⑹執着の果て
二階の踊り場を飛び降りる。
辺りの風景はモノクロに見えた。擦れ違う医師や看護師が何か喚いているが、聞こえない。前を塞ぐ警備員の脇を擦り抜け、廊下を駆ける。
どうして、頭が無かったと思う?
あの疑問の答えを、航はもう知っている。
頭は必要無かった。
目も、耳も、口も、顔も、思考すらも必要無かった。
幼い少女の歪んだ執着を思う。
目的地に到着し、病室の扉を開け放った。
夕陽に染まるカーテンが風も無いのに揺れていた。
窓辺のベッド、目覚めない少女。
酷い既視感だ。泣き出したくなる程に。
窓の前に誰かが立っている。
CMで見た服を着ているが、頭が無かった。切断されたというよりも、初めから其処には何も無かったかのようだ。
「航……」
か細い声でソフィアが呼んだ。
ベッドの側に蹲り、庇うようにリュウが立っている。
「危ないので、下がっていて下さい」
リュウは何かの術を唱えているようだった。
この霊には耳が無い。目も見えない。言葉も話せない。考えることも出来ない。
ソフィアは俯いていた。自分の声が届かないことを悟ったのだろう。何せ、この霊は、初めから助けを求めていなかったのだ。
見返りすら求めない。けれど、リーアムに近付く人間を追い払おうと必死だった。それ以外の目的は無かったのだ。
航は問い掛けた。
「祓うと、どうなるんだ?」
この生霊は、謂わば少女の暴走した恋心だ。
リュウは無表情だった。
「これは呪詛と同じものです。以前、言いましたよね。呪詛は受けるか、返すしかない」
返す?
航は耳を疑った。この呪詛を返すということは、その矛先は、昏睡状態のあの女の子か?
「返されたら、どうなる」
「貴方は、知っているでしょう」
リュウの声は冷たく乾いていた。
以前、リュウの呪詛返しを見た。術者に返された呪詛は倍になって、本人の元へ戻る。廊下の向こうに引き摺り出されて消えた教授を、今も鮮明に覚えている。
堪らなくなって、航は叫んだ。
「他に方法は無いのかよ!」
だって、この生霊は、自覚も無いままに生み出されたのだ。悪意じゃない。あんな小さな女の子が、呪詛を受けるというのか?
「どちらを選びますか。僕はどちらでも構いません」
被害者か、加害者か。
どちらかが罰を受けなければならない。
航は奥歯を噛み締めた。
「ソフィア! どうにか出来ないのか!」
ソフィアは俯いていた。
他に手段は無いのか。どちらか一人しか守れないのか。目の前にいるのに!
絶望感に目の前が暗くなる。頭の無い霊はベッドに向かって歩み寄る。時間が無い。
縁も所縁も無い他人だ。全てを救えるとは思わない。だけど、こんな、何も出来ないまま、一方的に!
「航!」
湊の声が、夜明けを告げる鐘の音のように響き渡った。暗くなって行く視界の中で、その存在が灯火となって世界を照らし出す。
「リュウを信じろ!」
声は窓の向こうから聞こえる。
何処から叫んでいるのだか解らないが、航は何故だか可笑しくなってしまった。
「俺は湊の選択を信じる」
祈るような気持ちでその肩を押すと、リュウは奇妙な顔をしていた。だが、すぐに霊へ向き直ると、術を始めた。
霊が足を止めた。リュウの声に怯えているのか、じりじりと後退りを始めた。
窓際に追い詰められた霊は、身を守るように腕を抱き、そして、幻のように消えた。
安堵の息を漏らす間も無かった。
階下から、激しい物音が響いた。
咄嗟に体を乗り出して覗き込むと、頭の無いあの霊が何かを窓の向こうへ引き摺り出そうとしていた。
「湊!」
ソフィアが叫ぶ。リュウは舌打ちを漏らし、踵を返した。湊の元へ駆け付けようと言うのだろう。
だが、湊の上半身は既に窓の向こうだった。リュウは間に合わない。リーアムが縋り付くように湊を押さえているが、最早時間の問題だ。このままでは二人共転落する。
二階だ。大した怪我にはならないかも知れない。でも、打ち所が悪かったら?
この霊は湊を落とそうとしているのか、連れて行こうとしているのか。どうして少女ではなく、湊が。
もう、考えている余地は無かった。
航は窓枠に手を添え、一気に飛び降りた。
ソフィアの悲鳴が聞こえたような気もしたが、今は構わない。湊の胴を掴み、ヤモリのように壁に身体をくっ付ける。
リーアムの切羽詰まった声が頭の上から聞こえた。
「航!」
頭の無い霊は、湊の腕を掴んでいた。そのまま窓の向こうへ連れ出そうとしている。いや、違う。何処かへ連れて行こうとしている?
二階しか無い筈の建物が、高速ビルのように見えた。中庭が消失し、ブラックホールのような闇に染まっている。こんなところに落ちたら、誰も無事ではいられない。
吹き付ける風が痛い程に冷たかった。
足元がぐらぐらと揺れる感覚がする。怖いし、逃げたいと思う。だけど、それ以上に、腹が立って仕方が無かった。
「ふざけんな……!」
燃え盛る激怒が脳天を突き抜けるようだった。思考回路が怒りで焼き尽くされ、まともに考えることが出来ない。
何で、湊ばっかりこんな目に遭わされるんだ。少なくとも、今回の件については湊に非は無かった。
狙うならリーアムにしろよ。肋骨の折れた湊よりは頼りになる筈だ。
湊の腰を押さえ、頭の無い霊を睨む。その痩躯からは想像も付かない力が、湊を連れて行こうとしている。それでも、航に手を離すという選択は無かった。
ここで諦めたら一生後悔するという悍ましい確信があった。生きて行く中で何度もこの瞬間を反芻し、その度に心が死んで行く。そんな後悔に塗れた人生なんて死んでも御免だ。
湊が手を伸ばす。それは溺れる者が水面を目指して藻掻く様に似ていた。指先が空を切る。何かを探し求めているみたいだった。
「もう止めろ……!」
湊が掠れた声で呼び掛ける。
その声は航へ向けられたものではない。ならば、誰に?
湊が手を伸ばす。だが、その手は何も掴まない。
考えるだけの余裕は無かった。
湊の身体はもう殆どが窓の向こうにあった。航の身体も引き摺られ、どうにか片手で窓枠を掴んでいる状態だ。リーアムが身を乗り出して腰を掴んでいる。
二人掛かりでも駄目なのかよ。
どうしろって言うんだ!
扉の開く音がした。
病室の扉を開け放ったリュウが、真っ青な顔で肩を上下させている。
どちらを選びますか?
リュウの声が蘇る。航は奥歯を噛み締めた。
「……リュウ、俺は選ぶぞ」
天秤の傾いたどちらかしか選べないのなら、俺は湊を選ぶ。そんなこと考える余地も無い。
湊は手を伸ばし続けている。喘ぐように制止を訴える先を、航は知っている。湊には霊の声が聞こえない。姿も見えない。触れることも出来ない。その手が、声が、届くことは無いのだ。例え、どんなに願ったとしても。
「僕も同じものを選びます」
リュウの声がした。
航には識別出来ない異国の呪文が聞こえる。抑揚の無い冷めた声だった。同時に、苦渋を押し殺したような悲しい声だった。
頭の無い霊が狂ったように悶え始める。リュウの声を恐れているのだ。しかし、口は無い。耳も、目も、顔も。
湊が「やめて」と繰り返し叫ぶ。その声を聞く度に、心臓が握られるみたいに胸が苦しくなる。航はただ堪えていた。
突然、空中に放り出されたかのような転落感に襲われた。航は湊と共に病室の中へ吹っ飛ばされていた。
軽く二回は宙返りしたと思う。目眩に苛まれながら窓の外を見るが、其処にはもう何もいなかった。
飛び起きた湊がベッドへ駆け寄る。枕元のナースコールを引っ掴み、金切り声で助けを呼んでいた。
廊下の奥から、医師と看護師が津波のように押し寄せる。鬼のような形相で医師が心肺蘇生法を試みる。良くないことが起きていることは、傍目にも解った。
蚊帳の外に追い遣られた湊が、壁に凭れ掛かる。そのままずるずると頭を抱えてしゃがみ込む。
心肺停止。
医師が時計を見る。其処から放たれた言葉は、ぞっとする程に冷たかった。
6.執着
⑹執着の果て
雨が降っていた。
烏のような傘を傾けて、人々が列を成す。
鐘の音が遠く響き、頭の中を攪拌しているみたいだ。目を伏せて故人を悼む人々、神父の言葉。手向けられた白い花が、現実感を喪失させて行く。
航は、教会にいた。
葬儀が行われている。自分の信仰しない神の家で、人々が頬を濡らし、嗚咽を漏らす。
病室で起こった事象を思い出す。
リュウの呪詛返しによって、生霊は術者であるあの女の子の元へと返った筈だった。だが、その矛先が向いたのは湊だった。
頭の無い霊は湊を連れて行こうとした。
航にも、リーアムにも、ソフィアにも止められなかった。だから、リュウが生霊を祓った。その結果、あの女の子は意識を取り戻すこと無く、死んだ。
今日はあの女の子の葬儀だった。
年齢は九歳。バスケットボールクラブでの練習を終え、帰宅する途中だった。飲酒運転の乗用車が歩道に突っ込んで来て、脳挫傷。意識不明の状態が一週間続き、亡くなった。
棺桶に縋り付く両親の慟哭が、今も耳に残っている。早過ぎる死だ。吐き気がする程の理不尽だった。
埋葬には立ち会わなかった。
航は外野で、他人だった。
葬場である教会から波が引くように人々が消えて行く。その列から一人外れて教会に残る兄の姿が見えた。
自責の念や無力感に打ちのめされているのなら、叱らなければならなかった。他人の結果を自分が背負えると思っているのなら、それは驕りでしかない。
教会の扉を開く。街の小さな教会は無数の燭台に照らされ、夕焼けの中にいるみたいに明るかった。教壇の後ろには、聖母マリアの鮮やかなステンドグラスが飾られ、天鵞絨の絨毯を鈍く染めている。
湊がベンチに座っていた。神を信じない兄が教会にいるのは、不思議な感覚だった。
航が側へ歩み寄っても、湊は目も向けない。淡褐色の瞳は聖母マリアを見詰めていた。今更、遠慮をする間柄でもない。航は問い掛けた。
「あれは、何だったんだ?」
あの頭の無い霊が、生霊だったということは解った。だが、その行動理念が全く解らなかった。どうしてその矛先が湊に向いたのか、あの女の子が命を落としたのか、解らない。
超常現象と相対する時、航はいつも理不尽を覚えていた。まるで、抗いようの無い運命の奔流が自分を吞み込もうとしているようで、不快だった。
湊は目配せするように此方を見て、無表情のまま答えた。
「リュウが言ってただろ。呪詛みたいなものだよ」
航は鼻を鳴らして、隣へ座った。五人掛けのベンチの二人分くらいを占領し、思い切り凭れ掛かる。固くて冷たくて、座り心地は最悪だった。こんなところに何時間も座っているなんて、正気の沙汰とは思えない。
湊は俯いて、自分の手を見詰めていた。
「PSIの一種なんだ。PSIは脳から発生する。継続させれば脳に負担が掛かり、体力も消耗する。……あの子は意識が無かった。自分で止めることは、出来なかった」
航は小さく息を吐いた。
「どうして頭が無かったのか、解ってたのか?」
湊が顔を上げた。
淡褐色の瞳に、燭台の炎が映っている。ゆらゆらと揺れる瞳が、泣いているように見えた。
まるで、懺悔だ。
神父にでもなったような心地で、航は兄の言葉を聞いていた。
「あの子は、何も求めていなかったんだと思う」
「何も?」
「何も」
湊は言った。
「何も聞きたくなかったし、何も見たくなかった。話したくなかったし、考えたくなかった。ただ、想っているだけで良かった」
「……俺には、そんな殊勝なものに見えなかったけどな」
航は吐き捨てた。
湊は否定も肯定もしなかった。他人の心を推し量れる程に、自分達が偉くなったつもりは無い。だが、解らないからと言って、美化するつもりも無かった。
「あの子は憎んでたんだろ」
航は言った。
湊も否定しなかった。
まだ九歳ーーされど、九歳の女の子だ。
恋に年齢は関係無いのだと思う。振り向かないと解っている相手に恋情を募らせることは苦しかっただろう。諦めてしまえば良いだなんて他人だから言える。
あの子は、憎かったのだ。
振り向かないリーアムも、並び立てる少女も、それを諦められない自分も。報われないと解っていた。応えてくれるとすら思っていなかった。それでも、膨れ続ける恋心が、生霊となった。
それは誰にでも起こり得ることなのだ。あの子だけが例外なのではない。人は生きて行く中で壁にぶつかり、外界からの刺激を受け、妥協を覚え、乗り越えて行く。ただ、あの子は事故に遭い、それを解決する心理作用を断たれてしまった。
「生霊とは、広義で言うなら生体エネルギーだ。昏睡状態のあの子が、それを取り除かれて生きられるとは思えなかった。リュウの除霊が、あの子の精神を追い詰めることは解っていたんだ」
最大多数の最大幸福。
譫言のように湊が言う。意味は解らなかったけれど、それを聞くと、遣り切れない思いになる。
「俺が呪詛返しを提案したのはね、打算があったんだよ」
アンカー理論。
湊が呟く。
呪詛は術者の元へ戻る。あの病室には自分とリーアムがいた。アンカー理論が正しければ、呪詛はリーアムによって拡散され、湊の元へ向かう。
「俺に声は聞こえない。姿も見えない。でも、手は届くかも知れない。そして、伸ばした手を取ってもらえたという経験が、あの子を生かすかも知れない。そう思った」
引き摺り込まれる瀬戸際で、湊が藻掻くように手を伸ばしていたことを思い出す。制止を訴え続けたことを知っている。あれは全て、生霊となった女の子へ向けられていた。
「リーアムじゃ駄目だった。あの子の心に寄り添える、無関係の人間じゃなければいけなかった」
だが、湊の手は届かなかった。
後味の悪さを噛み締めながら、航は一つだけ問い掛けた。
「俺、余計なことしたか?」
湊は首を振った。
「航がいなかったら、俺が死んでた」
航は舌打ちした。
扉が開く。激しい雨音が聞こえて、消えた。
濡れた革靴が板張りの床を鳴らしてやって来る。
「リーアム」
航は彼の名を呼んだ。
リーアムは首を竦めて、苦笑した。
「君達が教会にいるのは、何だか不思議な感じだね」
「ああ」
航は頷いた。
「此処は、俺達の数少ない共通点の一つだ」
湊が顔を上げる。
抜き身の刃のような危うさを秘めて、湊が言う。
「俺達は神には祈らない」
リーアムは笑わなかった。
「君達らしいね」
三人でベンチへ座る。
神父がそっと顔を覗かせて、痛ましげに目を伏せる。奇妙な三人組だと思っただろう。葬場にいながら、手向けの花も持たず、埋葬に立ち会わず、ただ無力感に打ちひしがれている。
「僕に何か出来たかな」
「どうかな」
航は答えた。
「きっと、誰にも何も出来なかった」
助けるという行為は、一方的なのだ。
互いに手を伸ばさなければ掴めない。
幾ら足掻き、骨を砕いても届かないものがある。
教壇の向こうから、再び神父がやって来た。その手には三人分のマグカップがあった。
慈愛に満ちた微笑みで、マグカップを手渡される。ホットミルクだ。柔らかな湯気が昇る。
両手で包み込んでいると、手足が痺れるような感覚がした。自分で思うより身体は冷えていたらしい。
夢中で息を吹き掛けていると、神父の後に続いてソフィアと取り憑かれていた少女が現れた。
叱責を覚悟していた。
だが、少女は両目に涙を浮かべて、そっと微笑んだ。
「助けてくれて、ありがとう」
湊が目を伏せるのが見えた。
この感謝を受け取る資格は無い。叱責された方がマシだ。きっと、そう思っている。
リーアムが徐に立ち上がる。マグカップをソフィアに押し付けて、少女を連れて出て行った。
「湊」
ソフィアが呼んだ。
「貴方の研究を否定するつもりは無いわ。私に反論する権利も無いしね」
「ああ」
「でも、私が間違っているとも思わない」
ソフィアは強い目をしていた。
幾度と無く風が吹き、幾度と無く踏み付けられても、決して折れることの無い葦のような強さがある。
「私は信じるわ。今は駄目でも、いつか届くと信じているから」
マグカップを片手に、ソフィアが背を向ける。
くすんだ金髪にオレンジ色の炎が反射し、きらきらと輝いて見えた。
二人ぼっちの教会で、航は口を開いた。
「俺は湊を信じた。後悔もしてない。皆が最善を尽くした」
「うん」
多分、この言葉が一番湊を傷付ける。
そう解っていても、航は言わなければならなかった。
「お前のせいじゃない」
きっと、湊には結末が見えていたのだろう。あの霊の正体を知った時、全てを理解した筈だ。それでも手を伸ばし続けた湊を誰が責められる?
最善を尽くしだからと言って、最良の結末が訪れるとは限らないのだ。そんなこと、解っていた筈なのに。
湊は、少しだけ笑ったようだった。
「航は、格好良いな」
そんなことを言って、湊が鼻を啜った。
手の中のホットミルクを見下ろす。冷め切らない内に飲み干さなければならない。
一口含むと、ミルクと蜂蜜の優しい味がした。
ミルクを飲み干し、教会を出る。
リュウが車を停めて待っていた。何かを言いたげにしていたが、湊は黙って後部座席の扉から乗り込んで行った。
リュウの横に立ち、睨み付ける。相変わらず何を考えているのか解らない男だが、間違い無く、湊の友達なのだろう。
友達の為に危険を冒し、泥を被ることを厭わない。そういう人間が、湊の側にいてくれて良かった。
航は舌打ちを漏らし、独白のように吐き捨てた。
「悪かったな」
「いいえ。……貴方も、損な性格ですね」
「はは」
航は笑った。
そんなの、解り切ったことだった。
全てを救えるとは思わない。だけど、何もかもを諦めて生きられる程に賢くもない。
無力でちっぽけな自分達を、笑いたければ笑え。無様に足掻く愚かな俺達を指差して糾弾すれば良い。それでも、俺達はその嘲笑の中を胸張って駆けて行く。




