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⑸切望

 お前は?

 お前は、大丈夫なの?


 航の失踪から二時間。

 漸く届いた弟からのメッセージに、胸が潰れる程、安堵した。湊は携帯電話を握り締め、必死にメッセージを送った。航からのメッセージは、普段とは掛け離れた弱々しいものだった。


 死んだ人間が、忘れないでくれって名乗るんだ。

 こいつ等は永遠に救われないのか?


 短い遣り取りの後、また返信は途絶えた。


 死者の為に出来ること。

 そんなものは、湊にだって分からなかった。忘却とは人間が生きる為に身に付けた能力だ。人は何もかもを覚えて生きては行けない。


 全ての命は夥しい死の上に立っている。犠牲なくして救いは無い。死者は沈黙し、生者の行方を見ている。俺達に出来るのは、彼等から目を逸らさずに生きることだけだ。


 祈るような心地で携帯電話を握り締め、湊はその場にしゃがみ込んだ。




「大丈夫か?」




 弟と同じことを尋ねられ、湊は苦笑して立ち上がった。ライアンが心配そうに此方を見ていた。褐色の瞳に柔らかな光が宿っている。




「ごめん。大丈夫」




 湊はヘルメットを脱ぎ、駅へ向かって歩き出した。


 航が自分を心配している。普段なら絶対にそんなことは言わない。自分を心配していなければ、正気を保っていられなかったのかも知れない。




「ルークと相談したんだが、やっぱり仲間に呼び掛けて探すことにした」

「……うん。それが良い」

「航から連絡あったんだろ? 何だって?」




 説明に迷った。湊自身は信じてもらえなくても、馬鹿にされても構わないが、心証を悪くして協力を得られないのは困る。

 湊の打算は口にする間も無く看破され、ライアンに「全部話せ」と睨まれた。仕方無しに携帯電話を見せて状況を伝えると、やはり彼は訝しむように目を細めた。




「死体だらけの電車か……。まるで都市伝説だな」

「都市伝説?」




 湊が問い返すと、ライアンは顔を歪めた。




「この辺りで流行ってんだよ。誰もいない深夜の線路を、神隠しに遭った列車が幽霊を乗せて走るってさ」

「神隠し?」

「さあ、よく知らねぇ。俺達はガキの頃、早く寝ないと幽霊列車に連れて行かれるぞって脅されたもんさ」




 そう言って、ライアンは笑った。


 神隠しに遭った幽霊列車。

 航が失踪したと知って、初めに考えたのは誘拐や事故だった。次に思い浮かんだのは、人間が或る日忽然と消え失せる超常現象ーー神隠しである


 湊は、神隠しと呼ばれる超常現象は、事件性の無いものに限り、テレポートと呼ばれるPKの一種だと考えている。神や天狗なんて非科学的な存在は信じていなかった。


 だが、航の直面している理不尽な状況は、ライアンの言う都市伝説に酷似している。都市伝説や伝承には、実際の事件や事故を基にした場合がある。そして、噂話とは、語り継ぐことで実在するようになることも。


 航は運が悪かった。今はそう考えるしか無い。むしろ、情報が手に入っただけで御の字だろう。問題は、此方の情報を伝える術が無いということだ。


 携帯電話が震えた。湊が慌てて確認すると、ライリーからだった。彼もライアンと同じように都市伝説との共通点に気付いたようだった。


 自分に出来ることが殆ど無いことに愕然とする。叫び出したい程の酷い無力感に苛まれ、湊は頭を振った。

 一応、知り得たことはメッセージにして送ったが、届いたかは解らない。今は航の精神が無事であるように祈るしかなかった。


 ライアンが穏やかに問い掛ける。




「探しに行くか? お前等の為なら、幾らでも走ってやるよ」




 ライアンの優しさに強張った心が緩む。本当に頼もしい。航は良い友達を持った。

 湊は緩みそうな涙腺を叱咤し、答えた。




「航がいなくなったのは此処だから、戻って来るのも此処だと思う。待つことしか出来ないから、此処にいる」

「そうか。じゃあ、俺も一緒に待つ」




 ライアンはそう言って、頭を撫でて来た。




「あんまり気負いすぎんなよ?」




 ありがとう。

 その声は掠れていたが、届いたようだった。ライアンが力強く頷いたので、湊は小さく息を漏らした。


 待つことしか出来ない自分が歯痒く、堪らなく悔しかった。その状況は湊の心の奥に隠して来た繊細な部位を容赦無く抉った。


 据え付けられた駅のベンチに並んで座る。通り過ぎる人々が物珍しそうに目を向けて来る。ライアンは開き直ったらしく、ベンチの上で踏ん反り返っていた。




「お前等って、双子なんだろ?」

「うん」




 湊は膝の上で両手を握り、そっと相槌を打った。

 ライアンは雑踏を眺めながら、退屈そうに言った。




「俺にも兄弟がいる。だから、今のお前の気持ちは痛いくらい解る。何とかしてやりてぇ。代わってやりてぇ。きっと、俺ならそう思う」

「うん……」

「航にとっては、それがうざったくて、我慢ならねぇんだろうけどな」




 そんなこと、知っている。

 航は、対等でありたいと思っている。自分の独り善がりな責任感や自己満足が、どれだけ航のプライドを傷付けて来たのかも解っている。


 気遣われること、助けられること、守られること。航が嫌うことを、湊は率先して行ってしまう。航が向けてくれる信頼を鏡のように返せたら良いのに、自分はいつも我慢が出来ない。


 航が透明人間だった頃、湊は航の敵だった。


 生まれる前からずっと一緒で、互いのことなんて息をするように理解出来る。それが驕りでしかなかったと知った時、湊はまるで魂の半分を失くしてしまったみたいな虚無感を覚えた。


 あの頃は、自分と航が別の人間であることを、解っていたつもりで、解っていなかったのだと思う。航の力になりたい。味方でいたい。居場所でありたい。そう思う程に航を傷付けた。


 低次元のチームプレイとは、屡、突出した才能を虐げる。和を乱す存在を嫌い、追い出そうとする。共通の敵を作れば皆は団結する。そのアイコンは、解り易ければ解り易い程良い。


 航は何でも器用に熟し、頭も良かった。自尊心の塊のようでありながら、何処までもストイックで自分を追い込み、妥協を許さない。自分と同じ努力を他人にも要求する。

 人一倍正義感は強いのに、言葉や態度は粗野で誤解を受け易い。媚びたり諂ったりしない航は、集団の中で上手く立ち回れるタイプではなかった。


 航は解り易い。

 子供の無邪気な悪意は、航へ向かっていた。


 表立って庇ったり、弁護したり、直接的な行動が航を傷付けることは知っていた。だから、側にいた。


 航が自分を拒絶し、遠去けるまで気付きもしなかった。一番近くで知った気になって、本当は何も見えていなかったのだ。あの頃の抜き身の刃みたいな航を思い出すと、今でも無力感に苛まれて苦しくなる。自分に出来ることはとても、とても少なかった。


 ライアンは暫く黙ったかと思うと、唐突に言った。




「お前が偏見無いのは解ったけどよ、航がストバスコートに出入りしてんのは、どう思ってんの?」




 どう、とは?

 湊は質問の意図を考える。航の選択に対して自分が何か言う必要があるとは思えなかった。




「航が笑っていられるなら、それで良いと思った」




 湊が言うと、ライアンは息を呑んだ。


 居場所を失くし、笑うことも無くなった航が、ストリートバスケと出逢い、また笑うようになった。

 好きなものを嫌いになるのは、本当に辛いことだ。

 正規のチームから外れていても、落ちこぼれと蔑まれても、航がまた笑ってバスケ出来るようになったのなら、それで十分だった。


 自分に出来ることは何だろうと考えて、それがとても少ないことが悲しかった。降り注ぐ悪意の傘になり、襲い掛かる不条理の盾になり、せめて、航の居場所を守ろうと。帰る場所さえあれば、人は何度でも再出発出来ると知っているから。


 航は自分の弟だ。双子の出生確率がどのくらい低いのか知っている。血を分けた己の半身が、自分らしく生きて笑っていてくれる。それがどんな奇跡なのか解っている。


 航が笑ってバスケをしている。

 それだけで良かった。何の気兼ねも無く、好きなことを好きなだけ楽しんで、笑っていてくれるのなら、他には何もいらなかった。


 ただ、俺は、航のーーになりたかった。








 7.神隠し

 ⑸切望








 扉の窓は塗り潰され、次の車両は見えなかった。それが墨ではなく、血であることは既に解っている。

 航は耳を澄ませ、様子を伺った。何か嫌な予感がするのだ。湊が言うには、これは超感覚的知覚能力らしいが、どうでも良かった。


 扉の向こうから、咀嚼音が聞こえるのだ。

 何かを齧り、啜り、引き千切るような不気味な音だった。まさか向こうで無害な一般人が食事しているとは思わない。扉の向こうにいるのは、想像も出来ないような悍ましい何かだ。


 指先が冷たかった。

 嫌だ。この先に行きたくない。生理的嫌悪感に似た恐怖が湧き上がり、頭がおかしくなりそうだった。扉の向こうを覗いてはいけない。悪寒が肌の上を撫で、足元が揺れる。頭の中で警報がずっと鳴っている。


 怖いのだ。ただ、怖い。この場所に一人きりで、自分で道を切り開くしかないという現実に目眩がする。

 喉の奥から熱が込み上げ、航はその場に嘔吐した。胃液をげえげえと吐き戻し、噎せ返る。生理的な涙によって視界がぶれる。


 それでも、進まなければならない。

 勇気を掻き集め、航は扉を開いた。


 車内は血塗れだった。濃密な血霧で空気すら赤く見える。無残な死体が壁際に並んでいた。中央には血に染まった道が出来ていた。まるで、何かを引き摺ったかのような跡がある。


 擦過音が酷く鮮明に聞こえる。見れば、窓の一つが割れていた。窓枠がひしゃげ、その下には血塗れの腕が落ちている。細く、小さかった。子供の腕だ。傷口は鋭利な刃物で切断されており、肉や皮、血管に至る組織が標本のように観察出来た。


 掌が傷だらけだった。航は嫌な想像をした。この腕の持ち主は、窓の向こうに放り出され、必死にしがみ付いていた。そして、ギロチンのように腕を切断された。


 ぴちゃぴちゃと、液体を啜る音がした。

 窓の下に何かがいる。しかし、航には、それが何か解らなかった。見てはならない冒涜的な何かが其処にいる。




「俺には金が必要だったんだ」




 掠れた声で、それは言った。

 人の言葉を話しながらも、それは最早、異形の化物だった。振り向いたそれはバクのような体付きをしており、太くて短い腕が枝のように生えている。




「生きる為には、殺すしかなかったんだ」




 脳天から稲妻が駆け抜けたようだった。

 航の両足はその場に縫い付けられ、身動きはおろか、呼吸すら出来なくなっていた。血を啜る不気味な音が聴覚を支配し、鈍器で殴られたように脳幹が痺れた。


 ポケットで携帯電話が震えたのは、その時だった。

 蝿が羽搏くような不快な音が、静まり返った車内に響く。航は正気を取り戻すと同時に、生と死を実感した。


 化物が振り向くーー。

 航は身を伏せた。車両の奥には乗務員室らしき扉が見えた。暗幕によって内部の様子は解らないが、自分が目的地に到達したことを理解する。


 振り向いた化物が触手を槍のように突き出す。目にも留まらぬ速さだった。避けることは不可能だった。けれど、踏み出した足が血で滑り、航は勢いよくその場で転倒した。入って来た扉に触手が突き刺さり、開閉が不可能になる。逃げ場は無くなっていた。


 航はスケートリンクのように血塗れの床を滑った。無重力空間に投げ出されたような不自由感のまま、航は先頭車両の壁に衝突した。


 視界がフラッシュした。衝撃で息が詰まり、激しく噎せ返った。掌が赤かった。自分のものなのか、周囲のものなのかも解らない。




「俺の名前を覚えていけ」




 それは地の底から響くような気味の悪い嗄れ声だった。航は咳き込みながら、異形の化物を睨んだ。

 化物は左右に肩を揺らしながら、脅し付けるように、嘲笑うように言った。




「俺はオベデ・エドム。誰も俺を救うことは出来ない」




 諦念と嘲笑、侮蔑と憐憫。縋るような声色で、突き放すように言う。航は奥歯を噛み締めた。


 此処で死ぬ訳にはいかない。

 勝手に震える膝を叱咤して、航は立ち上がった。乗務員室は目の前だった。


 化物が照準を定める。航は転がる勢いで乗務員室の扉を開け放った。無呼吸のまま扉を閉める。青い触手が一直線に伸び、航の肩を抉った。痛みよりも熱を感じた。手当どころか悲鳴を上げる間も無く、航は扉を閉ざした。


 耳を劈くような雄叫びが聞こえた。化物は扉に阻まれ、此方を追っては来られないようだった。身体が萎む程、深く息を吐き出し、航は扉に凭れ掛かったままずるずると座り込んでしまった。


 頭がどうにかなりそうだった。

 拍動の度に、貫かれた肩から止め処無く血が流れる。熱い息を吐き出し、航は周囲を見回した。


 乗務員室は、極普通の運転室だった。それまでの地獄絵図が嘘みたいな普通の風景だ。窓の向こうはトンネルの中を走っているように真っ暗だ。スピードメーターは有り得ない動きをしている。


 運転装置の手前に誰かが立っていた。

 糊の効いた紺色の制服と帽子。身体はシルエットのように黒く染まり、顔も年齢も性別も判別不可能だ。それは何も見えない闇へ向かって一心不乱に運転している。


 流石にもう驚かなかった。

 振り向きもしない車掌に向き直り、航は一度鼻を啜った。




「あの……」




 自分の声が濁った。痰が絡むような感覚に小さく咳き込むと、血が滲んでいた。内臓に損傷があるのかも知れない。

 航は血を拭った。




「此処から降ろしてくれ。俺の帰りを待ってる奴がいるんだ」




 車掌は何も言わない。航は続けた。




「俺は生きることで、アンタ達を救う」




 車掌の腕が動いた。

 ブレーキレバーを思い切り捻り、凄まじい重力が襲い掛かる。航は踏ん張ることも出来ず、壁にぶつかった。

 急ブレーキの高音が鳴り響く。やがて、車両は完全に停止した。


 来た時に聞いた懐かしい音楽が聞こえた。

 くるみ割り人形。航は停止した車両の中で、振り返る車掌を遠い世界のように眺めていた。




「当車両は、緊急停車致します」




 黒い靄に覆われた車掌に口は無い。声は天井のスピーカーから光のように降り注ぐ。




「ご降車されるお客様は、お足元にご注意下さい」




 空気の抜ける音がした。車掌の横の扉が開いている。

 車掌は扉の向こうへ促すような仕草をして、深々と頭を下げた。そして、顔を上げた車掌は一本の白いカーネーションを手にしていた。




「どうか我々を忘れないでください。貴方が生きていることが、我々の死に意味を与えるのです」




 か細い灯火が、心の中にぽっと灯る。航は頭を下げた。

 急かされるように鞄を背負い直し、扉の向こうへ歩き出す。振り返ることはしなかった。


 降りた瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。

 発車の音楽が聞こえた。間も無く扉が閉まり、電車は何処かへ向かって走り出したようだった。


 走り出す電車の音を聞きながら、航は真っ暗な闇の中を歩いた。足元は不安定だったが、確かに道は存在しているようだった。


 導かれるように進んでいくと、遠くに光が見えた。そして間も無く、航はその優しい光に包まれ、再び意識を失った。

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