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ハロー、マイヒーロー!  作者: 宝積 佐知
8.愉快な仲間達
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⑶意地

 下品な電飾に彩られたバーカウンターで、ホセがグラスを揺らしている。絵になる男だな、と思った。


 当然、航はゲイではない。性的対象は異性であるし、そういう指向の人に対してはどちらかと言うと嫌悪感を抱いてしまう。偏見の無い湊が素晴らしい人格者とは思わないが、比較すると自分が悪い人間に思えてしまう。




「湊は、昔からあんな感じなの?」




 ダンスフロアの喧騒の中、ホセが柔和に微笑んだ。


 あんな感じとは?

 航が問い掛けると、ホセが薄く笑ったまま答えた。




「失踪した男も、死んだ男も、ゲイだった。警察の捜査が打ち切られた理由がそれとは思わないけど、一因ではあるだろう。死んだ男は違法薬物の売買で逮捕されたこともあるし、社会的には落伍者だ」

「……」

「でも、湊は全然気にしないだろ。その人の性的指向もバックボーンも取っ払って、ありのままを受け入れる。そうじゃなきゃ、苦しかっただろうなんて言葉は出て来ないと思うんだ」




 航は迷った。

 湊の偏見の無さは、他人への興味の無さだ。その個人に対する関心が薄く、殆どの人間は研究対象としか見えていないのだと思う。


 しかし、それを敢えて航が否定する理由は無かった。人は見たいように見て、聞きたいように聞く。誤解され易い湊を、好意的に評価してくれるホセを遠去ける必要も無い。


 ホセはグラスを眺めながら、何処か遠い眼差しをしていた。




「湊が研究室に来た時、すごく綺麗な子だと思った。でも、よく笑う割に誰にも心を許さない感じがして、何となく不気味に見えた」




 喧騒が遠去かる。

 航は自分の知らない兄の話を、じっと聞いていた。




「去年の春、大学の前で交通事故が遭ったんだ。信号無視の学生を避けようとして、乗用車が歩道に突っ込んだ。その場に居合わせた湊は、歩道にいた学生を庇ったんだよね。お蔭で学生は無傷だったんだけど、乗用車の方はそうはいかなかった」




 出会いと別れの季節。浮き足立つ学生。

 悲鳴のような急ブレーキと衝突の轟音。蒼穹に上がる黒煙が、眼に浮かぶようだった。




「乗用車は大破したけど、運転席の女性は擦り傷で済んだ。でも、助手席のお婆さんは、フロントガラスに頭部を打ち付けて昏睡状態になった」




 蜘蛛の巣状に割れるフロントガラス。車から這い出る女性と、動かない血塗れの老婆。それを歩道から見た湊が何をしたのかなんて考えるまでも無い。




「今にも爆破炎上しそうな乗用車に駆け寄って、湊はお婆さんを助け出した。その時点で意識は無かったらしい。救急搬送されるお婆さんを見詰めていた湊の横顔が、目に焼き付いてる」




 悔しかっただろうな、と思った。自分なら、堪らなく悔しい。何でもかんでも救えるとは思わないが、目の前で取り零す虚しさに遣り切れなくなる。




「それから、湊は暇を見付けてはお婆さんのお見舞いに行くようになった。俺やゾーイも送迎したよ」

「……」

「事故から三週間、お婆さんは奇跡的に意識を取り戻した。でもね、湊、見舞いに来てたこと、言わなかったんだよ。顔も見せずに花だけ置いて帰ったんだ」




 言えばいいのに。

 ホセはそう言うけれど、航には湊の気持ちが解る。

 言えないだろう。だって、湊はその老婆を救えなかったのだ。




「研究室に帰って来てから、湊が初めて君の話をしたよ。机に向かって、ぽつぽつと、独り言みたいにね」




 何の話をしたのだろう。

 どうやら兄は、自分のいないところで自分の話を口にすることが多いらしい。湊に限って悪口を言うとは思えないが、気恥ずかしかった。




「お婆さんの意識が戻って、嬉しかったんだろうね。時々、思い出したみたいに小さく笑うのが、すごく可愛かった」

「……アンタは」




 航が口を開いた時、肩を叩かれた。

 振り返ると湊が立っていた。満員電車で揉みくちゃにされたみたいに衣服も髪型も崩れていたので、航は嫌な予感がした。


 航が問い詰めようとすると、ホセが勢いよく立ち上がった。




「何があった」




 それまで柔和に笑っていた男と同一人物とは思えない、恫喝するような低い声だった。

 湊は崩れた髪を掻き上げて、別に、と鼻を鳴らした。


 ほら、とミネラルウオーターのペットボトルを手渡される。航はそれを受け取り、キャップを回した。

 何か言いたげなホセを制して、ペットボトルを返す。




「頭が痛いから、帰りたいな。出直したい」




 一口飲み下し、湊が言う。

 航は席を立った。








 8.愉快な仲間達

 ⑶意地








 ゾーイの車で自宅へ戻ると、湊はトイレに直行した。

 そのまま喉の奥に指を突っ込んで、げえげえと吐き始めたので航は背中を摩ってやった。


 痙攣みたいに震える背中が可哀想だった。リビングから顔を覗かせた母が心配そうに見ている。ホセは、寒気がする程の怒気を滲ませていた。


 一頻り吐き切ると、湊は血色の悪い顔で笑った。飲みかけだったミネラルウォーターを差し出すと、一気に呷る。飲み下す度に喉元が上下し、冷や汗が伝って落ちた。




「何に首を突っ込んでいるんだ?」




 ぐったりとした湊に肩を貸してリビングへ戻ると、葵君が咎めるように言った。

 ソファへ突っ伏した湊は、説明出来るような状態では無かった。観念したようにゾーイが話し始めた。




「三日前、若い男の人の変死体が見付かりましたよね。湊はその第一発見者なんです」

「知ってる」

「……その調査をしていました」




 ゾーイが目を伏せる。

 叱られると思った。航はソファで横たわる湊の前に立つ。叱られても咎められても仕方が無いと思っているが、湊が弱っている今は止めて欲しかった。


 葵君は気を落ち着けるように深呼吸した。




「危ないことはするなと、言ったよな?」

「してないよ」




 掠れた声で、湊が言った。




「人混みと臭いに酔ったんだ。慣れないことはするべきじゃなかった。心配させてごめん」

「口先だけの謝罪はいらねぇ。どうせ、下らない調査だろ。心配ばかり掛けさせて、何やってんだ」




 葵君は苛立ったように言う。

 何故なのか、葵君は湊に対して当たりが強い。咎められて当然ではあるが、理由も聞かずに一方的に否定するので、気分が悪かった。


 航は遮るように割り込んだ。




「葵君の言っていることは尤もだと思う。でも、理由も聞かずに決め付けて、頭から否定すんな。湊にだって考えがある」

「考え? 言ってみろ」

「丸ごと否定されると解っていて、言える訳ねぇだろ」




 航は苛立っていた。

 葵君の言っていることは正論だ。自分達は子供だし、母を心配させたい訳ではない。だから、母の目の前で叱責し、行動そのものを否定するのは、脅しと同じだと思うのだ。自分達が反論出来ないと解っていて、白状させようとする遣り方が気に食わない。




「人混みに酔ったんだ。本当だよ。お酒も飲んでない。葵君が止めろって言うなら、もう行かない」




 湊が言った。

 航は悔しかった。湊は遺体の第一発見者だ。苦しかっただろうと呟いたあの声を、葵君は聞いていないのだ。無謀で無茶な行動であったとしても、湊の行為そのものは自分の信念に従った正義であるし、それを否定する権利は誰にも無い。




「なあ」




 航は言った。




「何で、そんなに湊にキツく当たるの? こいつ、そんなに悪いことしてる?」

「……」

「もしも湊が悪いって言うなら、頭ごなしに否定するんじゃなくて、諭せば良いだろ。こいつだって聞く耳は持ってる」




 本当は、ずっと気付いていた。

 葵君が湊に対して厳しく当たる理由。




「湊は親父じゃねーぞ」




 葵君が、息を呑んだ。


 湊と親父は生き写しだった。だから、重ね見てしまうのも解る。親父は理想の為に何処までも突っ走るし、その為に我が身を振り返ることもしない。それが正しいとは思わないけれど、間違っているとも思わない。


 湊はそんな父の血を引いているけれど、別の人間だ。


 暴走することもある。好奇心の為に危ない橋も渡る。でも、聞く耳は持っている。幽霊屋敷でも、殺人人形の時も、湊は航の言葉を聞いて自分を押し留めた。衝動に駆られて行動に移す、無謀で無計画な人間じゃない。


 湊はきっと言い返さない。厚意を突っ撥ねることが出来ない御人好しなのだ。弱味に漬け込む葵君は、狡いと思う。


 厚意を楯に湊の正義が否定されるのも、その為に湊が自分を押し殺すのも、もう沢山だ。研ぎ澄まされた湊の正義が、他人の独善で潰されるのは我慢ならない。少なくとも、自分は湊の正義に支えられて来たし、守られて来た。


 リビングは沈黙に包まれた。暖炉の薪の爆ぜる音が妙に響く。航は溜息を吐いて、湊の腕を取った。




「行くぞ」




 母の声も無視して、航は歩き出した。

 足元の覚束無い湊を引っ張って二階へ上がり、わざと音を立てて扉を閉めた。


 暗い部屋の中、電灯を点ける。

 湊をベッドに放り投げて、航はその前に胡座を掻いた。




「……で?」




 航が言うと、湊が苦笑した。

 別に頭に血が上っていたのではない。腹は立ったが、頭は冷静だった。庇ったつもりも無いので、もしも湊が謝罪でもしたなら殴ってやろうと思っていた。


 流石に湊も心得ていたらしく、特に何も言わずに答えた。




「トイレに行った時、見たことない男の人が目の前に立ってたんだ。そのまま個室に引き摺り込まれて、頭を押さえられた。そうしたら、すごく頭が痛くなって、目眩がした」

「……薬?」

「そういう臭いはしなかった。まあ、アルコールとアンモニアの臭いが充満してたから、断定は出来ないけど」




 湊と離れた数分間。自分が想像する以上に危ない状況だったことに肝が冷える。葵君の言葉が如何に正しかったのか悟るが、それにしてもあの言い方は無いなと思った。




「頭の中に手を突っ込まれたみたいで、気持ち悪かった。後ろ足で扉を蹴ったら、抱き合ってる男の人達がいて、お蔭で逃げられた」

「……付いて行けば良かったな」

「いや、一人で良かった。犯人とも接触出来たし、手口も解ったから」

「手口?」

「うん」




 身を起こし、湊が言った。




「俺の仮説は間違っていなかった。あれは催眠術に似たPSIだ。脳内物質に影響を与えているんだと思う」

「脳内物質?」

「恐らく、セロトニンとエンドルフィンじゃないかな。狙われたのが俺で良かった」




 何で、と問い掛けようとした声は、遮られた。


 


「脳内物質は自己暗示と訓練によって、自分で操作出来る」




 トランス状態と呼ばれる変性意識状態。湊には自在にその状態を引き起こすことが出来るらしい。




「簡単な条件付けなんだよ。長距離ランナーが或る景色を見てリラックス出来るようにしたり、野球選手がバッターボックスで力を抜けるようにジンクスを作ったりするのと同じ」

「だから、抵抗出来たってことか?」

「そう。でも、薬物の可能性も捨て切れないから、トイレで吐いた。今のところ後遺症も無い」




 航は頭を抱えた。

 危険な目に遭ったばかりだと言うのに、全く懲りていない。

 今更咎めるのも馬鹿らしくて、航は先を促した。




「それで、どうするんだ?」

「犯人を捕まえたいと思ってる。でも、逮捕は難しいね。捕まえたところで立証出来ないから」




 湊は顎に手を添えて唸った。航は苦い思いで言った。




「野放しには出来ない。お前は顔を覚えられてるだろうし、狙われる可能性が高い。立証出来ない以上、警察に守ってもらうことも難しい」

「彼処に近付かないというのも手だけど、そうすると、次の被害者が出る。行動範囲の狭いシリアルキラーは、捕まるまでどんどん殺す」




 葵君に相談しようか、と考えたところで、先程の遣り取りを思い出す。舌の根も乾かない内に助けを求めるなんて航の矜持に反する。




「証拠を集めるしかないな」

「ああ」




 湊に釣られるようにして、航も笑った。

 高い壁を前にした時のように、高揚していた。壁は高ければ高い程良い。逆境である程、燃えて来る。


 扉からノックの音が聞こえた。

 葵君か、と身構えたが、扉の向こうにいたのはホセだった。湊に促されて入室すると、室内をぐるりと見渡して、航の隣に座った。


 湊が改めて経緯を説明すると、ホセは酷く悔しそうな顔をして膝を叩いた。付いて行けば良かったと、先程の航のようなことを言う。尤も、ホセが湊に付いて行くのも、それはそれで不安ではある。




「犯人は手慣れている感じだった。きっと手口は変えてない」

「湊で失敗を学んだ。手口を変えて来る可能性はある」

「でも、狩場は変えないだろう。彼処はきっと、犯人の庭みたいなものだから」

「犯人の顔は覚えてるか?」




 ホセに問われると、湊が眉を寄せた。




「解らない。俺も必死だったから。でも、声は解る」

「……ということは、実際に会う必要がある訳か」




 それは賛成し兼ねる。ただでさえ、湊は狙われる可能性が高いし、犯人も警戒するだろう。




「俺が付いて行く」




 航が言うと、湊が驚いたみたいに目を丸めた。

 何だよ、と低く問うと、湊は笑った。




「やけに乗り気だね。俺は嬉しいけど」

「うるせぇ。ムカついてんだよ」




 兄の窮地に気付けなかった自分にも、頭ごなしに否定する葵君にも。負けっぱなしは趣味じゃない。やるなら徹底抗戦、完全勝利だ。

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