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⑷懐古

 頬を腫らした湊がリビングへ戻って来たのは、午後五時過ぎのことだった。


 事の経緯を聞いた奈々に「女の子を叩くとは何事か」と平手打ちを食らったらしい。彼が甘んじてそれを受けたということは、湊なりに何か思うところがあったのだろう。


 航は風呂場を掃除しに行っていて、リビングには葵とソフィア、奈々が残されていた。同性は或る程度気を許せるのか、弾む二人の会話をBGMに葵は他事件の捜査資料を眺めていた。


 今頃、チームはフロリダ州で連続絞殺魔の捜査を行なっている。それに比べて自分は何をしているのだろう。黒薙からの連絡も無く、捜査は何も進展していない。むしろ、ソフィアとの信頼を築くという点では後退しているくらいだった。


 湊が二階から降りて来ると、ソフィアの顔が解り易く曇った。肩が強張り、顔色も悪い。暴力の加害者を相手を警戒しない筈も無いだろう。


 だが、葵は湊を庇いたかった。

 湊は本来理性的な子供だ。その彼が年下の少女を相手に手を上げるなんて有り得ないことだった。彼女が何を言おうとしたのかは今となっては追求する必要も無いが、少なくとも、湊にはその有り得ないことをするだけの理由があったのだろう。


 すっかり怯えてしまったソフィアを見て、湊はばつが悪そうに視線を逸らした。そして、僅かな逡巡の後、真っ直ぐに目を見て言った。




「俺が悪かった」




 そうして潔く頭を下げる湊は冷静だった。多分、彼はずっと冷静だ。あの平手打ちも興奮故の衝動的な行為ではなく、冷静な判断の元で選択されたものなのだ。


 奈々が何かを言おうとして、止める。庇いたくなったのだろうが、奈々の立場では叱らなければならない。


 この双子に共通することだが、彼等は賢く理性的であるが故に、大多数の感情論の元で圧迫され易い。多数決によって少数派が弾圧されるように、彼等はいとも簡単に悪にされてしまう。


 仲裁するべきか、葵は迷った。

 ソフィアを此処へ連れて来たのは葵だ。せめて、彼女に「お前も悪かったんだから謝れ」とでも言うべきなのかも知れない。

 しかし、彼女も恐らく、何が悪かったのか解っている。平手打ちを受けた後の湊の言葉は痛い程に身に沁みただろう。


 謝罪という行為は言葉にするより難しい。大人になればもっとだ。大人びた彼等の年相応の姿が微笑ましいと思うのは不謹慎だろうか。


 丁度その時、航が風呂掃除から戻って来た。

 精悍な顔付きをした美少年なのだが、両足の裾を捲った彼の姿はアンバランスで可笑しかった。

 航は頬に着いた泡を袖で拭い、湊の頬の見事な紅葉を見て笑った。




「だっせぇな、湊」




 湊が苦笑する。中性的な顔立ちの為か、少女のように見えた。

 航は湊の肩に寄り掛かり、その腫れた頬を親指で指して言った。




「こいつは頭がおかしいんだ。普通じゃない。でも、間違ったことはしねぇ」




 湊は清濁併せて呑み込んだというのに、航は湊は悪くないと言う。

 殴り合いの喧嘩をしょっちゅう繰り返していた幼少期を思い出し、随分と大人になったものだと感心してしまう。


 葵はソフィアの様子を伺った。彼女は肩透かしを食らったかのような顔で二人を見ていた。

 呆れているのか、毒気を抜かれたのか。肩を落としたソフィアが小さな声で言った。




「私が悪かったわ。あんなことはもう言わない」




 部屋の中は微温湯のような穏やかさに包まれていた。葵は如何にも居心地が悪く、無性に煙草が吸いたくなる。

 室内に沈黙が訪れる寸前、湊が見計らったように手を打った。




「今、春季休暇なんだ。三ヶ月くらいこっちにいるから力になるよ。ーーいや、研究資料の為に協力させて欲しい」




 何で言い直したのか解らないくらい独善的な理由だが、湊らしい。


 ねえ、いいでしょ、お母さん。

 演技掛かった仕草で強請る湊は幼く見えた。奈々は苦い顔をしていた。彼等は行動力が常軌を逸しているので、想像も出来ない程のトラブルを引き起こすことがある。


 葵は言った。




「俺からも頼む。今の俺達には、こいつ等の力が必要だ」




 奈々は暫く天井を眺めて唸っていたが、結局幾つかの条件を付けて了承した。


 彼等は大人びていても未成年だ。事件にのめり込み過ぎて補導されたり、巻き込まれたりして危険な目に遭って欲しくないのだ。そして、この事件に関わることで経歴に傷が付き、将来苦しむことになるのは彼等である。


 湊は小躍りして喜んでいるが、航は如何なのだろう。彼は元々霊能に否定的だった。

 葵の視線に気付いた航は、溜息を吐いて言った。




「湊がやるっていうなら、やっても良い。放って置いて死なれるのも、寝覚めが悪いからな」




 心配だからという一言さえ言えない航がいじらしい。

 湊はそれぞれの顔を見渡すと、咳払いを一つした。




「じゃあ、まずは定石に則って情報収集から始めようか」




 途端にてきぱきと動き始めた湊の背中を眺め、葵は此処にいない彼等の父を思い浮かべる。今頃は銃弾の飛び交う第三世界の何処かで医療援助をしているのだろう。


 なあ、ヒーロー。

 お前の息子達は、今日も変わらず元気だよ。








 序章

 ⑷懐古









 蜂谷家を出た頃には辺りは真っ暗だった。都会から離れた片田舎の夜空には数え切れない程の星が輝き、星座を探すのもやっとのことだった。道の端の茂みからは虫の声がして、用水路に飛び込む蛙の音が聞こえる。

 田舎暮らしに憧れは無いが、これだけ贅沢な自然の中で育って来た彼等が羨ましいとすら思った。


 タクシーを待つまでの間、葵はぼんやりと幼少期の彼等を思い返していた。子供の成長は早い。自分も歳を取る訳だ。


 そんなことを考えていると、隣でソフィアが口を開いた。




「あの二人、父親は何をしている人なの?」




 葵はソフィアへ目を向けた。

 葵の知人で、三ヶ月程留守にしているという断片的な情報だけでは何も解らないだろう。当然の疑問だ。


 葵は何と答えるべきか迷ったが、結局、ありのままを伝えることにした。




「救命救急医で、今はMSFの活動で紛争地の医療援助をしてる」

「それって、家庭を放ったらかしてまですることなの?」




 葵は苦笑した。

 いつか、葵もヒーローに同じことを訊いた。

 あの時のヒーローの姿が瞼に鮮明に蘇る。




「お前にはまだ解らないかも知れないが、誰かがやらなきゃならないことなんだ」

「解らないわ。家庭を守る以上に大切なことがあるの?」

「無いよ。少なくとも、ヒーローはそう考えてる」




 ソフィアは首を捻った。

 葵は上手く伝えられる自信が無かった。葵自身、今でもヒーローの活動には懐疑的だ。




「今から七年くらい前。革命の真っ只中にあった中東の紛争が激化して、政府軍が焼夷弾で空爆した」

「知ってるわ。ニュースで見たもの」

「大勢の人が亡くなった。現地で活動していたMSFの職員もだ」

「それって」

「ヒーローも其処にいた」




 思い出すと未だに血の気が引く。

 世界の終わりを思わせるキノコ雲と血塗れの犠牲者。狂ったように喚き立てるアナウンサーの声と、縋るような湊と航の目。


 ソフィアは思い出したように言った。




「その話、聞いたことあるわ。死んだと思われていたMSFの医師が、五年間の空白の後、奇跡的な生還を果たして、政府軍の非道を暴いたって」




 成る程、と葵は内心頷いた。

 世間一般の認識はそうなのだろう。二十年にも及ぶ紛争は終結し、人々の平和への意識は高まった。世界に公表されている情報は其処までだ。ーーその裏で何があったのかなんて知る由も無いし、教える必要も無かった。


 ソフィアは得心したような顔で頷いていた。




「湊と航は、あのヒーローの息子なのね」

「ああ」




 ヒーローが死んだとされていた裏側で、彼等がどんな思いでそれを堪え、苦しみ、藻掻いて来たのかなんて誰も知らない。彼等はヒーローの息子で、恵まれた子供だった。それだけだ。




「あいつ等は理解され難いけど、悪い奴等じゃない。お前が信じるなら、必ず力になってくれる」




 葵の言葉がどのように届いたのかは解らない。

 一つだけ願うのは、この世界が彼等にとって少しでも優しいものであるようにということだ。


 その時、後ろで扉の開く音が聞こえた。

 葵が振り返ると、暖色の室内灯に照らされた航が玄関先から顔を覗かせていた。


 忘れ物でもあっただろうかとポケットを探るが、何も無い。航は何かを言い淀むように目を泳がせ、もごもごと口を動かした。




「葵君が一緒なら大丈夫だと思うけど、最近は此処も物騒だから、気を付けて帰れ」




 これが航の精一杯なのだろう。

 葵は胸が温かくなり、つい笑ってしまう。照れ隠しなのかすぐに引っ込んだ航に代わり、モグラ叩きのように湊が顔を出す。




「最近、変な奴等が徘徊してるんだよ。商店の硝子を割ったり、自転車を盗んだりしてる。うちの玄関も落書きされたんだ」




 薄い水色に塗られた玄関扉を指して、湊が口を尖らせた。エクステリアの一環だと思っていたが、どうやら違ったらしい。


 そういえば、葵が訪ねた時もよく解らない連中が押し掛けていた。航があっさり返り討ちにしてしまったから忘れていたが、通報するべき事案だった。


 奈々が一人でいる時だったらと思うと、ぞっとする。

 葵はしかと頷いた。




「巡回を強化するように伝えておく」

「うん。お願い」




 湊は笑った。真夜中に太陽が昇ったような明るい声だった。家の中に引っ込む寸前に「前髪切れよ」と声を掛けると、湊は意味深な笑顔を見せた。

 意味の無いことはしない子だ。理由があるのだろう。


 玄関扉が閉じると、途端に辺りは闇に包まれた。丁度、暗闇の向こうから白いヘッドライトが近付いて来た。まるで迎火のようだ。


 学生時代の苦い思い出が蘇り、後悔と罪悪感で死にたくなる。その度にヒーローの声がする。


 失っても失っても、希望はある。だから、前を向いて生きるしかないんだよ。


 今は遠い故郷へ想いを馳せる。ーーもう二度と戻ることは無いだろう。

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