⑴橋の下の老婆
It didn’t matter how big our house was; it mattered that there was love in it.
(どれだけ家が大きかったのかではなく、どれだけ其処に愛があったのかが重要なのだ)
Peter Buffett
「ドライブしよう」
穏やかな昼下がり、湊が唐突に言った。
航は昼食の片付けをしていた。
湊の突拍子も無い提案に、何を言い出すんだ、と呆れながら、それも良いなという気になっていた。
正に行楽日和と呼ぶに相応しい晴天だった。
家の中に引き篭っているのは余りにも勿体無い。洗濯物を干す母の背中を見遣り、航は幾つかのドライブコースを思い浮かべた。
黄色いスポンジを手に取り、中性洗剤を泡立てる。
昼食は蕎麦だった。薬味を載せていた小皿をスポンジで撫で、洗い流す。
排水溝に流れて行く泡を見ていると、湊がカウンターに肘を突いて甘えるように言った。
「なあ、良いだろ?」
「……行き先は?」
「決まってないよ。旅に必要なのは地図や荷物ではなくて、口ずさめる歌さ」
計画性の欠如を棚に上げて何を偉そうに言ってるんだろう。
航は洗い終えた皿を乾燥機に掛け、濡れた手をタオルで拭った。
湊は長い前髪を丁髷に結った馬鹿殿スタイルだった。
兄が何かを言い出す時には、何かしらの理由があるのではないかと勘繰ってしまう。しかし、この間抜けな格好を見ると、警戒している自分まで間抜けに思えた。結局、航は部屋からバイクの鍵と二つのヘルメットを持って玄関に立っていた。
愛車のエンジンを温めながら、航は条件を付けた。
「行き先は俺が決める」
「良いよ」
「それから、勝手な行動をするな。ただでさえトラブルメーカーなんだから」
「はいはい」
ヘルメットを被った湊が後部座席に座る。
航は溜息を一つ零して、アクセルを回した。せめてこれが姉や妹ならば、格好は付いたのだろうな、と非生産的なことを考える。サイドミラーで見る湊は、機嫌良さそうに景色を眺めていた。フルフェイスのヘルメットの下、何かを口ずさんでいるようだった。
直線の道に差し掛かり、航は速度を上げた。
風切り音とエンジン音が耳元で唸る。肌に感じる風が心地良く、最高のドライブ日和だった。
自宅からバイクで北へ二時間程走ると、辺りは豊かな自然が広がっていた。ウェストチェスターにあるブルー・マウンテン保護区。幼少期には父と湊と三人でハイキングをした。
今日はトレイルの準備をして来なかったので、山の麓から眺めるだけだった。
帰り道はショッピングモールでリサイクルショップに寄った。海外にいる父と、流行に疎い湊の普段着を幾つか購入した。
航の背丈は何時の間にか、父に追い付こうとしていた。形容し難い寂寞を抱いていると、湊が暇そうな店員に絡まれていたので、その思考は途中で切り上げとなった。
湊と荷物を載せて帰路を辿る。
帰り道、橋を渡った。夕日を反射する水面はきらきらと輝いていた。一日が無事に終わったことに安堵していた。
「ーー昔、或るところに三匹の山羊がいました」
後部座席で、湊が唐突に言った。
「名前はどれもがらがらどんと言いました。或る時、山の草場で太ろうと、山を登って行きました」
それが何なのか思い出し、懐かしさに擽ったくなった。
「登る途中の谷川には橋があって、其処を渡らなければなりません。橋の下には気味の悪い大きなトロルが棲んでいました」
航はバイクを停めた。
サイドミラー越しに見る湊は幼い頃のように笑っていた。
「ぐりぐり目玉は皿のよう、突き出た鼻は火掻き棒のようでした」
湊が言った。
「かた、こと、かた、こと」
言葉遊びを楽しむように、湊が身体を揺らす。
航は苦笑して、その先を浚った。
「一体全体何者だ。俺の橋をがたぴしさせる奴は」
三匹の山羊のがらがらどん。
幼い頃に繰り返し読んだ、お気に入りの絵本だった。
或るところに大中小の山羊がいた。名前はどれもがらがらどん。冬を越す為、山へ太りに行くところから物語は始まる。
その途中の谷川には橋があり、下には気味の悪いトロルという怪物が棲んでいるのだ。
三匹の山羊は相談して、皆が無事に渡る方法を考える。まず一番初めに小さい山羊が渡り、トロルが現れると、もう少し待てば大きい山羊が来ると言って見逃してもらうのだ。
中くらいの山羊が同じ要領で通過すると、最後に一番大きな山羊がやって来て、こう言うのだ。
「俺だ! 大きい山羊のがらがらどんだ!」
そして、大きな山羊は大きな岩と立派な角を使って、トロルを容赦無く木っ端微塵にしてしまう。橋を渡り終えた山羊達は山へ到着する。物語は其処でお終い。
振り返ると突っ込みどころ満載なのだが、航はその絵本が大好きだった。橋の下に棲むトロルは恐ろしく見えたし、リズミカルに軋む橋や、大きい山羊のがらがらどんが満を持して登場する場面では声を上げて喜んだ。
幼少期に読み聞かせてくれた母の声が蘇る。
長い反抗期に辛抱強く向き合ってくれた母には感謝しか無い。扱い難く面倒な子供だっただろう。
海外にいる父に会う為に空港まで家出したこともあったし、湊とは流血沙汰の喧嘩を繰り返した。よく投げ出さなかったな、と自分のことなのに感心してしまう。
湊の言葉を聞き、航はエンジンを掛けた。ーーその時だった。
「一体何者だい!」
それは酷く嗄れたがらがら声だった。
タイムリーな声に航は度肝を抜かれた。
声は橋の下から聞こえた。バイクの鍵を握ったまま航は欄干から身を乗り出した。
まさか、トロルじゃあるまいし。
航が引き攣った笑みを浮かべていると、すぐ隣で湊が欄干へ飛び乗った。
チビで痩せっぽちの湊が、威張るようにして叫んだ。
「俺だ! 大きい山羊の、がらがらどんだ!」
馬鹿か!
航は慌てて湊の首根っこを引っ掴んだ。
「がらがらどん?」
橋の下の暗がりから、誰かが訝しむように問い掛ける。航が恐る恐ると橋の下を覗き込んだ時、夜に似た影の奥で淡褐色の目が光った。
「誰だい、そりゃあ」
乾いた足音が反響する。
ぐりぐり目玉は皿のよう、突き出た鼻は火搔き棒のようでした。耳に染み付いた絵本の一節が鮮明に蘇る。
航が身構えた時、闇の中から一人の老婆が現れた。それは童話に出て来る悪い魔女のような風体だった。
胡麻塩のような髪は肩で縮れ、痩けた頬には皺が刻まれている。淡褐色の瞳は値踏みでもするかのように細められていた。
「大きい山羊にしちゃあ、随分と貧相だねえ」
湊は肩を竦めた。
「これから大きくなるところだ」
老婆は可笑しそうに口角を吊り上げていた。
航はバイクに刺さったままの鍵を見遣り、天を仰いだ。茜色の空に飛行機雲が伸びている。
もう少しで何事も無く帰れたのに。
現実逃避みたいなことを考え、一人項垂れた。
5.小さい山羊のがらがらどん
⑴橋の下の老婆
「こんなところで何をしてるの?」
生活排水の流れ込む川岸にしゃがみ込み、湊が不思議そうに首を傾げる。航は少し離れたところから、兄の背中を見ていた。
橋の下に停められた手押し車に腰掛け、老婆は美味そうに煙草を吹かせている。見た目は完全に浮浪者だ。縮れた髪とぼろぼろの衣服を見て気の毒になる。年齢が幾つなのかは解らないが、この時期はまだ寒い。体力の無い老婆が一人で生きて行くには厳しいだろう。
航は同情するのもされるのも嫌いだ。だが、目の前の老婆を見ていると憐憫の念が禁じ得なかった。
それでも、湊のように側に歩み寄ることも出来なかった。排水とは異なる饐えた垢の汚臭が充満し、目が回る。濁り泡立つ水面、煙草の煙、頭垢と皮脂の臭い。それは航がこれまで関わって来なかった低所得者の現実だった。
航は差別主義者ではない。だが、憐憫や倫理観の前に生理的な嫌悪感が湧き出して、如何しても近付けない。そんな自分が許せないし、認められない。此処にいると、自己嫌悪で叫び出したくなる。
「あんたは正直者だねえ」
不意に、老婆はそんなことを言った。
楽しそうに目を細め、黄ばんだ歯を見せて笑う。何が可笑しいのか解らない。航は馬鹿にされたような屈辱と羞恥を覚えた。
言い返そうと思うのに、何の言葉も出て来ない。
航が口を噤むと、湊が嬉しそうに言った。
「それがこいつの良いところなんだ」
歌うような軽やかな口調だった。
湊は濁った水面を見遣り「あっ」と声を上げた。
「鯉がいるね」
航が目を向けると、川の中で大きな黒い鯉が悠々と泳いで行った。
何を食べたらこんなに大きくなるのだろう。鯉は外来種だと聞いたことがある。こんな溝川でも生命は芽吹き、弱肉強食の世界を築いている。
「餌をやってんのさ」
老婆はそう言って、ポケットから何かを取り出した。
片手一杯に握ったそれを水面に向けて放ると、まるで待ち構えていたかのように無数の鯉が現れた。
餌を求めて顔を出し、水面が激しく泡立った。隆起する水面が生き物のように見えて不気味だった。
放ったのは、どうやらパン屑らしかった。
鯉は悪食で何でも食べるのだと言う。逞しいものだ。
航が感心していると、湊が笑った。
「いつも鯉に餌やってるの?」
「まあ、ついでにね」
ついで、か。
航が顔を上げた時、湊は既にその疑問を口に出していた。
「じゃあ、貴女の本当の用って何?」
照れも怯えも無く、湊は子犬のような瞳で素直に問い掛ける。
老婆は餌の取り合いに忙しない鯉を見下ろして、ぽつりと呟いた。
「人を、待ってんのさ」
今にも消えてしまいそうな微かな声だった。
老婆はふと空を指差した。
空は暗くなり、もうじき夜が訪れる。街灯も僅かなこの場所は闇に沈むのだろう。
しかし、老婆が指差した先は空ではなかった。
山だ。
登山を趣味にしている航でも、今は登りたいとは思えなかった。闇に沈むその山はまるで、巨人が膝を抱え、獲物を物色するが如く息を殺しているように見えた。
老婆は言った。
「この川は、あの山から流れて来る清流の末路さ」
「上流は綺麗なんだろうね」
目の前の溝川を見遣り、湊は残念そうに眉を下げた。
「コロラドストリートブリッジって、知ってるかい?」
唐突な質問に航は面食らった。
湊は毛程の動揺も無く、平然と答える。
「ロサンゼルス市のパサデナからグレンデールに繋がる道だよね。景色が良いから観光客にも人気があるみたいだね。そういえば、大ヒットした映画もこの橋で撮影してたらしいね。ああ、でも、別名ーー」
放って置くと延々と喋り続けるので、切りの良いところでその口を塞いだ。
老婆は孫の話でも聞くかのように穏やかにしていたが、最後の湊の言葉を攫って続けた。
「Suicide Bridgeーーとも呼ばれているよ」
直訳すると、自殺橋。
冗談や気休めで付けられる名前じゃない。
猛烈に嫌な予感を覚え、航はポケットの中のバイクの鍵の存在を確かめた。
何故だろう。足元が冷たくて、息が苦しい。此処にいたら駄目だという危機感が心臓を軋ませる。
危機感に焦る航とは打って変わって、老婆は滔々と語っていた。
「この川はね、コロラドストリートブリッジの下を流れるロサンゼルス川と繋がってる。もしかしたら、自殺者の遺体くらい流れ着くかも知れないね」
止めろ、止めてくれ。
航の声は形にならなかった。気道を押し潰されているような奇妙な空気の音を漏らし、ただただ其処に立ち竦むしか出来ない。
この川の鯉は随分と太っていた。
老婆の餌遣りだけとは思えない。鯉は悪食で、何でも食べる。まさか、食べていたのは。
水面がぼこぼこと歪んでいる。血の気の無い白い腕が一本、二本、三本……。手招きするように揺れ動く。
老婆は黄ばんだ歯を見せ、言った。
「あたしには霊の声が聞こえるんだ。……辛いよ、苦しいよ、助けてくれよって……」
聞きたくない!
その時、湊が遮るようにして言った。
「勝手だな」
自分で死ぬことを選んだ癖に。
なあ、航。
同意を求める湊の冷静な声に、航は目の前から靄が晴れて行くような感覚を抱いた。
それは情け容赦の無い明確な拒絶だった。取り付く島も無く、湊は身を翻して微笑んだ。
「そろそろ行こうか。お母さんが待ってる」
「……ああ」
湊に腕を引かれながら、航の目は濁った水面を見ていた。白い腕が海藻のように揺れて、そして、沈んで行った。
老婆の瞳は満月のように見開かれていた。
航が何か声を掛けようとすると、老婆は両手を打ち鳴らした。乾いた音が橋の下に反響する。湊は振り返らない。
航は小さく会釈し、駆け出した。