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ハロー、マイヒーロー!  作者: 宝積 佐知
5.小さい山羊のがらがらどん
34/106

⑷白い手

 街並みは昼間とは異なる様相を呈し、噎せ返るような湿気と闇に包まれている。

 ぽつぽつと点在する街灯ばかりが眩く、アスファルトに冷たく反射していた。


 頭の中に近隣地区の地図を広げる。

 湊の告げた地点までバイクは夜風を切って走り続けた。足元から火で炙られているような嫌な焦燥感に苛まれ、航は祈るような心地でハンドルを握っていた。


 三車線の交差点、赤信号も無視して突っ込んだ。対向車が急ブレーキを掛け、激しくクラクションを鳴らした。後部座席からリーアムの悲鳴が上がる。航はアクセルを全開にして車の間を縫って走った。


 遠くでサイレンが聞こえた。

 パトカーに捕まる訳にはいかない。こんなところで足止めを食っていたら、湊の窮地に間に合わない。


 街灯の無い路地裏へ入り込み、喚き立てるパトカーを撒く。応援を呼んだのかサイレンの音が増えた。

 サイドミラーで後方を確認しながら、目的地までのルートを思い浮かべる。袋小路に追い込まれることの無いように、周囲は常に警戒する。

 焦ったようにリーアムが肩を叩いて来るのが鬱陶しかった。其処にいたのが湊だったなら、優秀なナビとして機能していただろう。そんなことを考えてしまう自分にも苛々する。


 再び大通りに戻ると、パトカーのサイレンは遥か遠くで聞こえた。油断はしないが、立ち止まっている暇も無かった。

 後部座席でリーアムが携帯を耳に当てていた。だが、彼らしくも無い口汚い悪態を吐いて、航の肩を叩いた。




「湊、出ないぞ」

「そんなこと、解ってる」




 通話するような余裕があるのなら、湊は初めから自分に助けを求めはしない。


 大通りから一本道を外れると、雑多な下町に行き当たった。満員の集積所と、ホームレスの群れ。彼等は何かに怯えるようにして身を寄せ合っていた。


 湊の告げた場所はこの辺りだった。自分達の生活圏とは全く違う。どうして湊がこんなところにいたのかは解らない。

 バイクを路肩に寄せ、航は辺りを見回した。

 生理的嫌悪を喚起する腐臭が漂っている。こんなところには一秒だっていたくない。




「湊はーー」




 リーアムが言った、その時だった。

 若い男の怒号が響き渡り、航は弾かれたように顔を上げた。


 ホームレス達が身を縮こませて、そそくさと逃げて行く。状況は全く解らないが、湊と無関係とは考えられなかった。

 航は再びバイクに跨り、ハンドルを握った。激しい物音の聞こえる方へと一直線に走り出す。

 湊が破落戸相手にどうにかなるとは思わないが、最悪の事態は常に想定する。杞憂であれば、それで良い。


 狭い路地裏の道を走って行くと、如何にも不良という風態の若い男達が見えた。耳障りなスラングを撒き散らし、何かを追い立てている。

 闇に染まる道の奥、何かが角の向こうに走り去る。航はそれを目の端に捉え、奥歯を噛み締めた。


 素性不明の若い男の群れに並ぶと、怒りに染まった眼球が此方を射抜いた。航は並走しながら、その横腹を思い切り蹴り付けた。

 男は呆気無く吹っ飛び、ゴミ溜めの中へ突っ込んで行った。

 其処で漸く彼等は航を敵と見做したらしかった。男達はナイフや鉄パイプのような得物を手にしていた。全く穏やかならぬ状態だ。振り切られる鉄パイプを、車体を傾けて躱す。僅かにバランスが崩れ、同乗者の存在を思い出す。


 急ブレーキからの急発進。アクセルを全開にして雑魚共の中を突き進む。擦れ違いざまにリーアムが鉄パイプを掠め取るのが見えた。

 方向転換の為に旋回するタイミングで、リーアムは奪い取った得物を男達の足元で投げ放った。先頭が転ぶと、ドミノ倒しのように次々と転倒する。鮮やかな攻撃に航は口笛を鳴らした。


 倒れた男達はそのままに、航は再びアクセルを回す。

 何が起きているのかは解らないが、どうやら追われているのは湊らしい。


 物音を頼りに暗い道を走り抜けた。

 途中見掛けた男達には軽く蹴りを入れる。バイクの排気音が心地良く耳に馴染む。緊張感と高揚感の入り混じった奇妙な感覚だった。


 住宅地に近い裏道に差し掛かり、パトカーのサイレンが聞こえた。通報でもされたのだろう。構わない。好都合だ。


 直線の道の先に、男達の影が見えた。

 彼等は何かを取り囲むように団子状になっている。アクセルを回してマフラーを吹かすと、男達の胡乱な目が此方を向いた。


 その隙間から、兄の姿が見えた。

 何かを堪えるように顔を歪ませ、腹を押さえている。


 航のバイクが突っ込むと、男達は動揺に染まった顔で逃げ惑った。好機とばかりに湊が走り出す。


 男の一人が湊の首根っこを掴んだ。だが、湊は予期していたかのように男の手首を掴み返し、捻り上げた。

 苦悶の表情を浮かべる男をアスファルトに叩き付け、湊が顔を上げる。


 航が車体を傾けて滑走すると、湊は猫のように飛び乗って来た。


 顔色は悪いが、大きな怪我はしていないようだ。ほっと息を漏らし、航は周囲を見回した。気付くと、其処はマダム・マリーと出会った溝川の上だった。


 このまま逃走して後は警察に任せたいが、流石に満員だ。男達も諦めたようではない。


 追い討ちを掛けるか?

 湊と合流出来た以上、こんな雑魚共に遅れは取らない。航がハンドルを握る手に力を込めたその時、微かな呻き声がした。




「……ッ」




 航にしがみ付いていた湊が、ぐらりと体勢を崩す。

 後部座席からリーアムが手を伸ばす。航は振り落とさぬように車体を傾けた。


 湊の頬から汗が流れ落ちる。

 単純な疲労ではない。


 そういえば、こいつの肋骨には罅が入ってたんだ。


 あの人形の一件で負った不名誉の傷だ。

 だから、反撃も出来ずに逃げ回り、剰え自分に助けを求めたのだろう。言ってやりたいことは山程あるが、今ではない。そもそも、湊がクソであることは最初から解っている。


 命知らずな男が金属バットを片手に突っ込んで来る。

 迎撃するか躱すか。僅かな逡巡の間に、リーアムがバイクから飛び降りた。

 向かって来る男の一撃を躱し、足払いを掛ける。男はつんのめり、そのまま、欄干へ衝突した。思わず口笛を吹きたくなる。


 男の身体が傾いたかと思うと、欄干の向こうへ投げ出されていた。宙に浮き、落下する。航にはそれがスローモーションに見えた。


 橋の下には気味の悪い大きなトロルが棲んでいてーー。


 聞き覚えのあるフレーズが蘇る。

 溝川は墨を垂らしたような闇に染まっていた。航はバイクに乗ったまま欄干から身を乗り出す。男の身体は音を立てて不気味な闇の中へ吸い込まれて行った。


 ぼこぼこぼこ。

 黒い水面が激しく泡立ち、何か白い帯のようなものがピラニアのように男の元へと集まって行く。鯉ではない。それは溺れる男の足を掴み、水底へと引き摺り込む。


 サイレンの音が近付き、男達は一人、また一人と逃げ出した。リーアムが追撃しようと足を踏み出す。だが、その時。




「助けてくれ!」




 身を裂くような男の悲鳴が響き渡った。そして、次の瞬間、耳元で乾いた音がした。


 湊は欄干に片足を掛けていた。止める間も、考える間も無かった。航が手を伸ばした時には既に、湊の体は泡立つ水面へ一直線に落下していた。







 5.小さい山羊のがらがらどん

 ⑷白い手








 川の中へ沈んだ男は、僅かに気泡を浮かべるばかりで一向に現れない。数秒の沈黙の後、湊が勢い良く水面に顔を出した。そのまま溝川の中をぐるぐると見回している。どうやら男の姿を見失ったらしかった。


 航は舌打ちを漏らし、バイクのヘッドライトを向けた。湊はその意図を察し、一瞬の躊躇も無く汚水の中へと潜水した。


 気泡の浮かぶ水面に月明かりが反射する。

 航は掌に汗を握った。遅れてリーアムが川を覗き込む。永遠にも思える地獄の時間だった。

 大きな気泡が浮かび上がり、飛沫と共に何かが飛び出した。


 湊じゃなかった。

 肺病のような酷い息遣いで、若い男が川縁へと身を寄せる。




「湊!」




 水中から上がっていた気泡は、やがて静かに消えて行った。


 堪らず航はジャケットを脱ぎ捨てた。

 リーアムの制止も無視して、川へと飛び込む。バイクのヘッドライトを頼りに汚れた水を掻き分け、湊の姿を探した。


 ヘッドライトの白い光が一筋の道となって航を導いた。頭が見える。底無し沼に足を取られたかのように、湊が無茶苦茶に藻搔いていた。


 航は湊の姿を捉えると同時に、臓腑が凍るような恐怖に襲われた。


 手が。

 白い手が、湊の足を掴んでいる。


 ゴムのような質感で海藻のように揺れ動き、まるで、地の底へ誘っているようだった。


 顔の無い誰かが、湊を何処かへ連れて行こうとしている。


 航は全身の力を振り絞って湊へ手を伸ばした。着衣のまま飛び込んだせいで酷く動き難かった。水は泥のように纏わり付き、川底へ足が着いてもおかしくない筈なのに、幾ら藻搔いても這い上がれない。


 その手が届いた時、信じ難い程の力で引っ張られる。湊の足首に巻き付いた白い手が爪を立てる。侵食するように脛から膝、大腿へと伸びて行く。


 湊は顔を歪め、航の手を引き剥がそうとした。

 航は叫び出したい程の怒りを覚えた。


 テメェ、後で絶対殴る!


 成す術は無い。だが、この手を離すくらいなら、湊諸共引き摺り込まれた方がマシだーー!


 航が覚悟を決めた、その時だった。


 橙色の淡い光が頭の上から降り注いだ。

 白い手が痙攣のように震え、名残惜しむように離れて行く。航は湊の腕を握ったまま光の元を目指した。


 赤、白、橙。

 幾多もの光がイルミネーションのように入り混じり、航の行く先を美しく照らした。二人分とは思えないくらい身体が軽かった。まるで宇宙遊泳でもしているかのような不思議な心地だった。


 航が勢い良く水面から飛び出すと、川縁にパトカーが並んでいた。野次馬らしき一般人が不安そうに此方を見下ろしている。

 航はぐったりしている湊を抱え、川岸へ上がった。酷い腐臭に包まれ、今更ながら吐気が込み上げる。衣服はヘドロで汚れ、廃棄処分するしか無さそうだ。


 川岸のアスファルトへ湊を回復体位で寝かせ、口元に耳を当てる。湊は軽く咳き込むと、力無く笑った。航は小さく舌打ちし、頭を叩いてやった。気は全く晴れず、忌々しい。


 湊は周囲を見回し、そっと微笑んだ。




「また会いましたね」




 その視線の先を追い掛け、航は目を丸めた。

 カンテラを片手に下げた老婆が、顔面を蒼白にして立っていた。昼間の姿と余りにも異なるので航はそれが何者なのか判別するまでに時間が掛かった。


 囁くような小さな声で、湊は彼女の名を呼んだ。




「マダム・マリー」




 老婆ーーマダム・マリーは、眉根をぎゅっと寄せて俯いた。


 マダム・マリーは白いワンピース型の寝間着に品のある臙脂色のガウンを羽織っていた。その姿は薄汚れたホームレスでも、胡散臭い占い師でもない。教養を身に付けた上流階級の貴婦人のようにさえ見えた。


 湊は身を起こそうとして腹部を押さえて呻き、結局寝転がったままだった。星空を眺めるかのような晴れ晴れとした顔をしていた。


 血相を変えたリーアムが、警官と野次馬を掻き分けて駆けて来た。湊が何でも無いように軽く手を上げると、リーアムは肩を怒らせて怒鳴った。




「何であんなことしたんだ!」




 それは湊が川へ飛び込んだことを指しているのだろう。


 普通の神経なら、そんなことはしない。ましてや、自分を追い回した敵を相手に、身を呈して助けに行く道理は無い。リーアムの言葉は尤もで、航も諌めるつもりは無かった。同じようにして責めても良かった。


 湊は困ったように目尻を下げて、苦笑混じりに答えた。




「気付いたら、身体が動いてた」




 何だ、それは。

 頭がかっと熱くなる。握った拳が軋み、凶暴な衝動に駆られる。


 だったら、お前の理性は何処にあるんだよ!


 航は舌打ちして、その言葉を呑み込んだ。ややこしくなることが解ったからだった。


 迷わない、立ち止まらない、諦めない。それは湊の長所であるが、勇敢と無謀は違う。航はどうやってこの場を納めたら良いのかも解らなかった。


 パトカーから降りて来た警官が訝しむようにして事情聴取をする。此方としては後ろめたいことは何も無いので、知り得る限りの情報を開示した。

 湊は、夜道を歩いていたらいきなり襲われたと言っていた。困り果て弱り切ったような演技に呆れてしまう。この異常な太々しさは何なのだろう。


 優等生的なリーアムの丁寧な応対と湊の被害者面が奇跡的に功を成し、警官からは軽い注意だけで済んだ。反省の色の無い兄に肩を貸し、航は途方に暮れた。


 これ以上、母に心配は掛けられない。

 かと言って、ヘドロ塗れのまま身を寄せる宛ても無かった。リーアムが自宅を提供してくれると申し出てくれたが、流石に気が引けた。


 警官と野次馬が引いた後、マダム・マリーが言った。




「うちへ来るかい?」




 航は湊と顔を見合わせた。

 航が遠慮して断る前に、目を輝かせた湊が答えていた。




「良いんですか?」




 湊がわざとらしく咳き込む。演技なのか本当に体調を崩しているのか微妙なところだが、疲労感がどっと押し寄せ、馬鹿馬鹿しくなってしまった。

 航は、もうどうにでもなれという気持ちで、彼等のやりとりを聞いていた。


 マダム・マリーは苦く笑っていた。しかし、その淡褐色の瞳は湊を見てはいなかった。


 溝川は重油のような闇に染まり、月明かりを僅かに反射している。鯉も亡者も消え失せた水面を見詰めるその目は、まるで、もう戻らない過去を嘆くような後悔と苦渋に染まって見えた。

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