。そのまま湊が一口飲み下し、返して来た。単純に、他人の家の飲み物が好きじゃないのだ。マダム・マリーの家でも湊が毒味をするまで口にすることは出来なかった。
ゾーイが生暖かい目を向けて来るので腹の座りが悪い。航は無視して、ミネラルウォーターを飲み込んだ。
「流石にトイレは監視カメラも無かった。でもまあ、入口の映像はあるから、顔さえ解ってるなら探せるだろ」
「顔、解ってるんですか?」
リュウが問い掛ける。湊は照れ笑いを浮かべて頭を掻いた。
ライリーが溜息を吐いて、部屋の中からもう一脚のスツールを引っ張って来た。湊が移動して、カメラ映像を眺める。
「声は解る。あと、手の大きさとか、体臭とか」
「そんなもん、監視カメラに映らねぇんだよ」
ライリーが舌打ちする。尤もだ。
それより、ホセの笑顔が怖い。航は見ない振りをしてもう一口、ミネラルウオーターを呷った。
ライリーは映像を流し見しながら言った。
「湊がもう一回偵察に行った方が確実じゃねぇの? お前なら、催眠術の類には耐性があるし」
「確実とは思うけど、葵君と危ないことはしないって約束してる」
「あの人、怖ぇんだよな」
ライリーが笑った。
やっていることは悪質な犯罪なのだが、無邪気な笑顔は悪戯小僧といった調子で、どうにも憎めない。
「声を覚えているなら、口調や癖は解りませんか? それで調査範囲を絞れるかも知れません」
「会話した訳じゃないんだよ。腕を引っ張られて、頭を押さえ付けられて、突き飛ばした時に小さく呻いた声を聞いただけなんだ」
「やっぱり、付いて行くべきでした……」
リュウが項垂れる。航も同感だった。
ねぇ。
ゾーイが携帯を睨んで言った。
「もう一人、被害者が出たわよ。……今度は未成年。犯行時刻は昨日の夜、十一時」
「俺達が帰った後だ」
ホセが目を丸めた。
自分達が帰った後ということは、犯人は、湊を取り逃がして、別の獲物を探したのだ。しかも、腹癒せのように、未成年を。
リビングに沈黙が落ちた。同情や悔恨ではない。これは怒りだ。湊が黙っているので、航はその肩を押した。
「お前のせいじゃねぇ」
「解ってる」
殺された未成年には悪いが、航は、湊じゃなくて良かったと思った。あの時、逃げられなければ、殺されていたのは湊だったのだ。
「ねぇ、思い出したんだけど。俺が逃げる時、トイレで抱き合っている男の人がいたんだ。もしかしたら、犯人の顔を見ているかも知れない」
そういえば、そんなことを言っていたな。
ゲイ専門のクラブなのだから仕方が無いのだが、自分ならトラウマになっていたと思う。
「その二人の顔なら解る」
「まどろっこしいな。さっさとしねぇと、次の被害者が出るぞ」
ライリーが爪を噛む。
そうだ。行動範囲の狭いシリアルキラーは、捕まるまでどんどん殺す。 明日は我が身だ。だが、それよりも、もっと恐ろしい予感があった。
「これから狙われるのは、未成年でしょうね。獲物を取り逃がして、犯人のプライドは傷付けられた。屈辱を晴らす為に同じような獲物を探し、成功体験を重ねようとするでしょう」
「でも、それは満たされない」
ホセが言った。
航にも、その先が解った。
「犯人の屈辱は、湊を殺すまで晴らされない」
航は舌打ちした。
彼等は科学者だ。真実だけを語っている。湊が罪悪感を抱くとは思わないが、危険を冒す理由が出来てしまう。
俺が。
湊が口を開く。航はそれを遮った。
「俺が行く」
口にした時、五人分の視線が集まった。
航は居心地の悪さを唾と一緒に呑み込んだ。
「狙われると解っていて、湊を送り出す道理は無ぇ。さっさとしないと、次の被害者が出る。手っ取り早いのは、囮捜査なんだろ? この中にゲイ受けする未成年が他にいるのかよ」
「でも、危険なのよ」
「湊が出るよりマシだ」
航は言い切った。此処で自分が名乗り出なければ、いずれ湊はあのクラブに出向いたのだろう。一度逃げられたからと言って、次も成功するとは限らない。むしろ、犯人は失敗の経験から万全を期して狩りに臨むだろう。初対面の航なら、油断するかも知れない。
それに。
葵君に一方的に叱られて、一言も言い返せなくて。殆ど脅し付けられるようにして交わした約束を、律儀に守ろうとする湊の誠実さを無駄にしたくなかった。
湊は何かを言いたげにしていたが、睨み付けて黙らせた。ゾーイはぐっと口元を結び、観念したように言った。
「……二手に分かれましょう。湊とライリーは、監視カメラ映像から犯人と、昨日見たっていう二人組を探して」
「解った」
「他は航の護衛と犯人の追跡。私はクラブに入れないから、地上で指示を出すわ」
「ああ」
その時、リュウが手を挙げた。
「僕が車を出します。湊とライリーはその中で調査を進めて下さい」
「こいつを現場まで連れて行くメリットが無いだろ」
航が言うと、リュウは嫌そうに眉を寄せた。
「貴方に何かあったら、湊は飛び出しますよ。その時、どんな行動を起こすのか予想出来ますか?」
「……」
「作戦内容を考えると、目を離すべきじゃない」
信用無いな、と湊とライリーが顔を見合わせて笑った。確かに、ライリーが衝動的に飛び出す湊を止めるのは難しいだろう。
「僕も車に残ります。ライリーやゾーイを残して行くのは不安です。いざとなったら助けに行くので、其処は安心して下さい」
「……」
航はリュウを睨んだ。
解ってはいたが、リュウは自分に対して非好意的だ。別に好かれたい訳ではないので、棘のある言動をどうとも思わないが、遣り難さは感じる。
航が黙っていると、無言で湊が詰め寄った。
「信じてるからな、リュウ」
「……大丈夫ですよ」
湊はその言葉を聞くと、ぎゅっと眉を寄せて頷いた。




