⑷見送られなかった者達
伸び切った雑草が家屋を包み込む。
木造の一階家は、素朴な山小屋のようで、有り体に言えば廃屋のようだった。舗装されない砂利道をハーレーの大きなタイヤが踏み締める。独特の鼓動の音を腰に感じながら、湊はヘルメットを脱ぎ去った。
航の失踪から一時間半。沈黙を守る携帯電話を眺め、メッセージを送信してからポケットへ押し込む。バイクから降りると玄関へ向かって歩き出す。
「待ってる?」
振り返ると、ライアンはばつが悪そうに目を逸らした。きっと、彼は謂れの無い差別や中傷を受けて来たのだろう。共感はしないが、理解は出来る。此処でライアンが拒むのならば、強要するつもりも無かった。
ライアンは黙り込んでいたが、何かを振り払うように顔を上げた。その手がバイクの鍵へ手を伸ばす。エンジンが切れる。
ヘルメットを脇に抱え、ライアンがバイクを降りた。
湊は黙って歩き出す。ベニヤ板みたいな扉の横、インターホンへ指を伸ばした。陳腐な電子音を鳴らし、応答するまでの僅かな時間、扉を観察していた。
容易く蹴破れそうな扉だが、行動を起こせば足の骨が砕けるかも知れない。おんぼろに見えるが、材料には鋼鉄が使われていることを知っている。
ポストの影に監視カメラが隠されている。家の周囲には赤外線センサーが張り巡らされ、スパイ映画さながら防犯設備が整っている。
インターホンもカメラが付いている。外観と不釣り合いなハイテク仕様は、この屋敷の主人の趣味だった。湊には趣味が良いんだか、悪いんだかも解らない。インターホンのスピーカー越しに微睡むような掠れた声が聞こえた。
カメラで此方の姿を確認したらしく、扉は解錠された。玄関先から顔を出したのは、眼鏡を掛けた色白の青年だった。彼を形容するのならば、正しくオタクだ。
「早かったな」
青年ーーライリーは寝癖頭を掻きながら欠伸をした。
グレーのスウェットは皺だらけなのに、眼鏡のレンズはぴかぴかに磨き込まれている。
ライリーは湊と同じ大学の研究室の友達だった。機械工学を専攻しているのだが、今は湊と共に超常現象の研究をしている。機械には滅法強く、学部切っての秀才らしい。
社交辞令的な世間話も面倒なので、湊は早々に用件を告げた。
「パソコン、貸してくれ」
「いいよ。それより、其方は?」
ライリーの青い瞳が、ライアンを見遣る。感情を感じさせない冷めた視線だった。
「航の友達で、ライアンって言うんだ」
「ふうん」
まあ、いいや。
ライリーはふにゃりと笑って扉を大きく開けた。湊が身を滑り込ませると、ライアンは腹を決めたのか小さく会釈して追い掛けて来た。
薄暗い廊下を抜けると、だだっ広いリビングに行き着く。ミニマリストなのか家具の類が殆ど無かった。ついでに言うと生活感も無い。ライリーの家に来たのは二度目だった。リビングの先にあるライリーの自室へ向かう。
半開きの扉を押し開けると、壁一面に機械が並べられていた。大小合わせてディスプレイが七つ、全て起動している。彼方此方から重低音が響き、大型のエアコンからは冷たい風が吹いていた。熱暴走を防ぐ為だろうが、寒いくらいだ。
パソコン用の椅子を引き寄せ、手近なキーボードに手を伸ばす。頭上のディスプレイが動き出したので驚いた。ライリーが横から手を出して接続を切り替えると、今度は正面のディスプレイが動き出す。まるで迷路だ。湊は苦笑した。
「俺がやろうか?」
「うーん」
「違法行為だろ? 俺の方が向いてる」
退け。
ライリーに追い遣られ、湊は渋々と立ち上がった。
目的は駅の監視カメラのハッキングだった。一般人の自分では情報を開示してもらえない。だが、手掛かりが他に無かった。せめて、航の足取りを掴みたい。
猛烈な勢いで操作するライリーの横から覗き込む。無数の文字が浮かんでは流れ、目が眩むようだ。
ライリーが足元に置いたノートパソコンを寄越したので、湊は地べたに座って起動した。
航の携帯電話のGPSを探る。近辺に反応は無い。せめて手掛かりは無いものかと検索範囲を広げるが、収穫は無かった。
云々と唸っていると、ライアンが話し始めたので湊は振り向いた。どうやら、ルークと電話しているらしい。何か手掛かりが得られると良いのだけど、と思いながら再びノートパソコンへ向き直った。
「監視カメラ映像、出るぞ」
「見せて」
湊は立ち上がった。
航が乗車しただろう時刻を指告げると、ライリーはディスプレイに映像を表示させた。違法行為には違いないが、この際、後回しだ。
モノクロの映像はハレーションが掛かったように不明瞭だった。大勢の利用客が押し寄せては消えて行く。二倍速で流れる映像を睨んでいると、ホームの奥に見覚えのある後ろ姿が見えた。
「止めて!」
ライリーがキーボードを叩いた。
電車のいないプラットホームに航が立っていた。久々に見る弟の姿に胸が軋む。航。お前、何処に行ったんだよ。
映像が動き出す。湊は目を皿のようにして観察した。
プラットホームの客は疎らだった。誰もが他人に無関心で、手元の携帯電話へ目を落としている。
航は線路の向こうをぼんやりと眺めているようだった。鞄を肩に担ぎ、姿勢がやや傾いている。
航が鞄を担ぎ直した。荒い映像の中、航が足を踏み出す。湊は目を疑った。電車は、来ていなかった。
空中へ向かって歩き出した航が消える。まるで、見えない車両に乗り込み、連れて行かれてしまったかのようだった。
「何だ、こりゃ」
ライリーが呟く。
映像を巻き戻して確認するが、変わらない。
航は電車のいないホームから線路へ向かって歩き出し、吸い込まれるようにしてそのまま消えたのだ。
やがて、本物の電車が来る。利用客は何事も無かったかのように乗車して行った。当然、事故は起きていない。航だけが、忽然と消え失せている。
「自殺未遂?」
「航はそんなことしない」
ライリーが余りにも下らないことを言うので、湊は苛立った。冗談にしても笑えない。ライリーは肩を竦めた。
「お前の弟は、何に乗ったんだよ」
「解らない」
湊は顳顬を押さえた。
頭が痛かった。
通話を終えたライアンが、映像を見る。何かのトリックを疑ったが、今度はライリーが腹を立てた。
この俺がトリックに騙されるとでも?
ギークのプライドが傷付いたのだろうが、湊もライアンも気にしなかった。
湊は立ち上がると、ライアンの背を押した。
「駅に行こう。少なくとも、航は其処にいたんだ」
「……」
「やれることは全部やる」
ライアンは何かを言いたげにしていたが、黙って頷いた。
部屋を出る前にライリーが言った。
「俺も調べる。何か解ったら連絡する」
「頼んだ」
「おう。絶対に諦めるなよ」
「誰に言ってんだよ」
湊は笑った。
7.神隠し
⑷見送られなかった者達
等間隔の擦過音が響いている。
航は無人となった車内で深呼吸をした。血液の鉄臭さが鼻の奥に染み付いている。鞄からタオルを引っ張り出して頭を拭い、そのまま捨てた。
肉塊と化した男は沈黙している。
背中にしていた扉を覗く。嵌め殺しの窓は何かに塗り潰されていて、次の車両の様子は見えなかった。
この電車が何両編成なのか解らないが、立ち止まっている訳にはいかない。湊が迎えに来ると言っている。ならば、せめて一つでも多くの情報を手に入れたい。
時間の経過が解らないので、気力が尽きそうになる。だが、その度に携帯電話が震えた。
無数の数字暗号が送られて来るのだ。頭の中で暗号表を構成し、呼吸するように解読する。普段なら堪えられないことだが、湊は自分を励ましているようだった。
迎えに行く。待ってろ。必ず其処へ行くよ。
大丈夫。俺が付いてる。信じて。
それを見る度に、朝日を浴びたかのような活力が漲って来る。航は祈るような気持ちで携帯電話を握っていた。せめて、此方の状況を伝えられたら良いのに。そうしたら、湊は何かしらの打開策を見出してくれる。
考えても仕方が無い。
航は顔を上げ、次の車両の扉を開けた。
途端、酷い臭気に目眩がした。
床、天井、壁に至るまで全てが真っ赤に染まっていた。足元には老若男女問わずの他人がごろごろと転がっている。彼等の衣服も、身体もばらばらだった。吊革からぶら下がる臓物に吐き気を催し、腰から崩れ落ちてしまいそうだった。
座席に座る男には首が無かった。鋭利な刃物で切り落とされたみたいに、自分の頭を抱えている。側には小さな少女が蹲っていた。生きているとは思わなかった。少女の半身は削ぎ落とされていた。
胃液が喉の奥から込み上げ、航は堪え切れずその場で嘔吐した。胃液の臭いに導かれ、更に二度三度と噎せ返る。消化中の昼食が吐瀉物となって広がっていた。
生理的な涙で視界が滲んだ。此処が地獄というのなら納得した。けれど、その度に携帯電話が震えるのだ。湊からメッセージが届いている。
大丈夫か。
くそ。
航は乱暴に口元を拭った。
辺りの様子は見ないように視線を前方へ固定する。酸欠状態みたいに息が苦しい。無心で足を動かす。転がった大腿部を避けた先で、何かの肉片を踏み潰した。悲鳴は上げなかった。代わりに涙が溢れた。航は鼻を啜り、両手を握り締めて歩き続ける。
死体だらけの車内を通過し、次の車両の扉へ手を掛ける。その時、嫌な予感が稲妻のように身体中を駆け巡った。
「待って」
それは、小さな女の子の声だった。
振り返る。半分になった少女が立っていた。
「ーーーーーーッ!!!」
声も出なかった。
半狂乱になって扉を叩く。後ろから、何かを引き摺るような音がする。
「待って」
「置いて行かないで」
「一緒に」
頭の中が真っ白だった。指先ががちがちに強張って取っ手に上手く引っ掛からない。
誰か、誰か助けてくれ!!!
何かが足首を掴む。血で滑って踏ん張れず、航はそのまま床に引き倒された。必死に爪を立てるが、床は滑って無意味だった。
車両の中間部まで引き摺られ、航は狂ったように叫んだ。形の無い暴力が容赦無く振るわれる。航の体は玩具のように振り回され、床に叩き付けられた。その度に視界が白く染まり、耳鳴りがした。
頭の無い男が、半分だけの少女が、両目から血の涙を流す老婆が、航を見下ろしている。
腐った血液が頬へ落ちる。天井の白い光がやけに遠く見えた。
「うわあああああああああッ!!!」
無我夢中で拳を振り上げた。
何かの潰れる嫌な感触がした。半分だけの少女が悲しそうに眉を下げる。航は恐慌状態に陥っていた。
頭の上で何かが振り翳され、一気に振り下ろされた。脊髄反射で躱す。首の真横に何かが突き刺さった。
骨だ。
男の手首から露出した骨が、刃物のように光っていた。
こんなものが刺さったらと思うと血の気が引く。
幾分か冷静になり、航は押さえ付ける無数の腕を強引に引き離して立ち上がった。床が滑るので何度も転びそうになった。何処もかしこも血塗れだった。耳元で鼓動が聞こえる。
強張る指先で扉の取っ手を掴む。開かない。
航は縋るように扉を叩き続けた。
「誰か! 誰か、助けてくれよ!」
声は届かない。
誰も助けてはくれない。この手は、誰も。
バイブレーションが響いた。
携帯電話が光っている。湊からのメッセージがディスプレイに浮かぶ。
必ず助ける。お前の帰りを待っている。
何だ、それ。
意味不明のメッセージに、頭が熱くなる。そんなの、お前に言われなくたって!
「俺は生きたいんだよ……」
航は血を吐くように叫んだ。
「湊が、待ってるから……!」
その時だった。
背後から迫る無数の気配が止まった。恐る恐る振り返ると、血塗れの亡者は牽制し合うようにして互いを見遣り、やがて元の位置へ戻って行った。
息が上がっていた。
喘鳴と共に崩れ落ちる。航は暫くその場から動けずにいた。
身体中が痛かった。アドレナリンが過剰分泌されていたせいで麻痺していたが、見たことも無い程の痣が彼方此方に出来ていた。腹から何かが込み上げ、噎せると掌に血が滲んでいた。
床には自分の引き摺られた跡と血の筋が走っており、抵抗の激しさを物語っているようだった。
このまま蹲ってしまいたい。何も見たくないし、聞きたくない。痛いのも怖いのも、もう沢山だ。ーーでも、自分は決めたのだ。立ち止まらない、と。
自分を奮い立たせる為にメッセージを作成する。
お前は?
お前は、大丈夫なの?
湊を気遣う振りをして、自分の正気を保とうとした。誰かの心配をしている間は、正気でいられる。こんな強がりは看破されると解っていたが、どうせ届かないのだ。
指先で送信ボタンをタップする。
送信完了。その文字を見た時、航は夢を見ているのかと思った。ディスプレイを凝視する。湊からの数字暗号と、自分のメッセージ。既読。横に時間が刻まれる。午後七時四十五分。
「はーー」
バイブレーション。
湊からのメッセージを受信する。今度は数字暗号ではない普通の文章だった。
俺は大丈夫。
ちょっと、泣きそうになった。
弱音を零さない兄の珍しい言葉に、航の目からは涙が溢れた。涙腺が壊れてしまったのではないかと思う程、頬が濡れている。
湊が泣くなんて相当だ。それだけ心配を掛けてしまっていること、それでも自分を探してくれていること、帰りを待っている人がいるということ。幾多もの感情が込み上げて言葉にならない。
今何処にいるの?
状況を教えて。
絶対に助けに行く。
休む間も無くメッセージが送られて来るので、航は苦笑した。表情筋を随分と久しぶりに使ったような気がした。
何処から説明するべきか考え、結局、教えられることが殆ど無いことに愕然とする。電車で眠ってしまって、起きたら無人だった。訳の解らないアナウンスが聞こえて、車内は死体だらけだった。
自分でメッセージを書きながら、何を言っているのか解らないと思った。もしも逆の立場なら、頭がおかしくなったんじゃないかと思うだろう。
けれど、其処で否定しないのが湊という男なので。
状況は解った。
今、駅にいる。
ライアンと一緒だよ。
湊からのメッセージを読み、見慣れた名前に安心する。
ライアン。ストリートバスケのコートで出会った、黒豹に似た黒人の青年だ。謂れの無い差別や中傷で傷付いて来た為に排他的だが、懐に入れた相手には驚く程に優しい芯の強い男だった。
高学歴の湊と最初は相容れないだろうが、兄は偏見を持たない人間なので、打ち解ける筈だ。何かと貧乏籤を引き易い湊の味方になってくれるだろう。
湊を心配している間は、正気でいられる。
航は自分の性質に自嘲した。
メッセージが文字化けしていることを送ると、今度は送信出来なかった。電波が無い。こんな時に限って!
苛立ちのまま膝を叩く。バイブレーションは止まない。
何なんだよ。
何のことだよ。此方からのメッセージは送ることが出来なくなってしまったので、訊くことも、了承の返事も出来ない。
せめて、数字暗号にしてくれたら。
そんなことを思ったが、電波は届かないのだ。突然返信が無くなれば、湊が心配する。
だが、仕方が無い。
携帯電話をポケットへ押し込み、航は扉と向き直った。次の車両の様子は見えないが、ただ助けを待つつもりも無かった。次に湊と繋がった時に何も解りませんでしたとは言えない。
取っ手に指を掛けると、何故なのか容易く開く。
不吉な予感は止まないが、航は扉を開いた。




