⑴科学者
Don’t walk behind me; I may not lead. Don’t walk in front of me; I may not follow. Just walk beside me and be my friend.
(僕の後ろを歩かないでくれ。僕は導かないかも知れない。僕の前を歩かないでくれ。僕は付いて行かないかも知れない。ただ僕と一緒に歩いて、友達でいて欲しい)
Albert Camus
「あ、また」
窓の外を見て、母が言った。カーテンに身を隠す様はまるで忍者のようで、自分の母親ながら何をしているのだろうと呆れてしまう。
週の半ばの夜だった。
夕食を終え、微睡むにはまだ少し早い時間。航は携帯電話でニュースを流し見しながら、ハーブティーを啜っていた。
「ねえ、ちょっと来て」
母に手招きされ、航は渋々ソファから腰を上げた。窓の向こうを指差す母に促され、夜の闇の中に視線を泳がせる。
人気の無い夜の住宅地。点在する街灯がオレンジ色にアスファルトを照らしている。その奥、街角に潜むようにして男が立っていた。
見覚えは無い。不潔な浮浪者のような服装で、何かをじっと見詰めている。その視線の先が自宅の玄関へ向かっていたので、航は嫌な感覚を抱いた。
「最近、よくいるのよ。航がいるから良いかと思ってたけど、葵君を呼ぼうかしら」
この辺りも物騒になって来た。確かに、自分がいる間は良いだろうが、母が一人の時を考えると心配だ。
「あ、何処か行くわ」
名残惜しむように此方を一瞥し、男は闇の中へと消えて行った。追い掛けようとは思わない。母が言う通り、葵君に任せるべきだ。
航がソファへ戻ると、母は興奮冷めやらぬ様子で言った。
「何なのかしら。湊にも言っておかなくちゃ」
その言葉で航は兄の存在を思い出した。
この家には自分と母、そして、長期休暇の為に帰宅している湊がいる。あんな不審者にどうにかされるような兄ではないが、過剰防衛になって補導されるのも嫌だ。
二人で話していると、丁度二階から湊が降りて来た。
リビングの不穏な空気を察して、どうしたの、と小首を傾げる。母の話を聞くと大袈裟なリアクションで驚き、気を付けるよ、なんて心にも無いことを言った。
どうして心にも無いことを、と思ったのか。
言い掛かりでもなければ、日頃の行いでもない。気を付けると言った湊が、外出の準備をしていたからだ。
時刻は午後八時。出掛けるには遅い時間だ。元々超常現象を研究する湊は夜間の外出が多いのだが、流石に不謹慎じゃないだろうか。
「じゃあ、行って来るね」
「ちょっと待て」
何事も無かったみたいに玄関へ向かう湊の首根っこを引っ掴む。蛙が潰れるような声を上げて、湊が振り返った。
「何?」
「何、じゃねえ。話聞いてたのかよ」
「聞いてたよ。だから、気を付けるよ」
「お前の理解力はゴミだな」
酷いなあ、と欠片も思っていないような顔で湊が首を竦める。母は呆れ、最早苦言を呈する気も失せたようだった。
「何処行くんだよ」
「解ってるだろ。調査だよ」
「一人か?」
「友達と」
湊が言うと同時に、携帯電話が鳴った。
航の手を押し留めると、湊はその場で通話を始めた。どうやら、相手は件の友達らしい。しかも、玄関先に迎えに来ているようだった。
わざわざ自宅まで迎えに来ている湊の友達を追い返す訳にもいかない。航は玄関までその友達の顔を拝みに行くことにした。
フローリングの冷えた廊下を進みながら、湊は友達が如何に良い奴なのかプレゼンしていたが、無視した。
玄関の扉を開ける。途端、白い光が両目を焼いた。じわじわと視界が慣れて来て、航は光の正体を悟る。
閑静な住宅街に見合わない、真っ赤なスポーツカーが停まっていた。滑らかな流線を描くボディには傷一つ無く、銀色のバンパーが眩しいくらいに輝いている。シールドでも貼られているのか、車内の様子は見えない。
惚れ惚れする程、良い車だった。同時に、胡散臭さに目眩がした。
湊が嬉しそうに玄関から飛び出そうとするので、航は慌てて引き留めた。どう考えても碌な相手じゃない。無邪気に喜ぶ兄が、頭の悪いティーンエイジャーの娘のように見えて腹が立った。
玄関先で押し問答していると、スポーツカーの主人は見兼ねたのか扉を開けた。其処から降りて来た人物に、航は驚いた。
霞んだ金髪は腰まで伸び、僅かに波を打っている。黒いジャケットと揃いのパンツ。色白の面は薄く化粧が施されている。カモシカのような長く細い足と、覗く足首がはっとする程、綺麗だった。
匂い立つような美女だった。
一見するとキャリアウーマンのように見えるが、背景と化したスポーツカーが如何にも胡散臭い。微かに漂う煙草の臭いに顔を顰めると、女はうっとりと微笑んだ。
「こんばんは」
航は湊の腕を掴んだまま、女を睨んだ。
湊に限って騙されるということは無いだろうが、余りにも不審だ。航が黙っていると、女は呆れたように溜息を吐いた。
「挨拶も出来ないの? 湊は初対面でもきちんと挨拶したわよ」
「うるせぇ。お前、誰だ」
女は長い睫毛に彩られた目を瞬かせた。
緑柱玉みたいな瞳に苛立ちを乗せると、湊に言った。
「私が来ること、話していなかったの?」
「したよ、さっき」
やれやれと言うみたいに湊が弁解する。
どういうことだ。航が睨むと、湊が言った。
「この人は俺の大学の研究室の仲間なんだ」
女はヒールを鳴らして歩み寄ると、右手を差し出した。
「ゾーイ・アンダーソンよ。宜しく、航」
航は握手を躊躇った。
ヒールで車を運転する女は嫌いだ。それに、初対面で馴れ馴れしく呼び捨てにされる謂れも無い。
湊は力無く笑い、意味不明の弁解をした。
「航は女性不信なんだ。悪いね」
「あら。若いのに可哀想ね」
へらへらと笑う湊の後頭部を、渾身の力で引っ叩く。小気味良い音が界隈に鳴り響いた。今の自分を糾弾する輩がいるのなら、自分は法廷であっても争うつもりだった。
航の決意とは裏腹に、二人は楽しそうに笑っている。友達というのは本当なのだろう。親しい男女と言うよりも、気心の知れた異性の友達といった感じだった。
湊の友達というとリュウを思い浮かべるが、彼とは違う。リュウも同じ研究室ということになるが、彼がこのゾーイと一緒にいる姿は想像出来なかった。
兎も角、ゾーイが湊の友達である以上、航が反対する理由も無かった。湊は人を見る目がある。ならば、送り出しても良い筈だ。付いて行く意味も無いし、母を一人残す方が不安だ。
湊はゾーイを連れ、スポーツカーへ向かった。助手席の扉を開けると、運転席の足元にスニーカーが並べられていることに気付く。どうやら、ゾーイは運転する時にはヒールを脱ぐらしい。女は面倒だな、とぼんやり考えていると、玄関先から母が顔を覗かせた。
「出掛けても良いけど、余り遅くならないでね」
「行かねぇよ」
「葵君、呼んだから」
母は既に送り出すつもりだったらしい。航は口汚く舌打ちした。
車の方から聞こえていた会話が途切れたので振り向くと、ゾーイが奇妙な顔で此方を見ていた。何だ、その顔。航が問い掛ける前に湊が苦笑する。
「葵君が来るまで待ってる?」
湊が問い掛けると、ゾーイは小さく笑って首を振った。
「そうしたら、引き留められるでしょ? 早く行きましょう」
「解った。……じゃあ、航。後は頼んだよ」
自分は何を頼まれたのだろう?
詮索しても意味が無いと解っていたが、駄目押しのつもりで問い掛けた。
「ちなみに、何処行くの?」
「クラブ」
「クラブ?」
まさか、湊の口からその言葉が出る日が来ようとは。
雛鳥の巣立ちを見るような不思議な感覚だった。湊は野暮ったい前髪を片手で軽く搔き上げると、車のダッシュボードからワックスを取り出した。サイドミラーを覗き込みながら慣れた手付きで髪型を整えるので、航は湊が遠い世界に行ってしまったかのような寂しさと気まずさを味わった。
数十秒としない内に、アシンメトリーの今風の垢抜けたヘアスタイルに変え、湊が悪戯っぽく笑った。
「お前、クラブに出入りするような奴かよ」
正直に言うと、湊は顎に手を添えた。
「社会科見学のつもりで一回だけ行ったことがあるくらいかな。でも、今日行くところは初めて」
クラブを社会科見学。湊らしい動機に安心する。
だが、その後に続いた不穏な単語に、航の選択肢は決められていた。
「ゲイ専門のクラブらしいよ」
8.愉快な仲間達
⑴科学者
湊という人間は、仙人かと思うくらい淡白だ。
まず、他人に興味が無い。若さ故の衝動とか、勢いとか、そういう俗物的な感情が殆ど無いらしかった。
付き合っていた彼女がいたとか、好みのタイプとか、そういう話をしたことも無かった。両親の馴れ初めを聞くのと同じような後ろめたさがあったのだ。
スポーツカーの後部座席に乗り込み、航はむっつりと黙り込んでいた。後ろに飛んで行く風景を眺めながら、頭の中に浮かぶのは先程の湊が発した不穏極まりない単語だった。
昔からそういう話を聞かないな、と思っていたが、まさかゲイだったとは。偏見は無いつもりだったが、流石に双子の兄がそうだと思うと、中々ショックだった。
放心状態の航をどう思ったのか、湊はフロントミラー越しに顔を見て言った。
「一応言っておくけど、俺はゲイじゃないよ」
その言葉で航は意識を取り戻した。
困ったように眉を寄せる湊が、いつものオタクスタイルじゃないので落ち着かない。
低いエンジンの音が響く中、湊は歌うように言う。
「調査なんだよ。ゾーイは女性だろ? ゲイ専門のクラブには行けないじゃないか」
「リュウを呼べよ」
「リュウに出来ると思うの?」
確かに、あの朴念仁には向いていない。
かと言って湊が適しているとは思えないのだ。航とてその界隈の事情に詳しい訳ではないが、湊なんて未成年のガキにしか見えない。
会話を聞いていたらしいゾーイが楽しそうに笑った。
「湊みたいなタイプは、そっち方面には需要が無いのよね。どちらかと言うと、航の方がモテるんじゃない?」
「俺はノーマルだぞ」
航が睨むと、ゾーイは一層可笑しそうに口角を上げる。湊が言った。
「ゾーイはね、犯罪心理学を専攻してるんだ。FBIから声が掛かるくらい優秀なんだよ」
「ふうん」
「ちなみに、ゾーイを引き抜こうとしてる部署、何処だと思う?」
「知るかよ」
「なんと、FBIのBAUなんだ。葵君と同じ。二人が並んで事件を解決する日も遠くないよ」
興奮したように湊が両足をぱたぱたと揺らす。
FBIのBAUは確かに葵君の所属する部署だ。捜査対象は主に猟奇殺人やシリアルキラーである。二人が並んで変死体を観察する未来を楽しみにするのは、何だか冒涜的で気が引ける。
其処まで考えて、航は漸く先程のゾーイの反応の理由に行き着いた。なるほど、未来の同僚に当たる訳か。
同時に、そんなエリートがどうして超心理学なんて訳の解らない分野を研究しているのか疑問に思った。彼女が犯罪心理学を専攻しながら超心理学を研究しているということは、湊だって本来の専攻分野は違うのではないか?
航の疑問を察したらしく、湊はさらりと答えた。
「俺の専門は脳科学だよ」
ああ、それで。
航はこれまでのちぐはぐな湊の経歴に納得した。
超心理学、延いては超能力を湊は研究していると言っていた。オカルトとは無縁の科学信者である湊がどうしてそんな研究をしているのか繋がらなかったが、脳科学となれば話は別だ。
「リュウも本来の専門は言語学。それから、航がいなくなった時に一緒に探してくれた仲間のライリーは機械工学」
そのライリーという男に会ったことは無いが、知らぬ間に世話になったらしい。きっと、恐ろしく癖の強い変人なのだろう。本来の専門をほっぽらかして超心理学を研究しているのだから、察するに余りあるくらいだ。
話を聞く限り、彼等はそれぞれの分野のエリートらしい。そんな彼等が一つの研究室に集まってよく解らない研究をしている。その情熱の行き先がまともな内は良いが、下手をするとテロでも画策出来そうな不穏な集団である。
「少し前までは人工知能を作ってたんだ。脳波から感情を数値化して、人間に近い心理作用を搭載した出来の良い装置だったんだけど、途中で辞めた」
「この子達、医療用の人工皮膚まで持ち出して、人間そっくりの人造人間を作ろうとしてたのよ」
「心理作用は脳内物質の変化で、外的刺激によって操作出来る。実装目前だったんだけど、ゾーイがそれは洗脳だって言うから」
どうやら、湊は本物のマッドサイエンティストだったらしい。双子の兄の奇行に頭が痛くなる。
ゾーイは知的好奇心が旺盛な変人集団の手綱を握ってくれているらしかった。
「科学者はとても純粋な人達だから、知的好奇心を満たす為に人としての倫理を忘れて成果を求め過ぎてしまう。でもね、科学は人を幸せにする為にある。最大多数の最大幸福。それを忘れてはならないわ」
ゾーイの言葉を聞いて、航は初めて会った時に悪印象を持った自分を恥じた。この人は多分、立派な人だ。目先の成果や利益に囚われず、大局を見ている。それでなければ、最大多数の最大幸福なんて言葉は出て来ない。
イギリスの哲学者、ジェレミ・ベンサムの言葉だ。全ての人が幸せになることは難しい。犠牲はやむを得ない。だが、目標は高く持つべきである。それが不可能な場合は、社会の構成員である最大多数の最大幸福を目指すべきだ。
航と湊の父は、国境なき医師団で紛争地の医療援助に当たっている。父は事あるごとに言っていた。全ての人が幸せになることは難しい。ならばせめて、犠牲となる人々が最小の不幸で済む未来を選ぶ。
誰も殺されない世界。それが父の掲げる信念だった。
航には理解し難いが、否定するつもりも無かった。
父は素でメサイアコンプレックスを患っているようなところがある。それよりは、ベンサムやゾーイの語る最大多数の最大幸福の方が現実的だった。
ただ、思うのは、彼等は同じ未来を願っているのだと言うことだ。手段は異なるが、彼等は明るい未来を望んでいる。少しでも多くの人が、優しい世界で生きられるように。
胸が塞がれる思いだった。
メサイアコンプレックスは屡、到底達成不可能な大きな目標を掲げ、自己承認を他者に依存する。父は実現する為に行動する力があった。父の正義が独善でないのは、大局を見て判断することが出来るからだ。
「俺はねぇ」
ぽつりと、湊が言った。
「誰かの幸福とか利益とか、あんまり考えないようにしてる。だって、それはまるで、誰かの不幸を許しているみたいだ」
それもまた、湊らしい。
ゾーイはハンドルを握ったまま言った。
「犠牲を良しとしているのではないわ。不可能な場合の話よ」
「その限界を決めるのも、嫌なんだ。不可能か如何かの境界線って、誰がどうやって決めるの。少なくとも、俺は他人に幾ら言われても、自分がまだやれるって思う限りは止まれない。今は無理でも、いつか届く。そう信じたいじゃないか」
湊が笑った。父そっくりの無邪気な笑顔だった。
ゾーイは溜息を吐いたが、呆れた風ではない。予定調和の議論の帰結を楽しんでいるように見えた。
「その結果が、倫理観を取っ払った人造人間なんだからどうしようも無いわね」
「良いだろ。どうせ、ゾーイが止めてくれる」
「勝手な人ね」
ゾーイが可笑しそうに鼻を鳴らした。
航にだって、解る。湊の言っていることは机上の空論で、綺麗事なのだ。ゾーイの意見の方が現実的である。しかし、航は、湊の青臭い正義感が嫌いじゃなかった。
湊は折れないのだ。迷わないし、立ち止まらない。故に暴走することもあるけれど、其処には湊なりの信念がある。
それなら、湊が道を踏み外さないように見張っていてやるのは、自分の役割だと思う。湊が湊のまま、真っ直ぐ正義を貫けるように、見守ってやる。道を踏み外すのならば殴ってでも引き戻す。
心地良い沈黙を、エアコンの音が埋めて行く。
静かな街の明かりを眺めながら、航は異国の地にいる父へ思いを馳せていた。




