⑵マダム・マリー
「それ、マダム・マリーじゃない?」
青玉の瞳に嬉々とした光を宿し、リリーが歌うように言った。航は日差しに透ける金髪を穏やかな気持ちで見ていた。
橋の下で老婆と出会った翌日、航は湊を連れてリリーの元を訪れていた。見舞いと言えば聞こえは良いが、実際のところは暇潰しであり、罪滅ぼしだった。
リリーは末期の癌患者である。
治療法は無く、残り一ヶ月という余命をただ待つだけの少女だ。しかし、相対する彼女は弱り目も見せず、泣き言も溢さず、いつでも春の新緑に似た活力を漲らせていた。
医者の診断が誤りだったのではないか。そんなことを思う度に、血管の透ける白い面や点滴注射による青痣だらけの腕を見て虚しくなる。
誤診だなんて、彼等が誰よりも願った筈だ。
彼女の唯一の肉親である双子の弟、リーアムの気持ちを思うと遣り切れない。彼等は現実と向き合い、残された時間を丁寧に生きている。
航と湊は双子の兄弟だ。
彼等の目に自分達はどのように映るのだろう。そんな詮の無いことばかりを考える。
航の罪悪感なんて毛程も知らず、湊が身を乗り出した。
「マダム・マリー?」
「そう。何時だったかリーアムが話していたわ」
「詳しく聞かせてよ」
子供のように無邪気な表情で湊が強請る。
リリーは顎に指を添えて言った。
「確か、コロラドストリートブリッジで観光客相手に商売しているお婆さんよ。霊が見えるって言う占い師の」
「占い師」
湊の顔が解り易く曇る。
まあ、湊はそういうの好きじゃないだろうな。航は窓枠に肘を突き、ぼんやりと外を眺めた。
緑の芝生の上、患者服を纏った老人が歩いている。犬の散歩のように傍には点滴液を連れ、今にも崩れ落ちそうな覚束無い足取りだった。
この閉鎖的な病棟では、どのくらいの人が快方へ向かい、退院出来るのだろう。穏やかな死を迎える為のこの建物の中で、どのくらいの人が明日に希望を抱き、死んで行くのだろうか。
現実から乖離していた航の意識は、リリーの息を逃すような苦笑によって引き戻された。
リリーは悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
「当たるって評判らしいわよ。本人しか知らないようなことを言い当てるって」
「コールド・リーディングなら俺にも出来る」
「絶対にやるな」
身内から犯罪者が出るのは嫌だ。
航が言うと、湊は可笑しそうに言った。
「ただの会話術だよ。観察と統計データから人物像を予測し、その人の欲求を満たすような言葉を並べる。人は自己承認欲求の強い生き物だからね、“この人は自分のことを解ってくれる!”と思えば、簡単に信用する」
「お前、友達いなそうだな」
湊はコミカルに肩を竦めた。
リリーは不敵な笑みを浮かべ、挑発的に言った。
「あの時、私に言った言葉も会話術?」
静電気のような緊張が走った。
航は湊へ目配せする。基本的に女性の心とは地雷原で、一歩でも踏み外せば大爆発する。
湊は軽薄に笑った。
「君が見定めてくれよ」
冗談のような口調でありながら、その声は真剣だった。それが、今の湊に示せる最大の誠意だった。
リリーは少しだけ笑った。
航には、何故なのか泣いているように見えた。
5.小さい山羊のがらがらどん
⑵マダム・マリー
乾いた風が頬を撫でる。自殺橋と呼ばれる其処は、急峻な崖の上を渡る一本の白い帯に似ていた。
百年以上昔からの歴史と伝統を刻む、美しい意匠のコンクリート製のアーチ橋。特徴的な街灯と乗用車の列を横目に、航はポケットに手を入れて歩いた。
美しい風景と幻想的な建築は、残念ながら厳しい柵によって景観が損ねられてしまっていた。世界恐慌の折に自殺者が増加し、安全対策として設置されたのだ。
航は立ち止まり、橋の向こうを眺めた。
自殺者の心理は解らない。しかし、美しい風景に心惹かれる気持ちは解る。
「心理的視野狭窄による逃避だよ」
後ろから声がした。
航が振り向くと、双子の兄が能面みたいな無表情で立っていた。
柵には花が供えられていた。幾ら安全対策を施したところで、本当に死のうと思えば無意味なのだ。湊は花に向かって手を合わせると、それきり黙ってしまった。
リリーの病室を後にしてから、湊と二人でコロラドストリートブリッジを訪れた。どちらが言い出した訳でも無い。ただの気紛れだった。目的は無い。だが、多分、互いに思っていた。ーー彼女に会えるかも知れない。
会えたら良いな。
二人分の希望的観測は、目の前の人集りによって現実のものとなった。
嬉しそうに声を上げた湊が子犬のように駆けて行く。
予定調和だな、と胸の内に吐き捨てて、航は後を追って歩き出した。
やたら露出の多い若い女と、サングラスを掛けた男の横を抜ける。観光客だろうか。怪訝そうな目を向けて来るが、航は気にせず掻き分けた。
橋の柵に凭れ掛かるようにして、一人の老婆が佇んでいた。
黒の長いドレスを纏い、頭にはとんがり帽子、手には歪んだ杖を持ち、彼女は如何にも魔女のような風体をしていた。
「マダム・マリー?」
丸っこい瞳を爛々と輝かせ、湊が無邪気に問い掛ける。件のマダムは驚いたように肩を竦めた。
「また会ったね。ーーええと、がらがらどんだったっけ?」
訂正もせず、湊はにこにこと微笑んでいた。
ある筈の無い子犬の尻尾が見えるようだ。航は二人の横に立ち、渋々と訂正した。
「俺は航。こっちは湊。ーーそれで、あんたは」
老婆は態とらしく首を竦めた。
「マダム・マリーさ」
取り囲む観光客が、興味津々に騒ついた。
その時、観光客の一人が割って出て来た。
「マダム・マリー。お願いがあります。貴方が死者と話が出来るというのなら、聞いて下さい」
「何だい?」
割って現れた観光客ーー若い男は、何かを堪えるように俯いた。そして、バケツから水が溢れ出るようにして嘆願した。
「どうか、僕の母の言葉を教えて下さい。……僕の母は幼い頃に病で亡くなりました。若くして僕を妊娠して、自分のことも蔑ろにして、女手一つで僕を育て、そのまま死んでしまった。僕は母に何も出来なかった……」
老婆ーーマダム・マリーは静かに耳を傾けている。
男は縋るような声で必死に訴えた。
「僕は、母に何が出来るのでしょうか……!」
辺りは湿っぽい空気に包まれていた。
航にはそれが安っぽい演技に見えて仕方が無かった。男の哀願も老婆の達観した態度も、取り囲む衆人の好奇な眼差しも、まるでチープな舞台装置みたいだ。
他人の嘘を見抜ける湊には、どのように見えているのだろう。
そっと目を向けた先、湊は老婆を見詰めていた。野生動物がするような、憐憫も侮蔑も無い透明な眼差しだった。
航が息を呑んだ時、老婆が言った。
「あんたの母親の声が聞こえるよ」
ざわりと辺りが浮き足立つ。
航は自分でも不思議に思うくらい、それを冷静に見ていた。
「あんたの母親は、何も恨んじゃいない。あんたの幸せを、ただ祈ってる」
青年は泣くのを堪えるみたいに、唇を噛み締めている。両手は固く握られ、ぶるぶると震えていた。
「生きるんだ。それだけが、あんたに出来る恩返しさ」
青年の目から大粒の涙が溢れた。
拭っても拭っても止まらない涙がアスファルトを濡らして行く。
乾いた拍手の音が聞こえた。
湊だった。感情の無い人形のような面で、機械的に両手を打ち鳴らしている。それがきっかけだったかのように、辺りには拍手と共に生温い空気が満ちて行った。
感謝と賞賛の拍手の中、青年は震える膝を立て直した。頬に張り付いた涙を拭い、最後に一礼すると歩き出す。友人らしき青年達に肩を抱かれ、橋の向こうへ消えて行く。
観光客の群れは、糸が解けるようにして解散して行った。航と湊は取り残されたまま、店仕舞いを始める老婆の前に立っていた。
老婆の帽子の中は硬貨で一杯だった。
こういうことには過剰に反応しそうな湊が黙っているので、調子が崩れる。航は肩を落としたまま、声を潜めて湊へ問い掛けた。
「あれ、嘘だろ」
湊は肩を竦めて苦笑した。
「どうかな」
煮え切らない答えに、航は眉を顰めた。
この老婆には、本当に死者の声が聞こえたというのだろうか。根拠がある訳ではないけれど、航には信じ難かった。
その人の喜びそうなことを並び立てるくらいなら、航にだって出来そうだ。湊ならもっと上手くやるだろう。
「ねえ、マダム・マリー」
湊が声を掛けると、老婆は顔を上げた。
「あの人と会ったことは?」
「初対面だよ」
「どうして、こんなことをしてるの?」
こんなこと?
老婆が怪訝に目を細める。
「此処はね、自殺の名所なんだ。あたしの力が少しでもそれを留められるなら、結構なことじゃないか」
それなら、布施など貰わず無償でやれば良い。航は正体不明の苛立ちに襲われた。何かが無性に気に食わない。
会話は湊に任せ、航は柵の向こうへ視線を向けた。透き通るような蒼穹を、名も知らぬ鳥が横切って行く。餌を探しに行くのか、寝床へ帰るのか。
航が現実逃避紛いのことをしていると、湊が言った。
「俺はね」
湊の濃褐色の瞳は夜の帳に似ていた。夜空に輝く星のような光を宿し、兄は柵の外を見遣る。そして、視線をマダム・マリーへ移すと、柔らかに言った。
「自殺を奨励するつもりは無いけども、否定もしたくないんだ。追い詰められた人が藁にも縋る覚悟で選んだ道を、後からどうのこうの言うなんて狡いだろ」
だって、誰も彼等を救わなかった。
湊の声は悲しく響いた。
「俺達に出来るのは、彼等の安らかな眠りを祈ることだけだ」
そうだろう?
そう言って、湊は力無く笑った。
「だから、どうか一緒に祈って欲しい」
蒼穹を横切った白い鳥が、柵の上に止まっている。まるで、自分達を品定めしているようだ。
マダム・マリーは湊をじっと見詰めていた。彼等には、目には見えないものが見えているのかも知れない。
「そうだね」
マダム・マリーはそう呟くと、柵に括られた花束に向かって祈った。湊もまた、手を合わせた。
航は彼等を黙っていた。名も知らぬ誰かの為に祈る彼等の姿は、まるで神に赦しを乞う罪人のように見えた。




