⑴噂
The first and best victory is to conquer self.
(自分に打ち勝つことが、最も偉大な勝利である)
Plato
鬱蒼とした暗い森に、鞭を打ち付けるような雷鳴が轟く。怪物が喉を鳴らすような低い音が木霊し、辺りは物々しく、今にも何かが起こりそうな気配がした。
命知らずな旅人が早足に歩いている。褪せたナップザックが肩に揺れ、余程の長い距離を歩いたのか革靴は擦り切れそうだ。
暗雲の垂れ込む不吉な森の何処かで、鳥類が悲鳴を上げて羽搏くのが聞こえた。旅人は大袈裟に肩を竦め、粟立つ肌を諌めるように身震いをする。
辺りに人気は無かった。果ての無い孤独が充満し、背を焼くような焦燥が頰を汗で濡らす。
旅人が行く手を阻む木々を掻い潜ると、目の前に大きな屋敷が現れた。
鉛色の空に青白い稲光が走り、白い外壁が照らし出される。蔦の絡まる煉瓦造りの西洋建築は不気味な雰囲気を漂わせていた。
屋敷は牢獄を思わせる柵に囲まれている。門扉は天を衝く槍のように聳え立ち、この世の何もかもを拒絶するように沈黙している。
しかし、旅人が呼び鈴を鳴らす間も無くその扉は開かれた。恐る恐ると足を踏み入れる。その先には両開きの立派な扉が待っていた。
乾いたノックの音が一つ、二つ。
誰かいませんか。
暫しの静寂の後、悲痛な懇願は突然、聞き入れられた。
破裂音に似た音と共に玄関扉が開け放たれる。ーーそして、次の瞬間。扉は怪物の口のように旅人を飲み込み、凄まじい勢いで閉ざされた。
心臓が鷲掴みされたかのような緊張が走る。思わず握り締めた両拳に汗が滲んでいた。
「……」
痛い程の沈黙。暗転。
真っ暗な画面に、スタッフロールが流れ始める。
口を噤んだ航の隣で、湊が溜息を吐いた。
「評価出来るのは効果音だけだ」
妙に冷静でフラットな口調だった。
その言葉が合図のように身体の強張りが解けて、心臓が急に動き出す。航は酷い肩透かしを食らったような心地でテレビを眺めていた。
ニューヨーク州の中心地から車で三十分。ウェストチェスターの街は白い太陽の下にあった。
定規で測ったかのような街は整然としており、庭先からは平和呆けした住民の他愛の無い愚痴が聞こえた。太陽光を取り入れる大きな窓の向こうに青々とした芝生が広がっていた。
航は革張りのソファに背中を預け、深く息を吐き出した。凍り付いていた臓腑に血が通い、現実から乖離していた意識が肉体へと着陸するようだ。
テレビの向こうではスタッルロールが延々と続く。
よくあるホラー映画だった。
森の奥の洋館は悪霊の棲み着く幽霊屋敷で、迷い込んだ旅人を食べてしまう。勇敢な主人公も無く、爽快なアクションも無く、ただただ人が幽霊屋敷に襲われ、消えて行く。ストーリー性の無いパニックホラーは、感情移入出来る登場人物も無く、低俗なスプラッター映画を見せられたような後味の悪さを感じさせた。
「幽霊屋敷の調査をしたことがある」
ソファの隣でだらしなく寝そべっていた湊が、長い前髪を指先で払った。
正午に差し掛かるというのに起き抜けのパジャマ姿で、見た目は鈍間なオタクだ。黒縁の眼鏡の奥で濃褐色の瞳ばかりがやけに鋭く光り、何処か近寄り難い印象を与えている。
湊は航の双子の兄だった。
幼少期は姿形がそっくりだったのだが、一年前から大学の寮に入り、帰って来た時には見窄らしく変貌していた。久々の再会に涙するような愛着は無い。航はその姿に呆れてしまったことを思い出し、苦い感情が込み上げる。
「アリゾナ州の郊外にあるおんぼろな一軒家に、幽霊が棲み着いているという噂があったんだ。付近の住民は近寄らない曰く付きの幽霊屋敷だった。研究室の仲間と夜に調査に向かってーー」
「何でわざわざ夜?」
話の腰を折り、航は溜息を吐く。
パニックホラーの定番だが、何故か登場人物は夜に行動し、しかも敢えて危険を冒す。ストーリー展開を考えると雰囲気が大切なのだろうが、自分なら朝まで身を潜めているだろう。
湊は気を悪くした風も無く、飄々と答えた。
「統計的に考えると幽霊が活発になるのは夜なんだよ」
そういうことじゃない。
航は吐き捨てた。
「怖くねぇの」
僅かな悔しさを噛み殺して問うと、湊は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
「人が恐怖を抱くのは、自分の存在が脅かされると感じた時だ。それは生命の危機であったり、アイデンティティの崩壊であったりする。心理学では特定の刺激に対する反応のことで……」
「解った解った」
「恐怖なんて先入観だと思う。赤ん坊は幽霊を怖がらない。オカルトも怪奇現象も、現在の科学で解明出来ない現象に名前を付けて呼んでいるだけだ。俺達は安全を確保し、万全の体制で調査を実施している。不安要素は無い」
そういうことじゃないんだけどな。
航はそう思ったが、黙っていた。解り合えないことは解り切っていた。
解らないものは怖いだろう。
恐怖は自己防衛による生理反応だと思う。だが、兄は幽霊やオカルトに対して全く恐怖を感じないらしかった。夜行性の動物の調査くらいの感覚なのだろう。
米国最難関と呼ばれる大学に飛び級で入学し、超常現象を科学的に解明するという馬鹿みたいなことを本気でやる人間だ。
真顔で幽霊屋敷の調査報告を始める湊を押し遣る。
不満そうに口を尖らせる兄の姿に胸がすっとして、航はにししと笑った。
1.幽霊屋敷
⑴噂
ストリートバスケのコートはオレンジ色に染まっている。時間を持て余した非行少年達が虚無と狂気の間を彷徨い、刹那的な興奮に身を任せている。
発展の著しい商業地区から裏通りを抜け、人気の無い方向へと歩き続けると褪せたバスケットボールコートがある。昼間は浮浪者の溜まり場で、夜は破落戸達の社交場となる。
ちょっとした口論から刃傷沙汰になる程度には治安が悪く、血気盛んな輩に溢れていた。
この場所は航にとって数少ない心落ち着ける場所だった。
人種や年齢の性別の壁を越えて、打算も無くバスケットボールを楽しむことが出来る。モラルの低い利用者達は口汚くスラング塗れの野次を飛ばすが、コートの中には持ち込まない。白線で仕切られたコートは神聖な結界の中にあるような静寂が保たれていた。
チーム戦は殆どしない。
基本は意欲のある者が交代制で参加する1on1である。今日の航の相手は見上げる程の肉体を持つ黒人だった。
隆々たる筋肉は夕陽を浴びて黒く光り、まるで敏捷な野生動物のようだ。
緩急を付けてドリブルする。対戦相手の呼吸を乱し、リズムを崩して行く。攻めると見せ掛けて引き、ターンと見せて切り込む。
深く沈み込むように神経を集中させる。
ハウリングに似た耳鳴りがして、辺りの風景がモノクロに染まって行く。必要な情報だけが拾い上げられ、世界はコマ送りに進んでいた。
歓声は遠い世界にあった。コートの中では魚が水中を泳ぐように自由だった。無意味な柵も枷も無く、息がし易い。
地上から10フィート、ゴールポストは目の前だった。ゴールを阻む長い腕を躱して軽くステップする。指先に力を込め、ボールを押し出す。
放たれたボールは美しく放物線を描き、リングを掠めもせずに落下した。ネットを潜る音がやけに透き通って聞こえた。
割れんばかりの拍手が起こった。
悪態吐いた対戦相手は、やがて得心したのか手を差し出した。大きくて熱い掌だった。
互いの健闘を称えた握手は色を取り戻した世界で鮮明に見えた。
二人でフェンスに凭れ掛かり、身知らずの他人のゲームを眺めていた。コートの外では時間の流れがやけに遅く感じる。
屈強な男がディフェンスごとリングにボールを押し込む。迫力のあるダンクシュートに観客が沸き立ち、熱狂の渦へと叩き込まれる。
喧騒の中、航は酷く凪いだ心地でいた。
自分の掌を見下ろすと、胸に穴が開いたような虚しさが込み上げる。
観客を煽るようにポーズを決める男達が、手の届かない天空の鳥に思えた。
才能ーー。
生まれ付き備わった優れた能力。
体格は遺伝による。コートは人種の坩堝だ。その中で自分は圧倒的に不利だった。両親の体格から鑑みるに、自分の身長は彼等に届かないし、筋肉も付かない。ダンクシュートを決められるような長い手足も、ディフェンスを押し退ける逞しい肉体も無い。
NBAのプロチームに所属する選手の平均身長は二メートルだ。今の航は背伸びしても届かない。だからといって諦める程に賢くは無くて、持ち合わせた武器を磨きながら生き残る道を探る。
大学のバスケットボールチームは実力主義だ。身長は関係無い。能力だけを問われるのは楽だ。生まれ持ったものに今更文句を言ったって仕方が無いのだ。ーーだけど、それでも願ってしまう。
「君は素晴らしいセンスがあるね」
先程までの剣幕を消し去った青年は、コートの外では穏やかな顔をしていた。
航は卑屈な考えに取り憑かれていたことに気付き、振り払うように首を振った。
「俺なんてちょっとすばしっこいだけのチビだ」
体格にも才能にも恵まれた選手達の中ではあっという間に埋もれてしまうだろう。だからこそ、休んでいる暇は無いのだ。
体格で劣るのならば技術を、力で負けるのならば敏捷性を。それが才能と呼ぶのなら、胡座を掻くつもりは無い。一分一秒でも早くゴールへ。
青年は笑った。
「日本人は謙虚だね」
謙虚なのだろうか。
航にはよく解らない。ただ解るのは、彼が自分を励まそうとしてくれているということだ。
二人で取り留めも無い話をした。
家族のこと、友達のこと、彼女のこと。
彼は貧困層の生まれで、幼い兄弟達の為に学校にも通わず低賃金で馬車馬のように働き、偶の休日でバスケットボールをしているらしかった。
人種差別は思うよりも根深い。彼は肌の色を理由に謂れの無い誹謗中傷を受け、今もゴールの見えない持久走を続けている。
働いても働いても暮らしは楽にならない。景気は悪いまま、各国の溝は深く、つい最近も政治的な火種を抱えた国家間に緊張が走ったばかりだ。
住宅地でも破落戸が落書きをしたり、押し掛けたりと治安は悪くなる一方で、何もかもが煩わしく、面倒だった。
皆が平等に幸せになることは難しい。紛争地で医療活動を続ける父を見ていると、平和とは砂上の楼閣のように脆く頼りない理想論だった。
海の向こうの父を思う。
第三世界の人道援助の為に銃弾の飛び交う第一線で活躍する父は無事だろうか。
意識を飛ばしている内に、青年の話題はこの辺りで噂になっているオカルト染みた話になっていた。
普段ならば下らないと一蹴するような話題なのに、今朝の湊の話やソフィアという少女の存在が記憶に蘇り、無視出来なかった。
「俺の友達が肝試しをしたらしいんだが、怪奇現象に遭遇して慌てて逃げ帰ったそうだ」
チキン野郎、と口汚いスラングで嗤う青年は年齢よりも幼く見えた。少し前の航なら、同じように笑っていたと思う。
だが、先日出会ったソフィアという少女には、容易く無碍に出来ない特別な何かがあった。急激に下がった室内温度と、語られた知る筈の無い事実。科学者である兄が反論もせずに嬉々として温度計を眺めていたことを思い出し、苛立ちが込み上げる。
「それって何処」
つっけんどんに問い掛けると、青年は虚を突かれたかのように目を丸めた。
「おいおい、俺の話聞いてたか? 彼処はヤバイ。絶対に近付くべきじゃない」
「俺は幽霊なんて信じねぇ」
あの日のソフィアだって、きっと何かのトリックに違いない。航は苛立ちのままに吐き捨てた。
「俺がそれを証明してやる」
謎の使命感に駆られ、航は息巻いて答えた。
額に手を当てた青年が話し始めるまで数秒。航は再び神経を尖らせて、目の前で繰り広げられるプレーの数々をじっと見詰めていた。