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⑴秘密

 Turn your wounds into wisdom.

(貴方の傷を知恵に変えなさい)


 Oprah Winfrey







 初春の日差しがカーテンの隙間から零れ落ちる。

 清々しい朝だった。


 ここのところ凄惨な事件や超常現象に巻き込まれているので、小鳥の囀りで目覚める朝に幸せを感じる。枕元の目覚まし時計を見れば、起床予定時刻には余裕がある。朝食に手間を掛けても良さそうなくらいだ。


 しかし、航の胸には一つの決意があった。

 絶対にやってやるという強い思いを抱き、二段ベッドの梯子を降りる。


 たたたたた、と凄まじいタイピング音が聞こえている。朝起きた瞬間から、ずっと耳障りだったのだ。


 壁際に置かれた机にノートパソコンを設置し、床一面に書類を広げ、部屋の中はまるで鳥の巣だ。自分の領域を侵されているような堪え難い不快感が込み上げて、今にも怒鳴り付けそうだった。犯人は航の起床に気付きもせず、机に向かっている。


 深呼吸をして、怒りの衝動を呑み込む。

 六秒間堪えてみても収まらなかったので、航は拳を握った。ブルーライトを浴びる後頭部に向かって拳を振り上げる。


 一体何を、そんなに夢中になっているのだろう。

 湊の背中越しにノートパソコンを覗き込む。航の知らない言語で書かれた夥しい文字の海だった。じっと見ていると文字がぐにゃぐにゃと脈打ち、酔いそうだった。




「SLC?」




 見覚えのあるアルファベットを見付け、航はつい口にしてしまった。途端、湊が振り返る。




「また盗み見かよ、悪趣味だな」




 部屋の惨状を棚に上げて、湊が眉を寄せた。航ははっとしてその後頭部を叩いた。想像するよりも小気味良い音がして、湊は俯きながら後頭部を摩った。怒りの衝動が引いて行くのが解る。




「痛いよ。酷いなぁ」

「うるせぇ」




 航はそのまま湊を押し退けて画面を睨んだ。

 英語に似ているが、何処の国の言語なのかよく解らない。その中で繰り返し現れる単語がSLCだった。恐らく、何かのレポートなのだろう。湊の研究内容を考えると、超常現象に関わる内容なのかも知れない。


 湊が横から手を伸ばしてノートパソコンを閉じる。

 航は肩を竦めた。何の研究なのかは解らないが、きっと碌な内容じゃない。




「SLCって何なの?」

「うーん。航に解るかな」




 航は舌打ちした。

 嘗められている。まあ、良い。口を割らせるのなら、搦め手で行く。

 航は湊の肩に肘を乗せた。




「何か、俺に話したいことあるか?」

「……」




 湊は視線を彷徨わせ、言葉を躊躇った。


 呆れるくらい御人好しなので、厚意に弱いのだ。此方が真剣に真摯に向き合う程、湊は鏡のようにそれを返す。


 湊は肩を落とし、早々に白旗を振った。




「ルーカス氏の話をしても?」

「いいよ」

「……実はね、マダム・マリーの旦那さんが経営していた繊維工場を見に行ったんだ」




 そういえば、湊は先日も留守にしていた。

 事後報告になったのは、言えば止められると思ったからなのだろう。溜息を堪えつつ、航は先を促した。




「生前のルーカス氏と交流があったみたいだけど、亡くなったせいか、経営は芳しくなかった。子会社は幾つか閉鎖されていたよ。本社はアルバイトじゃ入れなかったんだけど、マダム・マリーの紹介で見学出来たんだ」

「……それで?」

「社長室の壁に、写真があった。マダム・マリーの家族と、ルーカス氏の家族の集合写真」




 まあ、大した情報ではない。

 調べようと思えば、ルーカス氏の家族くらいネットでも見られるだろう。

 航が離れると、湊は床に散乱した書類を集めながら言った。




「俺が破落戸に追い掛けられたことあったろ?」

「ああ」




 マダム・マリーの自宅へ招かれる前のことだ。

 破落戸に追い掛けられ、航とリーアムが助けに向かった。湊は川へ転落した破落戸を助ける為に飛び降りて、水底の亡者に引き摺り込まれそうになっていた。


 そういえば、あれは何だったんだろう?


 湊は書類の角を揃えながら言う。




「閉鎖された繊維工場を偵察に行って、帰り道で襲われたんだよ」

「はあ?」




 何で、もっと早く言わないんだ!

 航は額を押さえた。それはつまり、あの破落戸はルーカス氏の事件に関わる第三者の差し金という可能性が出て来る。湊は研究の片手間に調査をしているが、首を突っ込み過ぎているということだ。


 航は眉間を揉みながら、慎重に問い掛けた。




「……手を引く気は?」

「うん。今なら、引いても良い。ルーカス氏の事件もソフィアの事情も、他人事だからね」




 やけに物分かりが良い。嘘は無いのだろうと思う。湊にとっては、然程、興味を惹かれることではないのだ。


 集め終えた書類をファイルへ入れ、湊は続けた。




「暴力や犯罪は専門外だ。葵君には連絡してある。手を引くように釘も刺されているし、深入りするつもりは無いよ」

「何を企んでるんだよ」

「何も」




 納得は出来なかったが、湊がそう言う以上は追求出来ない。兄に対して最も有効な手段は論破ではないのだと知っている。

 航は腰に手を当て、息を吐いた。




「まあ、いいや。今日の予定は?」

「大学に行くけど」

「春休みだろ?」

「実験が途中なんだよ」

「ふーん。何時に終わるの」

「何? 用があるの?」




 湊が不思議そうに小首を傾げる。航は起床した時の決意を思い返す。




「運動不足で不健康なお前を、引っ張り出してやろうと思って」

「バスケ?」

「ああ」

「良いよ。練習終わったら連絡して。ストバスコートで待ち合わそう」




 トントン拍子に話が進むので、肩透かしを食ったような心地だった。

 身支度を整えた湊が立ち上がり、大きく背伸びをする。猫のような大欠伸を一つ漏らし、くるりと振り返る。




「朝食は俺が用意するから、ゆっくり支度して良いよ。航が出たら、俺も一眠りするから」




 疲労感を滲ませ、湊が笑った。

 航は苦笑し、自室を出て行く湊を見送った。







 7.神隠し

 ⑴秘密









 ニューヨーク市の中心であるマンハッタン。

 天を突く高層ビルの間を抜ける風は、肌を刺すように冷たかった。湊は悴む指先を擦り合わせながら、マフラーに顎を埋めた。


 煌びやかな街はいつでも人で溢れている。流通の交差点。経済の中心地。ブティックの鏡のような窓に自分が映る。伸ばしたままの髪とダサい黒縁眼鏡。紺色のピーコートに白いマフラーを巻いて、足元は厳つい赤のスニーカーを履いている。


 街を歩く時は、人の群れに溶け込むように注意する。目立たないように、適度なダサさを演出する。自分は冴えないオタクに見えているだろうか。客観視することは難しいが、及第点ではないだろうか。


 駅前の大通りから一本抜けると、敗退的な雰囲気を漂わせる裏通りに出る。落書きだらけの煤けた壁には配管が走り、空は遥か天空に見えた。

 アンダーグラウンドの人々が胡乱な眼差しで界隈に溜まっている。目を合わせないようにして早足に通り過ぎると、一軒のカフェに行き着く。


 半分シャッターを閉じたその店は、客を遠去けるようにして沈黙を守っている。closedの看板の下がった扉を押し開ける。扉に飾られた風鈴が静かに鳴った。


 薄暗い店内に客はいなかった。

 革張りの赤いカウンター席が七つ、二人用のテーブル席が一つ。磨き込まれた飴色のカウンターの奥で、口髭を蓄えた店主が小さく会釈した。湊は応えるつもりで会釈を返し、店内を見回した。




「ああ、いた」




 目当ての人物を見付け、自然と頬が緩む。

 カウンター席の一番奥。唯一の客は視界に入っている筈なのに、目を凝らさなければ見付けられなかった。それは自分の迂闊さではない。対象とする人物が、異常な程に存在感が無いのだ。


 黒いパンツに白い襟付きのシャツ。

 カウンターの上に肘を突き、茫洋と此方を見詰めている。彼ーー葵君は、透明人間だ。目の前にいても、その存在を疑う程に存在感が希薄で、初見ではまず知覚されない。


 葵君がそっと手招きしたので、湊は駆け寄った。

 カウンターにはエスプレッソが一つ。まだ湯気を昇らせている。湊が隣に座ると、店主がグラスに入ったオレンジジュースを運んで来た。チョコチップの入ったクッキーが添えられ、湊は礼を言った。




「可愛いね」




 ラッピングされたそれは、黄色の可愛らしいリボンが付いていた。何が可笑しかったのか、葵君は口元を歪めている。


 航なら、憤慨しただろうな。

 そんなことを思いながら、ストローの袋を破った。

 玩具みたいな赤い色をしたストローを咥えると、葵君が言った。




「今日は一人なのか?」

「うん。航はクラブの練習。頑張ってるよ」




 葵君は眩しそうに目を細めた。

 幼い頃から自分達を見守って来てくれた葵君には、航がバスケットボールに打ち込んでいるのが嬉しいのだろう。決して口にはしないけれど、側で見守っていてくれる人がいるのは、心強かった。


 湊はグラスを両手で包み、店主を見遣った。

 店主は軽食の陳列棚を磨いている。柔らかな天井灯が店主の丸眼鏡に反射する。湊は両足をぱたぱたと揺らしながら言った。




「捜査は進んでるの?」

「お前に教えると思うのか?」




 質問を質問で返され、湊は肩を竦めた。


 そんなこと解っている。真面目な捜査員である葵君は、悪戯に捜査状況を第三者に漏らしはしない。

 湊は苦笑した。




「ロイヤル・バンクの投資先の繊維工場に行ったよ」




 何処から話せば、葵君は納得してくれるだろう。

 湊は頭の中で言い訳を考えたが、開き直って堂々と答えた。




「繊維工場の事務所に、ルーカス氏の家族写真があった」




 葵君はエスプレッソを啜った。

 叱られても良かった。自分の調査は一般人の枠を超えている。このまま続けたら、歯止めが効かなくなる。湊はそんな予感めいた自覚があった。




「良い写真だったよ」




 葵君が反応してくれないと、独り言を言っているみたいだ。腹の据わりが悪くなって、湊はグラスを撫でて誤魔化した。


 コーヒーカップを置いた葵君が、虚空を睨んだまま言った。




「お前はどう見えたの?」




 漠然とした問いだ。湊は笑った。




「聞きたいなら、話してよ。俺ばっかり教えるのは、フェアじゃない」

「お前の感想に価値があるのか?」

「それは、聞いてからのお楽しみだよ」




 公平は湊のモットーだ。

 葵君は溜息を吐いた。




「……ルーカス氏の事件を洗ったが、あれ以上の情報は出て来ていない。他殺の線は無い。完全な密室で、容疑者のアリバイに不審な点は無かった。自殺だ。上にも、そう報告してる。間も無く捜査は打ち切られるだろう」




 そうだろうな。葵君は、嘘を吐いていない。


 湊は頭の中で情報を整理する。警察の捜査に不備が無い以上、自殺なのだろう。問題はただ一つ。ソフィアの証言のみだ。

 ソフィアが偽証するメリットは何も無い。下手をすれば己の立場を危うくするだろう。彼女は嘘を吐いていなかった。


 自分には、他人の嘘が解る。だが、驕るつもりは無い。この世には悪意の無い嘘がある。

 何故だ。何故、ソフィアはあんなことを?


 湊が考え込んでいると、葵君が顎でしゃくった。

 今度は此方の番だ。湊は答えた。




「家族の写真を見た時、違和感があったんだ」

「違和感?」

「うん。ーー誰も、笑っていなかった」




 雑多な事務所のコルクボードに貼られていた一枚の写真を思い出す。マダム・マリーとその家族。隣に並ぶルーカス氏一家。彼等は余りにも対照的だったのだ。


 マダム・マリー達は、慣れない集合写真に硬い表情をしていた。だが、彼等は微笑んでいたのだ。多分、其処に嘘は無い。一方で、ルーカス氏の一家は仮面のような笑顔だった。


 他人の家庭の問題に口を出す権利も無いけれど、愛妻家で知られたトーマス・ルーカス氏は其処にいなかった。彼等は嘘を吐いている。直接会った訳ではないが、解る。




「妻はこの世にいないぞ」

「娘がいる」




 葵君は眉を寄せた。




「九歳だぞ?」

「そうだよ」

「……」




 葵君は何かを考えるように俯いていた。


 九歳。されど、九歳だ。

 自分達は六歳の頃、緊急搬送された父の元へ二人だけで二時間掛けて行ったことがある。信念を貫くことに年齢は関係無い。必要なのは、引き金に掛けた指を引く覚悟があるか如何かだ。


 葵君は立ち上がった。




「ルーカス氏の家族をもう一度洗い直す」

「うん」

「お前はこれ以上、深入りするなよ」

「解った」




 予想通り釘を刺され、湊は笑った。

 会計を済ませる葵君に向かって声を変える。振り向いたタイミングでチョコチップクッキーを投げると、葵君が睨んだ。




「お仕事頑張って」




 舌打ちが聞こえる。

 チョコチップクッキーと葵君の親和性の低さが可笑しかった。似合わない。けれど、彼の好物はチーズケーキだと父から聞いているので、意外に甘党なのかも知れない。


 去り際に、葵君が振り返った。




「SLCの件は片が付いたのか?」




 その瞬間、心臓が跳ねた。

 耳元で脈が打つ。湊はへらりと笑ってみせた。




「もう、俺には関係無いことだ」




 葵君は何も言わなかった。店主が訝しむような目を向けて来るので、湊はオレンジジュースを一気に飲み下して席を立った。

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