⑺夢幻
墨を垂らしたような闇が辺りを埋め尽くしている。
手を伸ばせば壁、身を起こせば天井。窮屈な箱の中にいる自分は、まるで地中に蠢く幼虫のようだった。
酷い閉塞感と不自由さに目眩がした。手足を伸ばすことも出来ず、身を丸めていることしか出来ない。
永遠にも思える虚無の時間を過ごし、箱の外へ耳を聳てる。足音が聞こえた。機嫌良さそうに鼻唄を歌いながら、軽い足取りでやって来る。
恐怖は無かった。胸の中に湧き上がるのは、期待と歓喜だ。淀んだ空気を浚うように、新しい世界の扉を開くように、蓋が開けられた。
白熱灯の光に目が眩み、焦点が定まらない。
浮かび上がるシルエットは枯れ木のように痩せた男だった。栄養失調を思わせる痩けた頬と落ち窪んだ眼窩。琥珀色の瞳の奥に嬉々とした光が宿っていた。
「お待たせ」
愉悦混じりに男が言った。
自分は待ち焦がれていた。
彼が来るのをずっと待っていた。
男の瞳に自分の顔が映る。笑っていた。鏡に映したように、彼も、自分も笑っていた。
男の手が、それを差し出した。
「新しい玩具だよ」
自分は躊躇いも無く手を伸ばした。
冷たく固まったそれを抱き締めて、自分は微笑んでいた。嬉しくて、楽しくて、居ても立っても居られない。
さあ、今日は何をして遊ぼうか。
4.殺人人形
⑺夢幻
階段を踏み外したような転落感と共に、航は意識を取り戻した。自分が白昼夢を見ていたことに気付き、酷く恥ずかしいような、何処かに隠れたいような気持ちになる。
湊の病室にいた。
ベッドに眠る兄。囲むように座るソフィア、リュウ。窓辺の椅子にはリリーが座り、リーアムは床に散乱した人形の破片を片付けていた。
航は夢現のまま、窓の向こうへ目を向けた。雲一つ無い蒼穹だった。入院病棟の裏手に植えられた欅の枝に鶫が留まっている。
思考が鈍っている。
寝過ぎた後みたいな気怠さが身体中を包んでいた。
疲れていたのだろう。
何か酷い夢を見ていた気がする。
楽しくて、残酷な夢だったように思う。窮屈な箱、痩せた男、新しい玩具。それが何だったのか、思い出せない。
ソフィアとリリーが何かを話していた。
その声はBGMのように耳を通り抜けて、何一つ理解出来なかった。微温湯の中にいるみたいだ。彼等の声も表情も何も把握出来ない。
視界に銀色の砂嵐があった。
貧血の症状だ。倦怠感を誤魔化すように、航は湊のベッドに腰掛けた。そのまま眠ってしまいたいくらい疲れていた。
頭が痛い。頭蓋骨の中で誰か暴れているみたいだ。
泣き声が聞こえる。小さな、女の子の声。
ええーん……。
えええーん……。
胸が潰れそうな程に悲痛な声だった。
悲しくて辛くて、逃げ出したくなる。
それが何処から聞こえて来るのか、航には解らなかった。頭の中に響き続けるそれは幻聴なのかも知れないし、超感覚知覚能力による誰かの悲鳴なのかも知れない。
ただ一つ解るのは、航には応える術が無いということだった。
「航」
兄の声がした。その瞬間、白昼夢を見ていた航の意識はシャボン玉が弾けるようにして回帰した。
振り返ると、長い睫毛に彩られた兄の双眸が天井を眺めていた。透明感のある淡褐色の瞳には石膏ボードと蛍光灯の白い光が映り込み、まるで鏡のようだった。
湊の周囲に赤いハレーションが掛かって見えた。
エマージェンシーコール。サイレンが聞こえる。
「大丈夫か」
掠れた声で、湊が言った。
怪我してないか。
皆、無事か。
湊が目を覚まして最初に口にしたのは、見当違いな労りの言葉だった。矢継ぎ早に問い掛ける掠れた声に、航は苦笑した。
頭の中で鳴り響いていたサイレンは止んでいた。
「怪我してんのは、お前だけだよ」
そう言うと、湊は安心したように微笑んだ。
共感能力が低く、普通の人がブレーキを掛ける場面で躊躇い無くアクセルを踏み込む男だった。それでも、他者を労わる心はあるらしい。
目を覚ましたら叱って殴ってやろうと思っていたのに、毒気が抜かれてしまった。航は深い溜息と共に湊の頭を小突いた。
四散した人形をリーアムが片付けている。航はもう関わりたくなかった。
箒と塵取りを構えたリーアムの間抜けな後ろ姿を見ながら、漸く自分の意識が現実へ帰って来たことを実感した。
教会での顛末を語る湊に、リュウが顔を顰める。自分と同じように咎める準備をしていたのだろうが、殊勝な態度の湊に拍子抜けしたようだった。
ソフィアは暗い顔で問い掛けた。
「何でそんなことしたの」
ソフィアの言葉は、確かに湊を責めていた。
叱責も当然だ。教会で湊は人形の首を踏み潰した。それがどんな結果を齎すのか、想定出来なかった訳じゃないだろう。
「他に打てる手が何も無かった」
湊は降参を示すように両手を上げながら、欠片も反省していなかった。航も呆れてしまい、殴る気力が失せた。
それでも、ソフィアは叱り付けるように言った。
「自己満足を正当化しないで」
ソフィアの青い瞳が揺れていた。
「貴方は最善を尽くさなかった。それ以外の選択肢を見付ける努力を怠った。その結果、貴方自身だけでなく、航さえも危険に晒した」
手厳しいね。
湊が苦笑する。
航は庇おうとして、止めた。
湊の行為は自暴自棄な自己犠牲ではなく、打開の為の冷静な判断だった。しかし、ソフィアの気持ちも解る。湊を庇えばソフィアの気持ちを否定することになる。
自分に言えることは何も無い。
室内は湿っぽい空気に包まれていた。居心地が悪く、退出しようかと思った。リーアムが奇妙な声を発したのは、その時だった。
「何だこれ」
人形の残骸の中を覗き込んでいたリーアムは、首を捻りながら歩み寄って来た。その手には塵取り一杯の人形の破片と、破れた衣服、そして、何かの小さな欠片があった。
3cmくらいの白い棒状の破片だった。
それが何かは解らないが、何処と無く不気味で、寒気がする。
航を押し退けて、湊はベッドから飛び降りた。まじまじと観察するその双眸は爛々と輝いていた。未知との遭遇を喜ぶ科学者の業の深さを感じ、航は苦い思いになる。
「それ何なの」
「解らない。解析してみるよ」
湊はベッドの脇に置いていたリュックの中からビニール袋を取り出すと、不気味な欠片を丁寧にしまい込んだ。
ビニール袋を日差しに翳して、湊は嬉しそうに笑っていた。
「光明が差した気分だ」
そう言って、湊は驚く程の手際の良さで荷物を纏めて部屋を出て行ってしまった。慌ててリュウが追い掛ける。航は退出のタイミングを見失って溜息を零した。
人形を始末する為に、ソフィアとリーアムは先に出た。仕方無く、航はリリーを連れて彼女の病室まで送り届けることにした。
廊下のリノリウムの床に太陽の光が鮮やかに反射していた。長い冬が終わり、春が来るのだ。身体に活力が湧いて来るのが解る。
航は隣を歩くリリーを見遣った。とても余命一ヶ月とは思えないくらい、彼女は背筋を伸ばしてしっかりと歩いていた。
ニューヨークの冬は長い。リリーは春を迎えられるのだろうか。暖かな春の風や咲き誇る花々、透き通る新緑を、彼女は感じられるだろうか。
遣る瀬無い思いに駆られていると、リリーが唐突に言った。
「湊がソフィアに叱られていた時」
航ははっとした。
リリーの青い瞳は廊下の奥を見詰めていた。透き通るような白い頬に、長い睫毛が影を落としている。
化粧一つしていないというのに、彼女は航が知る女性の中でも群を抜いて美しかった。個人的な価値観では無い。宝石が人々を魅了するように、見る人を選ばない美貌だった。
「自分も叱られているような気持ちだったわ。人形を壊してしまったのは、私も同じだったから」
リリーは悪戯っ子のような笑みを浮かべていた。
心臓がどきりと脈を打つ。航は動揺を隠しながら、リリーの言葉を待った。
「後のことなんて考えなかったわ。目の前のことが全てだった」
「……間違ってたとは思ってねぇよ。湊だって、間違ってなかった」
うん、とリリーが頷く。
航は目を逸らすように視線を前に固定した。
「湊は間違っていなかった。でも、ソフィアの気持ちも解る」
「そうね」
「俺が庇ったら、ややこしくなるだろ」
弁解するような言い回しをしたことに気付き、何と無く居心地が悪くなる。自分だって間違ってない。湊なら、納得出来なかったら言い返しただろう。自分より年下の女子を相手に平気で手を上げる男だ。
「航は優しいね」
リリーの穏やかな声に、顔がかっと熱くなった。
絶対に振り向けない。今の自分が酷い顔をしている自覚があった。
「航の気持ちはきっと、湊にも伝わっていると思うわ」
「どうだかな」
顔が熱い。
経験したことの無い感覚だった。
胸がどきどきして、ずっとこの時が続けば良いと思うのに、今すぐに逃げたいような気がする。
「湊ならどうするかとは考えるけど、湊がどう思うかなんて考えたことねぇよ。変人だしな」
「確かに変わってるね」
リリーは控え目に笑った。
春の陽気に包まれているような心地良さだった。病室までの距離が名残惜しく感じられる程に。
「貴方達には神様がいるのね」
「……俺等は信仰を持ってねぇ」
「宗教のことじゃないわ。例えば、どうしようも無くて誰かに助けて欲しい時、溢れる程の喜びを分かち合いたい時、頼る相手。それが神様」
航の苦手な話題だ。
湊なら上手く切り返したのだろうけれど、生憎、航は湊ではない。
何と答えたら良いのか解らなかった。
航が黙っていると、ポケットの中でタイミング良く携帯電話が震えた。
電源を落としていなかったことに慌てて取り出すと、ディスプレイには湊からの着信が入っていた。空気が読めているんだか、そうじゃないんだか解らない。航はそっと電源を落とした。
気が付くとリリーの病室に到着していた。
このまま別れるのが勿体無いような気がした。けれど、引き留める言葉を航は知らなかった。
扉の前でリリーは綻ぶように微笑み、手を振った。航はそっと手を上げて応えると、何事も無かったふりをして早足に立ち去った。
病院の外に出てから、湊に折り返しの電話をした。
長い呼び出し音の後、応答した湊が文句を言っていたが、航は無視して要件を尋ねた。
『解析結果が出たよ』
行動が早過ぎる。
航は呆れていた。退院の手続きを済ませて、大学に行って解析するまで二時間も経っていない。リュウの車で移動したのだろうが、相当無茶な運転をさせたのでは無いだろうか。
内心で手を合わせつつ、航は話の先を促した。
湊は嬉しそうに言った。
『あれは骨だった』
「何の」
『人の骨だよ』
その言葉を聞いた瞬間、鳥肌が立った。
骨は死を連想させる。ましてや、自分達をあれだけ苦しめた人形の中に人骨が入っていたなんて、悲鳴を上げなかった自分を褒めてやりたいくらいだ。
湊は上機嫌だった。
目の前にいたら、その横っ面を引っ叩いてやったのに。
『葵君も来てくれるって。二十五年前の事件の真実が明らかになるかも知れない』
「真実って、何だよ。事件は解決したんだろ?」
『詳しいことは合流してから話すよ』
中途半端な報告をして、湊は勝手に通話を切った。
自分勝手な男だ。これが自分の兄だと思うと頭が痛い。それに比べて、リリーはなんて出来た姉なんだろうと思うと、虚しくなった。
一度自宅に戻り、バイクを出した。
湊の大学まで三時間。到着した頃には既に日は傾いていた。
門の前で待っていた湊は、開口一番に「遅いよ」と責めた。疲労と苛立ちのままに拳を握るが、躱された。余計に腹が立った。
湊は自分の研究室ではなく、研究棟の一室へ案内した。中には空港で見るようなX線装置があった。他にも細々としたよく解らない装置があったが、興味も無いので訊かなかった。
中央の机の上に、大小二つの白い欠片があった。それが人骨だと知っているので、航は気分が悪くなった。
湊は薄手の実験用手袋を装着すると、欠片を拾い上げて言った。
「これは人の骨だった。詳細に言うなら、十歳前後の子供の骨だ。内部組織の崩壊具合から見て、二十年から三十年くらい前のものだと思われる。二十五年前の少女連続誘拐殺人事件と無関係とは考え難い」
「ああ」
「そうすると次の疑問は当然、これは誰の骨なのかってことだ。被害者のDNAと照合してみたけど、一致しなかった。念の為、被害者と思われる失踪者も調べてみたけど、ハズレだった」
楽しそうに語っている湊には悪いが、知りたくもなかった。そんな忌まわしい物体は即刻処分するか、然るべきところに預けるべきだ。
航の思いは毛程も伝わらず、湊は相変わらず機嫌良く話続けた。
「この骨のDNAを調べたら、面白いことが解った。犯人のものに似ているんだ」
「犯人って、成人男性だろ」
「犯人の骨ではないよ。恐らく、これは犯人と血縁関係にある子供の骨だ」
「子供がいたのかよ」
「子供はいなかった」
何を勿体振っているのだろう。
段々、苛々して来た。
その時、背にしていた扉が開いた。咄嗟に身構えると、其処には幽霊のような陰気な顔をした透明人間ーー葵君が立っていた。
葵君は相変わらず景気の悪い顔をしていた。
への字に曲げられた口元を見ると、ああ葵君だな、と当たり前の感想を抱く。
葵君は紙の束を翳して、苛立ったように吐き捨てた。
「二十五年前の事件、調べてやったぞ」
「ありがとう」
湊が手を伸ばすと、寸前で取り上げられる。
葵君は不機嫌そうな顰めっ面だった。
「調べてやったが、話すとは言ってねぇ。そもそも、捜査資料をガキに提供出来る筈ねぇだろ」
そりゃ、そうだ。
と言いつつも、多忙の合間を縫って頼まれたことをしっかりと調べてくれているのだから、所謂ツンデレみたいなものなのだろう。
葵君は資料を脇に抱えると、感情の無い冷淡な声で言った。
「お前等の頼みはなるべく聞いてやりたいと思ってる。だが、それが危険なら、俺は何としてでも止める。それが大人の役割だからな」
葵君は厳しいけれど、優しい。
甘さと優しさを履き違えない信頼出来る立派な大人だった。湊は苦笑し、不敵に笑った。
「二十五年前の事件の真相が解るかも知れない」
「あれはもう、解決した事件だ。犯人は自殺し、被害者の遺体は家族の手によって葬られた。今更蒸し返して何になる」
その通りだった。
事件はもう終わったのだ。FBI捜査官である葵君が協力する理由は無い。だが、その骨が埋め込まれた人形に殺されかけた自分達は、真相を知る必要がある。
「湊。お前、ここ一ヶ月で何回病院の世話になってんだ? 奈々はずっと心配してるぞ。これ以上続くようなら、和輝にも連絡する」
奈々とは二人の母であり、和輝とは父だった。
両親の名前を出されると、自分達は何も言えない。
航は押し黙った。しかし、湊は冷静な声で言った。
「事件の真相、俺は察しが付いてる。必要ならマスコミに流したって良い」
「ふざけんな。捜査妨害で訴えるぞ」
「俺は本気だ。俺の仮説が真実だったなら、世間はFBIの捜査を責め、権威は失墜する。被害者遺族の元にはマスコミが押し掛け、テレビは繰り返し悲劇を報道し、トラウマを抉るだろう」
「……殴られなきゃ解らないみたいだな」
地を這うような恫喝だった。
犯罪者を震え上がらせるその声にも、湊は眉一つ動かさなかった。
「俺は真実が知りたい。例えそれが自己満足でも、誰にも看取られず、葬られもしなかったこの子を見付けたい」
湊の目には強い光が宿っていた。
葵君は苦虫を百匹くらい噛み殺したような顔をしていた。
湊は言い出したら聞かない。
性質が悪いことに、こういう時の湊は間違わない。予定調和が起こるのだ。
耳鳴りがする程の沈黙が流れた。
両者睨み合いの緊張に包まれ、航は仲裁に入るべきか迷った。
先に折れたのは、葵君だった。
「……お前等にも事情があることは解った。まず、それを話せ。協力するに値する内容だったなら、俺も考えてやる」
教えるとは言っていないが、一応、交渉は成立したらしかった。
湊は諸手を挙げて喜んでいたが、航は嫌な予感しかしなかった。
善は急げとばかりに支度をする湊を、葵君が苦々しく見詰めている。航は壁に背を預けて、問い掛けた。
「……良かったの?」
「ああなったら聞かないだろ。此処でこっちが折れなきゃ、湊は単身でも行動を起こす。お前等の親父もそうだったからな」
嫌なところが似ちまったな。
悪態吐く葵君の横顔を見る。その口元は微かに弧を描いていた。
嬉しいのだろうか。それとも、楽しいのだろうか。
在りし日の父を思い出し、懐かしんでいるのかも知れない。
何にせよ、葵君が来てくれるのは心強い。
この胸騒ぎも、嫌な予感も、葵君がいるのなら大丈夫だろう。湊の無茶も葵君なら先手を打って止めてくれる。
頼れる大人の存在に安心しながら、航は夢で聞いた子供の声を思い出していた。
湊がいなかったら、ずっと一緒にいてくれる?
今日は何して遊ぼうか。
あの気味の悪い悪夢ともおさらばだ。
航は暮れ行く夕日を眺めた。