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ハロー、マイヒーロー!  作者: 宝積 佐知
5.小さい山羊のがらがらどん
33/106

⑶虚像

 夕焼けに染まる帰り道を風を切って走って行く。


 頬に触れる風は冷たく澄んでいる。航は妙に清々しい心地でバイクを走らせていた。


 このまま何処へでも行けるような気がした。大荷物も無く、大金も無く、湊を後部座席に乗せて何処までも遠くへ。


 取り巻く柵も重責も何もかも捨て、地平の彼方まで走って行く。疲れた時には立ち止まり、歌の一つでも口ずさんで、元気が出たらまた走り出す。


 それはとても魅力的なことに思えた。




「嘘じゃなかったよ」




 唐突に、湊が言った。

 航はバイクを停めた。奇しくも其処はあの老婆と出会った橋の上だった。サイドミラー越しの兄は何処か寂しそうに見えた。まるで、このまま夕陽に溶けてしまいそうだった。


 エンジンを止める。

 夕焼けの空を烏が横切って行く。湊はバイクから飛び降りると、ヘルメットを脱いだ。


 湊は夕陽を見詰めていた。航も同じようにヘルメットを脱ぎながら、その言葉の意味を問い掛けた。




「じゃあ、あの婆さんは本当に、死んだ人間の声が聞こえてたのか?」




 湊は振り向いて、困ったように少しだけ首を捻った。

 長い睫毛が頬に影を落としている。湊は栗色の髪を指で払うと、歯切れ悪く答えた。




「俺に解るのは、嘘だけなんだ。相手の本心まで解る訳じゃないし、真実が見抜ける訳じゃない」

「どういう意味?」

「本人が自覚しない嘘は、解らない」




 意味が解らなかった。

 黙って先を促すと、湊は指先で空中を掻き混ぜるようにして言った。




「もしも、その人が心の底から真実だと思っていたら、例え真実でなかったとしても、解らない」

「……つまり、あの婆さんが自分は霊能者だと思い込んでいる可能性があるってことか?」

「航はそう思うの?」




 問い返され、航は言葉を躊躇った。


 悪人ではないのだろう。だが、ただの善人にも見えなかった。志は立派だと思うし、矛盾も無い。

 何故信じられないのか、航にも解らないのだ。あの老婆の言葉も行為も全てが張りぼてのように薄っぺらく、胡散臭い。


 この感覚をどのように説明したら良いのだろう。

 自分が狭量な考え方をしているだけなのかも知れない。




「解んねぇ。でも、信じられねぇ」

「そうか」




 湊は否定も肯定もしなかった。湊自身、確信が持てないのだろう。頼まれもしないのに蘊蓄を語って、状況を余計にややこしくすることは得意な癖に、相談するという行為が異常に不得手だ。航もそれを聞き出す術を持ち合わせていなかった。


 幼い頃から変わらない。

 自分達は、言葉が圧倒的に足りない。


 湊は橋の欄干に手を添えて、黙り込んでいた。

 帰宅を急ぐ程の時刻ではなかったので、航も隣に並んで夕陽を眺めた。




「夕陽が何で赤いか知ってる?」




 お得意の薀蓄が始まった。

 無視しても良かったが、航は何故なのか聞いてやっても良いかなという気になっていた。




「目の錯覚だろ」

「違うよ」




 湊は子供のように無邪気に笑って、夕陽を指差した。




「太陽光のレイリー散乱さ。赤は青に比べて波長が長いから、太陽光が観測地点から離れる程によく見えるようになるんだ」

「ふーん」

「月の色も同じ。光が大気中をどれだけ長く通って来たかによって変わる」




 航は溜息を呑み込んだ。

 湊は科学に傾倒した研究者だ。予測はしていたが、何とも情緒の無い答えだ。




「白色光をスペクトル分解して、色の波長から簡易計算したことがある」

「情緒の解らない奴だなあ」




 内心で零した筈の言葉は、声になっていた。

 湊が驚いたように目を丸くするので、航は慌てて口を押さえた。しかし、次の瞬間、湊は綻ぶようにして笑った。




「同じことを言われたことがあるよ」




 湊の瞳は透き通って見えた。それが目の錯覚なのか、レイリー散乱によるものなのかは解らない。




「何でもかんでも科学的に解明されたら、つまらないってね」




 中々話の解る奴がいるじゃないか。

 航はひっそりとほくそ笑んだ。同時に、この口から出て来たような偏屈者の湊にそんなことを言える人間に興味が湧いた。




「目から鱗が落ちたような気がしたよ。俺は科学を信じていたから」

「別に、お前が間違ってる訳じゃないだろうけどな」




 善悪でもなければ、正誤でもない。

 価値観とでも言うのだろうか。航は苦笑して、ヘルメットで潰れた湊の髪を撫でた。


 湊はされるがまま、ぼんやりと言った。




「全ての現象に科学的な解明はいらない。きっと、暴く必要の無い嘘もあるんじゃないかな」




 夕陽が沈んで行く。

 真っ赤な残光に照らされながら、航は湊の言葉を反芻した。何故なのか、その言葉を忘れてはいけないと思った。







 5.小さな山羊のがらがらどん

 ⑶虚像







 翌日は一日中クラブチームの練習があった。

 心地良い疲労感を味わいながら帰宅すると、眼鏡を掛けた湊が出迎えた。目の下に薄っすらと隈があったので、またパソコンと睨めっこをしていたのだろう。

 思えば、自分がいない時に湊が何をしているのか知らない。聞いてみてもはぐらかすだろうし、特段追求する必要も無かった。


 夕食は海鮮系のお好み焼きと海藻のサラダだった。

 これといって特筆するべきことも無く、一日が終わった。自室でパソコンを見詰める湊の後ろ姿を眺めている間に、航は眠ってしまっていた。


 朝になれば、また練習に向かう。

 湊は頭まで布団を被って眠っているようだった。蛹のようだ。リビングに行くと弁当が用意されていた。


 昨日は一日練習だったので、その日の練習は夕方には終わった。帰宅して惰眠を貪るには早い時刻だった。病院の面会時刻に間に合うこと気付き、航はバイクを走らせた。


 リリーの病室に行くと、リーアムがいた。

 二人は突然の来訪にも関わらず快く受け入れてくれた。パイプ椅子へ促されたので、航も鞄を足元へ落として座った。




「昼過ぎに湊が来たよ」




 リリーが嬉しそうに言った。

 何故か胸の奥がちくりと痛んだ。航は気付かなかった振りをして、適当な相槌を打った。




「天気の話とか、株価のこととか、三十分くらい話して帰ったよ」

「何しに来てんだよ……」




 航は溜息を漏らす。だが、リリーもリーアムも好意的に受け取っているらしかった。




「自分に出来ることを、湊なりに探してくれているんじゃないかな」




 リーアムがそう言って微笑んだ。


 彼等は純粋培養の動物みたいだと思った。

 外の世界を知らないから、人の好意を真っ直ぐに受け取れる。彼等と相対していると、邪推してしまう自分が汚れた人間のように思えて苦しい。


 意識を逸らすように、航は話題を変えた。




「そういえば、前に言ってた占い師に会ったぜ」




 疑問符を浮かべるリーアムに、リリーが捕捉している。合点が行ったのかリーアムが目を輝かせた。

 航は一昨日の出来事を話してやった。コロラドストリートブリッジで商売する老婆。霊視の能力を持つと自称し、観光客らしき青年の亡くなった母の言葉を代弁していた。


 自分の主観は話さなかった。

 冒険譚でも聞くみたいに楽しげな二人に、水を差す必要は無かったからだ。その代わり、湊の言っていたことを話した。


 自殺を奨励するつもりは無いが、否定もしたくない。だって、誰も彼等を救わなかった。


 そう言って、あの老婆と共に自殺者の冥福を祈った。

 リーアムは驚いたように目を丸めていた。航が首を捻ると、彼は慌てて手を振った。




「ちょっと驚いただけさ。彼は、誰かの為に祈ることが出来るんだね」




 湊のことを何だと思っているのだ。

 航は呆れたが、仕方の無いことだとも解っていた。だって、あの変人と来たら、普段は中身の無い薀蓄ばかり喋り倒して、研究の為なら危険も辞さず衝動的に行動を起こす。身内でなければ絶対に関わりたくないと思う。


 リリーがリーアムを肘で突いた。




「失礼ね。湊も航も、出会った時からずっと誠実だったわ」




 リーアムが困ったように頭を撫で付ける。

 穏やかな二人の姿を見ていると、不思議と心が凪いで行く。この時間がずっと続けば良いとすら思った。


 楽しい時間はあっという間に過ぎる。

 面会時刻が終わり、航はリーアムと連れ立ってリリーの病室を出た。最後に見た彼女の笑顔が何処か寂しそうに見えて、胸が痛くなる。残されるリリーの気持ちを思い、次はもっと早く会いに来ようと一人誓う。


 人気の無い廊下をリーアムと並んで歩いた。

 話題は専らバスケのことだった。リーアムのクラブチームは順調にトーナメントを勝ち進んでいるらしかった。心にも無い祝いの言葉を口にして、航は静かに闘志を燃やした。

 強豪チームの練習内容や、リーアムの普段のトレーニングメニューは参考になった。身体を作る為の徹底した基礎練習だった。航は体質なのか筋肉が付き難いので、自分より一回りも大きいリーアムに悔しさを噛み締めた。


 無いもの強請りをしたって仕方が無い。

 自分は自分に出来ることをやる。


 駐輪場に到着した頃、携帯電話が鳴った。

 ディスプレイを見ると、湊からの着信だった。航が応答しようと指先を伸ばした時、リーアムが言った。




「そういえばさ、リリーが言っていたんだけど」

「あ?」

「湊のこと、何処かで見たような気がするって」




 航は眉を寄せた。

 リリーは年末から入院していたし、湊は大学で寮生活をしているのでこの地区にはいなかった。二人の行動範囲に重なる点は無い。リーアムに連れられて来たあの日が初めてだった筈だ。


 もしも二人が会ったとするのなら、リリーが入院するより前ということになる。恐らく、リーアムのようにバスケの試合で見掛けたのだろう。


 航の予想を遮るように、リーアムが言った。




「バスケの試合じゃなくて、何かの雑誌で見たような気がするって言ってたよ」




 雑誌?

 湊は頭がおかしいが、流石に取材される程じゃない。

 気のせいだろうと鼻で笑いながら、航はその言葉を胸に留めて置いた。

 航は、離れていた間に湊がどのように過ごしていたのか、何も知らないのだ。


 クソ湊。

 航は悪態吐いて、通話ボタンをタップした。

 最低限の相談くらいしろよ。いざという時、助けに行けないだろ。


 携帯電話を耳に押し当てる。

 途端、兄の切羽詰まった声がした。




『今すぐ来て!』




 自分の心の声が届いてしまったのかと思った。


 湊は此方の言葉も聞かず、一方的に要求を押し付けた。間髪入れずに告げられる住所と聞き覚えの無い男の罵声、争う物音が響き渡る。一瞬で血の気が引いて、航はバイクに飛び乗った。

 通話はすぐに切れてしまった。何が何だか解らないが、良くないことが起きていることは解る。


 エンジンを掛けると、後部座席に衝撃があった。

 ヘルメットを装着したリーアムが座っている。




「僕も行くよ。只事じゃないみたいだし、人手は多いに越したことは無いだろ?」




 言い争う時間が惜しい。

 足手纏いにはなるなよ、と航が睨むと、リーアムは心得たとばかりに笑った。


 クソ湊。

 前世でどういう行いをしたら、此処までトラブルに巻き込まれるのだ。


 アクセルを回す。バイクは弾丸のように駐輪場を飛び出した。

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