⑷虎の尾
真っ暗な廊下にリュウの声が反響する。
床に落ちた携帯電話が青い光を放っていた。
足元に転がる人形の首はそのままに、湊は四つ這いで携帯電話へ手を伸ばした。
心身共に疲れ切っていた。あれだけ激しい物音がしたにも関わらず、航も母も起きて来ない。家の中は死んだような静寂に包まれていた。
リュウの声は動揺に染まっていた。
湊は腹に力を込めた。しかし、突然自室の扉が音を立てて開いた。
不覚にも肩が跳ねた。
航が立っていた。
リュウの声が遠い。心臓が騒いでいる。
航は凍り付いたような無表情だった。怒っているのとも悲しんでいるのとも違う、人形のような無表情だった。
猫のような丸い瞳が闇に光る。航は湊の足元へ視線を向けていた。
其処に何があるのか、知っていた。
湊が口を開いた瞬間、航の拳が振り切られていた。
頬に熱が走った。身構える間も無く、湊の身体は壁へと打ち付けられた。
殴られたと理解するまで、時間が掛かった。
航は幼子のように小首を傾げている。その目は湊へ向いているのに、湊を見てはいなかった。
肌が薄く粟立った。血が冷えて、手足が氷のように固まっている。
航が口を開く。湊には、それがコマ送りに見えた。
「可哀想だろ?」
ぞくりと肌が総毛立つ。
それは耳慣れた航の声とは違う、地の底から響くような太く低い嗄れ声だ。
何だ?
自分は今、誰と話しているんだ?
「お前、誰だ」
湊が問うと、航の中にいる何かが嗤った。
侮蔑を込めた嫌な嘲笑だった。
恐怖は無かった。ただ、腹が立った。
訳の解らない状況も、打開策を見出せない自分も、あっさり取り憑かれている航も、全部が腹立たしかった。
胸の中に沸々と怒りが湧き上がり、湊は拳を握った。
何もしてないのにいきなり弟に殴られた俺の方が可哀想だろ。
場違いな正論を捲し立てそうになった時、漸く玄関からノックが聞こえた。
「湊!」
リュウだ。
湊は航へ背を向けて一直線に走った。二重の鍵を外す。一気に距離を詰めた航が後ろから首を引っ掴んだ。
チェーンロックを外した瞬間、湊は思い切り廊下へ投げ飛ばされた。咄嗟に受け身を取れず、無防備に背中を打ち付けた。
視界が点滅し、声も出なかった。
もう何が何だか解らない。気力が削がれて集中力が散漫になっていた。でも、此処で諦める訳にはいかない。
身を低く構えた航が飛び掛かる刹那、玄関が開いた。
真っ黒い影が航を背中から羽交い締めにした。
航が激しく抵抗し、靴やら花瓶やら色々なものが飛び散った。聞いたことも無い男の罵声と、切羽詰まったリュウの声が飛び交う。
湊は気力を振り絞って立ち上がった。
抵抗する航の胸倉を掴むと、信じられないくらいの力で振り飛ばされた。それでも飛び付き、押さえ付ける。
「湊は下がって!!」
リュウが叫んだ。
湊は顔を歪めた。
「嫌だ!」
制止も構わず飛び掛かる。
しかし、次の瞬間、航の身体は糸が切れたように弛緩し、そのまま崩れ落ちてしまった。
航は眠っていた。
何事も無かったかのように穏やかな寝息を立てている。夢遊病の類だとは思えない。
リュウと二人で荒い呼吸を整え、絶望感に頭を抱えた。多分、自分達は認識が甘かったのだ。
自責の念と罪悪感が互い違いに押し寄せて、二人はその場から動けなかった。
夜明けを待たず、家を出た。
母に心配を掛けたくなかった。適当なメールを送って、寝ている航を担いで大学の研究室へ車で移動した。
リュウの運転は初心者みたいな安全運転だった。何度か睡魔に襲われたが、堪えた。後部座席でこんこんと眠る航と、トランクに押し込んだ人形が気に掛かった。
事故も渋滞も無く車は無事に大学へ到着した。
春休みの構内はひっそりと静まり返っていた。体育館からは熱心な運動部の声が聞こえたが、まるで膜の中にいるみたいに遠くで響いていた。
湊の所属する研究室は最上階の北側にあった。物置きみたいに雑多な部屋の中、来客用のソファだけが片付いている。
航をソファへ寝かせ、湊は人形を抱えて研究棟の実験室へ向かった。
彼を知り己を知れば百戦殆うからずとは、有名な言葉だ。まずは自分の敵を知らなければならない。
DNA検査の為に毛髪のサンプルを送る。結果が出るまで時間が掛かるので、その間に人形をX線検査装置に入れた。
マグカップにコーヒーを注ぎ、湊はディスプレイを見詰めた。
外見上は至って普通のビスクドールだった。だが、内部に何かが映っていた。2cmくらいの長細い何かの欠片だ。
解体するか。
後手に回るのはもう沢山だ。
ステンレス製の業務用鋏を目の端に捉えながら、湊は自分の姿を俯瞰する。
リスクは無いか。凡ゆる可能性を想定して、最良の選択をしているか?
湊はコーヒーを飲み干して、思考を巡らせた。結局、深く息を吐き出して、人形を手に研究室を出た。
リュウが教会へ預けることを提案した。
然るべきところへ納めるのが一番だ。自分達はクリスチャンではないが、教会は誰にでも開かれている。
真理を前に踵を返すのは本意ではないが、代案が無い以上は反対出来なかった。
湊はソファの上に膝を立て、思考を巡らせた。
誰かの掌の上にいるような拘束感が気持ち悪い。これは誰かの策略なのではないか。否、被害妄想か?
精神的な余裕が無いせいで、見えない誰かを犯人に仕立て上げてしまっているのだろうか。
自分の思考が悪い方向へ向かっていることに気付き、全てを遮断して仮眠を取った。
朝になって、ソフィアが来てくれた。
中途半端な仮眠のせいで怠かった。湊は持て成す気力も無く、おざなりに空いているソファへ促した。
母からメールが届いていたが、携帯電話を取り出す力も無かった。思えば玄関の片付けをしていない。
兄弟喧嘩と思ってくれるかな。
リュウが状況説明をしている間、湊はそんなことをぼんやりと考えていた。
「人形は何処?」
ソフィアが問い掛ける。
湊は黙って窓際を指し示した。首の捥げた人形が此方を向いて座っている。頭は隣に並べて置いた。
怖くはない。ただ、もう可哀想とは思わなかった。
「航は感受性が豊かなのね」
ソフィアが気の毒そうに言った。
褒め言葉ではないと解る。湊は頷いた。
乱暴に見えて繊細で、他者に共感し易い。他人の痛みを自分のことのように苦しむ。それは長所であり、人間の美徳だ。本人が負い目を感じているのならば、それは周囲の受け止め方に問題があると思う。
「だから、漬け込まれる」
リュウが言った。
厳しい意見だが、その通りだと思った。航の良いところを短所にしてしまっている自分の無力さが歯痒い。
室内は微温湯のような沈黙に包まれていた。
航は眠っている。その寝息を聞きながら、頭の中で昨夜のことを考えた。
人形がやって来た時、湊は挑発と時間稼ぎのつもりで罵った。
湊に霊は見えないし、感じられない。だが、ソフィアが霊の存在を知覚していたので、それが嫌がりそうなことを言った。霊ならば人格があると思ったからだ。特定の誰かを想定していた訳ではない。動物は孤独を恐れるということを、湊は知識として知っていた。
「教会を紹介するわ」
ソフィアが言った。
湊は答えた。
「そうだね。やれることは全部やろう」
湊は立ち上がり、人形の頭と身体を鞄に押し込んだ。
4.殺人人形
⑷虎の尾
世界経済の中心地から車で三時間程走ると、辺りは長閑な田園風景へ変わる。州境を跨ぐ山間部は蜂蜜色の煉瓦造りの家が連なり、広大な田畑が広がっていた。
手入れを嫌う森は砂糖楓の大きな根が土中より隆起し、都会では見かけないような菌糸類がひっそりと生きている。
斑模様の鶫が枝葉の先から微かな鳴き声を漏らし、黄金色の夕陽を弾いている。湊が目を向けると動きを止め、虚勢を張るように見返した。
早く、と先頭を歩くソフィアが言った。
湊が背を向けると、褐色の小鳥は飛び立ってしまったようだった。
転ばないよう細心の注意払いながら湊は道を急いだ。片手が塞がっていたからだ。腕にはあのビクスドールを抱いていた。
黄昏に染まる森の奥、その教会は遺物の如く厳かに美しく存在していた。
天を貫くようなとんがり屋根と大きなステンドグラス。周辺の家々と同じような煉瓦造りの壁面には蔦が這い、森に同化しながらも聖域として機能している。
御利益がありそうだ。
そんなことを思ったが、すぐにそれを否定する。御利益とは信仰心に応じた対価である為、自分に神の恩恵は与えられないだろう。
湊はソフィアの紹介で、山深くの教会を訪ねていた。
知る人ぞ知る霊験あらたかな歴史ある教会らしく、鬱蒼とした森の中にありながらも建物自体に傷みは無く、手入れが成されていた。
ソフィアが飴色の扉を叩くと、待ち構えていたかのようにカソックを纏った神父が現れた。皺の刻まれた目の奥には柔和な光が宿り、全ての罪悪を受容し、赦すかのような慈愛に満ちている。
礼拝堂は真紅の天鵞絨が敷かれている。
正面に建てられた十字架はステンドグラスの鮮やかな色に染まり、整列するベンチと燭台の小さな灯火が慎み深く沈黙している。
神父は湊を見詰めると、何かを悟ったかのように頷いた。何を言おうとしたのかは解らないが、嘘や隠し事の無い真摯な態度であることは解った。
「心に陰が差していますよ」
十字架を背負った神父が、説法でもするように言った。淡褐色の瞳は、湊を見ていた。
「神は越えられない試練を与えません。どうか、自分を大切に」
新約聖書、コリント人への手紙。
湊は目を伏せた。
「御心遣い痛み入ります」
神父の目には何が見えているのだろう。
湊は他人の嘘が解るが、心を読める訳でもなければ真実を見抜ける訳でもない。歪で不完全な自己の存在を嫌悪をした頃もあるけれど、もう止めた。意味が無いからだ。
この世が残酷であることは知っている。
自分が恵まれていることも解っている。
人形を台座に置くと、すぐに悪魔祓いが始まった。
実物を見るのは初めてだった。礼拝堂を包む神聖な空気と恙無く進められる儀式に湊の関心は奪われていた。
「初めに言葉があった」
神父の声は頭上から光のように降って来た。
宗教は持たないが、信仰は尊いものだと思う。価値観は多様であるからこそ美しく、面白い。
「言葉は神と共にあった。言葉は神であった」
神父の説教が遠くに聞こえた。まるで、水中から水面に浮かぶ木の葉を眺めているみたいだ。
瞼の裏の闇を見詰めるように、湊は意識を集中させる。呼吸が深く、減って行く。手足が温かくなり、耳鳴りが聞こえる。脈拍を数えていると、闇が蠢動し始めた。
神秘体験と呼ばれる別次元の集中状態。
カルト宗教が薬物や体罰によって作り出す紛い物とは違う。篤い崇敬と積み重ねた修行による神秘の業だ。
人の可能性を見せられているようで胸が熱くなる。言葉にすれば消えてしまいそうに儚い感動を堪え、湊は目を開けた。
台座の上、人形の首が此方を見ていた。
背筋に冷たいものが走る。第六感、虫の知らせ、超感覚的知覚。頭の中で警報が鳴っている。
神父が聖水を振り掛ける。
儀式の終了を告げ、神父は聖書を閉じた。
喉に小骨でも引っ掛かっているような不快感を抱えながら、湊は席を立った。
神父は人形を教会の裏手で燃やした。轟々と音を立てる焚火を湊は冷たく見ていた。
胸を撫で下ろすソフィアと神父を他所に、湊は携帯電話を手に取った。
圏外だった。電子機器の異常は超常現象の起こる前触れだ。
燃え盛る炎の前で、ソフィアが問い掛ける。
「どうしたの?」
湊は炎を見た。
黒く焼けた薪の中で、あの青い硝子玉が見ている。
まだ終わってない。
湊は冷静に思った。
暫く炎は燃えていた。
薪は綺麗に燃え尽きたのに、人形だけが焼け残った。
ソフィアは言葉を失くして立ち尽くし、神父は驚愕に目を見開いた。
空気が冷たくなって行く。
自分達が虎の尾を踏んだことは解った。
その時、ソフィアが言った。
「女の子が……」
闇の中に光が差し込むように、湊はその言葉に可能性を見出した。脳内では幾つもの数式が津波のように流れ込む。情報の奔流の中で、湊の意識は波間を揺蕩う木片の如く浮かび上がった。
「帰ろう」
湊は笑い掛けた。
DNA検査の結果が出ているかも知れない。立ち止まっても何も変わらないのならば、這ってでも前進する。
暗い顔をする神父へ声を掛けた。
「貴方の落ち度ではありません。これは俺が乗り越えるべき試練だった。ただ、それだけのこと」
深く一礼し、湊は踵を返して歩き出した。
 




