⑵無人電車
駅前で葵君と別れ、湊は電車の切符を買った。
電車に揺られながらポケットの中から携帯電話を取り出す。時刻は午後四時。そろそろ航から連絡が来ても良い頃だ。
湊は先に待ち合わせ場所に向かった。
薄闇に包まれたストリートバスケのコートには、照明が点灯していた。降り注ぐ白い光が眩しい。褪せたアスファルトの上を褐色の青年達が駆け回っている。
野兎のように跳ねるバスケットボールを目で追い掛け、湊はコートの端へ向かった。
航はいない。
フェンスに凭れ掛かると、背中で軋む音がした。
航の反抗期を思い出す。クラブチームに顔を出さなくなった航は、いつも此処にいた。秩序で縛られたクラブよりも、年齢国籍を問わず実力のみを評価する此処は居心地が良かったのだろう。
湊も規則というもの好きではないが、上部で合わせることが出来る。遵守もしない。でも、素直で真面目な航には、苦しかったのだろう。
あの頃の航は、触れる者を皆傷付ける抜き身の刃みたいだった。研ぎ澄まされたような完璧主義だ。逃げ場が無かったのだろう。
ふと、目の前に影が落ちた。
顔を上げると、しなやかな筋肉を搭載した黒豹のような青年が立っていた。指先でボールを弄び、不敵に笑っている。
「お前が湊? 航の兄貴?」
答えずにいると、青年はボールを投げて寄越した。
1on1しようぜ、と青年が言った。湊はフェンスから身を起こした。
喧騒が遠去かる。
乾いたバスケットボールコートの中、湊は静かに深呼吸した。ナイター照明から白い光が降り注ぐ。手の中のボールは傷だらけだった。
ストバスに参加するのは、久しぶりだった。いつもは航がいた。仲間意識の強い少年少女達が野次にも似た声援を飛ばす。今の自分はただ一人の味方もいない異物だ。
黒豹に似た青年が不敵に笑っている。
品定めするような目付きだった。湊はボールを投げ渡し、屈伸運動をした。固まっていた筋肉を丁寧にほぐしながら、血流の流れを意識する。
準備運動が一通り終わるまで、青年は待っていてくれた。湊の準備が整ったと知ると、青年は片手でボールを寄越して来た。
ハンデのつもりだろうか。
見上げる程の体格差だ。強く当たって来られたら、吹っ飛ばされるだろう。青年と自分の腕を見比べて、苦笑する。
試合開始のホイッスルが鳴り響く。
警戒しているらしい青年が身を低く構えている。湊はドリブルしながら青年を観察した。
視線が下がる、その刹那。青年の長い腕が撓る鞭のように伸びて来た。湊は上半身を捻って躱し、反動で一歩を踏み出す。
ゴールポストまでの最短距離。一瞬で体勢を整えた青年が割り込む。湊は青年の死角へ潜り込むように身を低く駆け抜ける。
ゴールが狙える位置に到着すると同時に、膝を曲げる。ボールに片手を添える。視界に影が飛び込んで来る。恐ろしい程の反射神経と身体の発条だ。ゴールが見えなかった。
ボールは青年の腕に弾かれた。
湊は無呼吸でボールへ飛び付く。再びゴールを狙うが、青年が待ち伏せている。持久戦は不利だ。湊は覚悟を決め、弧を描きながらゴール下へ滑り込んだ。
行く手を阻む青年との衝突に身構える。力量差を相殺出来るぎりぎりと勢いと距離で衝突し、空中で身体を捻った。
夜空へ向けてボールを打ち出す。
苦し紛れのシュート。観客が囃し立てる。ボールは花火のように空中へ浮かび、そして、落下した。
ゴールを潜る小気味良い音がした。騒ぎ立てる観客が息を呑む。目を丸くして見詰めていた青年が、悪童のように笑う。
「もう一回!」
「……いや」
湊は掌を向けて制した。
「疲れたから、休ませて」
「貧弱だな」
何とでも言えば良い。肋骨に罅が入っているせいで、脇腹がじくじくと痛むのだ。湊はその場で膝に手を突いた。
脱ぎ捨てた上着を取りに戻ると、観客の少年少女達が明るい笑顔で出迎えてくれた。手放しで賞賛され、自分がこの場所で受け入れられたことを知る。
愛情不足の子供が見せる人懐っこい笑みだった。この場所にいるのは、何らかの理由で社会から弾かれた子供達なのだろう。
互いの傷を知っているから、干渉しない。けれど、此処には確かな仲間意識がある。群れることを嫌う航も、此処なら息をし易いのだろう。
疲れて動けない風を装って、湊はコートの外でしゃがみ込んでいた。ポケットから携帯電話を取り出す。航からの連絡は無い。
練習が長引いているのだろうか。
練習中なら見られないだろうが、メッセージを送っておいた。鬱陶しがられるかも知れない。
白い光を遮るように影が落ちる。湊が顔を上げると、先程の黒豹みたいな青年と、何となく見覚えのある少年がいた。
「お前、航の兄貴だったんだな」
黒豹のような青年が言った。
隣に立つ少年は食えない笑みを浮かべていた。肌は白く、髪は黒い。襟足は短く刈り上げられ、頭頂部はパーマが掛かっている。
「俺はライアンだ」
黒豹のような青年ーーライアンは、精悍な顔付きで微笑んだ。薄い唇の隙間から白い歯が覗く。
隣の刈り上げパーマは、ルークと名乗った。二人共、航の友達らしい。
「俺は湊。いつも航がお世話になってます」
「はははっ! それ、航が聞いたら、怒るぜ?」
「じゃあ、内緒にしてくれ」
変な奴だなあ。
ライアンが豪快に笑う。嘘偽りの無い純真な笑顔だった。他人を欺こうだなんて夢にも思わない誠実な人柄が滲み出ている。
「お前のこと、航からよく聞くぜ? 頭でっかちの変人だってな!」
「ああ、言いそう」
別に腹を立てはしない。
航は、自分のことを感受性の乏しい欠陥人間だと思っている節がある。言及したことは無いが、繊細な弟に比べたら誰だって鈍感に映るだろう。
でも、そういう航だから、愛されるのだろう。
ぶっきら棒で仏頂面。真面目で誠実。愛想の欠片も無いのに感受性が豊かで繊細。他人の痛みを自分のことのように感じ、人に優しくすることが出来る。
湊にとっては、自慢の弟だ。航の良いところなんて幾つでも挙げられる。
此処で等身大の航が受け入れられ、評価されているのならば誇らしく思う。
携帯電話を眺める。時刻は午後六時を過ぎているが、相変わらず航からの連絡は無い。仕方無く、メッセージを連続送信する。
「航から連絡あったか?」
ルークが言った。
湊は携帯電話をポケットへ押し込み、首を振った。
「変だな。航は時間を守る奴なのに」
「ああ」
じわりと、胸の奥に何かが染み出す。
湊は不安を振り払うように携帯電話を握った。ポケットの中は沈黙が続いている。
航。
湊は声にせず、胸の中で弟の名を呼んだ。
7.神隠し
⑵無人電車
トンネルを抜ける地下鉄の擦過音は遠吠えに似ている。帰宅ラッシュのプラットホームは人熱で息苦しかった。
航の移動手段は主にバイクであるが、今朝乗ってみるとガス欠を起こしていた。時間には常に余裕を持っている為、練習に遅刻するようなことは無かったが、流石に二百キログラム以上のバイクをガソリンスタンドまで運ぶ程の余裕は無かった。今日は公共機関、地下鉄を利用していた。
地下鉄に乗るのも久しぶりだ。
等間隔の揺れや穏やかな空気は好きだが、満員電車は大嫌いだった。見知らぬ他人と密着して息を殺す時間は苦行に等しい。毎日のように利用する人間の気が知れない。
ハブ駅に到着すると、乗客がどっと降りて行った。車内の温度が急激に下がり、酸素が濃くなったような気がした。長椅子ががらんと空いたので、航は練習後の気怠さに誘われるようにして深く座った。
ああ、湊に連絡していないな。
のろのろとポケットを探り、携帯電話を取り出す。ロック画面にメッセージが表示されていた。
ストバス仲間と湊からのメッセージが二件。どうやら、自分からの連絡を待たず、湊はストバスコートへ行って仲間と合流したようだった。
SNSアプリからメッセージを表示させると、ストバスの眩しい外灯の下で集合する仲間と湊の写真が添付されていた。年齢、国籍の異なるストバスコートで、湊はやけに小さく見えた。まるで、大人と子供だ。
時刻は午後六時半。補導されるにはまだ早いが、気掛かりだった。
返信しようとして、瞼が鉛のように重くなる。手足が痺れるくらい暖かくなって、視界が霞む。ここ数年経験したことがないくらいの強烈な睡魔だった。
返信、しないと。
皆が、待ってる。
そう思うのに、体が動かない。
少しくらい良いか。航はポケットに携帯電話を押し込み、仮眠の姿勢を取った。
暗い微温湯の中を何処までも潜って行くようだった。足元から上がる微かな水流に身を任せる。春の陽溜まりの下でハンモックに乗っているみたいだ。心地良くて、吐き気がする。
揺蕩う意識の奥、耳触りの良い軽快な音楽が聞こえた。記憶の糸を辿る。チャイコフスキーのバレエ組曲、くるみ割り人形。
微睡んでいた意識が少しずつ鮮明になって行く。自分が夢を見ていることを自覚する。
「この世に未練がありますか?」
歌うような楽しげな声が頭の上から聞こえた。
咄嗟に顔を上げる。突然、目の前の暗闇はしゃぼん玉のように弾けて消えてしまった。
目を開けた航が見たのは、無人のまま進む車両だった。トンネルの中にいるのか窓の外は真っ暗で、等間隔の擦過音ばかりが不気味に木霊している。
天井の照明が白々しく光り、時折、点滅した。航はポケットを探り、携帯電話を取り出す。
メッセージが届いていた。航は目を擦る。
貉 莉贋ス募??
意味不明な文字がディスプレイに浮かんでいた。漢字には詳しくなかったので、それは象形文字のように見えた。文字化けしているらしい。
時刻は午後六時四十三分。その時刻表示を見て、航は目を疑った。おかしい。電車に乗ってから、全く時間が進んでいない。
慌てて席を立って窓の外を覗くが、墨を塗られたように真っ暗で何も見えなかった。辺りを見回すが、誰もいない。
じわりと掌に汗が滲んだ。
嫌な予感がした。逸る鼓動を押さえ付け、携帯電話を操作する。意味不明の文字が羅列され、何一つまともに読めない。
耳鳴りがした。手足から血の気が引いて行くのが解る。理解も出来ないし、したくもない。現状から凡ゆる可能性を考えるが、整合性のある答えは浮かばなかった。
その時、携帯電話が震えた。新着メッセージらしい。相変わらず文字は読めない。
貉 螟ァ荳亥、ォ?
どうやら、この貉という文字は、送信者のことらしい。ディスプレイを見ていると酔いそうだった。
貉 縺ソ繧薙↑蠕?▲縺ヲ繧九h
漢字だけじゃなく、記号まで。
顳顬に鉄の輪でも嵌められているみたいに頭が痛い。
貉 霑弱∴縺ォ陦後¥?
何なんだ。何が起こってるんだ。
誰なんだ。さっきから、こいつは何を言っているんだ。
止まないバイブレーションに、恐怖がじわじわと滲む。まるで誰かに監視されているような居心地の悪さを覚え、周囲を見渡すが、誰もいない。バイブレーションだけが響く。
航は文字を無視して電話に切り替えた。幸い、数字は変換されていなかったので、記憶している湊の電話番号をタップした。
『お掛けになった番号は、現在使われていないか、電源が入っておりません』
機械音声がお決まりのテンプレートを読み上げる。航は舌打ちした。よく見ると、電波が無かった。それなのに、どうしてこのメッセージは届いたんだろう。自分は今、誰の番号に掛けたんだ?
恐怖が積乱雲のように膨張して行く。
蝿の羽音みたいなバイブレーションが響く。
貉 菴募?縺ォ縺?k繧薙□?
その時だった。
真っ暗な窓の外から、急き立てるような激しい物音が始まった。航は肩を跳ね、咄嗟に窓から離れる。誰かが掌で叩いているみたいだった。
開けて、入れて、と訴えるように。
嵐のような騒音だった。頭の中がミキサーで撹拌されたようにぐちゃぐちゃで、何も考えられない。窓の外に何がいるのかも解らない。見てはいけないようにも思った。
酷い吐き気が込み上げて来て、航はその場に蹲った。
胃の底で気泡が浮かび上がるみたいだった。どろどろに溶けた弁当が溢れ出すような気がして、必死に遣り過す。心臓が耳元にあるみたいに煩い。
自分の鼓動を聞いていると、少しずつ、頭が冷静になって行く。航は自問する。今、自分がやるべきことは何だ?
「状況の把握……」
己を鼓舞する為に口にすると、不思議と落ち着いて来る。どのくらい蹲っていたのか、気付くと物音は止んでいた。
航は携帯電話の電源ボタンへ指を伸ばした。リスクもあるが、このまま無駄に充電を消費する訳にもいかない。メッセージが届いていた。念の為にと、最後に確認する。どうせ読めない。諦念しながらメッセージを開く。
貉 006 霑弱∴縺ォ陦後¥繧 3710
その瞬間、胸がかっと熱くなった。
相変わらず文字は読めない。けれど、最後の数字を見て、両目に熱が込み上げて来た。
3710ーーみなと。
遠い昔、湊と二人で考えた数字の暗号。006は、わたる。自分のことだった。文字は読めないが、恐らく、これは湊だ。
じゃあ、さっきから送られて来るメッセージも湊だったのか。理解すると、胸の中に広がっていた恐怖や不安が穴の空いた風船のように萎んで行った。
返信しようとしたが、電波が無いせいで届かない。一方的だ。しかし、湊と繋がっているということが、航の精神を繋ぎ留めていた。
湊ならば、きっとこの暗号を解読したのだろう。航は湊ではないので、別の方法を探して行くしかない。
遭難した時は下手に動くべきではない。此処は山でもなければ砂漠でもないので、誰かが助けに来てくれるだなんて希望的観測はしない。
風前の灯にも似た僅かな希望を抱き、航は鞄を引き寄せた。




