⑷演繹
月の無い暗い夜だった。
冷たい夜風がプラタナスの梢を震わせる。
駐輪場へ踏み出した瞬間、足の裏に柔らかな感触があった。ばらばらと崩壊するプラタナスの実が、恨めしいと此方を見ているようだ。点在する街灯の橙色の灯りが仄かにアスファルトを照らす。バイクはスポットライトが当てられたようにぽつりと停まっていた。
シートに跨り、鍵を差し込む。エンジンの拍動を感じながら、航は焦る気持ちを抑え切れなかった。
良くないことが起ころうとしている。嫌な予感が胸の中に充満し、指先が震えた。
弾丸のように駐輪場を飛び出し、病院前の大通りを走り抜ける。信号待ちの車の間を縫って走り、レーシングカーのように発車した。
スピードメーターに目は向けない。視線は前方へ固定し、神経は周囲へ張り巡らせる。
さあ、こっちだ。
湊の声が蘇る。児戯のような口調だった。
自己犠牲も蛮勇も自分達の遣り方じゃない。何か意図がある筈だ。無計画に自分を危険に晒すようなことはしない。
無我夢中だった。
何処へ向かっているのか、湊が何処にいるのか。そんなことは考えもしなかった。夢中でバイクを走らせて、到着した時、闇の中に小さな火が灯っているのが見えた。
「ーー航?」
湊の声がした。
虚を突かれたかのような無作為な声だった。
バイクのヘッドライトが辺りを照らす。湊とリュウが蝋燭の火を囲んでしゃがみ込んでいた。
「早かったね」
なんだ、そりゃ。
そう言おうと思うのに、口の中がからからに乾いていて声が出なかった。酷く息が切れている。まるで、それまで無呼吸でいたみたいだ。
湊はリュウと顔を見合わせると、子供のように手招きした。航はバイクのエンジンを切って側へ歩み寄った。
蝋燭の側には、一枚の半紙があった。無数の記号が墨汁で書かれている。漢字のようだが、流れるような達筆で解読出来なかった。そもそも、漢語圏で生活したことが無い。
ならば、これを書いたのはリュウだ。そして、リュウが書いたということは陰陽道に属する何かの術式なのではないか。演繹的な思考を巡らせていると、湊が周囲を見回して問い掛けた。
「ソフィアは無事? 霊と話は出来た?」
「……」
航の沈黙から答えを拾い、湊は控え目に笑った。
「そりゃそうさ。だって、耳も口も無かったからね」
見透かすような言葉に苛立ちが込み上げる。
解っていたならーー、と言おうとして止めた。湊は初めからソフィアの交霊に苦言を呈していた。
航は蝋燭を見下ろし、腕を組んだ。湊の顔を見てから、胸の中に広がっていた不安は蝋のように溶けてしまった。
「それで、お前は何してんの」
「霊を呼んでる」
どうやら、蝋燭の側にある術式は霊を呼ぶ装置らしい。熟、非科学的だ。
航の思考を読んだのか、湊が言った。
「俺はね、霊能力っていうのはESPの一種だと考えているんだ。霊は残留思念。霊能力者と呼ばれる人は、物体や場所に残された記憶を読み取っている」
「だから、霊の思考は停止してるって?」
「そう。そもそも、霊に思考なんてものは無いよ。其処にあるのは、ただの記憶だ。感受性の高い人は物体や場所から残留思念を読み取り、同調する。気が弱ければ呑み込まれる。狐憑きみたいにね」
湊がつらつらと語る。
先程までの緊張感が嘘のようだった。だが、人が危険に晒されているのだ。湊もリュウも真剣だ。航は気を引き締めるつもりで深呼吸をした。
「じゃあ、さっきのは何だったんだ?」
「さっきの?」
ああ、そうだ。湊は知らないのだった。兄がまるで見ていたかのように話すので、失念していた。
航は先程のことを話した。その間、湊は興味深そうに頷き、リュウは空を見て何かを唱えていた。
「航のGPSの反応が鈍ったから、霊が現れたと思ったんだ。助けられたなら、良かった」
「……電話で言ってたこと、どういう意味だったんだ?」
「何のこと?」
「その子じゃないって」
「ああ、それはーー」
湊が何かを言おうとした時、リュウが遮った。湊が叱られた子供のように肩を竦める。しかし、リュウの目は闇の向こうを睨んでいた。
「霊が来ます」
航も湊も口を噤んだ。
砂利を踏む音がする。
それは着実に距離を詰めていた。吊り橋を渡るかのように慎重に、じりじりと、一歩ずつ。
ぽつんと佇む街灯の下に、誰かが立っていた。
航の頭の中に鮮烈なフラッシュバックが起こった。それは首を求め彷徨ったあのビスクドールだった。臙脂色のドレスを揺らしながら、自分達の元へと迫って来る。
逃げなければ。
思考回路を焼き尽くす程の衝動が駆け巡った。手足から血の気が引いて、奥歯ががちがちと鳴った。腹の奥が収縮するような嫌な感覚だった。
教会の壁に叩き付けられ、昏倒した湊の姿が網膜に焼き付いている。その矛先が何処へ向かうのか知っている。
咄嗟に湊の腕を掴む。
逃げなければならない。航の頭の中にあるのは、それだけだった。だが、湊は腕を取られても動こうとしなかった。
「大丈夫」
濃褐色の瞳は街灯の下を見ていた。
湊には見えないし、聞こえないし、感じないのだ。霊に連れ去られ、目の前で凶器を振り翳され、首を絞められ、それでも湊にはその姿を見ることさえ出来ない。きっと、真っ先に狙われるのは湊だ。
その湊が、大丈夫だと言っている。
逃げなければならない。
その思いは、潮が引くように消えてしまった。
俺が、俺がやるんだ。
腹の底から勇気が湧き出して来る。
航は目を凝らした。闇の奥、街灯の下、誰かが立っている。
黒いコート、白いブラウス、レースのスカート、黒いブーツ。ああ、女の子だ。頭は無いけれど、女の子だと判る。
「今、何処にいる?」
湊が問い掛ける。航は街灯の下を指し示した。
「彼処だ。街灯の下……」
「頭は?」
「無い。こっちに近付いて来てる……」
ふむ。
湊は顎に指を添えて唸った。
「航。俺の代わりに霊を見ていてくれ」
「ああ」
「あの霊は、リュウの術で此処へ誘き寄せたんだ。どうやら、俺の存在は霊にとって目障りらしいからね」
「お前を狙って来たってことか?」
「違うよ。俺達は誘導しただけ。霊の狙いは変わってない。だから、目的を達成するまで同じことを繰り返す」
語り聞かせるような落ち着いた声だった。
非日常的な状況にありながら、その声を聞いていると気持ちが落ち着いて行く。不思議な感覚だった。まるで、深い海の底を潜水艇で何処までも潜って行くような。
湊が言った。
「じゃあ、その目的って何だと思う?」
霊の目的?
航は眉を寄せた。
「どうして頭が無いと思う? 人の残留思念は人の形を取りながらも、屡々身体が欠損している。それは死んだ瞬間の記憶に引き摺られるからだ」
「頭を失くした?」
「頭部を失くしていたら即死だよ。記憶に残る余地は無い。……ずっと考えていたんだ。どうして、頭が無いのか」
霊は残留思念。湊の主張は変わらない。
湊は心霊写真に否定的な態度だった。それは、心霊写真ではなく、頭が無かったからか。
頭の無い霊は存在しない。湊はそう考えていたのだ。
「人は考える生き物だ。それなのに、頭そのものが無いっていうのは、不自然じゃないか?」
霊に自然も不自然も無いように思うが、湊の理論に合わせると、確かに違和感があった。
どうして?
疑念がぐるぐると頭の中で回る。航はふと口を開いた。
「頭は必要無かった?」
湊が得意げに指を鳴らした。
「俺も同意見。次の問題は、どうして必要無かったかということだ。頭が無かったら、見えないし、聞こえないし、考えられない。顔も解らない。でも、あの霊は思考の結果、頭部を失くした。その意味は?」
頭の中に一つの答えがあった。
それは、航がこれまで遭遇した霊とは決定的に異なる性質を孕んでいた。霊は思考しないから、学習しない。その前提条件と合う答えとは。
「死んでいない?」
霊とは死者。航の中には固定観念があった。事実として、航がこれまで遭遇した霊は皆、死者だった。
だけど、目の前にいる霊は違う。
死んでいない。だが、生者でもない。じゃあ、これは何だ。
「生霊だよ」
少なくとも航にとっては、聞き覚えの無い単語だった。生きている霊とは、酷い矛盾だ。だが、湊の言う通り霊が残留思念ならば、生者であっても霊を生じ得ることになる。
「どうして、頭が必要無いと思う? 俺なら身体を失くしても頭だけは残す」
頭ーー。
目か、耳か、口か、脳か、顔か。それとも、その全てか。あの霊がいらないと判断したのは、何だ。
あの霊は女の子だ。女の子がそれを不要としたのは、何故か。
航には、それが解るような気がした。
リュウが言った。
「これ以上は留められません」
「解った」
湊が頷くと、リュウは蝋燭を吹き消した。途端、霊は闇の中に消えてしまった。
一瞬の沈黙。湊がポケットから携帯電話を取り出す。航はブルーライトに照らされた兄の横顔をぼんやりと見ていた。
6.執着
⑷演繹
「暫く病室には現れないよ。次に現れるなら、それは俺のところだと思う」
探査装置を片付けながら、湊が淡々と言った。
根拠不明の上、全く安心出来る内容ではなかったが、一先ず航はリーアムへ連絡をした。
母を心配させる訳にはいかないので、航はバイクの後部座席に湊を乗せて自宅へ戻った。既に夜は明けていた。
リーアムの家に泊まると言った嘘を、母は信じてくれたようだった。
着衣水泳でもしたかのように身体が怠かった。自室に戻るなりベッドに倒れ込み、着替えもせずに眠ってしまった。
頭の無い霊と遭遇して数時間。
航が目を覚ますと、湊はいなかった。
嫌な予感を抑えつつ航がリビングへ行くと、暖炉の前に湊がいた。相変わらずのオタクスタイルでノートパソコンに向き合っている。
薪の爆ぜる音に凄まじいタイピング音が混ざっていて、不快だった。どうやら、湊は眠りもせず、パソコンとにらめっこをしていたらしい。
その傍にはリュウが腰掛けていたので、航は少しだけ驚いた。どうやら、航が眠った後に訪れたらしい。
母に言い付けられて紅茶を出した。御茶菓子のフィナンシェが美味そうだったので、自分のマグカップも用意した。
リビングテーブルに三人分のカップを並べていると、目の端に得体の知れないものが映った。昨夜見掛けたリュウの術式に似ている。また、碌でもない悪巧みだろうか。
昼前になると、ソフィアが来た。
ばつの悪そうな顔で、両目は薄っすらと充血していた。航は気付かなかった振りをしてリビングへ促したが、母が心配そうに声を掛けていた。
ソフィアの来訪を知ると、湊とリュウが何でも無いような顔で挨拶をした。何を言っても藪蛇になるだろうが、何を言わなくても不興を買う。ソフィアが嫌そうに顔を曇らせたので、航は早々にキッチンへ逃げた。
「ソフィアの顔色が悪いわ。どうしたのかしら」
「知らねぇ」
「あんた達、何かしたんじゃないの」
「してねぇ」
そんな問答をしてから、ソフィアの分の紅茶を持って戻った。暖炉の前の床に湊とリュウ、ソファの端にソフィア。微妙な距離感が気まずかった。
「人物照合ソフトを使って、SNSを片っ端から当たってみたんだけどさ」
ディスプレイを見詰めたまま、湊が話し始める。
「特定出来ないんだよねぇ」
顔を上げた湊は、軽薄に笑っていた。
不穏な単語が聞こえたが、追及するのは止めた。航が隣に座ってフィナンシェを齧っていると、湊は顎に指を添えた。
「顔が無いから体形で絞り込んだんだけど、女の子って自信のある写真しかSNSに上げないよねぇ」
「セクハラだぞ」
航は笑った。
湊は基本的にデリカシーが無い。だが、そういう明け透けなところは嫌いじゃない。
「どうして頭が無かったのかなぁ」
「それなんだけどさ」
フィナンシェを飲み込み、航は言った。
「特定されたくなかったんじゃないか?」
「罪の意識があるってこと?」
変だなぁ。
湊は納得いかないとばかりに首を捻っている。航は溜息を吐いた。デリカシーも無いが、想像力も無い。情緒の解らない男だ。
「霊の狙いはリーアムなのか、あの子なのか。それも絞り切れていないんだよ」
「狙いはリーアムだよ。多分な」
航は言った。
自分にしてみれば当然の帰結なのだが、湊には理解が及ばないらしい。
「根拠は?」
「根拠いるか?」
「いるよ。演繹法は確実じゃない」
「お前、本当に……」
こいつ、モテないだろうなぁ。
航は残念な気持ちになった。
「恋慕ではないでしょうか」
それまで黙っていたリュウが言った。
湊はその単語を復唱し、身体ごと首を捻る。
「じゃあ、何で頭が無いのさ」
「お前、自分で言ってただろ。罪の意識だよ」
「何に対しての?」
「嫉妬」
湊は「ああ」と感嘆の声を漏らした。
此処まで説明しないと解らないのだから、他人の気持ちを推し量る能力が欠けているとしか思えない。その癖に嘘だけは見抜けるというのだから、付き合い難いだろう。
「でも、SNSでは引っ掛からなかったんだよね。ティーンエイジャーに絞っても、解らない。ネット掲示板も覗いて見たんだけど」
「パソコンで何でも解ると思うなよ」
湊が肩を竦めた。
徐に件の心霊写真を取り出したので、航も覗き込んだ。ーーそして、息が止まるかと思った。
並び立つリーアムと少女。その後ろにいる頭の無い誰か。その手は、少女の肩を掴んでいた。
良くないことが迫りつつあるのは、誰の目にも明白だっただろう。航が言葉を失くしていると、リュウが言った。
「大丈夫です。霊が次に現れるなら、それは此処でしょう」
「何でそんなこと言えるんだよ」
「そういう術を掛けています」
当たり前のようにリュウが言い放った。その瞬間、腹の奥から不快感が込み上げた。
「湊が巻き込まれるのは、良いって言うのか?」
衝動のままに、リュウの胸倉を掴む。腹が立って仕方が無かった。
何なんだ、こいつ等。
昨日からそうだ。湊なら巻き込んでも良いみたいな言い方をしやがって。
間に挟まれていた湊が慌てて声を上げた。
「ごめん! 俺が提案したんだ! でも、無神経だった!」
一触即発の物騒な雰囲気にありながら、リュウは顔色一つ変えなかった。捻り倒したって良かったのに、ぴくりとも動かない。剣呑に細められた目が、底知れない冷気を放っている。
喧嘩慣れしている。多分、殴り合ったらお互い無傷じゃ済まない。そう思っていても、航は引けなかった。
「……僕が、友達を見捨てる人間だと思うのですか?」
「友達を囮にするような奴はクソ野郎だろ」
「囮にはしません。人形を使います」
人形?
航は机の上に目を遣った。だが、其処には以前のような人形は置かれていない。
「あの霊には頭が無かった。知覚する術が無い以上、人形は必要ありません」
よく解らない。理解したくもなかった。
リュウは抵抗しない。しかし、その目には静かな怒りがある。まるで、酷い侮辱を受けたような。
「湊を狙うことはありません。目的は達成されていないからです」
「ごちゃごちゃうるせぇんだよ。根拠を示せよ」
「ねぇ」
ソフィアが割り込んで来た。
止められるものと思って反論の言葉を探したが、ソフィアは写真を見ていた。
「前提条件が間違っているという可能性は無いの?」
「霊は思考しないってところ?」
「それはこの際、どっちでも良いわ。私の主張も、湊の推論も証明不可能だもの」
こいつ、開き直りやがったな。
彼女の強かさに呆れていると、湊が閃いたかのように言った。
「年齢範囲を広げる。上にも、下にも」
「そうね。……私、この服装、何処かで見たような気がしてたの」
「何処で?」
「テレビ。モデルの女の子が、CMで着ていたのよ。デートのコーディネートのお手本でね」
湊は写真を見ながら、眉間に皺を寄せている。
「全部やり直しか……」
「そんなこと無いわ。湊の調査に引っ掛からなかったのなら、除外して良い筈よ」
湊とソフィアは写真を見て話し始めた。勝手な奴等だ。自分が愚かに思えて、航はリュウの胸倉を掴んでいた手を離した。
「謝らねぇからな」
「ええ、結構です」
航は舌打ちを漏らした。




